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「ふぅん……とうとう遥くんとは関係断絶ってわけか」
私から話を聞いた瑛輔くんが大きく息をついた。
瑛輔くんの髪はあの夏合宿から戻るとすぐに真っ赤に染められ、様々な変遷を経たあと、現在はくすみがかった紫色をしている。ファッションも私にとっての「いつもどおり」に戻った。
今日は、中指を立てた女の人がプリントされた長袖Tシャツに、ぎちぎちと音を立てる黒い革のパンツを身にまとっており、海沿いの別荘がよく似合う爽やか好青年の面影なんてどこにもない。
「まあ、これをきっかけに最初からやり直してみたらいいんじゃない? チーって子の代わりとしてじゃなく、ぴーちゃんとして遥くんに向き合ったらちゃんと応えてくれるよ」
「……そんな簡単な話じゃないよ」
「でもぴーちゃんは好きなんだろ?」
「無理だよ。遥にとっての『ちか』は私じゃなく、チーだけだもの」
私はチーを死なせてしまったニセモノーーであるだけではなく、嘘をつき、チーの振りをして遥に近付いた。
――それでも……俺は、嘘をつかれるのは嫌です。
自分の罪からどうにか逃れたくて必死だった私は、その行為がどれほど遥を傷付けるのかということに思い至らなかった。あの日、夕日のオレンジ色から逃れるように去っていった背中を見送った私は、ようやく自分の馬鹿さ加減を自覚したのだった。
今なら、私がしてしまったのは遥とチーの想いと約束を踏みにじる行為だったと分かるのに。
いつだって私は目の前のことだけしか考えられない。数秒後の未来さえ思いやれない自分が嫌になる。
そんな私がチーになるなんて、最初から無理だったんだ。
「ぴーちゃん、このまま自分の気持ちをごまかして終わっちゃったら後悔するだけだぞ」
「いいの」
「そんなヤケクソになるなって」
「もういいんだってば」
「おい、ぴーちゃん――」
「うるさい!」
私は机に広げていた数学の参考書を壁に投げつけた。
分厚い参考書は壁にかけていた制服にばすっと音を立ててぶつかり、床に落ちた。その衝撃で揺れたブレザーがハンガーから滑り落ちて、無残に這いつくばる参考書をふわりと包み込んだ。
目を見開いた瑛輔くんが着ているTシャツの女の人が立てている中指は、私に向けられている気がした。
「なによ! なによ! なんなのよっ!」
嘘みたいに真っ白な家。
あの日から時を止めてしまった子どもっぽい部屋。
ピンク地に色とりどりのチューリップが咲いたカーテン、イチゴ柄のベッドカバー、白いファーの丸ラグ、ずらりと並んだイヌ、ネコ、クマ、パンダ、サルのぬいぐるみ。
目に映るものすべてが私の気持ちを逆撫でする。
私は、この部屋に閉じこめられたまま生きていくしかないんだ。そうすれば誰にも許されない代わりに、もう誰も傷付けずにすむんだから。
「ちょ、ちょっとぴーちゃん、落ち着きなって」
「うるさいっ! 偉そうに私に説教なんかしないでよ! 瑛輔くんだって沙耶さんに何も言えないくせに。自分の気持ちをごまかしてるのはそっちもでしょ? 私が同じことをして何が悪いの? もうほっといてよっ!」
瑛輔くんがきゅっと眉を寄せた。その表情に私の胸がちりっと炎が掠めたように痛む。
どうして口にしてしまった言葉は消せないのだろう。どうして時間は戻せないんだろう。
耳が痛くなるほどの沈黙の中、私はそんな詮無いことを考えていた。
「……言えてる」
階段を上がってくるママの足音に紛れるようにして瑛輔くんが呟いた。
「悪かったな」
私の頭を撫でて少し笑うと、瑛輔くんは部屋を出ていった。その背中には「OVERKILL」とでかでかとプリントされていた。
「先生、どうかされました? なんかすごい音が聞こえましたけど……」
「すみません、僕が手を滑らせて辞書を落としちゃったんですよ。それより、千佳さん疲れてるみたいだから、今日はここまでにしようかと思います。でも、ブラウニーを焼いたっておっしゃってたのに、食べられないのは残念だな」
「あら、じゃあ今すぐご用意しますから召し上がっていってくださいな。せっかくですし、千佳ちゃんも一緒に――」
「千佳さんは少し休みたいらしいので一人にしてあげたほうが。いやあ、おばさんの作るお菓子はいつも美味しいですよね。僕はそれが楽しみでここに来てるようなもんです」
「まあ、先生ったら」
ドアの向こうで二人の声が遠ざかっていく。
瑛輔くん、またあんなこと言って。甘いものは苦手なくせに。あんな嘘をついてママを喜ばせるから自分が苦しむ羽目になるのに。
沙耶さんへの気持ちだってそう。両親の期待も沙耶さんの夢も「何もかも関係ねぇ!」ってパンクスタイルで自分がやりたいようにやればいいのに。
なのに、瑛輔くんはいつも誰かのために優しい嘘をつく。
私もそんな嘘がつける人間だったらよかったのに。
床に座り込んだ私は、マットレスの下からチーのことを書き連ねたノートを取り出した。
私の嘘は人の命を奪って、今もみんなを苦しめている。
かといって、今みたいに「本当」をぶつけても誰かを傷付けてしまう。
八方塞がりだ。
五歳の自分に戻ったような気がした。
一人、二人と私の大切な人たちが周りから消えていく。私にはそれを止める術がない。
「どうすればいいの、チー」
助けを求めるように、私はノートの表紙を開いた。
『ふじわらはるかと、せいざんこうこうで会う』
チーと遥の約束。これがすべての始まりだった。
私の嘘がなければ叶えられていた、幼く、淡い思い出の約束。
この約束も、この胸に宿ってしまった想いも、星山高校で遥と過ごした思い出も、あの砂浜でのキスも、すべて、すべて、私のものじゃない。
もう……全部チーに返すね。
参考書を投げつけた弾みで床に転がったシャープペンシルを拾い上げ、少し迷ってから一番後ろのページに最後の書き込みをする。
『チーは遥が好き』
それを書いたあと、私はぼんやりしたまま、その文字を指で何度もなぞっていた。
これは、どんなことがあっても揺るがない「本当」で……すべてだった。
ドアをノックする音に、私は慌ててノートを閉じ、手近にあったカバンに突っ込んで隠した。
「千佳ちゃん、起きてるの? 具合はどう? お熱はある? 何か飲みものでも持ってきましょうか?」
額に当てられたママの手は冷たく、ひたりと肌に吸い付くような感触がした。
「大丈夫。でも夕飯までちょっと休むね」
「そう……? 何かあったらすぐママに言うのよ」
「うん。ありがとう、ママ」
礼を言った私に、ママは少し虚を突かれたような顔をした。
私はいつも、私を抱え込んで守ろうとするママの腕を敬遠していたし、ママもそれに気付いていたと思う。
でも……それを受け入れてしまえば、きっと楽になれるんだろう。
そうすれば私の嘘も、罪も、チーや遥のことも、時間の波がさらってくれる。
「ブラウニーも、あとで食べるね」
「ええ、ちゃんと取っておくわ」
ママが声を弾ませながら出ていくと、私はまた一人、五歳のときから時間を止めたままの部屋に取り残された。
もういいんだ。そう思うとなんだかすっきりとした気分だった。
私は立ち上がると、床に落ちたブレザーを拾い上げた。すると、胸ポケットから白い角がのぞいているのに気付いた。
なんだろう……?
取り出してみると、それは文化祭の日に桐原先輩が私に強引に押し付けた写真だった。ガラスの靴を差し出す遥の肩越しに、私がこちらを見つめている。
その目に浮かぶ感情が胸を締め付けた。
「……あれ、これは……」
写真の裏に、四つ折りにされた紙が貼りついていた。こんなものを入れていた記憶はないけれど……これも先輩が?
その紙に書かれた文字を読んでいくと、決めたはずの私の心がまたかすかに揺らいだ。




