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これは、私の恋じゃない  作者: ロジィ
海と過去に潜って
23/30

現実へ 2

「お帰りなさい、千佳ちゃん! ああよかった……無事に帰ってきたのね」


 ママが合宿から戻った私を強く抱きしめた。半袖の白いサマーニットからはバターと卵と砂糖が混じった甘いにおいがする。

 こうやってママに抱きしめられるのは嫌いだ。けれど、いま自分は完全に安心できる場所にいるのだという気持ちにもなった。

 あの日もそうだった。何がなんだか分からない混乱した状況でママに抱きしめられたとき、私は心のどこかで「もう大丈夫だ」と思っていたような気がする。

 私はずっとこの人に守られ続けてきたんだな。いやだ、おかしい、と心の中で反発しながら、その庇護下から抜け出そうとはしなかった。

 でも……ずっとこのままじゃいられない。


「ねえママ。私、今日の夕飯はママのグラタンが食べたいんだけど、ダメかな?」

「え……。そ、そんなことないわよ! 大丈夫、作ってあげる。グラタンね。分かったわ」


 めったにリクエストなんかしない私がお願いしたせいか、ママは頬を紅潮させて何度もうなずき、それから困ったように眉尻を下げた。


「でも、材料がないから……買い物に行かなくちゃね」


 ちらちらと私をうかがうママは、久しぶりに戻ってきた私から離れるのをためらっているみたいだった。私はママを安心させるように笑って、ううんと大きく伸びをしてみせた。


「私、ちょっと疲れちゃったから、晩ごはんまで部屋で寝ててもいい? その間に買い物行ってきたら?」


 ママはまだしばらく迷っていたけれど、珍しく私に甘えられた嬉しさのほうが勝ったのか、「そうね。そうしようかしら」と、私をもう一度抱きしめた。

 ごめんね、ママ。

 私はやっぱり嘘つきなんだ。

 ママの腕の中で、私はそれを申し訳なく思った。

 それから私はベッドに入って目を閉じ、寝たふりをした。階下ではママの足音が動き回っている。じわじわ迫ってくる睡魔に引きずられないよう、私は奥歯で口の中を噛んだ。

 いろんな映像がまぶたの裏に映し出されるようにして浮かんでは消えていく。

 チーが死んだあの日のこと、星山高校の入学式、吉田さんたちとの一件、みんなと過ごした別荘でのこと――海辺ではしゃぐ瑞希や、沙耶さんを見つめる瑛輔くん、その瑛輔くんに何か言いたげな沙耶さん、私に突然おかしな告白をしてきた桐原先輩、そして――私の嘘を知った遥。

 いくつもの記憶が私の心を掠めていくたびに、私の感情は激しく揺れ動いた。

 私は遥に本当のことを告げた。

 私がチーを殺してしまったのだという事実は、もう嘘なんかじゃ隠せない。

 そして、私が本当のことを言わなくちゃいけない人が、遥以外にもう一人いる。


 しばらくして玄関のドアが閉まる音と、車のエンジン音が聞こえてきた。私はベッドの上で身を起こし、万が一にも家の中にママがいないかどうか、その気配を探るように全神経を集中させた。

 きっと大丈夫だ。私は自分の部屋を出ると、忍ばせる必要もないのに足を忍ばせて階段を下り、リビングにある電話機の前に立った。

 この電話機は三十件まで着信履歴が残る。

 一ヶ月ほど前におばさんがかけてきた電話を私が取ったあの日の履歴が残っているかどうかは賭けだった。ママが消しているかもしれない。

 祈るような思いでボタンを押し、着信履歴をさかのぼる。


「……あった」


 それは二十八件目に記録されていた。その番号をスマートフォンに打ちこんでいると、背後で物音がした。ハッとして振り向くと、そこにはパパがいた。

 私とパパが真正面から向かい合うのは、どれくらいぶりだろうか。私の記憶の中のパパより白髪が増えて、少し痩せたような気がする。


「何をしてる」


 感情のない声で問い詰められ、私は手の中のスマートフォンを守るように抱きしめた。

「何も」と平静を装った声で答えたが、パパは、私、電話機、スマートフォンへと順番に視線をやり、再び私を見た。その目には、私には読み取れない複雑な色が浮かんでいる。


「……来なさい」

「え?」


 パパはくるりと方向を変えると、そのまま階段を上がっていく。私は訳も分からずパパの後を追った。

 書斎の鍵を開け、パパはもう一度「来なさい」と言い、私は今まで立ち入りを禁止されていた部屋におそるおそる足を踏み入れた。

 壁面には大きな本棚が備え付けられていて、パソコンデスクが窓際に設置されている。ソファベッドには畳まれた毛布があり、パパがときどきここで眠っていることをうかがわせた。

 物珍しさにきょろきょろと部屋の中を見回していたが、どこか違和感があった。なんでだろう、と頭をひねっていると、パパは机の引き出しから取り出したものを私に差し出した。


「これ、何?」

「お前にだ」


 それは年賀状の束だった。

 宛名には「澤野千佳様」と癖のある文字で書かれている。そして、差出人の名前に私の目が吸い寄せられる。沢野(さわの)美也子(みやこ)。それはチーの母親の名前だった。

 住所は十年前と変わらず、私たち家族がかつて住んでいた町――私とチーが出会った町の住所で、記されたアパート名も、チーとおばさんが暮らしていたアパートのままだった。


「あの年から毎年、正月に必ず送られてくる。お前やママが起きてくる前に私が回収していたんだ」


 よく見ると、確かに一番下は十年前、一番上は今年のものだった。

 裏面にはその年々の干支がプリントされているだけで、メッセージの類は一切書き込まれていない。

 おばさんからこんなものが送られてきていたなんてちっとも知らなかった。

 電話とこの年賀状。

 私の知らないところで、おばさんはパパやママと繋がっていた、ということ?


「どうして……?」


 何に対しての疑問なのか分からないままの私の問いかけに、パパはじっと私を見つめた。今までずっと私を無視し続けていたパパに見つめられて、私はそわそわと落ち着かない気持ちになる。


「会いに行くのか」

「それは……」


 会いに行かなければならないと分かっているし、そうするつもりだった。でも、いざその手段を手に入れた今、私は怯えていた。

 おばさんに連絡をして、会って、本当のことを話す。

 それは、私が今までずっと逃げ続けてきたものと向かい合わなければならないということだ。

 もう誰も守ってくれない、嘘でごまかすことも許されない、私が私のままで、本当のことを伝えなくちゃいけない。

 そう思うと、したはずの決意は簡単に小さくなって、私の姑息さの裏に隠れてしまう。


「でも、会いに行かなくちゃいけないと思ってる」

「そうか」


 玄関のドアが開く音がして、「あなた?」とママの声がした。階段を上ってくる足音。

 どうしよう。私がここにいて、しかもおばさんからの年賀状を持っているところなんかママに見られたら大変なことになる。

 慌てる私の肩にパパの手が置かれた。「自分の部屋に戻っていなさい」と囁いて、パパは書斎を出た。


「あら、戻ってきてたのね。千佳ちゃんも今日、桜田先生の別荘から戻ってきたのよ」

「そうか。先生には後で私からお礼をしておくよ」

「お願いします。それでね、千佳ちゃんが夕飯にグラタンが食べたいって言ってね、今買い物に行ってきたところなの。あなたも一緒に食べられる?」

「ああ」


 パパの書斎に残された私は、二人の声が遠ざかっていくのを息をひそめて待ち、タイミングを見て自分の部屋に戻るとベッドに潜り込んだ。

 私は手にした年賀状の束をマットレスの下に隠した。チーのことを書き込んだノートのそばに置いておきたいと思ったから。

 布団をかぶって目をつぶると、心臓の音がうるさいくらいに聞こえた。

 毎年毎年、おばさんはどんな思いで私の名前を書いていたんだろう。パパはどうしてそれを隠したんだろう。おばさんからの電話は何のため? ママはどうして私に電話に出ちゃいけないなんて言ったの?

 疑問ばかりがぐるぐると渦巻いて、私は迷子になったような不安に襲われた。

 ぎゅっと体を丸めて、自分自身を抱きしめる。

 そして、不意に気付いた。

 パパの書斎での違和感の正体。

 前の家では、パパの部屋には本格的なオーディオ機器とクラシックのCDやレコードがたくさんあった。でも、今日入ったこの家の書斎には、そういったものが一つもなかった。


「パパ……」


 あの日からパパは音楽を聞くのをやめてしまったんだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 私も現実恋愛の小説をちょっとだけ書いているんですけど、描写が上手くて尊敬します! 続きも楽しみにしています!
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