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これは、私の恋じゃない  作者: ロジィ
海と過去に潜って
22/30

現実へ

 どぼん! という音とともに、私の全身が水に包まれた。

 息ができない。

 必死に水を掻いて海面に顔を出すと、潮のにおいが一気に肺に流れ込んできた。


「遥!」


 波に揺られながら叫んだ。

 どこ? どこにいるの? 

 早くしないと、また私の大切なものが奪われてしまう。

 暗い海は、あの日私が隠れていたクローゼットの中とよく似ていた。柔らかくて、生温かくて、真っ暗で、何も見えない。


「遥……ねえ、返事して!」


 チーが波にさらわれたのは、私のせいだ。

 かくれんぼでチーに勝ちたくて、外に出たなんて嘘をついた。


「遥……っ!」


 あのあと、パパとママが、私を探してくれた人たちやおばさんとどんな話をして、どんな決着を迎えたのか、私には少しも伝わってこなかった。

 ただ、私たち家族は逃げるように町から引っ越して、あの別荘を手放し、嘘みたいに真っ白な新しい家で何事もなかったように新しい生活を始めた。

 けれど、その内側はどんどんと歪んでいった。

 ママは私を心配して縛り付け、パパは私を見なくなった。そして私は自分の中にむりやりチーを閉じ込めて、私が生きていていい理由を探し続けた。そんなものがあるはずもないのに、私はチーの代わりになろうなんてバカなことを考えた。

 チーとして遥との約束を守るために星山高校に行き、チーとして遥への初恋を叶えようとした。

 遥との恋は、私のものじゃない。

 それなのに……私は「私」として遥に心を寄せてしまった。だからまた海が私から大切なものを奪おうと手を伸ばしてきたのだ。

 それとも、チーがまだ私を探しているの?


――もういいかい。


「もう、いいよ」


 私が手足を動かすのを止めると、私の体はぷかりと水面に浮かんだ。夜空に浮かんだ月としばしの間、見つめ合う。


「私はここだよ。チー」


 かくれんぼはもうおしまい。いつもみたいに私を見つけて。

 私なんかひとかけらも残さずに消していい。

 だから――だからお願い。遥を助けて。連れていかないで。


「遥」


 私が呟くと同時に、背後でざぶんと大きく水が跳ねた。振り返るより早く、伸びてきた手が私の体を抱きしめた。


「動くなよ」


 耳元で囁かれた声と背中の気配に、私を飲み込もうとしていた闇が晴れていく。


「は、るか」


 生きている。ここにいる。触れ合った箇所から伝わってくる体温に、私の心と体が緩んでいった。

 遥は私を抱えたまま、確かな泳ぎで陸へと向かった。這いずるようにして砂浜に上がると、私たちはそのままへたり込み、ぜいぜいと息をする。

 ずぶ濡れの体を夜風が冷やしていく。へばりつく髪も服も、まとわりつく砂も、うざったくて仕方ない。

 でも……それは私と遥が生きている証なんだ。


「お前が飛び込む必要ないだろ! 溺れたらどーすんだよ!」

「だって、遥、泳げないって……」


 私を怒鳴りつけようとしていた遥はぐっと詰まって目を逸らし、濡れた髪を乱暴にかき上げた。


「それは、その、なんつーか、嘘」

「え?」

「ああでも言わないと……千佳は気を遣って『私のことはほっといていい』って言うから。せっかくなんだから楽しい思い出を作ってやりたかった……っていうか。まあ、散歩ごときで思い出ってのもおかしいけど」


 遥は私の名前を呼ぶのをためらってわずかな間を空けたが、私は遥がくれていた優しさに胸をときめかせてしまう。

 全身の力が抜け、ふらりと揺れた私の体を遥が慌てて抱きとめた。目を閉じて遥の胸に耳を寄せると、心臓の音が聞こえる。


「お、おい。大丈夫か?」

「――よかった」


 遥のカナヅチが嘘でよかった。この鼓動と体温が消えなくてよかった。遥がいなくならなくて、本当によかった。

 波の音と温かい鼓動を聞きながら、私は遥に本当のことを伝えなくちゃいけないときが来たのだと思った。もしもチーが私たちを助けてくれたのなら、それはきっと私に本当のことを言わせるためだ。


「私はね、どうしようもない嘘つきなの。ずっと嘘をつき続けてる。それは、誰にも許してもらえないくらい、ひどい嘘なの」


 遥の前髪から落ちた雫が私の頬を伝った。これじゃあなんだか泣いているみたいだ。私に泣く権利なんかあるはずもないのに。


「そんなの、話してみなきゃ分かんねーだろ」

「分かるよ。本当のことを知ったら、遥だってきっと私を恨むもの」

「だったら話せよ」


 私はわずかに体を起こして、遥と向き合った。きらめく星空を背景に、青白い月の光に照らされた遥は、ぞっとするほどに美しかった。


「私はね」


 唇が震えたのは、夜風に体が冷えていくせいだけじゃなかった。

 チーも、おばさんも、パパもママも、瑞希や桐原先輩も――そして遥も、きっと私を許してくれない。その恐怖が、私の喉を詰まらせる。

 私を見つめる遥は、苦しそうに顔を歪めている。どうして遥がそんな顔をするの? なんだか――なんだか、泣いているみたい。


「誰も許さないって言うなら、俺が許してやる」


 え、と漏らした私の声を押し戻すように、遥の唇が私の唇をふさいだ。海のにおいと、ひやりと冷たい感触。それでも触れ合っているうちにじわりと熱をはらんだ。

 唇を放すと、遥は私を抱きしめた。


「だから……もう嘘はつくなよ」


 振り絞るような声に、私の心は締め付けられるように痛んだ。

 遥の肩越しに月が見える。その月が照らす広大な海には無数の命とチーの死がたゆたっているのだ。そして、私は絶対にそこから逃げられない。たとえ、何を失ったとしても。


「私は、あなたの『ちか』を殺したの」


 まだ遥の体温が残った唇で、私は遥に「本当」を告げた。

 砂浜に寄せた波が私たちの足先を舐めて、また海へと戻っていく。


******


 私は、私とチーの出会い、名前を分け合ったこと、別荘に一緒に来たこと、二人でかくれんぼをしていて、私が嘘をついたせいでチーが死んでしまったこと、おばさんに「何も知らない」と嘘をついたこと――を遥に話した。


「死んだ? あいつが?」


 遥は、そうしていれば答えが返ってくるみたいに、しばらく海を見て(ほう)けていた。

 そんな遥にかけるべき言葉が分からなくて、私も隣で海を見続けた。


「――それで、私はチーの代わりに遥との約束を果たすために、星山高校に入ったの。そして……チーとして、チーの初恋を叶えるために」

「……なんだよ、それ」


 遥が立ち上がると、月の光が遮られて黒い影が私にかかった。世界が薄い闇に包まれる。


「ふざけんなよ」

「遥……。私のことは許さなくていい。それが当然だと思う。でもチーが遥を好きだったのは本当なの。それだけは信じて」


――わたし、はるかのこと大好きなの。世界でいちばん、大好き。


 嘘にまみれた私の想いとは違う、まっすぐで後ろめたさのない宝石のようなチーのあの想いだけは、遥に受け取ってほしかった。

 知らず伸ばした私の手を遥が振り払った。覚悟していたはずなのに、明確な拒絶に心臓がひゅっと冷たくなった。

 私がいなかったら、あの穏やかで、柔らかで、希望と期待に満ちていて、美しく、暖かな日に行われた入学式で、遥とチーは約束どおりの再会をはたして、二人並んでこの月の光にきらめく海を見て、さっきのキスだってもっと甘くてロマンチックな思い出になっていたかもしれない。

 私はいつだって誰かの世界から色を奪ってしまう。


「遥――」


 謝罪の言葉を口にしたけれど、うまく声にできなかった。嘘ならいくらだってつけるのに、「本当」を伝えようとすると、何かが舌に絡まってくる。嘘に漬かり過ぎた私は、自分の中に生まれたばかりの「本当」の扱いかたを知らない。


「お願い、チーは本当に」

「そういうんじゃなくて、俺は……っ」


 遥はもどかしそうに首を振ると、私に背を向けた。

 どこにいたって見つけられる「特別」な背中は、私を拒んでいた。「ごめん」と呟いた遥が歩き出し、光を放つようだった白いTシャツが闇に溶けていく。

 その「ごめん」の意味が分からないまま、私は一人、波打ち際に座り込んだまま、立ち上がれずにいた。

 許せなくて「ごめん」? 先に帰るけど「ごめん」? もう二度と私のそばにはいられないという「ごめん」?

 ねえ、チー。

 チーとカー。私たちは二人で一人。一人だと半分。それが世界のすべてで、完全に確かなことだった。

 なのに私は、どうやってもチーにはなれないみたい。

 どんなに嘘をついても、私はあなたの代わりになれないんだ。


******


 私と遥がずぶ濡れになって、しかも別々に戻ってきたことで、みんなはひどく戸惑っていた。


「チッカ、何があったの?」


 バスルームから出てきた私に、待ちかねていたように瑞希が聞いてきた。その様子を見るに、遥も事情を説明していないようだった。

 遥もまだ気持ちの整理がついていないだけなのかもしれない。なのに、私はまだそこに思いやりのようなものがあるのではないかと勝手に期待してしまう。そんな自分がたまらなく嫌になる。


「……何もないよ。遥と散歩してたら足を滑らせて海に落ちちゃっただけ」

「そんなわけないでしょ、だとしたら、遥くんがチッカを置いてくるなんてありえない。遥くんはチッカのナイトだもん」

「違うよ」


 遥が本当に守りたかったのは、私じゃなくチーのほう。

 チーを殺してしまった私の役回りは、ナイトに倒されて罰を受ける悪役だ。


「ごめん、少し疲れちゃった。もう寝るね」


 ベッドに潜り込んで頭から布団をかぶった私に、瑞希は追及を重ねてこなかった。ためらうような気配がしたあと、ドアの音がして足音が遠ざかっていった。

 眠れないかと思っていたけれど、目を閉じたら眠りはすぐにやってきた。意識が暗闇に落ちていく。

 ずっと続いていた波の音がやっと途切れた。

 翌日の午前十時、瑛輔くんが別荘の鍵を閉めて、私たちの夏合宿は終わりを告げた。

 ここへやって来たときと同じように空は青く晴れ渡り、海はきらきらと輝いている。だけど、私と遥の関係は大きく変わってしまった。変わってしまったものはもう元には戻れない。

 見送りに来てくれた沙耶さんが、手にしたお弁当を瑛輔くんに押し付けながら、私たちににっこりと微笑みかける。


「また遊びに来てね。瑛輔なんか抜きでいいからさ」

「おいこら」

「冗談だって。来るの待ってるから。っていうかさ、お店じゃなくたって会えるのに、瑛輔ったら一度も連絡くれないんだもんね」


 沙耶さんは小さく責めるように瑛輔くんの黒いポロシャツの裾をそっと引っ張り、瑛輔くんは気まずそうに頭を掻いた。

 車が走り出すと、手を振る沙耶さんの姿はみるみる遠ざかっていった。ハンドルを握る瑛輔くんが、バックミラーの沙耶さんにプップッと短くクラクションを鳴らした。

 車内の座席順は来たときと同じ並びで、後部座席の真ん中に座った私の隣には遥がいる。けれど、来たときは違って遥は窓の外を見つめたまま、私に触れないように全身を緊張させているのが分かった。

 私たちのぎくしゃくした空気が充満しているせいで、いつもはしゃいでいる瑞希も、お茶らけている桐原先輩も、今はぽつぽつと言葉を発する以外、黙りこくっている。車内にはタイヤが道路と擦れる音だけが響いていた。

 そのまま一時間ほど走って、瑛輔くんがハンドルを切って駐車場に車を入れた。


「飯にしようぜ。せっかく沙耶が弁当作ってくれたし、ここで海ともおさらばだしな」

「ですよねー。あたしもお腹空いちゃった! チッカも行こ。ほら、遥くんも!」


 瑞希に手を引かれるようにして砂浜に下りた。桐原先輩がビニールシートを敷いて、私たちは輪になってそこに座った。遥は私の斜め前に腰を下ろしたけれど、こちらを見ようとはしなかった。

 沙耶さんから渡された重箱の蓋を開けると、「わっ、すごい! おいしそーっ!」と瑞希が歓声を上げた。三段のお重にはそれぞれ、色とりどりのおにぎり、唐揚げ、玉子焼き、キュウリの漬物なんかがきれいに詰められていた。

 梅とわかめのおにぎりを一口食べて、瑛輔くんが少し笑う。


「おお、沙耶のやつ、前より腕上げてんじゃん。味はバッチリだから安心して食べて」

「よーし、食べるぞー!」

「なんかピクニックみたいで楽しいね」


 瑞希と桐原先輩が空気を変えるようにわざとらしく声を弾ませたけれど、その甲斐なく遥は無表情で立ち上がった。夏の太陽を背にしたその姿は、黒い影のようだった。


「すみません。俺、食欲ないんで」

「大丈夫? 車酔いかな?」

「いえ。少し一人で休めば平気です」


 瑛輔くんの気遣いに背を向けて、遥は足早に車に戻っていく。

 私たちはしばらく食事を続けていたが、この中で唯一正確に事情を理解しているらしい瑛輔くんが私に声をかけてきた。


「ぴーちゃん、ちょっと見てきたら?」

「……たぶん、私じゃないほうがいいと思う。瑞希、悪いんだけどこれ、遥に持って行ってくれる?」


 私は手早く紙皿に遥のぶんを取り分けた。

 遥はお肉が好きだから唐揚げをたくさん、おにぎりの具は鮭が好きで、梅は嫌い。シラスは目があるから苦手で、玉子焼きは甘いほうが好きで、でもネギを入れたしょっぱいのは好きで――。

 喉の奥がぐっと詰まって箸が止まった。

 いつの間に、私はこんなに遥のことを知っていたんだろう。


「チッカが持っていったほうがいいよ。こういうのって時間が経てば経つほど、どうしようもなくなるんだよ」

「でも……」

「じゃあ僕が一緒に行くよ」


 桐原先輩は立ち上がると、私が抵抗する間もなく、「さあさあ」と私を強引に遥のもとへと連れていってしまった。

 車のタイヤのところにしゃがみこんで、ぼうっと空を見上げていた遥は、私と先輩に気付くとはっきりと顔をしかめてふいと背けた。


「あの、これ。せっかく沙耶さんが作ってくれたし……少しでも」


 私が差し出した紙皿には目もくれず、遥は無言を貫いた。仕方ないことだって分かっているのに、胸が痛むのを止められない。


「遥くん、君と千佳ちゃんになにがあったのかは知らないけど、その態度はよくないんじゃない?」

「……部長には関係ありませんから、放っておいてください」

「君は、もう少し紳士だと思っていたんだけどな。それに……関係なくもないんだな」


 桐原先輩が突然私の前にひざまずいて、私の左手を取った。

 紙皿を持つ手が不安定になって、鮭のおにぎりが地面に落ちる。


「せ、先輩?」


 戸惑った声をあげた私に気付いて遥が振り向いた。目の前で繰り広げられている光景に驚いた表情が浮かべた。

 桐原先輩は私に優しく微笑むと、芝居がかった台詞を口にした。


「プリンセス。あなたが何者でも構わない。どうか僕のものになっておくれ」

「――っ!」


 先輩は、唐突な出来事に息をのんで固まった私の左手の薬指にキスを落とした。唇の感触のくすぐったさが、体の内側に線を描く。

 立ち上がった桐原先輩は、私と同じように固まっている遥に向き直ると、私の腰に緩く手を回した。


「実は僕、ずっと千佳ちゃんが好きだったんだ。遥くん相手じゃ諦めるしかないかって思ってたんだけど……チャンスが来たなら、手を伸ばしてもいいよね?」


 遥が何か言おうとするように口を開いた。けれど、その唇は言葉を発する前にきゅっと結ばれてしまう。


「いいかな?」


 桐原先輩が念を押すように繰り返すと、遥は目を伏せた。


「……それは、部長が決めることですから。俺には関係ないです」


 遥の言葉に私の心が刺されたように痛んだ。

 波の音がもっと大きければ、遥の返事は聞こえなかったのに。

 仕方ない。ぜんぶ、仕方ないんだ。何度も自分にそう言い聞かせる。

 私が落とした鮭のおにぎりの上を、蟻が二匹這い回っているのが視界の隅に映った。

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