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あれは私とチーが五歳のときだった。
私たち一家は夏になると、当時所有していた海沿いの別荘で一週間ほど過ごすのが恒例となっていた。その家族旅行にチーも連れていきたいと私が駄々をこねたのだ。
私たちは二人で一人。一人だと半分。あの頃の私にとって、それが世界のすべてだったから。
仕事があって休めないおばさんとママがあれこれ話し合って、ようやくオッケーが出たとき、私とチーはハイタッチして大喜びした。
一日中、それどころかもっともっとたくさんの時間をチーと一緒に過ごせると思うと、楽しみで仕方なかった。特に出発前日の夜は興奮しすぎて眠れなくて、ベッドで何度も寝返りを打ち続け、やっぱりあれも持っていこう、これもあったほうがいいかも、と荷物を増やしていった。
当日の朝早く、おばさんに連れられてやってきたチーは目をらんらんと輝かせていた。
「わたしね、海で泳ぐの初めてなんだ! プールとちがうのかなぁ」
私たちは、私のママが作ってくれたお揃いのワンピースを着ていた。旅行に行くときは、これを着ようねって約束していたから。
赤いハイビスカス柄の夏用ワンピース。私とチーが向かい合うと、まるで鏡のようだった。
「なんだか台風が近いとか」
ママと話をしていたおばさんが、どんよりと薄暗い灰色の空を見上げて少し顔をしかめた。タイミング悪く、旅行の日程と台風の上陸がかち合ってしまったのだ。
「でも明日には逸れるみたいですよ。おたくの知花ちゃんは、私たちが責任を持ってお預かりしますから」
「お願いします。知花、ちゃんとおじさんとおばさんの言うことを聞くんだよ。悪い子は海に放り投げられちゃうんだからね。約束だよ」
「分かってるってば」
ぷうっと頬を膨らませたチーの頭をぐりぐりと撫で、おばさんは帰っていった。そして私たちはパパが運転する車で約三時間のドライブに出発した。
高速のサービスエリアで、私とチーはうどんを半分こして食べた。ソフトクリームも食べたいとママにねだったけれど、お腹が冷えるからと却下されて私はチーと二人でむくれていた。
でも、高速を降りて海が見えたとたん、私たちのテンションは跳ね上がった。
「カー。見て! 海だよ!」
「すごーい!」
私とチーは窓にへばりついて、一面に広がる海に興奮して叫んだ。パパが少しだけ開けてくれた窓の隙間から流れてくる風は、スーパーの魚売り場のようなにおいがした。
「海ってもっとキラキラしていると思ってたけど、なんか真っ黒だね」
ひとしきり騒いだあと、チーは窓の外を見ながらそんなふうに呟いた。
テレビや写真で見た海は青く、きらきらと光っていてすごくきれいだったけれど、私たちの目の前に広がる海はどす黒く、大きな白い波が踊っているようにうねっていて、なんだか少し怖い感じがした。
無事に別荘にたどり着いて一息つくと、私たちはママにお昼寝するように言われた。
長時間のドライブの疲れと、夕べあまり眠れなかったのもあって、私はベッドに入るなりすぐに眠ってしまった。
どれくらい経ったのか、私は体を揺すられる感覚に目を覚ました。その正体であるチーは、私が起きたのを見ていたずらっぽく笑うと、人差し指を立て、しーっと言った。
「ねえ、カー。お外すごいよ」
私はまだ眠くてまぶたが落ちそうな目をこすりながら、チーの手招き従って窓際に歩み寄った。
チーの言うとおり、窓の外では木々が見えない巨人の手に撫でられてでもいるように大きく揺れていた。
「すごい風だね」
「せっかく海に来たのにつまんない」
「でも今日一日のがまんだってパパとママも言ってたよ」
「ふーん。ね、なんかのど渇いちゃった。ジュースとか飲もうよ」
「うん。行こ」
二人で一階に下りたけれど、リビングにはパパもママもいなかった。冷蔵庫を開けて、来る途中にスーパーで買ってきたオレンジジュースをコップに注いで、チーと交互に飲んだ。
「おじさんとおばさんはどこ行っちゃったんだろ?」
「たぶん、パパのお部屋にいるんじゃないかな。ここに来ると二人ともよくそこにいるから」
パパはクラシックを聞くのが趣味だけど、普段は仕事が忙しくてゆっくりと聞く時間がないといつも愚痴っている。だから、ここに来たときは部屋にこもって思う存分クラシックに浸るのだ。大きな音で聞いても大丈夫なように、ドアも壁も音が漏れないように作られているらしい。
ママは「パパがあのお部屋にいるときは邪魔しないようにしようね」と私に言っていたけれど、私はママがときどきあの部屋でパパと一緒に過ごしているのを知っていた。
「パパのお部屋は、子どもが入っちゃいけないんだって。だから二人で遊んでよう」
「ふぅん。パパって変わってるんだね。わたしにはよく分かんないけど」
チーはこくりとオレンジジュースを飲んでわずかに目を伏せて黙り込んでしまった。
パパの話をすると、いつもおしゃべりなチーが口を閉じて喋らなくなってしまうから、私はなんだか悪いことをしたような気分になる。
重たくなった空気を変えたくて「わたし、本をたくさん持ってきてるよ。いっしょに読もうか」と言った。けれどチーは、私の提案に顔をしかめてぶんぶんと首を横に振った。
「カーのいじわる。わたしが本を読むと眠くなっちゃうの知ってくるくせに。あっ、そういえばカーはランドセル何色にするの?」
「うーん、どうしようかなぁ」
「赤にしようよ。わたしねぇ、帰ったらママとランドセル買いに行くんだ」
「チーが赤にするなら、わたしもそうするね」
「ね、カー。かくれんぼしようよ。わたし、たいくつで死んじゃう」
ころころ変わるチーの話に「仕方ないなぁ」とついていくのが私の役割だった。
たまに嫌だなと思うときもあったけれど、そんな気持ちさえも一緒にいるうちに「仕方ないなぁ」に吸い取られていった。チーにはそんな魅力のようなものがあった。
かくれんぼをすることになって、鬼決めのじゃんけんをした。そしてチーがグー、私がパーで、鬼はチーになった。
「ぜったいにチーには見つけられないとこにかくれるからね」
「わたし、カーを見つけるのじょうずだからへいきだよ。今日もぜったいカーの負けだよ」
「そんなことないもん!」
くすくす笑い合って、チーが壁に顔を伏せると同時に私はキッチンを飛び出した。
いーち、にーい、さーん……。
チーの数える声を聞きながら、隠れ場所を探した。リビングのソファの裏、お風呂場のバスタブ、トイレ、小さな物置部屋……。でも、どこに隠れてもチーに見つかる気がした。
チーは本当に私を見つけるのが上手だった。だから、かくれんぼは私の連戦連敗。
今日こそは、と意気込んだ私は一生懸命に考えた。そして、いいことを思いついた。
これなら絶対に見つからない。
最高のアイディアに胸を弾ませながら玄関に行き、自分のサンダルを靴箱の奥に押し込んで、玄関わきのクローゼットのとびらをそうっと開けた。
「もういいかい」とチーの声がして、私は慌てて「まーだだよ」と答えた。
急がなくちゃ。背伸びをして玄関のドアの鍵をひねった。開けると、甘いにおいのする生ぬるい風が体を包んだ。
「もういいかい」
「チー、わたし外に隠れるからね! うわーすごい風!」
わざと音を立ててドアを閉めると、さっき開けておいたローゼットに素早く滑り込んで、できる限り静かに閉めた。
少しの沈黙のあと、小さな足音と「カー?」と私を呼ぶチーの声がした。
クローゼットの隙間からそっと外をのぞくと、ワンピースにプリントされた赤いハイビスカスが目の前を横切った。
がちゃり、と玄関のドアが開く音がした。びゅうっと風が入ってきて、クローゼットのとびらがかたかたと揺れた。
「カー、外は危ないよ。ねえ、カー」
チーの声とサンダルの足音が遠ざかり、もう一度がちゃん、とドアが閉まる音がした。
私が外になんかいないと気付いたチーがすぐ戻ってくるかもしれない。だからちゃんと隠れておかなくちゃ。だってチーは本当に私を見つけるのがうまいから。チーが「こうさん」したら、ここから飛び出してびっくりさせてやろう。
驚いて目を丸くするチーを想像して、私は暗いクローゼットの中でほくそ笑んだ。
私が膝を抱えて入るのが精いっぱいな広さのクローゼットには、パパやママがこの別荘で着るための服がいくつか吊るされていて、クリーニングから戻ってきたときの薄いビニールが掛かったままだった。
それは、私が少し動くだけで、かさかさ、しゃらしゃらと音を立てた。ビニールが汗ばんだ肌にくっついてまとわりつくのが気持ち悪くて、私はじっと縮こまっていた。
そうしているうちに、夕べあんまり眠れなかったのとチーにお昼寝を中断された私は、チーが再び玄関のドアを開けるのを待っている間に、いつの間にか眠っていた。
――かさかさ、しゃらしゃら。
ビニールの音に混じって、別の音が聞こえてくる。
――かさかさ、しゃらしゃら。ざあざあ、ごうごう。
これは、なんの音だろう……。
眠りと浅い覚醒の間をさ迷いながら、私は不思議に思っていた。
すると突然、ぱっとまぶしくなって私は一気に目を覚ました。強すぎる光に照らされてうまく目が開けられない。
細めた視界に映ったのは、ずぶ濡れで真っ青な顔をしたパパだった。
「パパ、どうしたの?」
眠たい目をこすりながら間延びした声でそう尋ねた私の頬を、パパは何も言わず思いっきり打った。
顔面が吹き飛んだかと思うほどの衝撃に倒れ込んで、ビニールがまた、かさかさ、しゃらしゃらと音を立てる。
「澤野さん、落ち着いて!」
玄関に雨合羽を着た大人たちが大勢なだれ込んできて、父を羽交い締めにした。白も透明も紺色も黄色も黒も、みんな濡れて、てらてらと光っていた。玄関の外では激しく雨が降っている。
――ざあざあ、ごうごう。
雨の音だったんだ、と頭の片隅で思った。
開け放たれたドアから吹き込んでくる強い風が、いろんなものを揺らした。私が隠れていたクローゼットの中のものも、風に煽られて意思を持った生き物のように暴れ始める。
――かさかさ、しゃらしゃら。
紺色の雨合羽の人が「おいで」と私に手を伸ばした。その人からは海のにおいがした。私を引っ張り出そうとする無遠慮な力と濡れた指先の感触に怯えて、私は身を強張らせた。
いやだ、離して。触らないで。叫びたいのに声が出ない。
「大丈夫だよ。さあこっちへ」
嘘だ、と直感した。この人、嘘をついてる。
パパに打たれた頬が、どんどん速くなる鼓動に合わせて脈打つように痛んだ。まるでもう一つの心臓がそこにあるようだった。
混乱の極みに達した私の体から、ようやく声がこぼれた。
「チーは?」
それはとても小さな声だったのに、大人たちは急に動きを止めた。互いに顔を見合わせて、無言のうちに何かを探り合っている。
――かさかさ、しゃらしゃら。ざあざあ、ごうごう。
「チーはどこ? わたしたち、かくれんぼしてたの」
「千佳ちゃん!」
パパと同じようにずぶ濡れのママが玄関に飛び込んできて、私を抱きしめた。
「千佳ちゃん! よかった! あなたじゃなかったのね!」
バターと卵たっぷりのふわふわなお菓子を作るママからは想像もできないほどの力で抱きしめられる。
なにか普通じゃないことが起こっているのだと本能的に分かっているのに、なにが起こっているのかが分からない。それが怖くて仕方なかった。
感情の発露を求めて、目から涙が一つこぼれると、私は火が点いたように泣き出した。
足の間がじんわり温かくなって、クローゼットにアンモニア臭が充満した。
もうずっとしていなかったお漏らしをしたことにもショックを受けて、私の泣き声はさらに大きくなった。
汗ばんだ肌にビニールがまとわりつくことも、ママが「よかった」と繰り返し続けながら抱きしめてくることも、いやでいやでたまらなかった。突き放したいのにママの力には逆らえなくて、そのもどかしさがまた私の感情をぐちゃぐちゃにしていく。
いやだ。やめて。さわらないで。
助けて、チー。お願い、いつもみたいに助けに来て。
「泣くな!」
パパが叫んだ。
そのときぴかっと稲妻が走り、ふっと家の明かりが消えた。少し間を置いてから建物がどぉんと揺れ、誰かが「停電だ」と呟いた。
雷が落ちるたび、白い光が真っ暗な世界を切り裂くように照らした。
白黒の世界で浮かび上がるのは、いつもの優しい顔ではなく、苦痛に歪んでいるような顔をしたパパが、ずぶ濡れの大人たちに抑え込まれて叫んでいる姿だった。
「泣くな!」
パパは、どうしてあんなに大きな声を出しているんだろう。
「千佳ちゃん、本当によかった!」
ママは、どうしてわたしを壊しちゃいそうなくらい抱きしめるんだろう。
「チーはどこ?」
わたしたちは二人で一人。一人だと、半分。
ねえ、チー。
そうでしょう?
どぉん。そして、ぴかっ。
白と黒が繰り返される世界で、わたしはただただ繰り返した。
「チーはどこ?」
――かさかさ、しゃらしゃら、ざあざあ、ごうごう……。
******
私を探して外に出たチーが、堤防で波にさらわれて死んだと聞いたのは次の日だった。
「あれは、千佳ちゃんのせいじゃないの。悲しい事故だったのよ」
家に戻るまでも、戻ってからも、ママはずっと私を抱きしめ続けた。何度も繰り返し呟く「大丈夫」の合間に、ときおり「よかった」が混じった。
その夜、帰ってきたパパが、私の前にしゃがんで視線を合わせた。パパは、いつものパパとも、あの白黒の世界に浮かび上がったときとも違う、すべての感情をそぎ落としたような顔をしていた。
「千佳、よく聞きなさい。これから知花ちゃんのお母さんが来る。お前にも話を聞きたいんだそうだ」
おばさんが来る。ああ、そうか。チーがいなくなったらもう、あのドーナツは食べられないんだな。ママの腕の中で私はそんなことを思った。
「お前と知花ちゃんは、かくれんぼなんかしていなかった。知花ちゃんは、お前が眠っている間に一人で外に出てしまったんだ」
ママが小さく息を飲んで、ぎゅっと私を抱きしめた。
「いいね、千佳」
私はその言葉の意味が分からなくて、ただただ体を強張らせていた。
「そうよ、千佳ちゃんはなにも悪くないもの。そう、そうよ。そうしましょう。ね、千佳ちゃん、おばさんにじょうずに説明できるわよね? 千佳ちゃんはとっても頭がいいもの」
有無を言わせず迫ってくる二人の目が怖かった。その視線から逃れたい一心で、私はわけも分からないまま、こくりとうなずいた。
それから十分後に、おばさんが来た。ぼさぼさの髪で、半袖Tシャツにジーンズという格好で、私の姿を見るなり、すがるように私の肩をつかんだ。指が食い込んで、すごく痛かった。
「ねえ、なんであの子は外にいたの? 知ってるんでしょ? ねえ」
おばさんからは今日も油のにおいがした。まるで、さっきまでなにかを揚げていたみたいだ。
私を強く揺さぶるおばさんから守るように、ママが私を抱きしめた。
「ごめんなさい! 知花ちゃんから目を離してしまった私たちが悪いんです。悪いのは私たちで、この子は何も――」
「誰が悪いとかどうでもいい! あたしはあの子がどうして死んだのか知りたいんだよ!」
にらみ合う二人の荒い息遣いがリビングに響く。
私は息をすることさえできなかった。夢の中にいるみたいに、世界がゆらゆら揺れていた。
「言うとおりにしなさい」
じっと私を見つめるパパの目は、この場にいる誰よりも私を責めていた。
私は悪いことをしたんだ。それも、取り返しのつかないとっても悪いことを。
「言うとおりにしなさい。分かるね、千佳」
ああ、そうか。
突然に理解した。そして、おばさんのほうを見て答えた。
「……分かんないの」
ああ、そうか。そうなんだ。
「私が目を覚ましたら、チーはいなかった」
私がチーを死なせてしまったんだ。




