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これは、私の恋じゃない  作者: ロジィ
海と過去に潜って
19/30

海へ 3

 海遊びを終えてSAYAで夏野菜カレーの絶品ランチを済ませた私たちは、別荘に戻ってまったりと時間を過ごしていた。

 あんなに「海! 海!」とはしゃいでいた瑞希も、午前中ひとしきり騒いで満足したのか、テラスのチェアに座って、隣で本を読む桐原先輩にちょっかいを出している。遥もリビングの巨大なソファに体を沈めて眠っていた。

 ランチの終了時間である午後二時まであと少し。二日酔いでダウンした瑛輔くんはどうしてるのかな、と様子を見に行ったら、ベッドはもぬけの殻だった。

 調子が戻ってご飯でも食べに行ったのかな。

 私たちはSAYAから戻ってくるとき、メインの大通りではなく砂浜を横切って近道をしてきたから、入れ違いになってしまったのかもしれない。

 でも……瑛輔くん、今朝だいぶ具合が悪そうだったけど、大丈夫かな。さすがに行き倒れになってる、なんてことはないだろうけど……。

 

「そうだ」


 様子見ついでにちょっとSAYAまで行ってみよう。さらについでに、レジ横で売っていた手作りのパウンドケーキでも買ってきて、みんなでおやつにするのもいいかもしれない。

 階段を下りて遥にも声を掛けようと寝顔をのぞき込んだ。少し日に焼けて鼻先が赤くなっているのに気付いて、くすりと笑いがこぼれる。

 遥と手を繋いで砂浜を歩いた時間を思い出して胸が甘く音を立てた。遥と付き合って初めて自分が「彼女」と呼ばれる存在なのだと、そう自覚できた時間だった。

 でも……遥の本当の彼女はチーだから。私はあくまでチーの代わりに遥の隣にいるだけ。

 ちゃんと分かってる。大丈夫だよ、チー。

 ぐっすり眠っている遥を起こすのも、楽しそうにしている瑞希と桐原先輩の邪魔をするのも気が引けて、私は一人でそっと別荘を出た。


******


 海水浴客でにぎわう大通りを歩いてSAYAに向かう途中、どこからかイカを焼いているにおいとソースが焦げるにおいが風に乗って流れてきて、私はおばさん――チーのお母さんのことを思い出した。

 顔はチーとはあんまり似ていなかったけれど、チーのようによく笑ってハキハキ喋る人だった。

 古いアパートでチーと二人暮らしをしていたおばさんは、いつもなにかを油で揚げている人だった。

 ジャガイモ、ちくわ、サツマイモ、パンの耳……。

 おばさんが油に入れた食材は、私たちのおやつになった。

 私が一番好きだったのは、ホットケーキミックスの生地をスプーンですくって油に落として揚げた、穴のないドーナツだ。

 丸くてふわふわ、でもネズミのしっぽのようにちょろりと細く伸びたところはカリカリで、そこを食べるのがいつも楽しみだった。私のママが作るようなバターや卵をたっぷり使ったふわふわの柔らかいお菓子にはないその食感が新鮮だったから。

 朝にはスーパー、夜にはパチンコ屋で働いていたおばさんは午後の三時少し前に帰ってきて、夕飯の支度をする。その時間を見計らって、私とチーはアパートに行く。廊下にぶーんと換気扇の音と油のにおいがするのを確認して、二人で声をそろえて合言葉を唱えた。


「くーださい!」


 すると、魔法のように窓が開いて、「熱いから気を付けな」と、おばさんは揚げたての何かを私とチーのそれぞれに一つずつ渡してくれる。私とチーは、ティッシュにくるまれたそれを持って公園に行き、はふはふしながら食べた。

 ママには言えない秘密のおやつ。チーと二人で食べたそれは、格別な美味しさだった。

 いろいろ思い出しているうちに、気が付けば私はもうSAYAのすぐ近くまで来ていた。見れば、十メートルほど離れたところに瑛輔くんがいた。何もかも溶かしてしまいそうな夏の強い日射しの中、瑛輔くんはまるで銅像みたいにじっと立っている。


「瑛輔くん、何して――」


 声を掛けながら瑛輔くんの視線をたどって気付いた。瑛輔くんが立っているその場所からは、SAYAの店内が――窓の向こうにいる沙耶さんがよく見えた。

 顔見知りのお客さんと話しているらしく、大きな口を開けて笑っている。ガラスを隔てたここまで笑い声が聞こえてきそうだった。

 瑞希にさんざん「鈍い」と言われる私でもさすがに分かった。沙耶さんを見つめる瑛輔くんの眼差しに含まれる感情はきっと――。


「俺もさ、『ぴーちゃん』なわけよ」


 瑛輔くんが窓の向こうを見つめたまま、ぽつりと呟いた。

 ぴーちゃん。それは初めて会ったときに瑛輔くんが私に付けた名前だ。


「病院長の一人息子なんてなるもんじゃないよなぁ。俺の将来のほとんどは俺以外の人間が決めていくんだ。進学先は医大一択だし、結婚相手もたぶんそう。だって中学生のときから『うちの娘はどうですか』なんて二十歳のお姉さまを紹介されちゃうんだぜ? これから先、俺が選べるものってどれくらい残ってんだろうな」


――籠の中の鳥。だからぴーちゃん。


 変えられない「過去」に囚われて生きる私と、逃げられない「未来」が待つ瑛輔くん。

 私たちは、よく似ている。

 だから瑛輔くんは私を「ぴーちゃん」と呼んだんだ。なのに、私は瑛輔くんが「ぴーちゃん」であることに気付かなかった。

 それは大人と子どもの差なのか、瑛輔くんと私の差なのかは分からないけれど。


「沙耶さんには何も言わないの?」

「俺が沙耶に好きだって言うのって完全にただの自己満足だろ? あいつの気持ちをぐちゃぐちゃにかき回したあげく、どうしようもないんでさようなら、なんてさ」


 愛人になれってなんて言ったらぶっ飛ばされるだろうしな、と瑛輔くんは笑った。

 でも私は、沙耶さんだって瑛輔くんをただの腐れ縁の相手として見ているようには思えなかった。

 からかうような言葉や仕草の端々に、さっき瑛輔くんが沙耶さんを見ていた視線と同じ感情が潜んでいる気がする。それを無視することだって傲慢なんじゃないだろうか。


「ああ、ついでだから教えとくけど、ぴーちゃんだって俺の結婚相手候補なんだぜ」

「……はぁっ!?」


 想像もしていなかった打ち明け話に思わず変な声が出た。

 だって、私が……瑛輔くんと結婚?

 

「ぴーちゃんの親父さんはR製薬の重役だし、繋がっておけばこっちにも旨味があるってうちの両親も期待してるんだよ。家庭教師のバイトだって、その仕込みみたいなもんでさ」

「な……ない! そんなの、ないない! 有り得ないから!」


 ぶんぶんと大きく首を横に振って瑛輔くんから一歩遠ざかる。

 私にとって瑛輔くんは兄のような存在で、男女として付き合うとか、ましてや結婚とか……。今まで遥がしてくれたことを瑛輔くんがするってこと? ほんの少し想像しただけでゾッとする。

 そんなの無理、絶対無理!


「そこまで拒否されると俺だって傷付くんですけど。……俺は、別にそれでもいいって思ってたんだけどね。ぴーちゃんのことは嫌いじゃないし」

「ちょ、ちょっと瑛輔くん、何言ってんの!?」

「籠の中の鳥同士、二匹は永遠に籠の中で幸せに暮らしました……ってのが、誰も傷付かないハッピーエンドなのかなーってさ。でも、それはぴーちゃんが遥くんに会うまでの話」


 瑛輔くんが私の頭に手を乗せた。誰にでも容赦なく降り注ぐ無差別な太陽の熱とは違う、意思を持った柔らかい熱が伝わってくる。


「もうそろそろ気付いてんだろ? 遥くんに恋をしてるのはぴーちゃん自身だってこと。時間が経てば経つほど、苦しくなるのはぴーちゃんだよ」


 窓の向こうの沙耶さんが私たちに気付いて大きく手を振った。瑛輔くんはそれに手を振り返しながら「経験者からの忠告」と、苦笑した。


「カミングアウトついでに教えとくけど、普段の俺があんな服装してんのは沙耶に会いに行かないようにするためなんだよ。沙耶のやつ、あれ見たら大笑いして一生バカにしてくるからな」


 医学生としてはぶっ飛んだ瑛輔くんのあのファッションの理由に、私はその想いの深さを知ってしまう。だって、そうでもしなきゃ瑛輔くんは沙耶さんに会いに行ってしまうという意味じゃないか。

 そんな気持ちを、生まれた場所に閉じこめたまま消えていくのを待つだけなんて。

 おかしい。おかしい……けど、私に何ができるんだろう。


「瑛輔、遅い遅い! カレーあと少ししか残ってないから早く早く! 千佳ちゃん、どうしたの? またお腹すいちゃった?」


 ドアを開けた沙耶さんの向日葵のような笑顔が夏空の下、明るく弾けた。

 テーブルに着いた瑛輔くんと別れ、私はレジの横で売っていたプレーンとオレンジ、二本のパウンドケーキを買った。


「これね、私の手作りなの! 味の感想教えてくれたら嬉しいな。もうちょっと改良してお店の名物にするから」

「ちょっと沙耶、うちはレストランなんだからね」

「でもうちの店、ティータイムのお客さん少なすぎ! もっとスイーツとか珈琲とか力入れていかないと私が継ぐ前に潰れちゃうよ」

「そう簡単に潰れてたまるか」


 厨房から顔を出したおじさんがトレイで沙耶さんの頭を叩く真似をする。「まったくもう、この人たちは」とおばさんは呆れながら笑っていた。

 瑛輔くんは頬杖をつきながら三人を見つめている。その目はまるで映画のスクリーンを眺めているみたいだった。決して届かない、自分とは違う世界に憧れているような。


「大丈夫ですよ。沙耶も料理『だけ』は確かだから。この店をもっと流行らせてくれますよ」

「ちょっと引っかかる言いかただけど、まあ許してやろう。ほら食べて食べて」


 いつもの二人の軽快なやり取りが私の胸を詰まらせる。何かが飛び出してしまいそうで、私は「じゃあ、またあとで」と呟くと軽く頭を下げると店を出た。背後で、カラン、とカウベルがのんびりした音を立てた。

 別荘へと向かう帰り道、少しずつ歩幅が大きくなっていき、気が付けば走っていた。

 心臓が跳ねる。汗が流れる。

 そんな私が生きている証をすべて置き去りにしてしまいたくて、ワンピースの裾を翻して全力で走った。波の音がする。まとわりつくように、ずっと波の音がする。

 夏の日射しに焼かれて汗だくになった私が別荘のドアを開けると同時に、遥がリビングから飛び出してきた。


「どこ行ってたんだよ!」


 ものすごい剣幕で怒鳴りつけられて汗ばんだ体がびくりと跳ねる。いつも優しく微笑んでいるきれいな遥が目を吊り上げてにらみつける姿は恐ろしいほど迫力があった。

「これを、買いに」と、私がおずおずと差し出したパウンドケーキの入った紙袋を見て、遥は何か言おうと口を開いたが、わずかに視線をそらして大きく息をついた。


「……今度からは一人で行かないこと。俺も一緒に行くから、ちゃんと声かけて。」

「う、うん。ごめんなさい」


 だって寝てたから、と言ってはいけない空気だった。でも、こんなに怒らなくてもいいのに、と私の胸にほんの少し不満が残った。

 わずかな沈黙のあと、遥の表情がふっと緩んだ。いつものように世界を彩るきれいな「特別」な笑顔。


「暑かっただろ。すごい汗」


 遥の指先が私の額に貼りついた前髪をすくいとる。右の生え際をそっと撫でられたとき、私はハッとして一歩後ずさった。細めた目に優しさをたたえて、遥はもう一度、私の額を撫でる。


「傷、一生消えないのかと思ってた。あのとき痛かっただろ。まもってやれなくてごめんな」


――これはねぇ、わたしとはるかのひみつなの。


 チーと遥をつなぐ二人だけの秘密に、私はどんな嘘をついたら紛れこめるんだろう。

 私がいない、二人だけの過去。二人が過ごした私の知らない時間に、私がいたことにできるんだろう。

「あ、チッカ戻ってきた」と瑞希がリビングからひょっこりと顔を出して、どこかぎこちない空気が和らいだ。


「勝手に出歩いちゃダメだよー? 遥くんめっちゃ心配してたんだから!」

「それは瑞希ちゃんが『今ごろナンパされてたりして』とか『えーすけ先生と愛の逃避行中かも』とか、さんざん遥くんを脅かしたせいじゃないかな。探しに行くって飛び出していこうとする遥くんを止めるのは、なかなか大変だったよ」

「……二人とも。デリカシーとかないんすか」


 遥の頬がうっすらと赤く染まり、私の胸にくすぶっていた不満が途端に温かいものに変わる。

 どうして私の心は遥に振り回されてしまうんだろう。ちょっとしたことで右往左往して、痛みを覚えて、舞い上がって、しょぼくれて、柔らかくなる。まるで私のものじゃないみたい。なのに……。


――もうそろそろ気付いてんだろ? 遥くんに恋をしてるのはぴーちゃん自身だってこと。


 瑛輔くんの声が頭をよぎった。

 そんなわけないって振り切るために全力で走ったのに、どうやっても「私」がついてくる。

 汗をかいて、心臓を鳴らして、息を弾ませて、遥の声に胸をときめかせてしまう「私」が。

 瑛輔くんと沙耶さんの伝えられない想い。

 私のじゃないはずの、私の想い。

 この想いの行く先が分からない。

 桐原先輩がぼうっと立ち尽くしている私の手からパウンドケーキの紙袋を受け取って、にっこりと笑った。


「千佳ちゃんは愛されてるね。さ、せっかくだし、お茶にしようか」

「じゃあそのあとでビーチバレーしましょーよ。夜のバーベキューに備えてお腹すかせておかないと! あたし、午前中にボール買っておいたんだ」

「だったらケーキをやめたほうがいいと僕は思うけどね」

「甘いものは別腹なんですー。ぶちょーはちっとも分かってないなぁ」


 くだらない会話をしながらキッチンに向かう二人の後ろで、遥が私の耳元に唇を寄せた。


「もう一人でどっか行くなよ。俺が、ずっと千佳を守るって約束しただろ」


 ねえ遥、その「ちか」は私じゃないんだよ。

 膨らみ始めた「私」が、心の中でそう呟いた。

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