海へ 2
午後三時から六時までみっちりと(瑞希いわく)地獄のような勉強会を終えた私たちを連れて瑛輔くんが向かったのは、別荘から歩いて十分ほどの距離にある小さな洋食レストランだった。
レトロなフォントで「SAYA」と書かれた看板がニチニチソウやマリーゴールド、ケイトウなどが咲き誇る花壇に立てられている。
ドアには「本日貸し切り」という札が掛かっていたが、瑛輔くんは中をうかがう様子もなく、自分の家に帰ってきたみたいに躊躇なく開けた。カラン、とのんびりしたドアベルの音と一緒に、はつらつとした声が飛んでくる。
「いらっしゃいませー! やだ、瑛輔ってばずいぶん可愛い子たち連れてきたのね。なんか引率の先生みたい!」
「うるせー、沙耶。俺は、まさに、その引率の先生としてここに来てんの」
「あーやだやだ。瑛輔のくせに偉そうにしちゃって。ねえ、あなたたちもそう思わない?」
「こら。変なこと吹き込むんじゃねーよ」
沙耶と呼ばれた女性は瑛輔くんに「いーだ」と歯を見せてから、私たちに向かってにっこりと微笑んだ。焼けた小麦色の肌に白いTシャツがよく似合っている。胸元にひまわりの刺繍がされた紺色のエプロンを着け、ショートカットの黒髪が揺らして弾むように歩く姿は、なんとなくゴムまりを連想させた。
「おい沙耶、いつまで入口で騒いでるんだ。お客様をお待たせするんじゃない」
「みなさんどうぞ。今日はとっておきのディナーを用意していますから。沙耶、席にご案内して」
厨房から顔を出した白いコックコートの男性と、沙耶さんとお揃いの紺色のエプロンを着けた女性には、沙耶さんの面影があった。
「もしかしてご家族ですか? お店の名前もSAYAですし」
探偵よろしく桐原先輩が尋ねると、おばさんは「あらやだ。親馬鹿がバレちゃうわね」と、ころころと笑った。
「お母さん、余計なこと言わないの。はい、みなさんこちらですよ!」
沙耶さんに案内された店の奥には赤いチェックのテーブルクロスが敷かれた大きなテーブルがあり、人数分の白いナプキンとカトラリーがすでにセットされていた。ゆらゆらと揺れるテーブルキャンドルの火が幻想的な雰囲気を演出している。
「今日はあなたたちだけの貸し切りだから、思いっきり騒いでもオッケーだからね。さっすが、ボンボンはやることが違うわよねー」
「沙耶、お前なぁ――」
「さて! ただいまスープをお持ちしますので少々お待ちくださいませ、お客さま」
わざとらしいほどうやうやしく頭を下げたあと、ぺろりと舌を出した沙耶さんは、瑛輔くんが何か言うより早く軽やかに身を翻してキッチンに姿を消してしまった。
「瑛輔くん、沙耶さんと仲がいいんだね」
「ぴーちゃん勘弁してよ。沙耶とはガキの頃からの腐れ縁ってだけ。親父さんの料理は絶品だからさ。昔からここの別荘を使うときは必ず来てたんだ」
瑛輔くんはぶっきらぼうに言うと、がぶりと水を飲んだ。
きっと昔からずっと今みたいに沙耶さんにやり込められていたんだろうな。そんな二人の姿が容易に想像できて、私はそっと笑いをかみ殺した。
沙耶さんとおばさんが運んできてくれたビシソワーズは、冷たくて滑らかな口当たりが心地よく、とても美味しかった。長距離ドライブと(瑞希いわく)地獄のような勉強会でくたびれた心と体に染み渡っていく。
「すごく美味しいです」
「でしょ? お父さん、腕はいいのよ。……愛想はないけどね」
器を下げに来た沙耶さんはいたずらっぽく笑うと、厨房のほうをうかがいながら私たちにこっそり囁いた――が、すぐさま「聞こえてるぞ」という声が飛んできた。「いけない。叱られちゃった」と肩をすくめて舌を出す沙耶さんに、おばさんが「まったくもう」と呆れたようにため息をつく。
三人の押し付けがましくない人懐っこさや店を満たす温かい雰囲気が、慣れない場所にどこか緊張していた私たちの心を少しずつほぐしていった。
そして、私たちが夏野菜のサラダと自家製のパンを食べ終えるころには、沙耶さんはすっかり私たちの一員になっていた。
「沙耶さんと瑛輔さんは同じ歳なんですね」
「そうだよ。瑛輔はこう見えて賢いから医大なんか行ってるけど、私は調理系の専門学校に通ってるんだ。いまは夏休みで帰省中」
「こう見えて、は余計だ」
「だってさー、瑛輔がこれからお医者様になるなんて信じられないもん。膝すりむいたくらいで、ぎゃーぎゃー泣いてたのに」
「いつの話してんだよ。ほら、親父さん呼んでるぞ」
「はいはーい。メインディッシュはお父さんの得意な牛肉のカツレツだよ。すっごく美味しいから楽しみにしててね」
ぱちりとウインクを残して厨房に向かった沙耶さんの後ろ姿に、瑛輔くんが「……あいつはホント、変わんねーな」と呟いた。
ラスト一つのパンを取り合ってじゃんけんしている瑞希と桐原先輩と、サラダの器に残った苦手なトマトをフォークの先でつついていた遥には、その声はきっと聞こえなかっただろう。
沙耶さんが言ったとおり、牛肉のカツレツは絶品だった。
一瞬で空になった皿を見つめる遥があまりにもしょんぼりしていたから、断腸の思いで一切れ分けてあげた。瑞希は桐原先輩から一切れ分捕ってたけれど。
舌先でソースの味を反芻していると、おばさんがワインの瓶を手にやって来た。
「瑛輔さん、お酒飲めるようになったんでしょ? ちょっといいものが手に入ったんだけど、よかったら少しいかが?」
「いや、俺、今回はこいつらの保護者代わりなんで。遠慮しておきます」
「そんなこと言って、ホントはお酒飲めないんでしょ。瑛輔はまだお子ちゃまだもんね」
挑発するような沙耶さんに、瑛輔くんがムッとした顔になる。
いつもはこんなじゃないのに。
本当はちょっと皮肉屋だけど、外面がよくて大抵のことはうまく流せるのが瑛輔くんなのに、今日はなんだか子どもみたいだ。
「なんでそうなるんだよ」
「へー、じゃあ、あとでどっちが強いか勝負しようじゃないの」
突き付けられた挑戦状を受けて瑛輔くんは「おう」と一瞬前のめりになったが、私たちの存在を思い出したのか、すぐに「いや、それは」と言葉を濁した。
そこに助け舟を出したのは遥だった。
「夜は俺たち、大人しく部屋にいますんで瑛輔さんは自由にしてください。文芸部の合宿なんだし、監督責任なら部長にもあるでしょ。普段は何もしてないんだから、こういうときくらい働かせないとおかしいですから」
「なんだか言いかたに棘がある気がするけど、まあその通りかな。瑛輔さん、僕にお任せください」
「よっ、さすがぶちょー!」
瑞希がぱちぱちと手を叩き、どっとみんなが笑ったあと、沙耶さんは「約束ね」と瑛輔くんの肩にするりと手を滑らせた。
デザートはグレープフルーツのソルベ。きゅっとする酸味と少しの苦みがこってりしたソースや肉の脂をスッキリさせてくれる。食後の紅茶を飲みながら、私たちは満ち足りた気持ちでほうっと息をついた。
「貸し切りは今日だけだけど、ここにいる間、みんなの食事はぜーんぶ私たちが面倒見るから安心してね」
私と瑞希は顔を見合わせた。その表情から「ここにいる間に太っちゃうかも……」と同じことを心配しているのが分かった……。
SAYAからの帰り道、朝まで女子トークしようね! と意気込んでいた瑞希は、なんだかんだで疲れていたらしく、シャワーを浴びてベッドに横たわるとすぐに眠ってしまった。
まったくもう、と電気を消して私もベッドに入った。暗闇に瑞希のかすかないびきと遠く波の音がする。私の体は眠りに落ちていきたがっているのに、頭の芯が覚醒を手放さない。意識と体がずれていく。眠りと現実の狭間で私はチーの声を聞いた。
――もういいかい。
まーだだよ、と答える私の声は今よりずっと幼かった。
寝返りを打つとシーツが足に絡まり、タオルケットの毛羽立ちが滑って肌を刺激する。
――かさかさ、しゃらしゃら。
飛び込んだ暗闇。
まとわりついてくるものが音を立てる。
――もういいかい。
まーだだよ。
ざざん、と波の音が聞こえる。ふわふわと体が浮くような感覚。
――もういいかい。
もういいよ。
笑いを含んだ幼い私の声がそう答える。階段を下りる足音。ドアが閉まる音。
だめ……だめだよ。止めなくちゃチーが消えてしまう。
睡魔がゆっくりと、けれど確実に私の意識をぼやけさせていく。
――かさかさ、しゃらしゃら。
――ざあざあ、ごうごう。
――千佳ちゃん! よかった、あなたじゃなかったのね!
ーー千佳、分かるね。
ーーどうして!
チーは、チーはどこ……?
チーとカー。私たちは二人で一人。一人だと、半分。
ざざん……ざざあん、と波の音がすべてをかき消して、私の意識は黒く塗りつぶされていった。
******
朝七時、ひどい二日酔いでフラフラと起きてきた瑛輔くんはまるでゾンビのようだった。朝食のスモークサーモンとアボカドのオープンサンドと野菜スープを運んできてくれた沙耶さんが、腰に手を当てて呆れた顔をする。
「まったくもう、だらしないんだから。保護者代わりが聞いて呆れちゃう」
「うるせー……化け物か、お前は」
野菜スープを一口だけ飲んだ瑛輔くんは、私たちに向かって「今日は一日まるまる自由時間! 俺は寝る!」と、宣言して、よろよろと自室に戻っていった。その後ろ姿を見ながら、沙耶さんは「あらら」と笑った。
「昼食は十二時から二時の間にお店で用意してあるから。そんで、夜六時になったらここのテラスでバーベキューの予定となっておりますので、あとはあんまり羽目を外し過ぎて瑛輔を困らせないように!」
引率代理よろしく私たちにそう言い渡すと、沙耶さんはお店の手伝いがあるからと帰っていった。
瑞希が両手を上げてぴょんと飛び跳ねて「よっしゃ! みんな、急いで準備しよーよ」と言い、桐原先輩も「そうだね、せっかく来たんだし」とうなずく。
「準備って、なんの準備?」
「海に来てるんだからやることなんて一つしかないでしょ! チッカの水着どんなの? あたしはねー……」
「水着なんて持ってきてないけど」
私の返答に瑞希が世界の終わりでも目撃したみたいに愕然とした顔をする。
「ええっ! なんで?」
「なんでって、私、海は嫌いだし、入りたくないから」
私からチーを奪ってしまった海なんて大嫌い。足の先だって触れたくない。
「え?」と疑問の声を上げたのは、瑞希じゃなく遥だった。不思議そうに私を見るその目に、額の右側が――チーに傷があった場所が疼いた。私のそこには何もないのに。
「昔は海、好きだったろ?」
――カー。わたしね、海で泳ぐの初めてなんだ! プールとちがうのかなぁ。
チーは海が好きだった?
泳いだことはないって言っていたけど、もしかしてあれはチーの嘘だったのかな……。それともチーが嘘をついたのは遥のほうで、私のほうが本当なの?
ああもう、分からない。
私が知っているチーと遥が知っているチー。ときどきその二つはうまく重ならない。どっちが「本当」のチーなの?
ねえ、チー。分からないよ。チーとカー、私たちは二人で一人、だったはずなのに。
「……そうだったっけ。とにかく、水着はないし、私は適当にやってるよ。みんなは気にしないで遊んできていいから」
とりあえずそう誤魔化して部屋に戻ると、私はベッドに横たわって目を閉じた。
いつもの癖でマットレスの下に手を差し込んでノートを探したけれど、当然見つかるわけがない。ここは私の部屋じゃないんだから。けれど、私の手は探り続けた。あのノートに詰め込んだチーに触れたかった。触れて、安心したかった。
チーがいない。海のにおい。波の音。重ならない私のチーと遥のチー。そのすべてが不安となって私を追い立てる。
窓の外から遠く波の音がする。まるで、絶対逃がさないとでも言っているみたいに、ずっと、ずっと、とどろき続けている。
******
波打ち際できゃあきゃあとはしゃぐ水着姿の瑞希と桐原先輩が、木陰で座り込んでいる私に手を振っている。手を振り返して、はあ、と何度目かのため息をつく。やっぱり、部屋にいればよかった。
昼が近付いて太陽の日射しが強さを増していく。日焼け止めを塗っているとはいえ、ちりちりと肌が痛んだ。
泳がなくてもいいから、と瑞希に強引に引っ張ってこられた私は、ただひたすらに砂浜に意味のない模様を描いては消す、を繰り返して時間を潰していた。
「ひゃっ!」
突然、頬に冷たいものが触れて思わず飛び上がる、振り返ると、いたずらっぽく笑う遥が、ペットボトルのスポーツドリンクを手に立っていた。
「水分補給しないと、熱中症で倒れるぞ」
「……ありがと」
遥は私の隣に座り、私に手渡したのと同じスポーツドリンクを一口飲んだ。
紺色のサーフパンツにグレーのパーカーを羽織った遥を、横目でちらりと見る。
着飾るものがなければないほど、遥自身の美しさがよく分かる。さっきまではただ肌を焼くだけだった日射しが、急にきらきらと輝き始めた気がした。
「なんで海を嫌いになったの?」
遥の質問に息が詰まった。本当のことは言えない。特に、遥には言えない。
「小さいころは気にしてなかったけど、海っていろんな生き物がいて、いろんなものが垂れ流されたでっかい水たまりみたいなものだから」
さっきからずっと考えてようやく生み出した私の苦し紛れの嘘に、遥は「なにそれ」と噴き出した。
遥と一緒に笑いながら、私は胸のなかで呟く。
私が海を嫌いになったのは、なんでも飲み込んでしまうからだよ。
「私はいいから、遥はみんなと遊んできたら?」
「彼女のこと、放っておけないだろ」
「……それ、ホントに言ってる?」
遥の口から出た「彼女」という甘い響きに少しときめいたのは事実だけれど、心のどこかが納得していない。遥と想いが通じ合ったはずなのに、前よりもどこか距離を感じてしまう。
その原因は私がニセモノだから? 私がチーじゃないから、遥との距離がなくならないのかもしれない。
「あー……、やっぱ千佳にはバレちゃうか。これは言いたくなかったんだけどな」
遥が神妙な顔をして声のボリュームを落とす。日射しが遮られて暗い影が落ちて、私の内側がひやりと冷たくなった気がした。
いったい何を言われるんだろう。心臓が嫌な音を立てた。
「実は……俺、カナヅチなんだよね」
突然の告白に、今度は私が噴き出す番だった。まさか完全無欠の遥に、そんな弱点があるなんて。
「笑うなよ」と唇を尖らせる遥の横で私は笑い転げた。こんなに海が近くにあるのに笑えるなんて。
ごめんね、チー。私はすごく薄情だ。
いつだって「今」が「過去」を押し流そうとしてくる。必死にしがみついて、食らいつかないと、チーを忘れてしまうんじゃないかって怖くてたまらなくなる。
でもチーを忘れることなんかできない。そんなの、許されない。
だって、私は――。
「ちょっと散歩でもしようぜ。カナヅチでもそれくらいはできるからな」
遥が差し出した手を取って立ち上がる。
砂浜を歩いていると、子どもたちが波打ち際で砂山を作って遊んでいるのに遭遇した。
「そういえば、よく一緒に砂場でああやって遊んだよな。千佳はトンネル通すのうまかったけど、俺は雑だからいっつも崩しちゃって叱られたっけ」
「……そう、だね」
遥が口にする「ちか」は私じゃなくてチーのこと。
そんなの分かり切っているのに、うなずく前にためらってしまったのは、不意に浮かんだ言葉を飲み込まなくちゃいけなかったから。
『私もね、トンネル通すのうまかったんだよ。チーだって褒めてくれたんだから』
潮風が吹く。なびいた前髪を慌てて押さえた。
チーになろうと思ってた。チーがするはずだった恋を、遥としようと思っていた。
だけど、私のなかにいるチーがどんどん小さく、遠くなっていく。そのぶん「私」がどんどん大きくなる。抑え込もうとする手をはねのけて無尽蔵に膨らんでいく。
チーとカー。私たちは二人で一人。一人なら半分。
ねえ、そうでしょ。チー。これからもずっとそうじゃなきゃいけない――そうじゃなきゃ、許されないよね?
だって、私は、チーを――。
チーを、殺してしまったんだから。
砂遊びに飽きた子どもたちは、流木を振り回しながら駆けていった。取り残された砂の山は、波に削られてかたちを変えて、最後には跡形もなく消えた。




