3
遥の登場に三人――特に吉田さんは、分かりやすく慌てていた。
昼休みに私たちの話を盗み聞いて、遥がいない隙を狙ってこんな計画を実行したんだろうけれど、遥は約一時間の『石倉ゼミ』が終わればやって来るのに。そんな当たり前のことさえ分からなくなるくらい、教室の隅に追いやられた女王様一派は狂っていたのか。
「ち、違うの、遥くん。ほら、ちょっとこれ見て。近藤さんって昔こんなだったの。だから――」
「どいて。邪魔」
遥は、床に落ちたスマートフォンを拾おうとする吉田さんを押しのけて、私たちのもとにやってきた。きれいな顔が痛みをこらえるように歪んでいる。
「……二人とも、大丈夫?」
遥に手を借りて立ち上がると手のひらと膝にチリっと痛みが走った。さっき転んだときに擦りむいたらしく、うっすらと血がにじんでいた。それを見て瑞希がまた青くなる。
「ごめん、あたしのせいで、チッカが」
「大丈夫。瑞希のせいじゃないよ」
私が吉田さんたちに視線をやると、西岡・伊東コンビはあわあわして「え、絵里奈ちゃん」「どうしよう」と吉田さんにすがりついた。吉田さんは一瞬苦々しい顔をしたけれど、すぐにあの完璧スマイルに戻った。
「なんか私たち、悪ノリしすぎちゃったかも。澤野さん、近藤さん、気を悪くしたならごめんね」
口では謝罪しながら、吉田さんはさり気なくスマートフォンを回収して指を滑らせ、画面を遥に向けた。かわいらしい笑顔に悪意をにじませて、遥にすり寄る。
「でもさ、遥くん見てよこれ。これが近藤さんの昔の姿なんだって。おっかしいでしょ? 私も最初見たとき別人過ぎて笑っちゃったもん。ね、見てよ、ほら」
いい加減にして、と私が言うより早く遥が吉田さんのスマートフォンを叩き落とした。再び落下したスマートフォンは小さくバウンドして床を滑っていく。バキっ! と、もう再起不能かもしれない音がした。
「え、ちょ……遥くん?」
「あんたたちさ、悪ノリしすぎちゃっただけなんだよな。だったら、仕方ないよな」
「で、でしょ? 二人にはホントに悪かったなって反省してる――」
「うん。そんで、俺もこれから悪ノリするけど許してくれるよな」
「え?」
遥が抱えていた『石倉ゼミ』のプリントが宙を舞った。私たちがそれに気を取られて上を見たとき、ガン! と思わず肩を跳ねさせるくらい大きな音、「きゃあ!」という短い悲鳴、それから何かがぶつかって倒れる音がした。
吉田さんたちが身を寄せ合って震えるすぐそばに机が転がっている。どうやら遥が蹴飛ばしたらしい。
「これって悪ノリしすぎ? まあいっか。謝ったら許してくれんだろ? ごめんごめん」
口の端を歪めてにやりと笑った遥に背筋がぞくっとした。
怒りに燃える目はすべてを焼き尽くしてしまいそうなほどの熱を放っているのに、纏う空気はどこか冷たく、触れたら切れてしまいそうだった。
「千佳たちになんかいろいろ言ってたけどさぁ、あんたたちこそ道徳の教科書でも読んだほうがいいんじゃない? その捻じくれまくった性格も少しはマシになるかもよ」
遥の蹴りで飛んでいった椅子が西岡さんのすぐ横を掠め、倒れた机にぶつかって派手な音を立てる。他の教室に残っていた数少ない生徒たちが騒ぎを聞きつけたらしく、にわかに廊下が騒がしくなってきた。
「は……遥くん。もうやめて。ね、お願い。そんな遥くん、私……怖いよ」
か細い声で呟きながら一歩進み出た吉田さんは、遥の腕にそっと触れた。そしてうるうると潤んだ目で見上げ、小首をかしげる。
モテテクの教科書、二ページ目に掲載されるような「あざとい」仕草。吉田さんみたいな可愛い女子にやられたら普通の男子はイチコロだろう。けれど、遥は「特別」だ。
吉田さん必殺、起死回生のあざとさを一瞥して鼻を鳴らすと、その手をあっさりと振り払った。
「あっそ。ごめんね」
遥は、上目遣いを続ける吉田さんのすぐそばにある机をノールックで思いきり蹴飛ばした。教室に三度響いたクラッシュ音に伊東さんが「ひっ」と声を漏らす。
予想もしていなかった遥の粗暴さに呆気に取られて固まっていた私は、ようやく目の前の出来事を正しく理解して遥に駆け寄った。
「遥、もういいよ」
吉田さんたちなんてどうなっても構わないけれど、遥がこの状況の責任を問われることになるのは避けたい。この人たちは、私たちの預かり知らぬところで存分に不幸になればいい。
「よくない」
「もういい。遥がこんなことしなくていいから」
「いやだ」
駄々をこねるように遥は首を横に振った。きゅっと唇を噛んでうつむくその姿は、どことなく子どもっぽく見えた。
「俺が、千佳を守るって約束したのに」
「私は大丈夫。瑞希も、もう平気?」
私に負けず劣らずフリーズしていた瑞希も、私の問いかけにハッとしてこくこくとうなずいた。
私は床に転がっている吉田さんのスマートフォンを拾い上げた。画面にヒビが入っていたけれど、電源ボタンを押したらちゃんと起動したし、これくらい許されるはずだ。
「ロック解除して。瑞希の写真、いま撮ったのも昔のも全部消すから」
吉田さんは憎々しそうににらみつけてきたけれど、私の後ろに立つ遥ににらみ返されたらしく、慌ててスマートフォンを操作した。
ここに入っているデータを消したところで、どこからかまた手に入れてくるかもしれない。それでも消したかった。少なくとも、いま吉田さんたちの手の中に瑞希のかけらを残しておきたくなかった。
「……消した」
「見せて」
「消したって言ってるんだからいいでしょ!」
「確認もせずに信じられると思う?」
「いいから寄越せよ」
抵抗する吉田さんに焦れた遥が、強引にスマートフォンを奪い取って私に渡した。私がスマートフォンを操作しているあいだ、吉田さんは、あ、あ、とうろたえたような声を漏らし続けていた。
「……え、なにこれ」
顔を引きつらせた私に、瑞希と遥が横から画面をのぞき込み、そして同じように顔を引きつらせた。
画面にずらりと並んでいたのは、瑞希ではなく、小学校、中学校、そして星山高校、各時代の遥の写真だった。
半そで半ズボンで鉄棒にぶら下がってる姿、運動会のリレーでの姿、学ランで応援団をやっている姿、遠足で友達とお弁当を食べている姿、文化祭でドラキュラの仮装をしている姿など、さまざまな遥がそこにいた。
学校内の姿だけじゃなく、コンビニで飲み物を選んでいたり、信号待ちしながらスマートフォンをいじっていたり、本屋で立ち読みしているたりする校外での遥の姿もあった。
恋する女の子の隠し撮り、なんて可愛らしいものじゃなく、このラインナップはもはやストーカーの域だ。
「気持ちわりぃ……」
遥が思わず、といった様子で呟いた。私は遥の昔のアルバムを見ているようでちょっと楽しいけれど、本人にしてみたらそうなるよね……と、ちょっとかわいそうになる。
「この写真、どうしたの?」
「べ、別にいいでしょ! 私は遥くんのこと好きだったんだから、写真くらい……」
「なんか怪しい。他にも何か隠してるんじゃない?」
そう言いながら私はメッセージアプリの画面を開いた。ずらずらと並ぶトーク履歴の中からめぼしいものをいくつかタップして遡る。そして、ある履歴を目にしてスクロールする指が止まった。
「……これ見て」
そこには『一枚500、二枚800、三枚なら1000でいいよ』『じゃあ三枚』『おけ』というやり取りがあって、そのあとに三枚の画像データが送られていた。添付されたデータを開くと、それは遥の画像で……。
「あ」
「うわっ」
よりによって一枚目にはジャージに着替える途中、もしくはジャージから制服に着替える途中の上半身裸の遥が映っていて、慌てて目を逸らした。
な……なんてものまで撮ってるのよ! 顔がカッと熱くなって心臓が爆速で鼓動を刻む。
「これってつまり……吉田さんは遥の写真を誰かに売ってたってこと?」
推測を口にすると、遥と瑞希、さらに西岡さんと伊東さんも後ずさって吉田さんから距離を取った。
「絵里奈ちゃん……?」
「ち、違うよね? だって絵里奈ちゃん、藤原くんのこと好きだって言ってたじゃない。それなのに写真売るとかしてないよね?」
「これは……その……」
吉田さんは、助けを求めるように右へ左へ視線を動かして、出来損ないの引きつったスマイルを浮かべる。女王様の余裕も貫禄も消え失せたその姿は、多少なりとも憐れみを誘うものだった。
「違うの。みんなが私の好きな人を知りたいって言うから見せたら、カッコいいね、その写真欲しいって言われて……譲ってただけで」
「けっきょく売ったってことだろ。お前、まじで最低だな」
遥がため息をついたとき、廊下のざわめきを切り裂くようなきびきびとした足音がして、塚本先生が教室に入ってきた。温度を感じさせない目で机と椅子が散乱した教室をぎろりと見回したあと、
「澤野、説明しなさい」
と、なぜか私に言ったのだった……。
******
塚本先生による事情聴取が終わり、職員室から解放された私たちは同時に大きく息をついた。「あー……最悪だった」と遥がこぼした一言が私たち全員の気持ちそのものだった。
「さっさと帰ろうぜ。千佳の門限とっくに過ぎてるし」
「そうだね、急がなくちゃ」
「あ、あの! ごめん!」
歩き出した私と遥に向かって、瑞希が深々と頭を下げた。ミルクティーベージュの頭頂部は一センチほど黒い部分があった。私は派手な髪色の瑞希しか知らないけれど、その黒は瑞希がずっと隠したかった部分なのかもしれない、と思った。
「あたし、ずっと変わりたかった。だから、あたしのことを知ってる人が誰もいないこの学校に入って、全部なかったことにして新しく生まれ変わろうって決めて頑張ったの。嘘ついて、ごまかしていればそのうち、こっちのあたしが『本当』になるって信じたかった」
嘘が本当になる。
瑞希の言葉がなぜか私の胸に突き刺さった。
だけど、私の嘘は本当になんかなるわけない。どんなに時間が経っても、私はチーのニセモノでしかないんだから。
「前にちょっとだけ話したけどさ、うち男兄弟ばっかなの。で、あたしも一緒くたにして育てられた。小学校まではそれでもよかったんだけど、大きくなっていくにつれて、みんなは何ていうかちゃんと『女の子』になっていったのに、あたしは取り残されちゃったの。服装とかメイクだけじゃない。使ってるシャンプーとか、ハンカチの柄とか、髪を結うゴムとか、食べるもの飲むもの、そういうとこからもう、あたしとぜんぜん違ってた。ブクブク太って肌も汚くなって、もういやだ、変えたいって言ったんだけど、親も兄弟も『まだ子どもなんだしそのままでいいじゃん』しか言わなくてさ」
そのときのことを思い出したのか、瑞希はちょっと唇をとがらせた。
瑞希が持ってくる彩り皆無の食欲を満たすことを優先した茶色のお弁当。きっと瑞希の家庭はあんなふうなんだろうな、と想像する。生きていければいいという潔さは快いものではあるけれど……。
オレンジ色の爪。ミルクティーベージュの髪。灰色のカラーコンタクト。短いスカート。
あの派手な格好はきっと、そんな生きるためだけの潔さに瑞希が添えた彩りだったのかもしれない
「せめて仲間に入りたくてお調子者キャラなんかやってみたんだけど、めっちゃ空回りしちゃってさあ。みんなに煙たがられて、無視されて、一人になって、三年になったときから教室に行けなくなっちゃった」
瑞希は、はは、と小さく笑った。その弱々しい笑いは瑞希にあまり似合わなかった。
私が知っている瑞希は、いつもウザいくらい元気で明るくて、人のテリトリーなんかお構いなしにぐいぐい距離を詰めてきて、怒ったり笑ったり大忙しで――。
瑞希が語る過去と、私が知っている瑞希は、うまく結びつかないけれど、それでも、その二つは間違いなく繋がっていて、近藤瑞希という一人の人間なんだ、とそんな当たり前のことに気付く。
「でも、入学式でチッカのスピーチに感動したっていうのは本当なの。それだけは信じて。あたし、あれ聞いて、あたしだって負けるもんかって思ったの。だから……チッカの友達になりたかった。ずっと嘘ついてて、迷惑かけて、ごめんなさい」
瑞希がもう一度、深く頭を下げた。ぎゅっと握りしめたスカートのチェックが歪んでいる。
「瑞希は嘘なんかついてないじゃない。今の瑞希も昔の瑞希も、どっちも本当でしょ? それに、迷惑をかけてきたのは向こうなんだし」
「そうそう。瑞希ちゃんは俺と千佳の大事な友達なんだからさ。ああいうときは怒らせてよ」
「遥はちょっとやり過ぎ。反省しなさい」
「……ごめん」
私たちのやり取りに瑞希がようやく笑った。握りしめていたスカートのチェックがほどけて、揺れた。
嘘をついているというのなら、私のほうがよっぽど嘘つきだ。
もし私の嘘がバレたら、私はきっと――。
「でも……助けに来てくれてありがとう。嬉しかった」
私がお礼を言うと、遥は「さんざん絞られたけどな」とげんなりした顔をした。
遥は塚本先生にこっぴどく叱られて、反省文の提出を命じられた。あれだけ大暴れして、それだけで済んだのは奇跡的でもある。
「お前が悪いとは言わない。しかし、暴力的な解決はあまりに短絡的だ。そこは反省するように」
懇々と遥に言い聞かせる塚本先生のレンズの奥の目はいつもよりずっと柔らかい気がした。
融通が利かない厳しいだけの教師かと思っていたけれど、あれでなかなか硬軟織り交ぜた優秀な教育者なのかもしれない。
「それにしても、チッカ、なんであの女が写真を売ってるって気付いたの?」
「うーん、なんだろう。女の勘ってやつかな」
瑞希と遥が、へえ、すごいね、と言い合っている横で、私はホッと息をついた。
実は、私が吉田さんの秘密をこんなにもうまく暴けたのは、瑛輔くんの情報のおかげだった。
――吉田絵里奈って名前、どっかで聞いたって言ってたろ? それ思い出したんだよ。実はね。ぴーちゃんのためにゲットした遥くんの写真の出どころが、その吉田って子なんだ。一枚五百円で買ったんだってよ。
私から「チーの代わりに初恋を叶える」というミッションの協力を頼まれた瑛輔くんは、探偵事務所でバイト経験のある後輩に「飲み代をおごる」という条件で遥の現状調査を依頼していた。その過程で手に入れた遥の写真が、なんと吉田さんから手に入れたものだった、というわけだ。
とんだところで私と吉田さんが繋がっていたものだ。世の中って狭いな、と実感させられる。
それをらずっ知ってからずっと、なんとかして吉田さんのスマートフォンを手に入れられないかと思いあぐねていたけれど、遥や瑞希(ついでに西岡さんと伊東さん)という証人もいるところで中身を確認できたのは本当に運がよかった。
吉田さんは、おそらく最低でも停学処分。これで女王様は完全に失脚だ。
「千佳、怪我は大丈夫?」
やたらと朗らかな保健室のおばちゃん先生に「大サービスだよ!」と手のひらと膝にでかでかと貼られた絆創膏を見ながら遥が聞いた。その顔は、また痛みをこらえるように歪んでいる。
「平気だよ。ちょっと大げさすぎて恥ずかしいくらい」
「そっか。――ごめんな。俺、千佳をまもるって約束したのに、またダメだった」
また。
その言葉に引っかかりを覚えた。
また。
つまり、今回の件以前に、遥が「ちか」を守れなかったことが少なくとも一度はあったということだ。
でもその「ちか」は私じゃなくて、チーのほう。遥と約束を交わした、本物の「ちか」
前髪をそっと撫でつける。
――これはねぇ、わたしとはるかのひみつなの。
私にはない額の傷と何か関係があるんだろうか。
チーと遥だけの、私は知らない秘密がある。そして私はそれを知らない。
そう思ったら不意に泣きそうになった。
チーとカー。
私たちは二人で一人。だけど、チーは私が知らないものをたくさん持っていた。チーは、きっと一人でもちゃんと「一人」だったんだ。
半分だったのは私だけ。
嘘つきで、ニセモノで、どうしようもない、私だけが半分でこの世界に残されてしまった。
――やめて。
「千佳?」
立ち止まった私に、遥が振り返った。
「……遥」
夕日が沈んだ空が暗くなっていく。夜が来る。世界は色を失って、白と黒のモノクロに落ちていく。
――かさかさ、しゃらしゃら。ざあざあ、ごうごう。
いやだ。やめて。チーはどこ? チーは――。
――千佳ちゃん、あの子はもうどこにもいないの。だからもう忘れてしまいましょう。
「私ね、ずっと遥のことが好きだったの」
違う。チーは私の中にいる。ちゃんといる。いなくなったりなんかしてない。
だから、遥と一緒にいると胸が甘くときめいたり、締め付けられるように痛んだりするんだ。遥を好きだったチーの心が、ちゃんと私の中にあるっていう証拠。
チーが私の中にいるから――だから、私は遥に恋をしたんだ。
「――俺も」
私の唐突な告白に遥は笑ってそう答えた。そう答えるってなぜか分かっていた気がする。
よかったね、チー。
これで、ちゃんとチーの初恋が叶ったよ。
――わたし、はるかのこと大好きなの。世界でいちばん、大好き。
「えええっ! いま⁉ このタイミングで⁉」
瑞希の声が夜空にこだました。
******
「ダメ。もう転校しましょう」
学校から今日の事件について連絡を受けたママは、取り付く島もなく言い張った。
「ママ。私は大丈夫だから」
「いやよ。だって千佳ちゃん、怪我してるじゃない」
ママは、まるで自分に痛みが移るのを恐れるように、びくびくしながら私の膝の絆創膏に視線をやった。「みんな優しくしてくれるわよ~」と不必要なほどな大きさの絆創膏を貼ってくれたおばちゃん先生が恨めしい。
「そんなひどいところに千佳ちゃんを通わせるなんて、ママ我慢できない」
ママは両手に顔を埋めてわっと泣き出した。いつもこうだ。ママはいつもこうやって私のことを縛りつけようとする。
だけど、今日は違った。
今まではママの不安や悲しみは私の心に繋がっていたけれど、今日は、ママの感情と私の感情は完全に切り離されていた。ママが、母親という生きものじゃなく、一人の人間に見えた。
「ママ」
私から出たのは母親みたいな声で、こちらを見たママは子どものようにあどけない顔をしていた。
「私、友達のために頑張ったの。それに、私を助けてくれた人もいる。あの学校で、そういう大切な人たちができたの。だから私、転校なんかしたくない」
私がそう言うと、ママの両手がずるりと滑って、膝の上に落ちた。
「……パパと相談します」
ママが、こんな騒ぎになっても二階の書斎から出てこないパパのもとに行って、私は一人、リビングに取り残された。
ようやく人心地ついて、ほうっと息を吐く。今日は本当に大騒ぎの一日だった。
でも……私は今日、チーの初恋を叶えるという目的を達成できた。
よかったね、チー。これで……私のこと、許してくれる?
そのとき、まるで返事をするように家の電話が鳴って、私は飛び上がった。
私は、ママに「変な人からの電話だったら大変だから」とか「家にかかってくるのはママかパパのお仕事の電話だけだから」とか言われて、家の電話には出ないように、と言われていた。
パパの書斎にも子機があるはずだけど、話し合いが混迷を極めているのか、着信音は鳴りやまない。大切な電話だったら困るし……と、私はそうっと受話器を取った。
「もしもし」
受話器の向こうで息を飲む音がした。
「……もしもし?」
もしかしてこれが「変な人からの電話」なのかな、と思って、受話器を耳から離したとき、「カー?」と少し掠れた声がした。全身の毛穴がぶわっと開いた。呼吸が早くなる。
「……チー?」
震える声で呼びかけた。この世界から消えてしまったチーは、もう私の中にしかいないと思っていたのに。まさか――チーはまだこの世界のどこかにいるの?
「あんた、カーなの?」
これって――と思ったとき、階段を駆け下りてくる足音が聞こえてきた。まずい。
「おばさん! おばさんでしょ?」
私が叫ぶのと同時に、ママの手が伸びてきて電話を切った。しんとしたリビングには、私とママの弾む息の音だけが残った。




