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これは、私の恋じゃない  作者: ロジィ
瑞希の「嘘」
15/30

「ねー、チッカ。この英文うまく訳せないんだけど」

「バカ正直に頭っから訳していくからでしょ。まず一回最後までざっと目を通しなさい。訳すのはそれから」

「オカンか!」

「そのツッコミも間違ってる」


 二人きりのがらんとした教室は、人がいるときよりずっと声が響く。グラウンドから聞こえる運動部のかけ声と、校舎に薄く流れる吹奏楽部の演奏に包まれて、私と瑞希はどこか別の空間にいるような気がした。


「うちの高校ってさ、みんな帰るの早いよね」

「あー、部活やってない人たちは放課後、塾とか行ってるらしいよ。あとチッカみたいに家庭教師つけてるとか、ピアノとか英会話とか習いごとしてる人もいるし」

「そっか。みんな、頑張ってるんだね」


 机に突っ伏するようにして英文とにらめっこしていた瑞希がちらっと目を上げた。


「あたしはこの学校に入るのが目標だったけど、きっと他の人たちはもっと先を見てるんだよ。行きたい大学とかやりたい仕事とかさ。夢ってやつ?」

「そうやって努力してるのに、負けるつもりなんかない、なんて言われたら、やっぱりいい気はしないよね」


 新入生代表を勝ち取った目的は、遥との出会いを演出する瑛輔くんのシナリオに従っただけ。だけど、そのために私は、誰かの努力や夢、大切なものを踏みつけてしまったのかもしれない。

 誰に憎まれても、どんなことをしても、チーの初恋を叶えてみせると思っていたはずなのに、最近、心の奥がむず痒く疼くときがある。

 机の下で瑞希が私の足を優しく蹴飛ばした。


「でもあたしはカッコよかったと思う。チッカ、絶対に卒業生代表もやって伝説になってよね。あたしの友達すごいっしょ、ってみんなに自慢するからさ」


 チーを失った私には友達なんていらない。そう思っていたのに、気が付けば瑞希が隣にいるのが当たり前になっていた。本当は、瑞希が友達と呼ぶはずだったのはチーのほうだ。私はチーがいるべきだった場所にいて、チーの振りをしてるだけ。分かってる。ちゃんと分かってる。


「瑞希になら卒業生代表、譲ってあげてもいいよ」


 私が机の下で蹴り返すと、瑞希はぷぅっと頬を膨らませた。シャープペンシルの頭を私に突き付けて、魔法の杖でも振るみたいに小さく円を描く。


「チッカ、それ絶対ムリだって思ってるでしょ」

「うん」

「ひど! ちょっとくらい迷ってよー!」


 顔をしかめた瑞希に私が噴き出したとき、背後で教室のドアが開く音がした。

 遥が戻ってきたにしては早すぎる。誰か忘れ物でもして戻ってきたのかな……と振り返った私の楽観的な予測は、あっさりと裏切られことになる。


「テストも終わったばっかりなのに頑張ってるねぇ。さすが新入生代表とそのお友達」


 吉田さん、西岡さん、伊東さんが私たちのほうにやってくる。どこか芝居がかったゆったりとした歩みに、ずっと胸に巣食っている嫌な予感が強く脈打った。

 瑞希は嫌悪感を隠そうともせず、三人をにらみつけた。


「別にあんたたちに関係ないでしょ。ほっといてよ」

「そんなこと言わないでよー。今日は二人に謝ろうと思って来たんだから」

「そうそう。私たち、今まで澤野さんにも近藤さんにもひどいことばっかり言ってたでしょう? すっごく反省したの」


 西岡さんと伊東さんは胸の前で祈るように両手を組んだ。でも、その顔に浮かぶ笑みには謝罪の意思なんかちっとも感じられない。

 吉田さんは何も言わず、するりと瑞希の背後に回り込んだ。そして、瑞希の後頭部を滑って私に向けた大きな目を、見せつけるように細めた。


「お詫びに、今日は二人の友情を深めてあげる。隠しごとがあるのは、友達としてマズいでしょう?」


 吉田さんの甘い囁きに、私の心臓が大きく鳴った。

 まさか――私が、チーじゃないってバレた? 私は遥の幼なじみでも何でもない、ただの他人だって知られてしまった?

 背中に汗がにじんだのと同時に、遥と私が他人であるという当たり前の事実に気付いて胸が軋んだ。


「ねえ」


 吉田さんの指先が瑞希の肩をするりと撫でると、アイラインとマスカラに縁取られた瑞希の瞳が不安げに揺れた。


西中(にしちゅう)出身の、豚メガネさん」


 短く息を飲んだ瑞希の顔がさっと青くなった。グロスで艶やかに光る唇がわななくように震えてうつむくと、ミルクティーベージュの長い髪が肩からこぼれて、その表情を私から隠してしまう。


「あたし聞いちゃったんだよねー。西中にいたヤバいやつの話」


 西岡さんが机のそばにしゃがみこんで、うつむいた瑞希の顔を強引にのぞき込んだ。


「なんかぁ、すっごく地味で暗くてがさつで空気読めない眼鏡のデブがいたんだってぇ。そんなんだから、みんなに『豚メガネ』なんて呼ばれてたあげく、ハブられて不登校になっちゃったらしくてさぁ。かわいそうだよねぇ?」

「えーそんなの惨めすぎじゃん。あたしだったら生きてられないかもぉ」


 西岡・伊東コンビが歌うように妙な節をつけて話しているのは私のことじゃない。だったら……もしかして、それは……。

 吉田さんがスマートフォンの画面に素早く指を走らせ、表示した画面を瑞希の眼前に滑り込ませると、瑞希は「あ」とも「う」ともつかない小さな悲鳴をこぼした。その反応に満足したのか、最近は仏頂面ばかりしていた吉田さんの顔に久々の完璧スマイルが浮かんだ。


「この子がその『豚メガネ』さん。ほら、澤野さんも見てよ。ひっどいでしょう?」


 吉田さんがスマートフォンを向ける瞬間、瑞希が顔を上げて私を見た。そして、かすかに首を横に振る。

 けれど、逸らす間もなく視界に入ってしまった画面には、ぼさぼさの長い髪をひっつめにしてシルバーフレームの眼鏡をかけた野暮ったいセーラー服の女の子が映っていた。頬は、ぶつぶつとできたニキビのせいで赤らんでいて、なにか言いたげに薄く開いた唇は、乾燥して皮がめくれ、ところどころ血がにじんでいた。

 強引に自分を切り取ろうとしてくるカメラから逃れるように背中を丸めながらも、分厚い眼鏡のレンズの向こうから怒りを込めた目でにらみつけている太ったその女の子には、間違いなく瑞希の面影があった。


「これが、近藤さんなんてびっくりしちゃう」

「今と全然違うよね! こっちはなんかキモーい」


 西岡さんと伊東さんがにやにやしながら吐く言葉は薄っぺらいぶん、よく切れる。瑞希の心から流れる赤が見える気がした。


「二人ともやめなよ。近藤さんは自分のこと知ってる人がいないこの高校に来るためにすっごく頑張ったんだから。西中ってめっちゃ遠いし偏差値もそんなに高くないから、ここに進学する人いないもんね。ぜんぜん成績足りなかったのに、補欠合格で無理矢理滑り込んじゃうなんてホントすごい。尊敬しちゃう」


 拍手する吉田さんに合わせて、西岡さんと伊東さんも手を叩いた。ぱちぱちぱち……と空々しい音が、がらんとした教室に響く。


「勉強もダイエットもイメチェンも大変だったよね? 新しい場所で生まれ変わろうとしたんだもんね? 今までの自分をなかったことにして、新しい『近藤瑞希』になりたかったんだよね?」


 瑞希の耳元で甘く囁いた吉田さんが「そうだ!」と人差し指をぴんと立てた。 


「せっかくそんなに可愛くなったんだもん。この写真と今の近藤さんの写真、ビフォーアフターでSNSに載せて拡散しようよ。きっとバズるよ」

「絵理奈ちゃん、ナイスアイディア! いじめてたやつらを見返すチャンスだね!」

「澤野さんもそう思うでしょ?」


 否定しなきゃ。そう思っているのに声が出なかった。

 想像もしていなかった瑞希の過去に対する驚きのせいなのか、吉田さんたちの執念深さに恐れおののいているからなのか、私一人でどうやったらうまくこの場を逃れられるのかが分からないからなのか。

 たぶん、そのすべてが混ざり合って、私の機能をストップさせている。

 ねえ、チー。チーだったらどうする?  友達を助けてあげるときは、どうしたらいいの……?

 だけど、チーは答えてくれない。

 呆けたままの私に吉田さんは、ふん、と鼻を鳴らした。


「さて、撮影会始めよっか」


 その言葉が合図だったように、瑞希の両側から西岡さんと伊東さんが腕をつかんで強引に立ち上がらせて、窓際に引きずっていった。


「もっとスカート短くしようよ」

「シャツのボタンも外したほうがセクシーじゃん」


 二人の無遠慮な手が瑞希の制服に触れて、乱していく。

 瑞希が、やめて、と小さく身じろぎした。


「は? 聞こえないんですけど」


 吉田さんが威嚇するように大きな声を出すと、瑞希はびくっとして固まってしまった。

 誰かに踏みつけられて傷付けられた過去が、瑞希を縛っているようだった。


「だいたいさぁ、あんたたちみたいなやつらが遥くんの周りでウロチョロすんの、最っ高にウザいんだよね。あげくに調子に乗ってあたしのことまで見下してバカにするとか、身の程知らず過ぎて笑えるんですけど。絶対潰してやるから。あんたも。あんたも」


 吉田さんは瑞希を指さしたあと、私を指さした。その目は怒りに燃えている。

 窮鼠猫を噛む。

 弱い者を追い詰めたら思わぬ反撃に遭う、という言葉。

 でも、実際に追い詰めたら厄介なのは吉田さんみたいに強い者のほうだ。追い詰められることに心が慣れていないから。だから、少しずつ、ゆっくりと狂っていく。


――女王様は我慢と屈辱がお嫌いだからね。


 私の前で得意げに笑う吉田さんと、院長室に火を点けたお局さま。

 その行動の先に明るい未来が待っているはずなんかないって、少し考えたら分かりそうなものなのに、そんな理屈はもう通じない。

 だったら、どうしたらいいの? 私にできるのは嘘をつくことくらいなのに。一体どんな嘘をつけば、この場を切り抜けられるんだろう。


「はーい、じゃあ撮りまーす。近藤さん、もっとスマイルスマイル。せっかくの記念撮影なんだからさ。そんな顔じゃバズれないよ」


 私が考えている間に、吉田さんは瑞希にレンズを向けていた。スマートフォンの画面をタップすると、カシャっと軽い音がした。二人に抑え込まれた瑞希は顔を背けるのが精いっぱいのようだった。

 カシャッ。

 音がするたびに、そこにいる瑞希が薄く削り取られていくような気がした。

 ふらりと椅子から立ち上がった私に、瑞希が視線を向けた。

 灰色がかったカラーコンタクトに彩られた目が、画面の中にいた女の子と同じ目が、私を見ている。

 でも、あの目にあった怒りはそこにない。あるのは、もっと、ずっと、静かな、仄暗いもの。

「助けて」とも「見ないで」とも違う、その目に映る瑞希の心を知りたくて、私はじっと見つめ返す。


「じゃあ、次はちょっとスカートめくっちゃおっか」

「絵里奈ちゃん、変態ー!」

「ほらほら、モデルはカメラマンの要求に応えなきゃ!」


 きゃあきゃあと騒ぐ三人の声が遠くなる。

 ああ、そうだ。

 瑞希の目にあるのはきっと「諦め」だ。

 そう気付いた瞬間、そんなはずはないのに、瑞希がくれたメロンパンの香りが鼻先をよぎった気がした。


「はい、ラスト! いい顔してー」


 吉田さんの指が画面をタップするより先に、私はその背中を力いっぱい突き飛ばしていた。

 つんのめった吉田さんがぶつかった机や椅子が大きな音を立てる。宙を舞うスマートフォンがくるりと一回転して床に落ちるまでの一瞬が、まるでスローモーションのように見えた。


「絵里奈ちゃん!」

「ちょ、なにすんのよ、あんた!」


 慌てた西岡さんと伊東さんが瑞希から手を離して吉田さんに駆け寄り、乱れた制服の瑞希が驚いたように私を見た。

 手に残ったブラウスの感触と湿った体温の不快感を、私の脳が徐々に理解する。

 誰かに触れられるのも触れるのも嫌いだ。特に、こんな下らないやつになん爪の先も触れたくない。

 でも……そうせずにはいられなかった。瑞希のひとかけらだって、こいつらに与えてやりたくなかった。


「最悪なんだけど! 怪我したらどうすんのよ!」


 吉田さんの怒声にびくりと体を震わせた瑞希が「ごめん」と消え入りそうな声で呟いたけれど、その言葉の矢印が向いているのは吉田さんなのか、私なのか、ひどくあやふやだった。


「瑞希が謝る必要なんかない。私だって謝らない。吉田さんたちも怒る権利なんかないでしょ。誰かを傷付けるなら、自分も傷付く覚悟くらいするべきだもの」


 追い詰められたネズミが猫に嚙みつくのは生き残るためだ。命を懸け、ゼロに等しい可能性にすがってでも生きようとしてるからだ。そうやってやり返される覚悟もないくせに、つまらない理由でちょっかいを出してくるなんて許さない。


「瑞希が昔いじめられてたとか不登校だったとかホントどうでもいい。友達になるときは信用調査でもしなくちゃいけないわけ? ああでも、吉田さんたちみたいに誰かを傷付けて楽しむような人だったらお断りだけどね」


 くだらない会話をして、メロンパンを分け合って、足を蹴飛ばし合って、困っていたら助けてあげて、誰かに馬鹿にされていたら怒る。

 瑞希が私にしてくれたことが嬉しかった。チー以外の友達なんか作っちゃいけないって思っていた私の隣で、ずっと私の友達でいてくれた。


「そうやって誰かを見下さないと不安なの? もっと自信もって生きたら? そうすれば私たちのことなんてきっとどうでもよくなるはずだよ。だって、私たちは吉田さんたちのこと、どうでもいいって思ってるもん」


 身体が苦しいくらいに熱い。――そうか、私は怒ってるんだ。

 吉田さんにも、西岡さんと伊東さんにも、かつて瑞希をいじめた人にも、守ってあげなかった人にも、瑞希にぶつけられただろう言葉にも、いやな笑いにも、あの写真を撮った人にも、あの写真を吉田さんに渡した人にも、すべてに怒っていた。

 瑞希が「怒り」を「諦め」に変えてしまったのなら、私が代わりに怒ってやる。


「……は?」


 いつもの嘘くさい可愛らしさも余裕も消え去った吉田さんに残ったのも、純粋な怒りそのものだった。


「うっさいんだよ! あんたなんかただ成績がいいだけのガリ勉でしょ? 偉そうなこと言わないでよ!」


 吉田さんに思い切り肩を突かれて、私は床に倒れ込んだ。手のひらと膝に焼けるような痛みが走る。


「ああ、もうイライラする! なんであんたたちみたいなのが遥くんのそばにいるわけ? あいつも趣味悪すぎ。普通さ、選ぶなら絶対あたしのほうでしょ? ねぇ、そうでしょ?」


 ヒートアップしてまくし立てる吉田さんに、さすがの西岡さんと伊東さんも引き気味だ。


「誰にも負けるつもりはない? それはこっちのセリフなんですけど。あたしとあんたたちは大違いなの。分かる? せいぜい教室の隅っこでちっちゃくなって、こそこそ教科書開いてればいいのよ!」


 一瞬の間があった。

 そこに、声が落ちてきた。世界を鮮やかに彩る声が。


「へぇ、面白いこと言うじゃん」


 分厚いプリントの束を抱えた遥が、教室の入口に立っていた。

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