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「やったね、チッカ!」
瑞希が本日何回目かの喝采を上げながら購買で買ってきたパンとおにぎりを机の上に並べた。今日は寝坊したとかでお弁当を忘れてきたらしい。そのくせヘアメイクはバッチリなのが瑞希らしいというかなんというか。
「試験の結果、180人中チッカは堂々の1位、遥くんは43位、そしてあたしはなんとなんと74位。まあまあじゃない? それに目標は達成だもんねー。見たかって感じ」
どうやって調べたのかは知らないけれど、西岡さんは122位、伊東さんは95位、吉田さんは76位だったらしい。
「ちょっとはしゃぎすぎ。今回のは範囲も狭かったからそんなに難しくなかったし、中間テストだってすぐなんだから」
「千佳はもうちょっとはしゃいだらいいのに」
巨大な弁当箱を私の鼻先にぶら下げた遥が私の隣に座った。制服じゃなく、ジャージ姿の遥からはかすかに汗のにおいがした。
あれから遥は頻繁に私たちの教室に顔を出すようになって、昼休みには一緒にお弁当を食べるようになった。おそるおそる声をかけてくるクラスメイトたちに、遥は魔法のような笑顔を振りまいてあっという間に魅了してしまう。そして、最後に必ず残していく「千佳をよろしくね」という言葉が、私をこのクラスの重要人物に押し上げていった。
視線を感じて振り返ると、かつてこの教室の中心だった吉田さんたちが教室の隅から私たちを見ていた。目が合うと、キッとにらみつけられてから思いっきり逸らされてしまった。
「ほら、見なよ。あいつら全然反省してないでしょ」
瑞希が、ふん、と鼻を鳴らした。
吉田さんがみんなの前で遥にやり込められたあの日から、コロニーの崩壊が始まった。
私の上履きを隠したのは吉田さんたちの仕業ではないかという話がじわじわと学年中に広まり、みんなが距離を置き始めた。
それに加えて、遥が私たちの味方についたことによって、私が遥に言い寄ってフラれたくせに追いかけ回しているという以前のうわさがデマだと確定された。そしてそのうわさをしつこく流していた西岡・伊東コンビと吉田さんは「ヤバいやつ」認定されてしまい、孤立した。
「いい気味だよね。調子にのって人のことバカにするから痛い目にあうんだよ」
瑞希はすっかり浮かれているけれど、私は瑛輔くんの忠告がどうしても頭から離れなかった。
――女王様っていうのは我慢と屈辱がお嫌いなんだってこと。自分のプライドを取り戻すためならなんだってするよ。
なんだか、いやな予感がする。あの人がこのまま終わるわけない。私の警告ランプが点滅を繰り返していた。
ねえ、チーもそう思うでしょう?
だけど、私のなかのチーは吉田さんに会ったことがないから何も答えてくれなかった。
「千佳、なにボーっとしてんの? 腹減って死にそう、とか?」
「そ、そんなんじゃないよ。失礼な」
「遥くんのクラスって校庭でサッカーしてた?」
「うん、そう。だから俺は腹ペコ」
「そういえば、遥って小さいころサッカーするの大好きだったよね。文芸部よりサッカー部に入ったほうがいいんじゃない?」
遥がゆっくりと首をめぐらせて私を見た。じっと見つめるその目はかすかに見開かれている。何か言いかけて開いた唇が、言葉を探すように震えた。けれど、それは一瞬のことで、遥はすぐににこりと笑った。
「サッカーはもう辞めたんだ。才能なくってさ」
「……そうなんだ」
――はるかはサッカーがじょうずなんだよ。ボールをけるときのはるかは、すっごく楽しそうなの。
チーはそう言ってたけど……。あの一瞬の間には何か意味があるような気がした。けれど、その答えは私が知っていることの中にはないのかもしれない。
どうしたらいいんだろう、と私が逡巡している隣で、スマートフォンを見ていた瑞希が突然叫んだ。
「あーっ! ちょっと最悪なんだけど!」
「瑞希ちゃん、どうしたの?」
「部長からなんだけど、今日は部室使えないんだって!」
ほら、と見せられた画面には『本日は図書委員の作業があるため、部室は使用できません』のメッセージと泣いている犬のスタンプが並んでいた。
「もう、信じらんない!」
瑞希は憤慨しているけれど、桐原先輩に聞いた話によれば、本来は図書委員のために用意されたあの部屋を文芸部が部室として借りているらしいから、優先権は向こうにあるはずだ。
「じゃあ今日はみんな、ゆっくり休もうか」
「えーっ! すぐに中間テストもあるんだからって言ったのはチッカでしょ。そんなのん気でどうすんのよ。あたし、次は五十位以内に入ってみせるんだから!」
鼻息荒く、瑞希が高らかに宣言する。どうやら今回の結果でやる気に火が点いたみたいだ。
「部室が使えないなら、今日はカフェでもどこでもいいから、チッカの特別授業やろうよ! 授業料代わりにあたしおごっちゃうし!」
「あ、俺、今日『石倉ゼミ』だから遅くなるわ」
「そう言えば遥って石倉先生のクラスだっけ」
星山高校では数学の授業は、今回のテストの結果でクラス分けが行われた。
理解度の近い生徒たちをまとめてレベルに合わせて授業を行ったほうが効率がいい、という建前ではあるが、これも生徒たちの競争熱をあおっているようにしか思えない。
今回遥が入ったクラスを担当する石倉先生は飄々とした人で、授業も面白いらしいのだが、生徒には蛇蝎の如く忌み嫌われている。その理由が週に一度行われる、放課後の特別授業――通称「石倉ゼミ」のせいだ。
「石倉ゼミ」とは、先生が選りすぐった問題を集めた大量のプリントが配られ、一時間ただひたすらにそれを解くという修行のようなもので、解き切れなかったものは持ち帰って次週までに提出しなければならない。
「あの先生、マジで数学好きなんだな。なんつーか、選ぶ問題が変態的」
「ああ、ちょっと分かるかも」
私はまだ「石倉ゼミ」を受けたことはないけれど、このあいだ遥から見せてもらったプリントには、受験勉強のためというよりも数学的興味を刺激するような問題が多かった。
げんなりしていた遥を前に、ちょっと楽しそうだな、なんて思ったのは秘密だ。
「じゃあ、あたしとチッカは教室で勉強しながら遥くんのお帰りをお待ちしておりますか」
「オッケー。じゃあさっさと終わらせて帰ってくるから」
なぜかいつも私の意見が反映されない話し合いで私たちの行動が決まるのもいつもの流れだ。「仕方ないなぁ」ってしぶしぶ受け入れるのにもすっかり慣れてきた。
決まりだねーと瑞希がメロンパンの袋を開けると、ふわっと甘いにおいが漂ってきた。
「……ねえ、瑞希。メロンパン一口ちょうだい。これと交換で」
ママの得意料理であるキャロットラペを差し出した。
お互いに食べたいものを交換するのは、私たちのお決まりになっていた。
味も見た目も完璧なのになぜか物足りないママのお弁当が、瑞希の真っ茶色のお弁当や、遥の和食メインのお弁当と混じり合って、私だけの特別なお弁当に変わっていくのが楽しくて、最近では昼休みが近付くと、今日の二人のお弁当には何が入ってるのかな、なんて考えるようになってしまった。
どれどれ、と私の弁当箱をのぞきこんだ瑞希は、キャロットラペの隣にある明太子入り玉子焼きを摘まみ上げた。
「あ、それじゃないってば」
「あたし人参きらいなんでー」
「野菜も食べなきゃダメでしょ。しかも手づかみなんてお行儀悪いんだから」
「オカンか!」
ケラケラ笑いながら、瑞希は半分にちぎったメロンパンを私に差し出した。
「こんなにいらない。一口あればいいよ」
「だってチッカがよだれ垂らして見てくるんだもん」
「垂らしてない!」
「はいはい。ほら、どーぞ」
鼻先をくすぐる甘い香りの誘惑に負け、私はメロンパンを受け取って一口かじった。
クッキー生地にかかった砂糖が歯の間でじゃりっと音を立てる。
今ほどではないけれど、ママはもともと私が口にするものに対して神経質で、菓子パンなんてもってのほかだった。だから、私が初めてメロンパンを食べたのはチーの家に遊びに行ったときだった。
「こんなものしかないけど」と、おばさんがおやつに出してくれた不思議な食べ物を、私はおそるおそる口に入れ、あまりのおいしさに衝撃を受けて固まってしまった。おばさんもチーも大笑いしていたっけ。
――カー。私の分も食べていいよ。ねえ、お母さんもっとないの? もっといっぱい食べさせてあげようよ。
もっともっと、とおばさんのエプロンの裾を引っ張ってねだっていたチーの姿を思い出して、思わずくすりと笑いをこぼした私の肩を遥がつついた。
「ね、千佳。それ、俺にもちょうだい」
遥は甘えるように私の顔をのぞきこみ、あーんと口を開いた。不意に見えたその濡れた赤に鼓動が跳ねる。「お、おかずは交換でしょ」と要求すると、遥は軽く肩をすくめた。
「だって全部食っちゃったもん。でも、千佳ならくれるでしょ? だって、昔から頼まれたら断れないタイプだったし」
きれいに空になった遥の弁当箱を横目に見ながら、そうだったかなと心の中で首をかしげる。
チーはどちらかといえばワガママで、私が「仕方ないなぁ」ってそのワガママを受け入れるほうだったから。
でも、遥の知っているチーは違ったのかな。遥の頼みを「いいよ」って受け入れていたのかな。
そのとき、私の胸にむくりと対抗心が湧いた。
「――いいよ」
メロンパンをちぎって差し出すと、遥は軽く目を閉じて口を近付けた。押し込むようにしたとき、唇に触れた指先に熱が走る。
「ん、サンキュー」
もごもごと咀嚼しながらふわりと笑った遥は、メロンパンよりもっと甘いものを私の胸に呼び起こす。
私……なにやってるんだろう。これじゃあまるでチーに張り合ってるみたいだ。
今までこんなふうに思ったことないのに。
遥はチーの初恋の人で、私はその初恋を叶えるために遥に近付いた。私はチーの代わり。だから遥が私にくれるものはすべてチーのもの。私に生まれた気持ちも全部チーのもの。
何一つだって私のものじゃないのに。
遥に分け与えて小さくなったメロンパンにかじりつきながら、よく分からない自分の心に戸惑っていると、ふと視線を感じた。
出どころを探って頭を巡らせると、教室の隅で吉田さんたちが顔を寄せ合い、何かひそひそと話しながら、スマートフォンと私たちのほうを交互に見比べるようにしていた。
吉田さんが口の端を上げて笑っていた。ネズミを見つけた猫みたいに目を細め、私たちを眺めている。
なんだか、すごくいやな予感がした。




