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朝の行進、そして昼休みのゴミ箱事件は、私を呼び出した南川さんによってひどく感動的に脚色され、砂糖とはちみつで漬け込んだチョコレートくらいでろでろに甘い甘い物語となって星山高校を駆けめぐった。
「これで入学式のうわさなんか完全に吹き飛んじゃったね」
放課後に部室に向かう私の横で瑞希がケラケラと笑っている。
「他人事だと思って好き勝手言わないでよ」
いつの間にか、ゴミ箱から上履きを見つけ出した遥が私の前にうやうやしくひざまずいて、シンデレラよろしく履かせたらしい、なんておかしな話になっている。
うわさに尾ひれや背びれがつくのはまだ分かるけど、これじゃあとレモンとプテラノドンくらい別物だ。
「いいじゃん。俺が千佳に言い寄られて困ってるってうわさより、こっちのほうがまだ真実に近いんだし」
そう言ってのんきに笑う遥を、私は横目でちらりと見た。
きれいで優しくてチーの初恋の人。だけど、その内側はいつもどこかつかみどころがない。
今回のように私を助けてくれたかと思えば、首謀者の吉田さんと仲良くしたり……。
もちろん、約束どおり彼女が犯人だとは言っていないけれど、第一容疑者であることは遥だって知っているし、瑞希は「あいつらめ!」とさんざん騒いでいる。
なのに、わざとらしく手伝いを申し出たり、あざとくハンカチで顔を拭ってきたりする吉田さんを、どうしてああも簡単に受け入れるのか。
吉田さんは小学校と中学校が同じだから? かわいいから? それとも――吉田さんに、なにか「特別」な気持ちがあるから?
遥に聞けば答えは返ってくるかもしれない。だけど……それは私の知りたい答えじゃないかもしれない。
考えれば考えるほど心がざわついてくる。最近、なんだか私の心はままならない。
「あれ、一年生は明日、試験じゃなかったっけ? みんなずいぶん余裕があるね」
部室の隅っこで桐原先輩は、今日もアガサ・クリスティを読んでいた。
『予告殺人』……ミス・マープルか。私はポワロのほうが好きだけど。
そういえば、この人もだいぶつかみどころがないな、と驚異的な人脈と統率力を目の当たりにした私は思った。
「部長っていつ来ても絶対いますけど、友達とか彼女とかいないんですか」
「ははは。そんな冷たいこと言わないでよ、遥くん。僕たちは今日、仲間のために走った同士じゃないか」
「ぶちょーは見てただけでしたけどねー」
「ちっちっちっ。優秀な探偵は自分の手足を使わないのだよ」
「そんなことより瑞希も遥も、勉強しないの? 」
放っておけばいつまでも喋り続けそうな三人に私が割って入る。文芸部のよくある一コマ。けれど、一緒に困難を乗り越えたという事実があるせいか、そこには以前よりも親密な空気が流れている気がした。
「あっ、そーだった! あたし、ずぅえーったいあいつらには負けないんだから!」
「あいつらって?」
「何言ってんですか、先輩。チッカの靴を隠したやつらに決まってるでしょ! 前から嫌いだったけど、今回のでもう大大大っ嫌いになった! こうなったらあたしらは正攻法で、つまり成績でけちょんけちょんにしてやるんですよっ!」
「ははあ、それで前日の追い込みに来たってわけだ」
「チッカは一位を死守! 遥くんは五十位以内、あたしは、あいつらのうちの誰かより上の順位! これが今回の目標です!」
顔を真っ赤にさせて怒ってるわりにはなかなか現実的な提案だった。
「ほらほら、チッカも遥くんも、早く早く!」
会議テーブルの真ん中に座った私の右隣に瑞希、左隣に遥。これが部室での私たちの定位置だ。
「じゃあ……もう時間がないし、各自苦手な教科とか、分からないところを集中的にやったほうがいいと思う。分からないところはすぐ聞いて。時間を無駄にしないこと。いい?」
「おっけー」「了解」とそれぞれの返事があって、ページをめくる音やシャーペンの走る音がし始める。眉間にしわを寄せて教科書をにらみつける瑞希と、頬杖をついてノートに何か書いている遥。二人ともだいぶ頑張ったし、いい結果が出たらいいな。
そんなことを思いながら参考書に視線を落としたとき、不意に部室のとびらが開けられた。
「あの、ここ、文芸部の部室って聞いたんですけどぉ……」
聞き覚えのある声に、私の胸がざわりと音を立てる。右隣の瑞希が弾かれたように顔を上げた。
「あ、澤野さん、近藤さん。遥くんも」
入口でひらひらと手を振っているのは吉田さんだった。その後ろには西岡さんと伊東さんも控えている。「なにしに来たのよ!」と気色ばむ瑞希を無視して、吉田さんは桐原先輩にあの完璧スマイルを向けた。
「あたしたち、文芸部に入ろうと思って来たんです」
「へぇ、どうして?」
部長である桐原先輩が興味深そうに聞き返すと、吉田さんは感極まったように胸元を押さえ、潤んだ目で先輩を見上げた。
「昼休みにみなさんが困ってる仲間のために協力し合うのを見て、なんかすっごく青春だなーって感動しちゃって。だから、私たちもそんな素晴らしい部に入りたいなって思ったんです」
女の私から見てもすごくかわいい。その裏にあるものさえ知らなければ、胸をときめかせているところだ。
「ダメに決まってるでしょ!」
瑞希が立ちあがって三人をびしっと指さした。その指先は怒りで震えていた。
「こいつらがチッカにひどいことをしたんだから!」
「証拠はあるの?」
それは吉田さんたちじゃなく、桐原先輩の発言だった。いつもと変わらない口調なのに、部室の温度が数度下がった気がした。
「証拠もなしに犯人扱いはできないよね。推定無罪。罪が確定するまではみんな無罪として扱うべしっていうのが原則なんだよ」
桐原先輩は出来の悪い子どもに言い聞かせるように言った。その背後で吉田さんは完璧なスマイルを維持しているが、目には勝ち誇った色が浮かんでいる。
「私、一時間目の休み時間に知らない男子が上履き持って職員玄関に行ったの見たんだけど、あれが澤野さんのだったなんてびっくりだよ」
「もっとはやく気付けばいいのにさぁ、伊東さんって鈍感なとこあるから」
「ホントごめんねー。絵里奈ちゃんが『もしかして』って言ってくれなかったら一生気付かなかったかもしんない」
「でも、見つかってよかったね、澤野さん。私たちが力になれたならすごく嬉しい」
ああそうか。
遥に言わないという私の約束なんて吉田さんにとってはどうでもよかったんだ。今ここで私が、上履きのありかは吉田さんから聞いたのだとぶちまけたとしても、向こうの言い分と対立するだけで、グレー以上にはならない。
「そんなの、ぜんぶ嘘じゃん!」
「瑞希ちゃん、嘘だっていう証拠もないんだよね。それに、特段の理由なく入部したいという生徒を拒むことはできないよ。遥くんだってそう思わない?」
急に矛先を向けられた遥は、ちらりと瑞希を、そして私を見た。もしここで私が本当のことを言ったら、遥はどちらを信じるだろう。
嘘泣きでもして「信じて!」と言えば、優しい遥は私の味方になってくれるかもしれない。でも……そんなのチーらしくない。チーは強い子だったから。
それに、そんなことしなくたって遥はチーのことを信じてくれるはずだ。「守ってやる」ってチーと約束したんだから。
私としばらく見つめ合ったあと、遥は小さくうなずいた。
「……そうですね。俺も、理由もなく断るのはよくないと思います」
遥の言葉に吉田さんの笑みがぐっと深くなった。勝利を確信した女王様の微笑みだった。
桐原先輩と遥が言っていることは正しい。仕方ないことだと頭では分かってる。だけど、勝手に期待していた心が、裏切られたと感じて勝手に痛み出す。
この痛みは、私じゃなくチーのもの。遥に裏切られたチーの痛みだ。
「やっぱり澤野さんの入学式のスピーチがよくなかったのかもね。あれ、みんな怒ってたもの。でも、だからってこそこそ靴を隠すなんて最低。私、そういう卑怯なやりかたする人って大嫌い」
吉田さんが私に慈愛に満ちた笑みを浮かべ、私に手を差し出した。
「私たち、いろいろ誤解もあったけど、これからはよろしくね。澤野さん」
いつかの教室でのシーンとは真逆だ。私はどこかぼうっとしたまま、導かれるようにその手を取った。吉田さんの体温が私をじわりと侵食する。
「いま一年はテスト前で部活動禁止期間だからね。入部届はテスト明けでいいかな。ああ、部室は使ってもらって構わないよ」
三人にそう告げると、桐原先輩はいつものように部室の隅で本を読み始めてしまった。吉田さんの手が離れ、西岡さんと伊東さんが私のもとに突進してくる。
「うわー、みんな勉強してるんだ」
「ねえ澤野さん、あたし分かんないとこあるんだけどぉ」
「あ、ずるーいあたしも!」
「ねえ、この問題って――」
西岡さんが私と遥の間に、伊東さんが私と瑞希の間に割り込んで、矢継ぎ早に質問をぶつけてくる。
「ちょ、ちょっと待って」
二人が差し出す問題集の向こうで、吉田さんが遥に話しかけていた。かわいらしい完璧なスマイルを浮かべた吉田さんの指先が遥のブレザーに触れた。
さっき私に染み込んできたあの体温が、遥の「特別」に触れている。
「ねえ、覚えてる? 小学校のとき――」
そんな声が聞こえた瞬間、氷を飲みこんだように身体の真ん中が急に冷たくなった。
吉田さんは、私も、チーも知らない遥を知っているんだ。小学校三年からの今このときまで続く想いがあるんだ、ということに気付く。
幼いチーのたった数ヶ月の初恋と、私の一ヶ月かそこらのニセモノの想い。その二つを足したところで、吉田さんの想いには届かないのかもしれない。
「ねえ、ちょっと澤野さん。ボーっとしてないでよ。テストは明日なんだから」
「あ……ゴメン」
西岡さんたちに急かされて問題集に集中しようとする。だけど、どうしてもその向こうの二人の姿に意識が引っ張られてしまう。
「これは、この公式を使うんだけど……」
吉田さんの笑い声が弾けたのにつられて視線が上がる。
遥が笑っていた。
世界を鮮やかに彩るその笑顔を、吉田さんに向けている。
「やだぁ、遥くん」
吉田さんの手が、遥の肩に、腕に触れる。
やめて。やめて。
喉の奥で叫ぶ私の声が、あの日の声に重なる。
――かさかさ、しゃらしゃら。ざあざあ、ごうごう。
ガタン、と隣で椅子が鳴って、ぼやけ始めていた世界の輪郭が戻ってきた。瑞希が勢いよく立ち上がったせいでパイプ椅子が弾き飛ばされていた。
「あたし帰る」
瑞希は消え入りそうな声で呟くと、机の上に広げたばかりの教科書とノートをカバンに突っ込んで部室を飛び出していった。
「なにあれー。感じ悪ーい」
「澤野さんもさぁ、あんまり近藤さんと付き合わないほうがいいよ。あんな派手なカッコしてる人ってぜったい遊んでるもん」
「そうそう。もしかしたら、遥くんに近付くために澤野さんを利用してるんじゃない?」
西岡さんと伊東さんが瑞希の悪口を言うたびに、ざわめいていた私の心は少しずつ落ち着きを取り戻していった。そして、ゆらりと怒りが立ち上がった。
瑞希のこと、なんにも知らないくせに。
「……あなたたち、勉強する気ないなら帰ってくれる? 私だって暇じゃないの。この学校で誰にも負けるつもりなんかないって言ったでしょ」
部室の空気がぴりっと緊張をはらんだ。
桐原先輩が本から顔をあげ、吉田さんと遥も会話を止めてこちらを見た。
心のなかまでのぞき込むような遥の視線を跳ね返すように、にらみ返す。
チーは友達が馬鹿にされて黙っていたりしない。簡単に負けたりしないんだから。
「あのスピーチは誰かを煽るためでも失敗して焦って口走ったわけでもないから。そう思ったから言ったの。バカにするなら勝手にすれば? でも邪魔だけはしないで」
部室を出てしばらく行ってから振り返ったけれど、遥が追ってくる気配はなかった。
駅の近くをニ十分ほど探し回って、ようやくベンチに座り込んでいる瑞希を見つけた。派手な格好もこういうときには役に立つ。
「瑞希」と声をかけると、瑞希はうつむいたまま膝に乗せたカバンをきゅっと抱きしめた。
「……あんなの、ひどいよ」
言葉の最後と丸まった背中が、かすかに震えた。
「遥くんもぶちょーもみんなひどい。なんでひどいことして笑ってられるの?」
「瑞希。自分が言ったこと忘れたの?」
「……え?」
瑞希が顔を上げた。アイラインがにじんで黒ずんだ目元のせいでまるでパンダみたいになっている。
「行こう」
私は瑞希の手を握って強引に立ち上がらせると、引っ張って歩き出した。いつかのハンバーガーショップに入り、注文カウンターを通り過ぎてイートインスペースに入る。
「ねえチッカ。門限あるって言ってたじゃん。もう帰らないとヤバくない?」
「いいの」
私の後ろでオロオロする瑞希は、知らない場所に連れてこられた子どもみたいに不安そうな顔をしている。
「先に来てるって言ってたんだけどな……」と、きょろきょろ見回していたら、店内の奥でひときわカラフルな人が私たちに向かって手を挙げた。
「あ、いたいた。瑛輔くん」
ブルーのツンツン頭、リアルな月がプリントされた穴だらけの黒いトレーナーに、膝小僧丸出しのジーンズを身に着けた瑛輔くんに、瑞希が「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
今日の瑛輔くんのスタイルは地味なほうだし。自分だって負けず劣らず派手な格好してるくせに。
「瑛輔くん、お待たせ」
「ちょっとぴーちゃん、一応俺だって忙しいんだから、急に呼び出されても困っちゃうんだけど」
「でも来たじゃない」
「そりゃあ、予定外の授業ってことで報酬も弾むって言うし? うわさのお友達にも会ってみたかったし」
瑛輔くんが瑞希に、どうぞ座って、と促されておそるおそる席に着いた瑞希は、「この人、チッカの知り合い?」と私に小声で聞いた。
「瑛輔くんは私の家庭教師だよ」
「ええっ、これで!?」
瑞希が大声を上げて驚く。私はすっかり慣れてしまったけれど、まあ……そりゃ驚くよね。
瑛輔くんは何をどう勘違いしたのか、照れたように頭を掻いている。
「こんな見た目だけど家庭教師としては優秀だから。教えてもらって損はないよ」
「教えるって?」
「明日のテスト、私は一位、瑞希は吉田さんたちの誰かには勝つ。正々堂々、けちょんけちょんにしてやるんだって自分で言ったじゃない。それに……鼻っ柱に一発お見舞いしてやらないと、私も気が済まないし」
蒼白だった瑞希の頬がゆっくりと紅潮していき、何かをこらえるように唇をきゅっと結んだ。パンダみたいな目がうるうると潤み始める。
「チッカ……ありがと」
「ほらほら時間ないんだから。瑛輔くん、ママにはうまく言っておいてよね」
照れくさい気持ちをごまかそうと、つい早口になってしまった。瑛輔くんは「へいへい」と笑いをかみ殺しながらスマートフォンを手に取った。
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「千佳ちゃん、先生に会うならおうちでいいじゃない。どうしてもお外じゃなきゃダメだったの? しかも、ファーストフードのお店なんて……」
「ごめんなさい。明日の試験が不安だって無理に私が頼んだら、先生もなんとか時間を作ってくれたんだけど、そこで会うしかなかったの」
瑛輔くんからも、そして私からも何度もした説明をもう一度繰り返す。けれど、ママはちっとも納得してくれない。
「ねえ千佳ちゃん。ママと約束したわよね? 遅くなるなら部活は辞めるって」
「今回のことと部活は関係ないじゃない」
「でも……高校に入ってから千佳ちゃん変よ。いままではママの言うことをちゃんと聞いてくれたのに」
そうしないとママが不安そうな顔をするからだ。
私がママの手の内でじっとしているとき以外、ママはずっと不安なくせに。
私が学校にいるあいだ、ママはどんな顔をして、嘘みたいに真っ白なこの家にいるんだろう。ふとそんなことを思った。
「ごめんなさい。もうこんなことはしないから、安心して」
「……安心なんかできるわけないでしょう。ママはずっと心配なの。もしかしたら千佳ちゃんがあの子みたいになってたかもしれないのよ」
ママがそっと私を抱きしめた。生温かい体温にぞくりと肌が粟立つ。
――かさかさ、しゃらしゃら、ざあざあ、ごうごう。
汗ばんだ肌にべたべたとなにかがまとわりついてくる。潮のにおい。私をきつく抱きしめるママの腕。ぴかっと光って、どぉんとお腹に響く音。白と黒が交互に繰り返される。パパの怒鳴り声。やめて。やめて。やめて。やめて――。
「チーは?」
意識が遠くなり、世界がぼやけてモノクロになる。あの日に戻ったような気がした。私の声にママの体がびくりと跳ねた。
「チーは、どこなの?」
「千佳ちゃん!」
がくがくと強く身体を揺さぶられ、ようやく目の前のママに焦点が合う。ああ、また心配そうな顔をしている。
私の嘘のせいだ。
私が嘘つきだから。
私の嘘が、みんなから大切なものを奪ってしまったんだ。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
私の謝罪はどこにも行けない。ただ私の中に沈んで降り積もっていくだけ。
その夜は、チーのことを書き記したノートを抱いて眠った。
眠っているあいだに、チーそのものであるこのノートが私に溶けて、目が覚めたら私がチーになっていればいいのに、と思って目を閉じた。けれど朝になっても私は私のままで、チーのノートをまたマットレスの下に押し込んだ。




