2
大騒ぎの朝が過ぎてしまえば、私の学校生活はあっさりと平穏を取り戻し、無事に昼休みを迎えた。
強いて変わったことと言えば、大きすぎて持て余している遥の上履きを爪先に引っかけてぶらぶらさせる癖が私についてしまったこと、くらいだ。
「ねー、チッカ。このままでいいの?」
「お弁当食べたら購買に行って、新しい靴買うつもりだけど」
「そっちじゃなくて、チッカと遥くんのこと!」
瑞希が私の鼻先に箸先をぴしりと突き付ける。
「もう告っちゃえばいいじゃない。ぜぇーったいうまくいくよ。あたしが断言する」
「瑞希じゃあてにならない」
「やだなー。恋愛関係において、あたしの右に出る者はいないんだから」
箸で突き刺した拳大の唐揚げにかじりつく瑞希の姿は、恋愛という甘いワードからはずいぶんとかけ離れていたけれど、当の本人は自信たっぷりだ。
「今朝のチッカと遥くん、もうマジでラブラブだったじゃん。逆にあれで付き合ってないほうがおかしいって」
今朝のことを思い出すと、心臓が甘く速度を上げた。そのたびに私は「違う」と呟いてブレーキをかける。
私と遥の関係は、瑛輔くんのアドバイスなんかいらないくらい、予定していたよりもずっとうまくいってた。遥も私がチーだって信じている。ニセモノだなんて思ってもいない。まあ、普通はそんなこと考えもしないだろうけど。
もし、チーの初恋が叶ったら……遥が私を好きになってくれたら、私たちは付き合うことになるんだろう。それで、私のチーとしての役割は終わり? それとも、遥と結婚、とか? それから――。
目的達成後の膨大な時間を想像したら、急に背筋に冷たいものが走った。
私は、死ぬまで遥の前でチーの振りをして、チーとして生きていくの?
「チッカ、どしたの?」
瑞希に顔をのぞき込まれてハッとする。何を――私は、いま何を考えていたの?
そんなの、ずっと前から覚悟してたことじゃない。
チーがいなくなったあの日に、私の全部をチーにあげたんだ。私の体も、心も、全部チーにあげるって、そう約束したんだから。
「そう、だね。遥に告白すること、考えてみる」
一口サイズの梅しそチーズチキンカツに刺さったハートのピックをもてあそびながら私がそう答えると、瑞希はぱあっと顔を輝かせた。
「よっしゃ! チッカの覚悟も決まったし、最高の告白シーンを考えなきゃ!」
「いやまだ考えてみるってだけで」
「あっ、チッカのビジュアルも磨かなきゃ! うう、恋愛マスターの腕が鳴るぜっ! こうなってくると明日試験とかまじウザ。こっちは一日だって待ってられないのにさぁ。試験終わったらそっこー実行しようね!」
「ていうか、そういうのって私のタイミングでやるものでは……」
「さ、澤野さん!」
ちっとも噛み合っていない私と瑞希の会話に突然割りこんできたのは、いままで話したこともないクラスメイトの南川さんだった。
「あ、あのっ、大変なの!」
何やら慌てている南川さんは、廊下のほうを指さした。
いや、大変って言われても……と、私と瑞希が顔を見合わせていると、南川さんはじれったそうに私の腕をつかんだ。肌に食い込んでくる指のかたちにぞわりと鳥肌が立ったが、「藤原くんが大変なの!」と言われたせいで、鳥肌が一瞬にして引っ込んだ。
「遥がどうしたの?」
「藤原くんが、学校中のゴミ箱ひっくり返してるの!」
「……は?」
「とにかく来て!」
食べかけのお弁当をそのままに、私は立ち上がった。瑞希も巨大な唐揚げを口に放り込んで、目を白黒させながら私に続く。「早く早く!」と南川さんに急かされ、私は遥の上履きをぺたん、ぺたんと鳴らしながら精一杯のスピードでそのあとを追った。
南川さんが向かったのは、二階の渡り廊下だった。遠くからでも分かるくらい、なんだか人が集まっている。人ごみをかき分けて前に出た私は、その光景に目を丸くした。
「ちょっと、遥! 何してるの?」
小さすぎるスリッパを履いた遥が、ゴミ箱に顔を突っ込むようにして中をのぞいていた。
足元には中から取り出したらしい丸まったティッシュやプリント、お菓子の袋、空のペットボトルなどが散らばっている。
「ん? 千佳の靴、探してる」
私に気付いてゴミ箱から顔を出した遥は、そう言って笑った。柔らかそうな髪の毛が乱れて、ところどころにホコリがまとわりついていた。それなのに、その笑顔はいつもと変わらずにきれいで、私の世界を鮮やかに色づかせる。
「靴なら新しいの買うから。だから、遥がそんなことしなくても」
「俺、そういうの嫌いなんだよ」
遥は、ワイシャツの袖をまくり上げたむきだしの腕で額の汗をぬぐった。
まだ六月になったばかりで、汗をかくような気温じゃない。制服のズボンが汚れている。髪私がここに来るまでに、もういくつかのゴミ箱を漁ってきた証拠だ。
「ズルいやつの思い通りになるのって、なんかムカつくから」
きっぱりと放たれた言葉が向けられているのは、私の上履きを隠した人であるはずなのに、私の胸にも小さな痛みが走った。
遥に嘘をついて、騙している私以上にズルいやつなんかいないのに。
遥を嘘をついて、騙すことで、私はチーに許されようとしてるだけなのに。
表情を曇らせた私に、遥が優しく声をかけた。
「心配すんなって。きっとどっかにあるから」
「……あの」
「あたしも一緒に探す!」
出がけに放り込んだ唐揚げのせいで、まだ口をもぐもぐさせている瑞希が、ぴん、と手を挙げた。
「あー、じゃあ瑞希ちゃんは、そっちのゴミ箱お願いしていい?」
「オッケー、まかせといて!」
「……そんなことしなくていい!」
私が叫ぶと、遥と瑞希、そして野次馬が動きを止め、騒がしかった渡り廊下がしんとなった。
私を見るアイラインとマスカラで縁取られた瑞希の目が、少しだけ泣きそうに歪んだように見えた。
「私は――」
そんなことをしてもらえる資格なんかない。
そうでしょう、チー。
だって――。
だって私は――。
「約束したろ。俺が、ずっと千佳のことを守るって」
遥の声がした。世界を鮮やかに彩る遥の、優しい声。
その「ちか」は、私じゃなくてチーだって分かってる。だけど、遥は私の心をふわふわ柔らかくしてしまうから。
私が受け取るべきじゃない優しさを、受け入れてしまいそうになる。
「あたしだってチッカの大親友だもん。困ってるときは助けるに決まってるじゃん!」
瑞希はゴミ箱の蓋を開けると、今朝、自慢げに見せてきたベージュピンクの指先をためらいなく突っ込んだ。
「うえー、なんかベタベタするんだけどー!」
「がんばろうぜー」
「おー」
ゴミ箱をひっくり返す二人を見ながら、私は何も言えずに立ち尽くしていた。
温かいものが落ちてきて、私の体にじわじわと広がっていくような、その感覚は私がずっと忘れていたものだった。
――名前、はんぶんこしよう。わたしがチーで、あなたがカーね。
いたずらっぽく笑いながらチーは私にそう言った。それから私たちは二人で一人になった。
なのに、私の半分だったチーが消えて、チーの半分だった私だけが残ってしまった。
だから私はチーになるの。ならなくちゃいけないの。
「ねえ澤野さん、遥くんも近藤さんもなにか探してるの?」
いつの間にやって来たのか、吉田さんが私の耳元でささやいた。いやな笑みを浮かべた唇は、熟れた桃のようなピンクで艶やかに光っている。
「――吉田さん、お願い。私の靴、どこにあるのか教えて」
にやぁっと吉田さんの笑みが深まった。大きな目に愉悦の色が滲む。
「どうして私に聞くの? 変なの」
「それは、あなたが」
「私が、なに?」
吉田さんが威嚇するように私の発言を遮った。不正解。これは女王様の望む答えじゃない。
「遥くんたち、かわいそう。澤野さんのせいであんなことになっちゃって」
ほら、と促されて見ると、瑞希と遥はまた別のゴミ箱を開けていた。
やばくない? と笑いながら二人を指さす人、スマートフォンを向けて動画か写真を撮っている人までいる。
やめて。やめて。やめて。じりじりする思いで体が焼けるようだった。
「お願い。吉田さんだって遥にあんなことしてほしくないでしょ? それに、あなたがやったこと遥が知ったらどう思うと思う?」
「やだ。澤野さんって妄想激しいタイプなんだ。そんな根も葉もないこと遥くんに言われるんだったら、私怖くって何も話せないな」
分かるでしょう? と言わんばかりの視線が私に向けられ、私は女王様が求める答えを正確に読み取った。
「分かった。遥には何も言わない。だからお願い」
切羽詰まった私に満足したのか、吉田さんは、ううん、と人差し指の先を顎に当てて「そういえば」と呟いた。
「西岡さんがなにか言ってたような気もするなぁ。でもごめんね。よく覚えてなくって。西岡さんなら教室にいるから、聞いてみたら?」
「分かった。……ありがとう」
吐きすてるように礼を言って、私は教室に向かって走り出した。
ぶかぶかの靴のせいで走りにくい。階段を一段上るのさえモタついてしまう。
遥も瑞希も、きっと私の上履きが見つかるまで探すのをやめない。まだ短い時間だけど、一緒にいて、遥が少し頑固なことも、いつもお茶らけているけど瑞希は優しいことも知っていた。
二人が私のために動いてくれるなら、私も二人のために動かなくちゃいけない。
「西岡さん!」
教室に飛び込んだ私に向かって、西岡さんはわざとらしく驚いてみせた。けれど、笑いはこらえきれていなかった。
「澤野さん、そんなに慌ててどうしたの?」
「吉田さんに聞いたんだけど、私の靴をどこかで見かけた? 教えてほしいの」
「ええ? どうだったかなぁ」
右に、左にと首をかしげながら、西岡さんは「ええとね」「ちょっと待ってね」を繰り返した。
早く! と急かしたいのを、ぎゅっと手を握って堪えた。
「あっ、そうだ。それって伊東さんが言ってたんじゃなかったかな。やだなぁ、絵里奈ちゃんったら。いつもはしっかりしてるのに、たまーにおっちょこちょいなんだから」
「……じゃあ、伊東さんはどこにいるの?」
「うーんと、トイレだったかなぁ。あっ、気になる先輩を見に二年生の教室に行くって聞いたような気もするし。それか図書室で勉強? ちょっと頭痛いって言ってたから保健室かもしれないなぁ」
「そう。ありがとう」
踵を返すと、私は教室を飛び出した。西岡さんからもたらされた情報に信憑性はないけれど、今の手掛かりはそれだけだ。あの人たちは私を振り回して楽しんでるだけ。
女子トイレをのぞいたけど伊東さんはいなかった。
二年生の教室は四階。階段を上るのに手間取るのがもどかしくて、靴は途中で脱いで手に持った。
「伊東さん!」
カッコいい先輩とやらがどのクラスか分からないので、廊下で呼んでみたけれど、見慣れない二年生たちが怪訝そうに私を見ただけだった。
両手に上履きをぶら下げた一年生が、靴下で仁王立ちして「伊東さん!」なんて叫んだのだから、当たり前だけど。
全クラスを一つずつ周るのは時間がかかる。他にも行かなきゃいけないところがあるのに、私一人でどうにかできるんだろうか。急に無力感に襲われて足が止まる。
どうしよう、チー。どうしたらいいの?
チーは、私が誰かにいじめられたり、困っていたりすると、いつも助けに来てくれた。もしチーがここにいたらどうしただろう。
吉田さんと取っ組み合いのケンカをしたのかな。それとも、本当に遥と約束を交わしたチーだったら、吉田さんもこんなことはしなかったかもしれない。
私が、チーじゃないから。チーの振りをするだけのニセモノだから――。
「あれ、千佳ちゃん?」
聞き覚えのある声がして顔を上げると、片手に本を抱えた桐原先輩が驚いたようにこちらを見ていた。
「こんなところでなにやってるの? それにその足元っていうか、手に持ってるものっていうか……いろいろツッコミどころが多いけど」
「先輩……」
追い詰められたこの状況でいつもと変わらないものを目にしたせいか、ホッと気が緩んだ。普段なら強がってごまかすのだけれど、ほとほと弱っていた私は桐原先輩に洗いざらい事情を説明していた。
「ほうほう。そりゃあ大変だ。……ちょっと待ってて」
私に伊東さんの特徴を聞いた先輩は、通りすがりの生徒を数人捕まえて何事かを話して「よろしくね」と言った。その一言で、生徒たちが「オッケー!」とあちこちに散らばっていく。
「その伊東って子がいるかもしれない場所に行ってもらったんだ。念のため、他の場所も探してもらうし、見つかったら連絡をくれるから、僕らは遥くんと瑞希ちゃんのところに行っとこうか。二人がゴミまみれになる前にね」
私がぽかんとしていると、桐原先輩はくすっと笑った。
「僕ってけっこう顔が広いんだよ」
私と桐原先輩が連れ立って渡り廊下に戻ると、昼休みの終わりが近いせいか野次馬はあらかたいなくなっていた。がらんとした廊下で遥と、なぜか吉田さんが散らばったゴミを片付けていた。
それを見た瞬間、私の胸がぎゅうっと締め付けられたように痛んだ。
「千佳。あれ、部長まで何しに来たんですか?」
私に気付いた遥が笑顔を向けてくれたけれど、世界はいつものように鮮やかには色づかない。
「後輩のピンチだって聞いたからね。瑞希ちゃんは?」
「近藤さんは手を洗いにトイレに行ったんです。ペットボトルに残ってたジュースがかかっちゃったんだって。だから私が片付けるの手伝ってたの」
吉田さんは桐原先輩の質問に答えたあと、遥のほうを見て「ね?」と同意を求めるように言った。遥も「助かったよ」なんて返している。
「あ、遥くん。ちょっと動かないで」
小走りで駆け寄った吉田さんは小さく背伸びをした。そして体を支えるようにさり気なく遥の胸元に手を添え、ピンク色のハンカチで遥の顔を拭った。
「すっごい汚れてるよ」
「まじで?」
「うん。けっこうひどい」
くすくす笑う吉田さんに「まじか」と言いながら鼻先を拭う遥。二人が並ぶ姿はまるで少女漫画の表紙みたいだった。
――やめて。
喉の奥で生まれた叫びは、チーじゃなく私の声をしていた。
そのとき、桐原先輩のスマートフォンが音を立てた。
「お探しの彼女が図書室で見つかったみたい。千佳ちゃんの上履きは職員玄関の使ってない靴箱で見たんだってさ」
急にやってきた見知らぬ二年生に問い詰められたのだから、伊東さんもさぞかし驚いただろう。あっさりゲロったのもきっとそのせいだ。
「え、何それ。どうなってんの?」
「いいの。とりあえず、たぶんそこにあるから行こう」
私は不思議そうな遥を促して、職員玄関に向かった。一刻も早くここから離れたかった。心が急かすように内側から私を蹴飛ばしていた。
「見つかるといいね、澤野さん」
完璧なスマイルを浮かべた吉田さんが私たちに手を振った。
トイレから戻ってきた瑞希と途中で合流して、四人で職員玄関に行き、名札の入っていない靴箱をかたっぱしから開けていった。
「これじゃない?」と、桐原先輩が取り出したのはまさしく私の上履きだった。
「いやぁ、なんだか悪いなぁ。最後は僕がおいしいところを全部持ってっちゃったみたいで」
「……気に入らないのは確かですけど、見つかったならいいです」
遥は苦々しい顔で、桐原先輩から上履きを奪い取ると、私の前に置いた。みんなに見守られながら足を差し入れるのは、なんだか気恥ずかしかった。
「チッカ、なんかお姫様みたいだね」
冷やかす瑞希をにらみつける。
遥に上履きを返して、これですべて元通り。
だけど、遥のヨチヨチ歩きも、ぺたん、ぺたん、というあの間の抜けた音も終わtったんだと思うと、ほんの少し寂しい気もした。
「よかったな」
遥が私の頭をくしゃりと撫でた。まくり上げたワイシャツの袖口についた、茶色い染みが目についた。
「あの……」
私の口から掠れた声が出たとき、昼休み終了のチャイムが鳴った。
「うわ、やっべ! 俺、手ぇ洗いたかったのに」
「てか、ほとんどお弁当食べてないーっ! お腹すいちゃうよー」
「僕、教室四階なんだよね。間に合うかなぁ」
けっこうピンチなのに、どこかのほほんとしている三人を見ていたら、なんだか胸が詰まってきゅっとした。
「あ、あのっ!」
心臓が音を立てる。そのかすかな振動が喉に詰まった言葉を押し出した。
「ありがとう、ございました」
ぺこりと頭を下げると、ダサい上履きが目に入った。爪先がむずむずする。きっとぶかぶかから急にぴったりサイズになったせいだ。
「どういたしまして」
振り返った三人が声を合わせてそう言った。
「てか、それより早く行こうぜ。マジでやばい」
遥が私の手を取った。私の身体は自動的に、その体温に「特別」のラベリングをする。
遥に手を引かれて、みんなで競うように走り出す。
胸がじんじんと熱を持ち始めていた。
熱くて、溶けてしまいそうなこの想いもチーのもの。私のじゃないんだ。
そう自分に言い聞かせる私の中心で、心臓が大きく音を立てている。




