54. 真夜中の密会
アンナは一旦家に帰ると、エヴァンに事のあらましを伝えてから、ジェフとの約束通り夕刻にクライトゥール公爵家を訪れた。
そしてジェフの手引きでルーフェスの小屋まで連れて来られると、ここで夜まで待つように言われたので、アンナはそれに従って、誰もいない小屋の中で一人、彼が来るのをじっと待った。
夜までの長い時間の間、アンナは不安に胸が押しつぶされそうになりながらも、それを一人で耐えて、ルーフェスが来るのを信じてひたすら待った。
そして、どれくらい時間が経ったのか分からない程に夜も老けた頃に、長い静寂が破られて、ドアをノックする音が部屋に響いたのだった。
「はい……」
アンナは緊張しながら扉を開けると、そこには、会いたかった人物が立っていた。
「アンナ……」
そこに現れたルーフェスは、今までに見たこともない上等な服を身に纏っていて、今にも泣きだしそうな顔でアンナを見つめていた。
「ルーフェス……」
聞きたい事は色々とある筈なのに、彼の顔を見たら、胸が一杯になってそれ以上言葉が出てこなかった。
「とりあえず中に入っていいかな?ここに来る人は居ないとは思うけど、人目につくとまずいんだ。」
「え、えぇ。勿論。ここは貴方の部屋なんだし。」
そう言って彼を招き入れて椅子に座るように勧めるも、ルーフェスはあまり長居は出来ないからと入り口付近に立ったまま話し始めた。
「……アンナ……君はもうここに来てはいけないし、僕の事も忘れて。ルーフェスという人間はもう居ないんだ。」
絞り出すような低い声で、アンナから顔を逸らしながら彼は辛そうな表情でそう告げたのだった。
「どういう事なのよ、意味が分からないわ。」
アンナは泣き出すのを必死で我慢して、ルーフェスの腕を掴んで食い下がった。こんな説明では到底納得できるはずもないのだ。
そんなアンナの様子に、ルーフェスは息を一つ吐くと、観念したように話し始めた。
「……リチャードが……」
「えっ?」
「リチャードが、リリアナと駆け落ちした。」
「は?!」
突然の衝撃的な告白に、アンナは驚きの声を上げると、意味がわからないという面持ちで目を白黒させた。
「公爵は、それは激怒してね。お前がリチャードになれって、そういう命令なんだよ。それで昨日から僕は本邸で軟禁されている……」
「でも待って、何でお兄様は駆け落ちを?だって、そのリリアナ様はお兄様の婚約者だったんでしょう?」
混乱する頭を整理しながら、アンナは疑問を口にした。婚約者ならば駆け落ちする必要は無い筈なので、まるで状況が理解できないのだ。
「事情が変わったんだ。先日の魔獣討伐の際に、王女殿下が、僕の事を見かけて気に入ったんだって。それをどこかから聞き入れてきた公爵が、リチャードとリリアナの婚約を解消して、王女殿下をリチャードに輿入れさせようって目論見なのさ。」
「そんな、無茶苦茶な……」
「本当、無茶苦茶だよね。でも、そういう世界なんだよ。」
ルーフェスは、全てを諦めたかの様に力無く笑った。
「だったら、ルーフェスも逃げようよっ!!元より貴方は、この家から抜け出すつもりだったんでしょう?」
アンナはそんなこと絶対に認められなくて、涙目でルーフェスに訴えかけたが、けれども彼は首を横に振って、彼女の訴えを退けたのだった。
「……僕が居なくなったりしたら、僕の乳母のニーナの首を斬るって脅されてる……。比喩じゃなくてね、文字通りの意味だよ。あの人なら本当にやりかねない。それに、僕まで逃げたら、そうしたら公爵はリチャード達を必死で探すだろう。もし彼らが公爵に見つかってしまったら、きっとリリアンナも無事でいられない……。彼女は、僕たちが双子である事を、公爵家の秘密を知り過ぎてしまっているから。」
悲痛な面持ちで、ルーフェスは拳を強く握りしめたまま俯いた。
「だからって、何で貴方なの?!貴方の意思は?自由は?!何で貴方が、犠牲にならないといけないのよ、何で、貴方は……」
アンナはルーフェスが自分一人を犠牲にしようとしている事に納得がいかなかった。それから彼が苦しんでいるのに何の力にもなれない自分が悔しくて、堪え切れずにとうとう瞳からポロポロと大粒の涙が零れ落ちていった。
そんなアンナの肩にそっと手を置くと、ルーフェスは彼女の頬に流れる涙を指先で拭ったのだった。
「君の事は、まだ公爵にバレていないから。だから、このまま、もう関わらないで……」
「そんなの嫌よ……」
「僕なら大丈夫だから。元から自由などない生活だっただけさ。」
「ダメよ、そんなの間違ってるわ。貴方だけが辛い思いをするなんて、そんなの絶対に違う。」
一度流れ出してしまうと、もはやアンナには涙を止める事が出来なかった。
次から次に溢れ出るそれを、ルーフェスも泣きそうな顔で見つめていた。
「ごめんね……」
彼女の頬に手を当てて落ち着かせようとするも、溢れ出る涙は止まらなかった。
「嫌よこんなのって……」
そんな彼女の様子に、ルーフェスは思わずアンナを引き寄せると優しく抱きしめたのだった。
「ごめん……」
「ルーフェス……」
「ごめん、本当にごめん……」
泣きじゃくるアンナを抱きしめながら、彼は悲痛な声で謝ることしかできなかった。
アンナは暫くの間彼の胸の中で泣き続けていたが、ひとしきり泣くとゆっくりと身体を離した。そして涙を袖でグイッと拭うと彼の目を見て宣言したのだった。
「やっぱり、こんなの間違ってるよ。私……リチャード様を探して連れ戻して来るわ!!」
「アンナ?!」
「そうよ。ルーフェスだけ憂き目を見るなんて不公平だわ。連れ戻して来るから、もっと二人でちゃんと話し合って。そうしたらこれより良い解決策が見つかるかもしれないじゃない……」
アンナの言葉にルーフェスは一瞬呆気に取られた顔をしていたが、すぐに我に返ると困った様に呟いた。
「リチャードが戻った所で、余り良い策など思い浮かびそうにないけど……」
「そうかもしれないけども、でも、こんなルーフェスに厄介ごとを押し付けるようなやり方、許せない。どっちかが犠牲にならなきゃいけないにしても、ちゃんと、二人で話し合うべきよ。ルーフェス、貴方自分一人が犠牲になれば丸く収まるって考えたのかもしれないけども、それはダメだから。私が許さない。それに貴方、以前私に言ったわよね?もっと自分を大切にしてって。この言葉、そっくりそのまま貴方に返すわ。」
アンナは強い眼差しでルーフェスを見据えながら言い切ったのだった。
「……もし、君が本当にリチャードを連れて来てくれるのならば……」
ルーフェスは少し考え込むように目を伏せたが、やがて決意を固めた表情になるとしっかりとアンナの目を見て言った。
「その時は、ちゃんとリチャードに言うよ、僕も、自由になりたいって。」
「うん。絶対に連れ帰って来るわ!」
アンナはルーフェスに向かって力強く微笑むと、胸に手を当てて頷いた。
「けれど……探す当てはあるのかい?闇雲に探しても見つからないと思うんだ。」
心配そうにルーフェスが訊ねると、アンナは
「ある!!」と自信を持って答えたのだった。
「実はエミリアが二人の事を見かけているのよね、昨日クルト村行きの馬車と交渉している所を。だからまず、クルト村へ行って、そこから先は現地で聞き込みながら探してみるわ。」
「クルト村って……何でそんなど田舎に逃げたんだアイツ……。余所者が来たら逆に目立つじゃないか……。馬鹿なのかアイツ……」
ルーフェスは兄の考えが分からずに呆れて頭を抱えた。
「な……何か考えがあっての事だったのかもしれないよ……?」
「まぁ……。そのお陰で、もう一度リチャードに会う事がちょっと現実味を帯びた訳だね……」
ルーフェスは何とも言えない複雑な表情を浮かべてアンナを見ると、彼女は決意に満ちた瞳で真っ直ぐにルーフェスを見ていた。
「私、明日の朝一番で、クルト村へ向かってみるわ。」
アンナは彼を安心させようと、彼の手にそっと触れ微笑みながら、自身の決断をルーフェスに告げたのだった。
「そうだアンナ、これを使って。」
そう言ってルーフェスは机の引き出しを開けると中から布袋を取り出して彼女に渡した。
「今まで貯めていたお金。リチャードを探すにしたって、資金があった方がいいだろう?」
そこには、かなりの量の銀貨が入っていた。
「分かった。全部じゃないにしろ、使わせてもらうわね。」
アンナはルーフェスの心遣いに感謝しながら、笑顔でそれを受け取ると、大切そうに握り締めた。
「……そろそろ時間だ。僕はもう戻らないと。外はもう暗くて危険だから、帰りはジェフに送ってもらってね。」
「うん……」
アンナは名残惜しそうにルーフェスを見つめると、彼の方も同じ様にアンナはを見つめていた。
「あぁ、そうだ。大事な事を言うの忘れていた。」
「何かしら?」
「誕生日おめでとう、アンナ。そのブローチ付けてくれたんだね。良かった、凄く似合ってる。」
ルーフェスはアンナの胸元に光っている朱色の石のついたブローチにそっと触れながら嬉しそうな笑みを見せたのだった。
「えぇ、ブローチ有難うルーフェス。大切にするわ。」
アンナも笑顔を見せてお礼を言うと、それからブローチに触れる彼の手を両手で包み込み、凛然と誓った。
「九日後、今度は私が貴方の誕生日を祝うわ。絶対にリチャード様を探して連れ戻してくるから、だから、ルーフェスも諦めないで待っていてね。」
「うん、分かった。」
ルーフェスはそう言って彼女の手を握り返すと、そのまま身体を引き寄せてアンナを抱きしめたのだった。
「ルー……」
突然の事に驚いて彼の名を呼ぼうとしたが、それより前に、ルーフェスは耳元で囁いた。
「アンナを信じて待ってるよ。でも、絶対に無理はしないでね。」
「……うん……」
力強く抱きしめられてアンナは戸惑うも、彼の腕の中で小さく返事をした。
それから、今だけはこの温もりを手離したくなくて、彼の背中に腕を回してそっと抱き返したのだった。




