52. ヴァーミリオンの想い出
あまりにも情報量の多い一日だったので、アンナはいつもより疲弊してベッドに入ると、そのまま瞬く間に深い眠りへと落ちて懐かしい夢へと誘われていた。
それはアンナが十歳の時に、クライトゥール公爵家のガーデンパーティーに招かれた時の記憶で、夢となってアンナに蘇って来たのだった。
◆
その日アンナは公爵家のガーデンパーティーに招待されていたのだが、お手洗いに行くために会場から離れたら、そのままパーティー会場とは別の庭園に迷い込んでしまったのだった。
先程までの華やかで騒がしいパーティー会場とは違い、しんとしてそれでいて四季の花が美しく咲き乱れているその庭は、まるで幻想の世界に入り込んだ様であったが、先程までいた会場と違い賑やかさが完全に消え失せた人気のない静寂のこの場所に、アンナは少し怖くなっていた。
ふと、生垣の向こうに、人の気配を感じて覗き込むと、そこには自分と同じくらいの年頃の銀髪の男の子が剣の素振りを行っていたのだった。
「あのっ……!!」
人が居たことに安堵して、アンナは迷わず男の子に声を掛けると、男の子はびっくりした顔でこちらを見た。
「誰……?」
「怪しいものじゃないです、招待客です。アンナ・ラディウスと言います。お手洗いからパーティー会場に戻る時に道を間違えてしまったみたいで、ここに辿り着いたの。」
アンナが慌てて説明をすると、少年は困った様に彼女を眺めた。
「君はアンナって言うの?」
「はい。」
「僕は……」
「リチャード様よね。先ほどお見かけしたわ。この公爵家の嫡男様の。」
アンナは目の前の少年の姿を先程ガーデンパーティーの中心で見かけていたので、得意げに笑うと彼が名乗る前に名前を言い当てて見せたのだった。
するとその男の子は酷く困惑した顔で一瞬押し黙ったが、直ぐに真面目な顔になってアンナに優しく語りかけた。
「パーティー会場はここから反対側ですよ。真反対。誰かに案内させましょう。」
「貴方は戻らないの?」
「僕はあそこには居てはいけないので。」
主賓側なのにパーティー会場に居てはいけないとはどういう事だろう?子供ながらに疑問に思ったが、しかし彼女の興味は直ぐに別のものに奪われたのだった。
「ねぇ、それは貴方の剣なの?」
アンナは男の子の手の中にある、細身の剣を見ると、まるで宝物でも見つけたかのように目を輝かせたのだ。
「うん。練習用の模造刀だよ。本物の剣は危ないからってまだ持たせてもらえない。君は剣に興味があるの?」
「うん、剣術は好きよ。お父様が直々に教えてくれるから。うちは騎士上がりの男爵だし、娘の私も小さい時から剣を持たされているんだ。」
そう言うとアンナは抜刀する仕草をしてみせた。
「それって親にやらされてるの?嫌じゃないの?」
「全然?剣の練習楽しいよ。そもそも、私身体を動かすのが好きだから。貴方は違うの?熱心に一人で素振りしてた位だから、好きなんじゃないの?」
「僕の場合は好き……とはちょっと違うかな。これは訓練。絶対に必要な訓練だからね。必死にやってるよ。でも、僕も身体を動かすのは好きだな。」
そう言うと少年は、やっとアンナに対して笑顔を見せたのだった。
「ねぇ、私、貴方と手合わせしてみたいわ!!」
「えっ?!今?!!」
唐突な彼女からの申し出に、少年は思わず大きな声を上げて驚いた。まさかドレスを着た令嬢から模擬戦を申し込まれるなどとは思ってもみなかったからだ。
「うん。駄目かな?私自分と同じくらいの子供と手合わせしてみたいのよ。」
「残念だけど無理だよ。剣が一本しか無いからね。」
アンナは縋るような目でお願いしてみたが、彼は冷静にそれを断ったのだった。
アンナはしょんぼりと肩を落とすも、直ぐに気持ちを切り替えて、別の提案を彼に持ちかけた。
「よし、じゃあ他の事で遊びましょう。」
「は?!なんでそうなるの?!」
さっきから突飛な事ばかり言う彼女に、少年は振り回されっぱなしだった。
「だって、パーティー会場にいてもつまらなかったんだもん。貴方だって退屈だからぬけだしてきたんじゃないの?」
「けど、君遊ぶって……その格好で外遊びをするつもりなの?」
「あっ……」
彼に指摘されて、アンナは今、自分がパーティー用のドレスを着飾っている事を思い出した。
「……大丈夫、きっと大丈夫!!」
「僕は全然大丈夫じゃないと思うよ?だめだよ、折角綺麗な格好してるんだから。ドレスを汚したら怒られるんじゃないの?」
呆れたように彼女を諭すと、アンナは少し悲しそうな顔をした。
「あー……。実は既に汚れてるんだよね……」
そう言って、彼女は先ほどかけられたジュースの染みを彼に見せたのだった。
「飲み物こぼしたの?」
「違うわよ、全然知らない子に意地悪な事を言われてジュースをかけられたの。爵位が低いから、こういった身分が高い人のパーティーだと、意地悪されること多いの。だから向こうにあまり戻りたくないのよね……」
アンナはそう言うと、悲しそうな表情のままそれを押し隠すかのように笑ってみせた。
「意地悪されること、親には言ったの?」
少年はそんなアンナの様子を見て、心配になったのか優しい口調でそう問いかけると、アンナは首を横に振った。
「言えないよ。爵位が低い者が上の者に抗議なんて出来るわけないから言ってもお父様を困らせるだけだもの。私がちょっと嫌な思いをするだけで、収まるんだからそれでいいのよ。」
「でも、君がそのちょっとの嫌な思いでも傷付くよ。」
「気遣ってくれて、有難う。でも、私が我慢すれば解決する事なら我慢できるよ。周りのみんなを困らせたくないんだ。」
そう言ってアンナは、若干十歳の子供とは思えない憂いを帯びた物悲しい顔で微笑んだのだった。
「……そっか。じゃあ、既に汚れてるんならもっと汚れても良いよね。何して遊ぼうか?」
いじらしく話す彼女に、少年は思わず心を動かされた。そして本当はいけない事なのに、彼女が元気になれるのならばと一緒に遊ぶ事を承諾したのだった。
「本当?!それならこのお庭を案内して!ここはとても素敵な庭園ね。」
彼の言葉に嬉しくなって、アンナは顔を綻ばせながらお願いをした。
「あれ?そんなことで良いの?」
今までの彼女の言動から、彼はもっと体を動かす遊びを要求されると思っていたので、この要望は些か拍子抜けだったのだが、けれども彼女は、悪戯っぽく笑うと彼の手を取って追加で注文を付け加えたのだった。
「案内してもらった後で、ここでかくれんぼをしましょう!」
「分かった。おいで、先ず庭を案内してあげるよ。」
そう言うと少年も笑って、彼女の手を引いて庭のお気に入りの場所へ案内したのだった。
アンナと少年は誰にも邪魔されず、二人だけで力一杯遊び尽くした。あまりに彼と遊ぶのが楽しかったので、つい、時間が経つのを忘れてしまっていたが、気がついたら既に辺りは暗くなっていた。
「大分暗くなってきたね、そろそろパーティーも終わる頃じゃないかな?戻った方が良いよ。」
名残惜しかったが、少年は遊びを切り上げると、彼女に元いた場所に戻るようにと促した。
「本当だもうこんなに暗くなって……、あっ、見て、凄い夕焼け!!」
そう言って彼女が西の空を指さすと、そこには美しい朱色が広がっていた。
「ねぇ知ってる?今日みたいなちょっとオレンジがかってる夕焼けはヴァーミリオンって言うんだよ。綺麗だよね、私この色が一番好きなんだ。」
「知らなかった。ヴァーミリオンっていう色なのか。本当に綺麗な色だね。」
少年にとってはこの庭からの夕焼けは見慣れたなんの変哲もない景色の筈だったが、今日は何故だかとても輝いて見えた。
隣に立つ少女を見ると、彼女も輝いて見えて、なんだか胸がドキドキしていた。
「完全に暗くなってしまう前に、会場に戻った方がいいよ。誰かに送らせるよ。」
「貴方は戻らないの?」
「僕は行けないんだよ。だから、ここでお別れだ。」
彼女と離れがたく感じでいたが、少年は右手を差し出して、別れの握手をしようと彼女に提案した。
するとアンナはにっこりと微笑んで、差し出された手を両手で包み込むように握った。
「普段はこういったパーティー、嫌だったんだけど、今日は本当に楽しかったわ!」
「僕も!僕も凄く楽しかったよ!」
お互いに微笑み合うと、手をしっかりと握った。
「遊んでくれて有難う、リチャード様!」
アンナは心から感謝の気持ちを伝えると、それを聞いて少年は酷く悲しそうな顔をしてアンナに一つ忠告をしたのだった。
「今日の事は二人だけの秘密だよ。僕とここで会った事は絶対に誰にも言ってはいけないよ。」
「分かったわ。パーティーをサボっていた事がバレたら怒られるものね。誰にも言わないわ。二人だけの秘密ね。」
彼に笑顔でそう答えたところで、アンナは目を覚ました。
◇
目が覚めても、アンナは夢の内容を、幼い頃の想い出を思い返してしばらく起き上がれないでいた。
あの日は結局ドレスを土で汚し、枝に引っ掛けて破いて、終いには父から借りてた国王陛下から賜った大切なブローチまで落としてしまって大目玉を喰らったんだったと懐かしく思った。
(そうよ、思い出した……。私は、子供の頃にルーフェスと会っているんだわ……)
アンナは目を瞑りながら夢の内容を反芻した。そして、あの日庭で遊んだあの少年こそが、ルーフェスであったと気付いたのだ。
(ちょっと待って、そう言えばルーフェスはあの時こう言ってたわ……)
アンナは以前馬車の中でルーフェスに
「何であの日私を助けようって思ったの?」
と訊ねて、その理由が
「初恋の女の子と同じ名前だったから」
と教えてもらった時のことを思い出していた。
(私、子供の時確かに名乗ったわよね。アンナ・ラディウスって……)
「もしかして……私だったの……?」
ルーフェスの言うアンナという名の彼の初恋の少女が自分かもしれないと思い当たって、アンナは顔を赤くして布団を被った。
(もし、本当にそうだったら嬉しいけど……)
それから、アンナはルーフェスから高台で夕日を見せてもらった時のことも思い出した。あの時彼は、朱色の夕焼けを僕の一番好きな色と言って彼女に見せたのだった。
「あっ……ヴァーミリオン……」
一般的に夕焼けはスカーレットと称されることが多いのに、ルーフェスは夕焼けをヴァーミリオンと認識し、一番好きな色だと言ったのだ。それは、あの日アンナが言った言葉だった。
彼はあの庭園での想い出を覚えているだろうと確信した。
(けれど彼は、私があの時のアンナだと分かっているのだろうか?)
(もし、私があの時の娘だと分かったら彼はどんな反応をするのだろうか。)
そんな事を考えながらベッドの上で身悶えていたアンナだったが、しばらく経って起き上がると、念入りに身支度を整えて、冒険者ギルドへと向かったのだった。
(あぁ、早く会って、ちゃんと彼と話がしたいな。)
しかしアンナのこの願いは、叶わなかった。
また明日と言って別れた後、ルーフェスは連絡が途絶えたのだった。




