いつも意地悪な婚約者が小鳥には素直だったので復讐してやることにした
「聞いたぞ、ジェニー! お前また赤点だったんだってな。この学園創始者の孫である俺の婚約者としての自覚があるのかド阿呆め」
うわぁ……今日も始まったよと、呼び出された階段の踊り場で、私は上から睨め付けてくる婚約者ヴィンセントを前に苦い顔を作った。
この男はいま自分で言ったように、この国内有数の名門魔法学園創始者の孫で成績優秀者の一人でもあるエリートだ。
だから自分で言うのも虚しいけど、田舎の農村育ちで明晰な頭脳を持っているわけでも飛び抜けた魔法の素質があるわけでもない凡庸な私を、いつもこうやって見下してくる。
まぁ、また赤点取ったのは自分でもマズいなって思ってるけど。
「まだ初歩も初歩な魔法学のしかも座学で躓くとは、逆にどうやったら出来るのかご教授頂きたいものだ。勉強していないならまだしも、この俺がわざわざ教えてやってこれなんだからな、底抜けの阿呆が。これだから田舎出の凡人は……大体——」
そりゃぁ、不甲斐ないですよとの意を込めて、私は口を尖らせる。
でも元々素質にも環境にも恵まれて素養があったヴィンセントには、畑で野菜盗み食いして怒られるのが日常だった私に魔法学は難解すぎて理解できないってことを理解できないみたいだから教えてもらっても理解できないのよ。
教える時だけめっちゃ早口になるから聞き取れないし。
それにさ、言い訳させてもらえば、私がこの学園に入学させられ……もとい出来ているのはこの男の婚約者だからでしかないのよ。
本来なら足切りされて然るべきところを、将来は魔法使いの名門一家の一員になるんだから花嫁修行的に魔法を齧っておけってことで捩じ込まれてるのよ。
素質ないのに、跡取りの婚約者ってことで多分見えない力が働いて。
だからついていけないのも当然だと思うのよ。
辛いんですこっちも、肩身狭いんです本当。
勉強してもしても追いつけない阿呆の自覚ありますから。
それなのに婚約者だからってだけで、こんな名門で優秀な人達と肩を並べて学ばせて頂いてて本当申し訳——
「いったぁっ!」
ガッと、急に顎を引っ掴まれて無理矢理上向かされたため、私は痛い痛いと悲鳴をあげた。
「人が話してる時はちゃんと目を見て聞け。床のゴミを足先でタイルの溝に詰めようとしてんじゃねぇ。田舎くせぇ遊びを都会ですんな! 今すんな!」
「し、してない、です」
やだ、気づかれてた。本当よく見てるこの人。
でもだって話長いんだもん。
いつもいつもお説教っていうか阿呆だマヌケだって嫌味満載の小言ばっかりで、二言目には田舎者って馬鹿にして。実際、田舎出の馬鹿だけど。
自覚してるんだから毎日毎日言わなくても良いと思うんだけどな。
「なんだその膨らませた頬は、元から微妙な顔が余計ファニーになるぞ。言いたいことがあるなら言ってみろ」
「……な、ないです。私が悪いです、ごめんなさい」
いけない、私って感情がすぐ顔に出ちゃうのよね。
でも素直に謝ったから、ヴィンセントはようやく手を離してくれた。
「チッ。こんな落ちこぼれを婚約者に持った俺の身に少しはなってみろ」
「……だったら解消すればいいじゃない。私はその方がいいんだけど」
「……今なんと言った?」
聞こえないように呟いたのに拾うんだもん、嫌になっちゃう。
この人こんだけ馬鹿にしてくるくせに、私が婚約解消を口にすると物凄く怒るのよね。
まぁ、こちらは解消を願い出れない立場だから、わかって言ってんのかって怒りなんでしょうけど。
「お前の立場でよく言えたな」
ほらね。
「いいのか? お前の実家の農場にうちからの出資がなくなっても。お前の親は困るだろうがな?」
そうなのよ、どうもそうらしいのよね。
詳しく知らないんだけど、私がヴィンセントと婚約したことで資金援助してもらえてるらしいのよ。
これがこちらから破談に出来ない理由なんだわ。そんなに困ってたのかな、うちの家。
「我が家にも多少のメリットがあるから、仕方なくこの俺が渋々お前のような取り柄もなくパッとしない田舎娘と婚約してやっているのに、それを、お前の方から、解消してもいい、だと?」
「……ごめんなさい、弁えてませんでした。ヴィンセントと婚約できて幸せです。わーい!」
私が棒読みながらそう言うと、顔を顰めていたヴィンセントの怒りがどうにか治まったようだった。
「……そうだ、お前の阿呆さ加減に頭に血が昇って忘れるところだった。手を出せ」
わ! やった! 毎日の嫌味攻撃を逃げずに耐えるのはこの為なのよ。
「はい!」
言われた通り両手を差し出すと、ポンと、可愛くラッピングされた小さな包みが乗せられた。
中には星形の小さな焼き菓子が詰まっている。今日はクッキーかな?
開けるのが楽しみで思わずニヤニヤしちゃう。
「うちのパティシエからだ。これを励みに勉強に身を入れろ」
「はい! いつもありがとうございますとお伝えください!」
「……本当に単細胞だな。食い物を目にした途端、阿呆みたいに浮かれて。次に赤点取ったらその菓子ももうやらないからな。後で見てやるから、復習を怠るなよ」
「はぁい! 頑張ります!」
そう言うと、小言をいい終えたヴィンセントはスタスタと階段を降りて行った。
「……ふぅ、やっと終わったよ。毎日毎日、怖い顔して睨んできて、よく嫌味が尽きないよね。本当意地の悪い性格してる」
私はさっそく包みを開けながら一息ついた。
星型の中に一つだけハート型が混ざっていたクッキーは今日も美味しい。
このお菓子を心の拠り所に学園生活をなんとか頑張っているわけだけど、入学してからはや数ヶ月、毎日叱られてて流石に心が折れかかってる。
「……なんで私なんだろう」
実家の農場とヴィンセントの家の間で何かしらの利害があるからだろうけど、婚約なんてしなくちゃいけないものなんだろうか。
ヴィンセントの家は名門って言われる立派な家柄なんだから、それこそ魔法局の高官とか名家の娘さんと縁談がありそうなもんだけど。
「ま、でもあの嫌味ったらしい性格じゃ敬遠されちゃうかぁ。子どもの時だってしばらく田舎に来てたのは、周りと馴染めなかったからって聞いたし」
彼は都会生まれの都会っ子だけど、幼い頃はうちの村で過ごしていた。
村に子供は少ないし、年も一つしか違わなかったから準幼なじみって感じで、私とヴィンセントは自然と一緒に遊んでた。
上から目線は昔からだけど、今みたいに意地悪な奴じゃなかったしね。
その印象があったから、彼が都会に帰ってしばらくしてから婚約って話になった時にもすんなり受け入れちゃったんだよね。
子どもの内に婚約なんて田舎の庶民の文化になかったから、良く理解してなかったってのもあるんだけど。
「でもあの時の選択は間違いだったなって今は思ってる。村にはいないタイプのシュッとしたオシャレな顔立ちしてて正直カッコ良いって思ってたし、アシメの前髪に受けた衝撃を忘れられないままだったから受け入れちゃったけどさ……」
私は踊り場の窓から中庭を見下ろしてみる。ガゼボや花のアーチの下で語らう恋人たちが見えた。
「さすが名門校。じょーりゅー階級のお子さん達がいっぱいいるからか、婚約してるって人達同士も珍しくない。でもその人達ってば私とヴィンセントと違ってすごく仲良くて楽しそうなんだよね。婚約って幸せなものなんだって初めて知ったよ。修行じゃないんだってさ!」
仲良さそうな恋人達を眺めていると沸々と怒りに似た感情が湧いてきた。
私はクッキーの残りを一気に口に放り込んで、カップル達を恨みがましく睨んだ。彼らに関係ないんだけどね。
「なんで私だけがこんな我慢して婚約してなきゃいけないんだろう? 実家が困るって言うけど、いいわよ! 丈夫に産んでもらったんだもの、肉体労働ドンと来いで私がバリバリ働いて支えるから! ヴィンセントだって私に呆れてるんだから、慰謝料だなんだの面倒事がなければ本音では別れたいでしょうし。もう限界よ。今日で全部おしまいにしてやる」
私はついに決意して懐から杖を取り出した。そして顔の前に垂直に構えると呪文を唱えた。
「メタモ!」
シューッと音がして白煙が私を包んだ。
視界がすっかり真っ白になった時、ボンッと一つ爆発音がしたため咄嗟に目を瞑る。
失敗したか、と恐るおそる目を開けると、私は青い小鳥になって窓枠に止まっていた。
「ピピッ!(やった、成功!)」
計画はこうよ。
このまま鳥になって行方を眩まし、なし崩し的に婚約を破棄させるの。
もちろん実家には、困らないように飛んでいった先で日雇い人夫でもなんでもやって仕送りするわ。
「ピーッ、ピッピッピ(我ながら完璧な作戦。それじゃぁね、ヴィンセント。学園はなんだかんだ楽しかったわ、さようなら)」
私は廊下に向かってそう囀ると、踊り場の窓から外へ向かって羽ばたいた。
ああ、これで自由だわ。このままあいつと結婚して毎日小言を聞かされる人生とはおさらばよ!
そう思えたのは一瞬で、窓枠から鳥足が離れた途端、私は真っ逆さまに墜落し、真下にあった植え込みの中に埋もれた。
「ピーーーッ⁈(はっ⁈ 鳥になってもコンプレックスの手足の短さが反映されてて身体のわりに翼が小さいだと⁈)」
こんなんじゃ満足に飛べないわ。
一旦戻ろうと思ったけど、そういえばこの魔法ってどうやって解くんだっけ?
時間が経ったら勝手に解ける系だっけ?
やばい、ちゃんと調べてなかった。だから阿呆だって言われるんだ。
え、戻れるよね?
やばい、やばいと引っかかった羽根をバタバタさせていると、暖かい何かに包まれて突然身体が浮き上がった。
「なんだお前、落っこちたのか? 血が出てるな」
その声に私はビクンと身体を震わせ、状況を察する。
私を持ち上げるこの暖かいのは人の掌で、そしてその持ち主がヴィンセントであるということを。
そろそろと振り仰ぐと、ヴィンセントが普段よりもさらに上から目線で私を見下ろしていた。
「なんかお前……身体のバランスがおかしくないか? 翼が小さくてケツがデカい……手足の短いジェニーみたいだ」
「ピギョッ⁈(えっ⁈ バレた⁈)」
「可愛いな。よし、手当てしてやる」
結構だわ、離してよ。私だってバレたら何言われるかわかんないし、気が変わったって言って握りつぶされたら堪んないわ。
必死に暴れて逃げようとしたけど、ヴィンセントは私を掴んだまま寮の方へ向かって行った。
♢
「ちょっと待ってろ、逃げるなよ」
自室に戻ったヴィンセントは私を机の上に転がして救急セットを探しだした。
わぁ、男子寮初めて入った。へぇ、一人部屋なんだ。綺麗にしてる……じゃない、早く逃げなきゃ。
ゴロゴロと机上を転がって逃げようとした私だったけど、すぐに広げられた本の山に行く手を遮られた。
「チッ」
「なんだ、それが気になるか?」
戻ってきちゃったヴィンセントが、広げられた本の一つを私に見せてきた。付箋やメモがいっぱい付けられている。
「わかるか? これはな菓子のレシピ本だ。ここに載ってるのは大体作ったな」
「ピ(お菓子作りが趣味なんて初めて知ったんだけど)」
「これは初心者用のだから、そろそろ腕も上がってきたし中級者用の指南書に移ろうと思っているんだ。統計も大分取れたしな」
統計? って何のと首を傾げると、ヴィンセントはニッと笑った。
「あいつの好みだ。しっとり系よりは、サクサクザクザクといった食感がはっきりしてる方が好きなようなんだ。でもキャラメル状のねっとりした物は苦手で、渡した時点でそうと分かるとちょっと嫌な顔する。まぁ、それが見たくてたまにわざと渡す時もあるが」
……ん? この人なんの話してんの?
あいつの好みって……確かに私は歯使ってますって感じの食感が好きだけど……まさか?
「次はこのチョコを作ろうと思ってるんだ。だが悩んでいてな、混ぜ込むのはパフにするかナッツにするか……ジェニーはどっちが好きだろうか」
「ピエッ⁈(嘘でしょ⁈ もしかして毎日もらってたあのお菓子ヴィンセントが作ってた⁈)」
確かに言われてみたら、パティシエが作ったにしてはクッキーとかブラウニーとか素人っぽさのあるお菓子ばっかりだったけど……なんでそんなこと、と私が驚愕して見つめると、ヴィンセントはレシピ本からこちらに目を移してへらぁっと笑った。
こんな顔見たことない。
「あぁ、ジェニーって言うのはな俺の婚約者で……ものすごく可愛いんだ」
「……ピョォゥッ⁈」
は⁈ え⁈ なんて⁈
「田舎出の阿呆で取り立てて取り柄もないし、顔も十人並みで手足の短いチビなんだがな」
なんださっきのは聞き間違いだったみたい。いつも通りの悪口全開だわ。
「感情がすぐに顔に出る奴なんだ。ちょっとしたことでコロコロ変わる。特に食べ物を前にすると単純だからすぐにニコニコしだすんだが、それがものすごく嬉しそうで、堪らなく可愛い」
聞き間違いではなかったようで、もう一度そう言ったヴィンセントは抑えられないといった風にニヤニヤと笑いだした。
「昔からそうなんだ。ああ、俺とあいつは幼なじみみたいなもので、よく一緒に遊んでた。畑から勝手に野菜を掠めたりもしたな。あいつは見つかると顔に出るから誤魔化せずにすぐバレるんだ。でも叱られて泣いてたのに、俺の——俺は叱られるようなヘマはしない——を分けてやると、すぐ笑顔が戻る。そういう単純で明るい所が昔から好きなんだ」
「ピュギ……(嘘でしょ……本気で言ってんの?)」
ヴィンセントの思いがけない発言に、逃げ出すことも忘れて私は固まってしまう。
こんなヘラヘラして頬を赤らめてる彼を未だかつて見たことがない。
なんだか知らない生き物になったヴィンセントは、尚も小鳥の私に饒舌に語りかけてくる。
「実はな、この婚約も俺が相当なわがままを言って実現させたんだ。名家のご令嬢との縁談も色々あったんだが、その度にジェニーが相手じゃなきゃ嫌だと騒いで屋根から飛び降りたりしたもんだから、ついに父が青くなってあいつの実家に頼み込みに行ったんだ。無理をいってなんとか承諾してもらえて、ジェニーからも拒否されずに成立した時は嬉しかったな」
「……ピィ(……え? 資金援助云々の話は?)」
「でもジェニーには、あいつの実家が援助を求めたからってことにしてある。だって、俺が泣き喚いて命を盾にしてまで婚約させてもらったなんて知ったら、引くだろ。俺は引くよ。カッコ悪すぎるし重すぎる。嫌われたくない」
引いてるわ、めちゃくちゃね。
私の知ってるヴィンセントとのギャップが凄すぎて、いま目の前で終始照れ臭そうにニマニマしてるのが本人だと思えないんだもの。
「まぁ、でもちょっと考えたらありえない婚約だってわかりそうなものなんだけどな。あいつの実家の作物は高級品で販路もしっかり確保してるし、取引待ちの列も出来てるくらいだ。援助なんて必要ない。なんなら婚約したことでうちに優先的に安価で品を卸してくれるから、学食の質が爆上がりで学園の評判を上げるのに一役買っているんだ。今じゃ助かってるのはこっちで、もしも婚約破棄されたら困るのもこっちだ」
「ピ、ピピ……(そうなんだ、知らなかった……どうりで盗んだら死ぬほど怒られたわけだ)」
「そう、困るのは俺だ……婚約破棄されたら」
すると今まで楽しそうにしていたヴィンセントが急に暗い顔をして、思い出したように私の羽の手当てを始めた。
「……最近あいつがよく口にするんだ、婚約破棄って。阿呆だから何も考えずに承諾して、最近になって色々考え始めたんだろうな……その阿呆につけ込んで婚約させたのは俺だけど」
くるくると包帯を巻いてくれるヴィンセントは泣くのを我慢する子どもみたいな顔になっている。
「わかってる、あいつが俺を慕って婚約してるわけじゃないって。でも側にいればいつかはそうなれると思って学園にも捩じ込んでもらったんだ。阿呆は流石に入れられないと言われたが、成績も俺が落とさせないと約束して。まぁ、最終的には学園の屋上から飛び降りると脅したんだが」
「ピーッ!(命を盾にすなって!)」
「言わないでくれ、自分がヤバい奴なのはわかってる。でも田舎に置いといたら変な虫に言い寄られるかもしれないだろ? ここなら俺の婚約者だと皆わかっているから言い寄る奴もいないし安全だ。離れていた分の時間を埋めるのにもうってつけだし、何より、こ、恋人と一緒に学校に通いたいだろ?」
婚約者ではあるけど恋人ではないと思うのよ、と言おうとしたけど、顔を赤くしているヴィンセントにつられたのか私まで熱くなってきて言葉が出なくなる。
「でも、ここまでしてジェニーを呼び寄せたのに、何故だかあいつを前にすると優しく出来なくなるんだ。つい意地の悪いことを言ってキツくあたってしまう。それが毎日じゃ婚約破棄を考えもするよな。最近は呼び出すと嫌そうな顔して来るからな、あいつ」
怒られるってわかってるからね。でもそこまで露骨な顔してたつもりは……。
「だけど、毎日お菓子で餌付けしてバッチリ胃袋は掴んでるし、今日は顎クイにも挑戦したんだ! ああいうの好きだろ女子って」
え⁈ あれ顎クイだったの?
顎ガッ首グキィッだったけど?
「放課後だって勉強を名目に毎日一緒に過ごしてる。あいつ阿呆だから二分しか集中が持たないんだ。でもなんとかその二分の間に全部教え終えれば、残りは二人の時間を満喫できる。教え終わった後は、あいつ目と口がぽっかり開いたまんま動かなくなるからちっとも仲を進展させられやしないけど、それでも時間を重ねるって重要な事だろ?」
早口なのってそういう理由だったんだ。
ごめん、阿呆で。
「好きになってもらえるように努力はしてみてるんだ。でも、どうしても、ジェニーを前にすると素直に気持ちを言えなくなる。阿呆だまぬけだってあんなこと言いたいわけじゃない。でも……こんなんじゃ嫌われる」
手当を終えたヴィンセントは堪りかねたように額を押さえた。
「どうしてもジェニーが良いんだ。小さい頃から俺の周りには俺を利用したい奴らばかりだった。皆媚びるような不気味な顔で、俺はそれで不安定になって療養のために田舎に行った。そこで出会ったのがジェニーだ。あいつは阿呆で単純で、全部顔に出る。嫌な時は顔を顰めて、楽しい時はとびきり明るく笑うんだ。そんな裏表のないあいつにすごく安心して癒された。今だってそうだ。俺にはジェニーの明るさが必要なんだ」
なのに俺は、とヴィンセントは深いため息を吐いて俯き、しばらくそうしたままでいた。
そして、落ち着いたのか顔を上げると、思い馳せるように窓の外に目をやった。
「……棒読みだったけど、今日、俺と婚約できて幸せってあいつが言ってくれたんだ。すごく嬉しかった。いつか、本気でそう言ってくれる日が来たらいいな」
見たことない儚げな笑みを浮かべて、ヴィンセントは呟くようにそう言った。
そんな顔してそんなこと言われたら、逃げ出したかった気持ちはどんどん薄れて、代わりに別の感情に胸が占められる。
それをどう処理したらいいのか戸惑っていると、ヴィンセントがふと私に目を向けた。
「……あれ? お前、確か青くなかったか? なんか色が……赤くなってる? 色が変わる鳥なんて、珍しい体型してるし新種か? ちょっと調べるか。逃げるなよ」
そう言ってヴィンセントが部屋から出て行ったのと時を同じくして、唐突に身体がむずむずしてきた私はパンという破裂音と共に元の身体に戻った。
「良かった! 戻れた!」
でも良くない!
ここはヴィンセントの部屋の机の上。破裂音に気づいて戻ってくる足音がしてる。
見つかったらまずいと咄嗟に窓から外に飛び出てみると、なんと三階。地面は遥か下だった。
だけど、そこは猿に転生し損ねた猿の異名を取る私。
するすると壁を伝い降りて植え込みに身を隠した。
頭上から鳥を探すヴィンセントの声がする中、ひとまず男子寮に侵入した罪からは逃れられた。
だけど、変化の魔法で逃げ出す計画は練り直しだし、なによりあんな話を聞いてしまっては婚約破棄なんてもう……。
私はまだ熱いままの頬を押さえてため息をついた。
「明日からどんな顔したらいいのよ」
♢
——翌日
「この阿呆め! 許可なく魔法を使用したとはどういうことだ! 場合によっては退学になるんだぞわかってるのか!」
小鳥に語りかけていた昨日の姿が嘘のように、ヴィンセントは今日も変わらず厳しい目つきで私を睨みつけてくる。
あんな独白を聞いてしまって、今日どんな顔して会えばいいのか悩んでた私が馬鹿みたいなくらい普段どおり。
「ただの阿呆ならまだしも規則も守れない阿呆なら猿以下だ。反省しろ!」
「……してます」
昨日はあんなにふにゃふにゃと私への愛を語っていたくせに、信じられないほどの阿呆の連発。
非は私にあるとはいえ、昨日の小鳥が私と知らないとはいえ、とはいえですよ。
こっちは碌に眠れないくらい悩んだっていうのに、あれ夢だったのかな。
「なんだそのムッとしてるのか、はにかんでるのか微妙な顔は。本当に反省してるのか? まったく、お前のようなのが何で俺の婚約者なんだ! 毎日毎日、気苦労が絶えない!」
私が良いって、私じゃなきゃヤダってあなたが散々駄々捏ねたからじゃありませんでしたっけ?
どっちが本心なのよ、と寝不足もあってイライラしてきた私は、ちょっとやり返したくなってきた。
「だったら婚約破棄しましょうよ」
ついにそうはっきり言ってやると、ヴィンセントは一瞬狼狽えた様子を見せてから、すぐに怒った顔に変わった。
「……お前、立場がわかってて——」
「わかってるわ。実家が困るって言うんでしょ? いいわよ、私が荷運びでも炭坑夫でもなんでもして稼ぐから」
「そ——それは、でも」
私の強気な態度にヴィンセントは怯んだのか、しどろもどろな口調になった。
尻尾を巻いた犬みたいに急に弱気になった彼の珍しさに、私はさらに畳み掛ける。
「ヴィンセントだって私のような女が婚約者で迷惑でしょ? いいじゃない、お互い同意してるんだから破棄しましょ」
「そんな……ことは——俺達だけで決められることじゃ」
「当事者同士が無理って言ってるんだから継続なんて無理よ! それに、元々名門家系のエリートと田舎者の阿呆とで釣り合ってなかったじゃない。婚約自体が不自然だったんだから問題ないでしょ!」
「——な……っ!」
何か言い返そうとした様子のヴィンセントだったけど、言葉が見つからないのか愕然とした表情で口をパクパクさせるだけだった。
そんなにショックだったのかしら?
見たことない反応に、もうちょっとだけ意地悪したくなってくる。
「いい機会じゃない。婚約破棄しちゃいましょうよ。それとも何か不都合あって?」
「不都合って……それは……」
それは、と繰り返すヴィンセントは悔しそうに歯を食いしばりながら顔をみるみる赤くしていく。
深い皺が出来るくらい眉根をギュッと寄せて、睨むかと思いきや、その眼は捨てられた子犬のように哀しく潤んで見えた。
追い詰めたら昨日みたいに素直な言葉が出てくるのかと思っただけで、まさかプルプル震えてそんな反応するとは……。
想定外の態度に、うっかりしたら泣くんじゃないかと私もちょっと動揺する。
「……で、でも、そうね。このまま婚約破棄しちゃうと、毎日の美味しいお菓子が食べられなくなるから、それはちょっと……残念だなぁ」
私がそう言うと、ヴィンセントはパッと明るい表情に変わった。
「——! そ、そうだろ? お前もそろそろ都会のハイソな味に慣れただろうから、これからはもっとグレードの高い菓子を用意してやるぞ!」
「学園もなぁ……せっかく通わせてもらえてるからなぁ。勉強は難しいけど楽しいこともあるし」
「そうだぞ! これから学祭なんかのイベントも目白押しだから、今辞めるのは勿体無いぞ! お前の頭じゃ二度と入れないんだからな。勉強は今以上に俺がサポートしてやるから」
「でも教えてもらっても頭に入んないんだよね。もうちょっとゆっくり優しく教えてもらえたらなぁ……。一分勉強したら合間に二十分休憩するとかさ」
「合間の意味がわかってるのか? それじゃ休憩がメインだろうが。まぁ、勉強法は考えてやる。だから、な!」
必死に取り成してくるヴィンセントに私は思わず笑ってしまった。
狼狽えたり泣きかけたりしてたのに、ちょっとこっちが手を緩めたらパッと明るくなっちゃって。
表情だけは素直にコロコロ変えるんだもの、新鮮で可愛いとすら思っちゃう。
「まぁ、婚約破棄は今急いでしなくてもいいかな」
「そうだろ……いや、そうだな。お前がこれから真面目に勉学に励むというなら、もう少し猶予をやってもいい」
「そうね。あなたがそうやって素直に顔に出すのなら、態度の方も素直になるのを待ってあげてもいいわ」
何の話だと問い詰めるヴィンセントに、私は、ふふんと笑ってみせる。
あの小鳥が私だったことは当面言ってやらない。
なんなら、また小鳥になって潜入してやろうかしら。
あまりに意地悪だったら本心を揺さぶって狼狽えさせてやるわ。
これは素直にならない彼へのささやかな復讐よ。
いつか表情と同じように素直に伝えてくれる日が来たら、私ってほら単純らしいから、きっと素直に応えられると思うのよね。
「ああ、そうだ! 私ね、チョコレートはパフよりも、ナッツ入りの方が好き」
思い出したようにそう言うと、ヴィンセントがキョトンとした顔をした。私はにっこり微笑み返した。
「その方が好き」
お読みくださってありがとうございました。
また何処かでお目に留めていただけたら嬉しいです。