五夜 壱番地
着物なんて着たことが無い。何となく心許ないような気がして落ち着かず、足元も慣れない草履で歩き難い。
「壱番地って結構遠いんですか?」
出来ればそう遠くないと答えてほしい。もし遠ければ、きっと辿り着く前につま先が限界を迎えてしまいそうだ。何故こんな履きにくいものを履いてそんなにすたすた歩けるのかと、涼介は眞白と青葉の背中をじっと見る。
家を出た時よりも空は暗くなり、街はがやがやと賑やかだ。何処かの店からまた昨日と同じような和楽器の音がする。
「そうじゃなあ…歩いて行くとかなりあるかの」
「…俺、多分そんなに歩けないです」
「大丈夫じゃよ。わしとてそう歩きたくはないからな」
何か乗り物でもあるのだろうか。便利なものは取り入れると言っていたし、車とか、電車とか何かしらがあって、それを使うのだろうか。
「荷物を持ってくる。すまんがちと待っとれ」
家の玄関をがらがらと開き、眞白は
一人階段を上って行った。どうすべきかともぞもぞ足を動かすが、青葉が外で待っているので、涼介も一緒になって外で待つことにした。
興味深そうに此方を見る女性。興味無さげに忙しく動き回る男性。色々な人がいるなと面白く思うが、此処にいるのは全員人間ではないという事を思い出し、ほんの少し唇を噛んだ。
青葉が隣にいるおかげか、遠目から見られる程度で傍に寄ってくるような事はない。だが、何となくのイメージで妖怪という存在は悪戯好きだったり、鬼なんて生き物は人間を襲うようなイメージが刷り込まれていた。ほんのりと背筋が寒くなった気がする。風呂上りで温まった筈の身体が、足の先がひんやりと体温を失っていく。
「待たせてすまんな。どうした童、顔色が悪い」
「なんでも、ないです」
口角の上がった、にこにこと微笑む眞白とて、人間に見えて人間では無いのだ。隣に立っている青葉も、眞白の後ろから此方を睨む弥太朗も。
今までこの三人ならば大丈夫だという漠然とした安心感を抱いていた事に気付いた。気付いた途端、喉の奥が張り付いたような気がした。
「お前みたいな霊力の欠片も無い不味そうな人間なんぞ、眞白様が食う筈が無いだろ」
「へ…?」
「ははあ…急に人間がお前さん一人じゃと思い出して、わしらに食われるとでも思うて恐ろしゅうなったか」
けらけらと笑う眞白が、ぽんぽんと涼介の肩を叩く。何故弥太朗が涼介の考えている事が分かったのかは分からないが、食わないと大笑いしている眞白を見る限り、今まで通り信頼しても良いのだろうか。
「それも含めてきちんと説明してやろうな。すまんがお偉方がお待ちなんでな、着いてから話すぞ。アオ、ヤタ、留守は任せた」
一通り笑って満足したのか、眞白は二人に軽く手を振ると、涼介を連れて歩き出す。
歩いている最中びくびくしてしまうのは、時折明らかに人間とは違う造形の生き物がいるからだ。眞白に置いて行かれないよう、目立つ柄の着物の背中を追いかける。
「眞白様ぁ、今日もいらっしゃらないの?」
「嫌じゃよぉ、お前さんとこは高いんじゃ」
「その分上玉が揃ってるじゃないのさ」
「今日は仕事での。諦めとくれ」
ひらひらと手を振る眞白は、あらゆる場所から声を掛けられている。それが常なのか、眞白はにこやかに会話をしながら通りをするすると歩いて行く。
通りに出ている者は、美形ばかりだった。吉原のような場所と言っていたから、美形ばかりで当たり前なのだろうが、涼介にはどうにも居心地が悪い。早くこの大通りを抜けてしまいたい。履きなれない草履で歩く土の道は、足がしゃりしゃりとして気持ちが悪かった。
「もう着く。あまり怯えんでも、わしから離れなければ大丈夫じゃよ」
びくびくと怯えながら歩く涼介に苦笑しながら、眞白は聳え立つ大きな門を指差した。
やけに大きく頑丈そうなそれは、細かな細工を施された見事な扉をもっている。
「眞白様、お出かけですか」
「壱番地にちと用がの。通してもらえるか」
「はい、どうぞ」
昨日見た一つ目の大男。やけに丁寧な口調で、恭しく眞白に頭を下げて門扉を開く。扉は金属製の大きなものだったが、一つ目にとっては大したことのない重さのように、あっさりと開かれた。
中は薄暗く、沢山の蝋燭が灯された小部屋になっていた。ひやりと冷たい空気に尻込みするが、眞白はさっさと先に入って行ってしまう。一つ目が此方をじっと見ているのが恐ろしくなり、涼介も慌てて部屋に足を進めた。
「なに、ここ」
「鏡の間じゃよ。弐番地いの区のな」
眞白が言い終わると同時に、背後で重く大きな音を立てながら扉が閉まる。
天井まで届きそうな程大きな鏡。先程の一つ目と同じくらいの大きさがありそうだ。三メートルくらいの高さがありそうだと、涼介はゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりに照らされた鏡を見上げた。
「何で鏡なんですか?壱番地ってところに行くんじゃ…」
「行くとも。ほれ」
ほれ、と言いながら差し出された手。美形は爪の先まで手入れをしているのだなと、まじまじとその手を見た。
「なぁにしとる。さっさと取らんか」
「手、繋げって事ですか?」
高校生にもなって、大人と手を繋がなければならないなんて。というか、絵面が何だか嫌だ。父親とでさえ、もう何年も手を繋いだ記憶が無いのに。
「わしとて嫌じゃよ。どうせなら女子の手が良いわ」
げんなりと嫌そうな顔をしながら、眞白は無理矢理涼介の手を取って、引いた。
視界いっぱいに広がる鏡。眞白に手を引かれた自分が、間抜けな顔をしているのが見え、「ぶつかる」と反射的に目を閉じた。
ぐらりと揺れる頭。水の中にいるような圧迫感はあるのに、冷たくも無ければ温かくも無い。奇妙な違和感と圧迫感に襲われるだけ。それが嫌に気持ちが悪くて、子供の頃朝食を食べ損ねて貧血を起こした時のような、吐き気と眩暈に耐えるしかない。
「うえ…っ」
足が地面を踏みしめている感覚はある。無理に繋がれた右手はまだ眞白の手を握りしめていたようで、ふらつく体を呆れながらも支えてくれていた。
「お前さん絶叫系弱いじゃろ」
さすさすと背中を摩りながら、眞白は揶揄うように涼介に声をかける。うっすらと目を開いてみると、そこは明るく、床は大理石のような綺麗な床だった。
「どこ、ですか」
「壱番地、監視人役部の鏡の間じゃが?」
さも当然のように言われても、先程までと随分様子が変わった場所で「はいそうですか」とあっさり納得できるはずが無い。
きょろきょろと周囲を見回すと、窓は無く、天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが部屋の中を照らしていた。洋風の建物だと認識できるその部屋は、鏡を背にして真直ぐの位置に豪奢な扉があった。その扉の脇には、無表情の女性が佇んでいる。
「お待ちしておりました、眞白様」
冷たく抑揚のない声。軽く頭を下げた凛とした雰囲気の女性は、かっちりと真っ黒なスーツを身に纏い、長い黒髪を高い位置で一括りにしている。さらりと揺れる髪に目を奪われていると、繋いでいた手を離された事で涼介ははっと意識を戻した。
「百目鬼様がお待ちです」
「まだ時間前じゃろうに」
「百目鬼様は定刻通りに物事を収めたがるお方ですので」
硝子玉のような黒目が、ちらりと涼介を見る。ぺこりと小さく頭を下げてみるが、それに応えてもらえはしなかった。どうにも昨日から居心地が悪い思いばかりしている気がする。
くるりと振り返り、装飾が施された木製の扉を開いた女性が、二人が扉を潜るのを外で待ち受ける。待たせないように慌てて涼介も部屋から出ると、全く同じ姿をした女性がもう一人外に立っていた。
「双子なんじゃよ」
「あ、そうなんですか…こんばんは」
外に立っていた女性に挨拶をしてみても、やはりちろりと視線を向けてくるだけだった。すたすたと先を歩く女性を追いかけるように、眞白たちは長い廊下を歩く。
弐番地よりも随分明るい場所で、涼介にとってはとても安心できる明るさだった。
壁や天井に取り付けられた灯りは、どれもこれも古臭いデザインのものばかりだったが、明るいというだけでこんなにも安心出来る。灯りのありがたみを初めて知った気がした。
「百目鬼は部屋か」
「はい、恐らくお通しさせていただく頃には予定時刻丁度かと」
女性はいやに堅苦しい喋り方をしながら廊下の突き当りに到着すると、ガラス張りの引き戸と金属製の柵を引き、眞白達を中へ促した。これは何処となく見覚えがあった。
「エレベーター」
「お前さんの知っているものより随分古いがの」
ボタンを押せば勝手に扉を開いて、目的の階まで運んでくれる便利なものとは違うのか、女性は引き戸と柵を閉め、レバーを動かしながら階数表示をじっと見つめる。こまめに手元を動かしているのは、あのレバーで運転をしているからだろうか。
仕組みはよく分からないが、慣れ親しんだ現代の便利な道具に近い物を久しぶりに見たような気がした。
「うわっ」
がちゃんと大きな音と振動。予想していなかった衝撃に体がふらついたが、なんとかその場で踏みとどまる事に成功した。眞白からの憐れむような視線が少々気になるが、今は見なかった事にしておく。
「どうぞ」
先に降りた女性が早く降りろと冷たい視線を眞白と涼介に向け、慌てて廊下へと足を進めた。
ふかふかとした感触。カーペットが敷かれた、やけに厳かなフロア。壁も置かれている置物も、雰囲気があるというか、「きちんとしなくては」と思わせる何かがあった。
「此方へ」
エレベーターからそう離れていない場所。大きな両開きの扉が開かれると、眞白は気だるげに部屋の中へ入って行く。
「待たせてすまんのう」
「時間丁度だ」
「遅れるとお前さん煩いからの」
青葉の影に隠れるようにしながら部屋に入ると、大きな机の向こう側にスーツを着た男性が座っていた。不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、女性に手を上げると、女性は一礼して部屋を出て行った。
「保護対象はそれか」
それ、という扱いにムッとはするが、睨みつけられてしまうと何も言えない。眞白がそっと涼介の背中を押し、百目鬼に見えるように涼介を前に出した。
「成程、確かに霊力の欠片も無いな」
「おかげで野郎と手を繋ぐ羽目になったわ」
左手をひらひらと振りながら、眞白は鼻で笑う。嫌だったのは此方も一緒だったが、今は何か言う気にはなれない。
視線を感じる、という表現は時々聞いてきたが、視線が突き刺さるというのを経験するのは始めてだ。眼鏡越しに此方を睨みつける百目鬼の視線が、涼介を頭の天辺から足の先まで何度も繰り返し観察するように動いている。
「ほれ、報告書」
「確かに」
報告書だと言って紙の束を手渡すと、眞白は部屋の中央に置かれていた応接セットのソファーに体を沈み込ませる。
「君も座ると良い」
紙の束を読んでいる百目鬼は、視線を紙束から浮かすこともせずに涼介に向かって手でジェスチャーする。言われた通り涼介も眞白の隣に腰かけると、身体がゆったりとソファーに沈み込んだ。家のソファーとは大違いだ。
「お前の字は細くて読み難い。枚数も多い」
「文句の多いやつじゃのー。枚数なんぞお前さんならすぐじゃろうよ」
眞白の間延びした返事に一層眉間の皺を深くした百目鬼が、小さく舌打ちをしながら眼鏡を外す。かちゃりと小さな金属音をさせながら眼鏡が置かれた瞬間、百目鬼の顔、手に夥しい数の目が開く。
「っひ…!」
「おっと」
涼介の声にならない悲鳴に気付いた百目鬼が、申し訳なさそうな顔をしながら眼鏡をかけ直す。普通の人間と同じように、一対だけになった目に安堵したが、先程見た恐ろしい姿は何だと無意識に青葉の着物の袖を握りしめた。
「すまない、人間には刺激が強かったか」
「あ…え?目、あれ?」
「童、百目鬼という名前をどう書くと思う」
そんな事を言われても、分かるわけもない。「どうめき」という名前が変わった名前であるという認識でしかなかった。
「百目の鬼と書いて、百目鬼。その名の通り、全身至る所に目があるんじゃよ」
「そういう事だ。怖がらせてしまったか」
くっくと喉の奥を鳴らして笑う眞白を睨みつけながら、百目鬼は机の引き出しを漁って立ち上がる。やけにスタイルが良い。モデルだと言われても疑わないなとぼんやり思いながら、涼介はぽかんとした顔のまま寄ってきた百目鬼の顔を見る。
「改めて、監視人役部第壱部隊長の百目鬼だ。甘いものは好きか、望月君」
大人の男の、低い声。大きな体を折り曲げて、掌に乗せた小さな焼き菓子を差し出す百目鬼は、涼介の事を「望月」と呼んだ。それがこの場所での自分の名前だとすぐに認識出来ず、涼介は焼き菓子と百目鬼の顔を交互に見た。
「詳しい事はゆっくり話そう。どうせあの狐は碌に説明もしていないだろうから」
涼介の手に焼き菓子を握らせると、百目鬼は自分の執務机に戻り、机に置かれた小さなベルを鳴らした。
「お呼びでしょうか、百目鬼様」
「茶の支度をしてくれ」
「畏まりました」
何処からともなく聞こえる女性の声。何処から聞こえるんだと周囲を見回しても、窓の外が夜である事しか分からなかった。
◆◆◆
「すまないが、管轄外だ」
報告書の束を全て読み終えた百目鬼が、眉間をぐりぐりと抑えながら呻く。てっきり此処で元の世界に帰る算段が付くと思っていた涼介は、あんぐりと口を開けて呆けるしかない。
「そもそも眞白!貴様報告書に記載したという事は、うちの管轄じゃない事くらい分かっていただろうが!」
「そう言われてものう…お前さんからの指示は、禁足地に入り込んだ蟲の駆除と餌の回収。その後報告書と共に餌を此処に連れてくる。そういう指示をしたのはお前さんで、わしはそれに従ったまでの事」
悪びれもしない眞白は、至極楽しそうに口元を歪めて笑う。弧を描くように歪んだ目は、金色の瞳が鈍く光っているように見えた。
「わしはきちんと指示に従ったぞ?」
「狐め…」
「わし狐じゃもーん」
額に青筋を浮かべた百目鬼が、大きく息を吸い込んで一気に吐き出す。涼介の隣で煎餅を齧っていた眞白が、面倒くさそうな顔で言葉を続けた。
「まあそういう事なんでの。すまんが陸番への目通りを」
「お前なら自分でどうとでも出来るだろう…」
「今のわしはただの犬じゃよ」
狐じゃないのかと突っ込んだらどうなるだろう。流石に今の雰囲気で口を開く気にはなれず、涼介は大人しく手に持ったままの湯飲みを見つめ続けた。
まだやいやいと怒る百目鬼に、眞白は面白がるように飄々とした態度で躱していく。きっとこの二人はいつもこうなのだろう。喧嘩をする程なんとやら、だろうか。
「あの…良いですか」
「何だい?」
「管轄外って事は、俺まだ帰れないんでしょうか」
「すまないな。蟲に連れ込まれたなら此処で対応するんだが、君はそうじゃないようだから」
申し訳なさそうに眉尻を下げた百目鬼に詫びられたところで、帰れないという事実に変わりはない。
喚いても良いだろうか。いつになったら帰れるのだろう。
母が出て行ってから男手一人で育ててくれる父はきっと心配している。いきなり訳の分からないところに連れて来られて、怖い思いをして、勝手にそう思っていただけとは言え、帰れると思っていたのに帰れもせずに。
思わずぐったりと力が抜け、ソファーの背凭れに体を預けた。
「もうやだ…なんだこれ本当に意味が分からない」
じわりと目元が熱くなる。鼻の奥がツンとして、今度こそ子供の様に泣き喚いてしまいたい。良い歳なんだからと必死で耐えてはいるものの、己の常識からかけ離れすぎたこの世界でのストレスが限界値を迎えそうだ。
「あー…まあ落ち着いて。此処が管轄外というだけで、君は陸番地の管轄なんだ。これから手続きをして、眞白と一緒に行くと良い」
唸り出した涼介を宥めるように、百目鬼が声を掛ける。たらい回しじゃないかと怒っても許されるだろうか。だが、百目鬼は困ったようにお菓子を差し出しながら涼介の機嫌を取ろうと必死だ。そんな人に、どうにかしろなんて喚けなかった。
「幽世って何から始まって、ここまで殆ど話分かんないし。でもサクサク話進んでいくから俺置いてけぼりだし」
「何だ、説明してないのか」
「幽世が何かは簡単に説明したんじゃがな」
元居た世界と薄い膜を介して並行して存在する世界。
そう言われても、本来此方にいる筈のない存在である自分が幽世にいるのか分からない。霊力というやつがあるのなら話は違うのかもしれないが、そもそも異世界に移動できるという時点で非科学的すぎて付いていけない。
「別世界だって言ってるのに、眞白さんはやけに俺がいた世界の話が分かるっていうか…やたら俺に合わせて説明してくれるっていうか…」
「そりゃ、わしは現世にも行くからの」
しれっと言いのける眞白が、ばりばりと音を立てながら煎餅を頬張る。何枚食べているんだと呆れてくるが、眞白は気にする様子もなく指に付いた欠片を行儀悪くぺろりと舐める。
「幽世側の者も、そう簡単に現世に行けるわけでは無い。俺が知る限り、神々とその遣い以外で現世に行けるのは眞白だけだ」
「限られた人だけの特権…みたいな事ですか」
「膜を超えられるだけの霊力がある者が行き来出来る。眞白はかつて神の遣いをしていたのでな。今でも時折遊びに出ている」
だからやけに涼介に分かりやすい話をしてくれるのかと、漸く納得した。それよりも、眞白が現世に行けるのならば、眞白が膜とやらを越える時に連れて行ってくれれば良い。そう考え着いたのを見透かしているのか、百目鬼が涼介よりも先に口を開いた。
「元々現世と現世は一つの世界だった。だが妖たちが人間を襲う為、人間達は世界を二つに分けたんだ」
突然始まった御伽噺。真面目な顔していきなりなんだと言いたかったが、涼介は何となく口を挟まずに百目鬼の言葉を待つ。
「二つに分けられた世界の間に張られた膜は、所謂結界だな。神々やごく一部の妖、人間…超えられるだけの霊力を持つ者が、互いの世界を行き来出来るようになっているが、霊力が足りない連中は触れる事さえ叶わない」
「細かい歴史はまあ色々あるんじゃが、簡単に言うと百目鬼の話の通り。お前さんは霊力が無いから結界は越えられん。本来は越えられる者に帰してもらう」
百目鬼の言葉を奪った眞白が、にんまりと笑う。細い切れ長の目が、楽しそうに笑った。
「待って。その結界を越えられない筈の俺が、どうして幽世にいるんですか?」
「神隠しにあったからじゃよ」
それは昨日聞いた。だが眞白は蟲がどうとか言っていた。蟲に食われる為に連れて来られたのが神隠しだと。だが蟲は、霊力を持つ人間を食う為に連れてきて食うんじゃないのか。霊力を持たない涼介が此方に来られる意味が分からない。
「でも蟲潰しちゃいましたよね?ていうか蟲って何なんですか?」
いよいよ話が分からないぞと混乱しているが、百目鬼は根気よく話を続けてくれた。
「蟲とは非常に不安定な存在の怨霊以上妖未満の存在。不安定な存在故か、時々膜を越えるやつがいるんだ」
詳しい生態はよく分からないが、低級の妖を食い、多少力を付けた者が現世に渡って霊力の強い人間を攫ってくる、という事がたまにあるらしい。
だが、霊力が欠片も無いと言われている自分が何故此処にいるのかが理解出来なかった。
「恐らく眞白は、現世における神隠しは蟲に攫われてきたとかなんとか言ったんじゃないか?」
「そうです」
「普段此処での管轄になる話はそれで合っている。だが、今回の君のように、神によって此方に連れて来られるということが極々稀にあるんだ」
百目鬼が大きく溜息を吐いて、涼介の顔をじっと見つめる。
「君は、正真正銘神に攫われたんだよ」
やったな、レアじゃよと遠くで眞白が揶揄うような声がする。
「素直に帰してもらえる事を、祈っているよ」
同情するような顔で、百目鬼が優しく声を掛けてくれる。
同情するなら帰らせてくれ。神頼みなんてするんじゃなかった。元の世界に戻っても、二度と神社には足を踏み入れるものか。天井を睨みつけながら、涼介は両手で顔を覆った。