第一章03『突然の襲来』
――――『空から降って来るもの』と言えば?
まずは雨。これはよくある。しょっちゅう降っている。
次に雪。これは珍しい。冬の時期に少し降る程度。
雪よりも、空を飛んでいるカラスの糞の方が頻度的にも多いと思う。
そして本日、その項目に新しく『女の子』が追加される事になった。
「な―――」
慌てたような少女の顔が、視界いっぱいに飛び込んで来た。
次の瞬間、あまりの異常事態を前に、フェグルスは思わず脳裏を過った言葉をそのまま吐き出していた。
「なんばりゃあ!?」
なんだこりゃあ!? と言いたかったのだ、多分。
で、その直後。
「ぼっ!?」
「あう!?」
ゴイィぃぃぃん……!! と、二人の頭がとんでもない勢いでぶつかった。
あまりの衝撃に、世界が回った。天が落ちて地上が舞い、目に見える世界の全てが真っ逆さまに反転した。―――そう錯覚した。
実際は、フェグルスと少女の体が、揉みくちゃになりながら部屋の中を転げ回っていただけだった。
「ぬぁぁあああああああああああああ―――がっ!?」
フェグルスの体は反対側の壁まで勢い良く転がっていき、思いっ切り後頭部をぶつけた事でようやくその動きを止める。
ほんの一瞬、しん……と静まり返る室内。
だが直後に「いっっっ!」―――本物の激痛が襲い掛かって来た。
「……ってええええええええええええええええぇぇぇぇぇ!! っくぅぅぅぅぁぁぁぁぁ……なんっ……チクショウ、なんだ……!?」
とんでもない痛みにもだえるフェグルスは、額と後頭部を押さえながらヨレヨレと力なく起き上がろうとする。だが……、
「お、ぁ……」
フラつく体。もつれる足。未だに視界がグルグル回っていて、普通に立つ事さえままならない。
壁を支えに立ち上がろうと思い、暗闇を探るような手付きで近くの壁を探す。
その時だった。
ムニュ、と。
やけに柔らかい何かに手が触れた。
「ひぁん!?」
「ん?」
壁とは思えない優しい感触が、掌に伝わった。
そして……悲鳴?
分からない、何がなんだか。
しかしまだ視界が正常に機能していない分、やはり手の感触だけで確かめるしか方法はないわけで。
(……なんだこれ)
その正体を掴むべく、フェグルスは二、三度手に力を込めてみる。
もみもみ。
「ひ、ひぁぁ……」
揉めば揉むほどか細い声が聞こえて来て、いよいよ分からなくなる。
いっそ思い切って力いっぱい握ってやろうかと思った……まさにその時。
「ひぁぁあああああ―――――――――っ!!」
耳元で大きな悲鳴が炸裂した。
直後、ドンッ!! と誰かに強く突き飛ばされるような衝撃に襲われ―――
……誰か?
疑問は一瞬。
突き飛ばされた勢いで、フェグルスは再び後頭部を思いっ切り床に叩き付けた。その新たな衝撃で完全に五感が覚醒、ガバッと急いで上半身を起き上がらせる。
目の前に、ペタリとへたり込む少女がいた。
綺麗な金色に輝く瞳と、肩まで伸びた瞳と同じ色の髪。
艶やかな頬。朱色に染まる唇。純白のブラウスとミニスカートを身に纏い、より鮮明になる作り物めいた美貌。そして全体的に小柄な体躯。
そんな少女が。
顔を真っ赤に染めて、両腕で胸を覆い、プルプル震えながら鋭い視線でこちらを睨み……胸……?
「お」
いつもは何かと鈍感なクセに、こんな時に限ってフェグルスの脳内はハイスピードでフル回転していた。
そして、
「……ぉおおう!?」
理解した。自分が先程まで何に触れていたのかを。
さらにもう一つ理解した。自分は今、最大の窮地に立たされている事を。
全身から一気に血の気が引いていくのを感じるが、もう遅かった。
「ひ、き……き」
耳まで真っ赤に染めた少女の口からは、今にも「きゃー!」が飛び出そうとしていた。
「……ち、違う! 待ってくれ! 落ち着いてくれ! 悪かった、謝る! だからまずは俺の話を」
とにかく誤解を解かなければ! ……慌てて少女を落ち着かせようとするフェグルスだったが、しかし次に聞こえて来たのは、全く予想外の言葉。
「き、さ、まああぁぁぁぁぁ……」
少女はゆらりと立ち上がる。
そして次の瞬間だった。
ビュバッ!! と、目にもとまらぬ速度で少女が挙動を繰り出したのだ。
直後、空気を貫く短い音響と共に、尻餅をついたフェグルスの顔のすぐ脇を『何か』が掠め、背後の壁に深々と突き刺さる。
「……え」
体が凍てつく感覚を、確かに覚えた。
見れば少女の顔は恥辱の赤から興奮の赤に変わり、そして彼女の瞳に宿っていたのは……溢れんばかりの『殺気』。
「ま、魔法使いごときが……よ、よくもあたしに、ここここっ、こんな、恥を、かかっ、かかせて、くれたわね……」
一人ぶつぶつ呟く少女は、壁に刺さった『ソレ』を引き抜いて、もう一度しっかり構え直す。
戸惑うフェグルスの視界に飛び込んで来る、『ソレ』。
少女の手に握られている、全長は七〇センチ程度の、薄くギラリと怪しい光を放つ刃をもった、殺傷能力抜群の『ソレ』。
世間一般では、『日本刀』と呼ばれるソレ。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
なぜだ。どういう事だ。何が起きた。なぜこうなった。眼前に殺意満々で日本刀を構える少女がいるのだ。空から降って来たという訳分からん設定付きの。
一体何なんだこの状況は。
何がどうなって、誰がどういう……。
「……は、あはははははは! そうか! おそらく俺はまだ夢の中にいるんだな! 二度寝をしたんだ多分! なるほど、納得!」
「ふんぬっ!」
壁から日本刀を引き抜いた少女は、再び突!
フェグルスが顔を左に傾けた直後、さっきまで顔のあった位置を刃が勢い良く貫いて、またもや後ろの壁にドズッ!! と突き刺さる。
―――断じて、夢などではなかった。
無理やり現実へと引っ張り出されたフェグルスは、もう何がなんだか分からなくなっていた。
この少女は誰だ。何者だ。どうして空から降って来たんだ。なんで日本刀なんか持ってるんだ。というかなぜ俺は襲われてるんだ!? ……胸を揉んでしまったからだった!
ついに混乱が頂点に達し、フェグルスは自分でもよく分からないまま口を開き、
「誤解だ! 触ってない! ……いやごめん触った! 俺が悪かった! でもほら、あまり大きくないから興奮するとかあり得ないし、」
「死ね!!!!!!」
必死の弁明はただのセクハラになっていた。
殺意の刃が、胸揉み変態野郎を目がけて振るわれる。
「どぉわ!?」
咄嗟にフェグルスは頭を下げて、転がるように少女から離れた。
直後、ザンッ!! と数センチ頭上を刃が引き裂いて、フェグルスの白い毛髪がハラハラと宙を舞う。
「ちっ!」
舌打ちと共に彼女は再び日本刀を構え直すと、今にも泣き出しそうなほど顔を火照らせたまま逃げたフェグルスを睨み、刃先を向けて、
「何よ! 何なのよ! どうなってんのよこの街は!? 魔法使いに追われて殺されかけて必死に逃げて落ちてみれば! こんな貧相ヅラの男に……む、胸を揉まれるし!」
「だから! それは本当にごめんって!」
「大きくないとか馬鹿にされるし!」
「ひ、比較的慎ましい方が、むしろ世間的には好感度かと思われ―――」
「やっぱり死ねクソ野郎ぉぉぉぉおおお――――――っ!!」
少女が叫んで床を蹴った後は、完全に地獄と化した。
日本刀が横に振られ縦に振られ、床が切り裂かれ、壁が引き裂かれた。
体が小柄という事もあってさすがの身軽さ、少女は予想だにしない方向から日本刀を振りかざす。
しかし、フェグルスも負けず劣らずの瞬発力。
右へ左へ上へ下へ、走り転がり飛びしゃがみ。とにかく無我夢中で逃げ回り、少女の猛攻を紙一重でかわし続ける。
「おう! おう!? おうおうおうおうおうおうおうおう!?」
オットセイの鳴き声ではない。フェグルスの悲鳴である。
その馬鹿っぽい声にイラついたのか、
「っちぃ! ちょこまかと―――」
少女はギラリと瞳を光らせ、偶然目についたちゃぶ台に刀を突き刺し、
「―――逃げるなあああああああああああああ!!」
それを力いっぱい振り抜いた。
見事、刀から抜けたちゃぶ台はフェグルスの後頭部にクリーンヒット。少年の体はその衝撃に耐え切れず、顔面から床にぶっ刺さって行く。
「ぶぉあ!? ……っだ、チクショウ何なんだ!」
後頭部と顔面を二つの手で押さえながら、フェグルスは飛び跳ねるように立ち上がって少女と真正面から相対する。
彼女は刀をしっかり両手で握り、小柄な体をプルプルと震わせていた。
「あ、あんたもっ、あたしの命を狙う奴らのお仲間!?」
「なんっ……命!?」
「どうせこんな風に恥をかかせるだけかかせて、辱めるだけ辱めて、その薄汚いクソみたいな欲求をあたしで発散させてから殺すつもりなんでしょ……っ!」
「待ってくれ! 話が見え」
「えぇ上等じゃないのよやってやらあ!! 捕食者がどっちかってのを教えてやるわ魔法使いども!! そのブサイクヅラ、木端微塵に斬り刻んでくれるわ!!」
可愛らしい容姿からは想像もできない罵詈雑言の吹雪を浴びせられ、フェグルスの心は絶対零度に突入。「え、俺そんなにブサイク?」……ショックで喉も凍り付いて、何も言い返せない。
「さて、もう死ぬ準備はできたかしら。できてなくても殺すけど」
「だから待ってくれ! お前は少し誤解を」
「どあぁれぇええ!!!!!!」
謎の雄叫びと共に日本刀を構える少女。多分「黙れ」と言ったのだろう。
そのあまりの気迫に、思わずフェグルスは尻餅をついて後ずさる。
「殺すっ……殺してやる! あんたら全員殺してやらぁぁあ!!」
「いや! 待て! だからホントに―――!」
ヤバい! 殺られる! ……咄嗟に逃げようとしたフェグルスだったが、しかし体が持ち上がらない。少女の殺意にすっかり腰が抜けてしまったのだ。
壁に背中をつき、逃げる力も出せず、フェグルスはただ突っ込んでくる少女を見る。そして凶悪に光り輝く日本刀の切先が。
そのまま、フェグルスの顔面目掛けて―――
「かっ、くっ、ごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
思わず目を閉じ、両手で顔を覆い、腹の底から全力で叫んだ。
そして、直撃―――――――――
誤解を解く事も、命乞いもさせてもらえず、哀れなフェグルスは顔面ど真ん中に日本刀を喰らい無事昇天。その魂は死んだ肉体を捨ててあの世に直行便。そして彼が暗黒大魔王としてこの世に君臨するのは、今から千年も後の事であった。
なんて残酷なカルマの輪であろう。まさかフェグルスまでもが人間の毒牙にかかるとは……血は争えん。
なんて、そんな展開にはならなかった。
というか、そもそも彼の顔に日本刀は突き刺さらなかった。
むしろそれ以前の問題。
「……ん……?」
なかなかやって来ない斬撃に、疑問を抱いた。
閉じた瞼をゆっくり開ける。
瞬間、顔面の数ミリ手前まで迫っていた刃が眼前に現れた事に驚愕し、
「いひいいいぃぃぃ!?」
情けなく叫んで震え上がるフェグルス。
しかし異変にはすぐに気付いた。
ゆらゆら……と、少女の体が静かに揺れていたのだ。
次第にその揺れの幅が大きくなり、激しさを増して、足元も覚束ず、握力を失った両手から滑り落ちた日本刀がダスッ! と床に突き刺さり。
そして、ついに。
「……ぅ……」
―――強制終了。
どさ、と少女は崩れるようにぶっ倒れた。真横に。受け身も取らず。
横倒しになった少女はそのまま沈黙。一言も口を利かなくなり、部屋には静寂だけが満たされていく。
ちなみにフェグルスは、突然すぎる出来事の連続に何も反応できず、ただその場にへたり込んだままだった。
「……お、おい。……大丈夫か……?」
ようやく正気を取り戻し、倒れた少女に声を掛けてみる。
自分を殺しかけた相手を心配するのも変な話だが、なにせ森を出てからというもの、『倒れていたり、血を流していたり、泣いていたりする少女とばかり出会ってきた』一〇年間だった。倒れた少女を見てしまったら、そう声を掛けずにはいられなかった。
で、声を掛けられた少女の方は……、
「…………」
やはり反応はなかった。彼女は床に倒れたままピクリとも動かない。
体でも揺すってみようかと思い、倒れた少女に近寄ったフェグルスだったが、
「は?」
ポロリと、そんな声を漏らしていた。
とんでもない事に気が付いたのだ。
「なんだこ……え?」
どうして今まで気付かなかったのか、本当に不思議でならなかった。
パニック状態で、細かいところまで目がいかなかったのか。それとも単なるフェグルスの注意力不足のせいなのか。
確かな事は分からない。ただ、目にした光景はどうしようもない事実。
恐ろしいほど傷だらけだった。少女の体が。
もちろん日常生活を送っていれば傷などつきものだ。
しかしこれは、一目で「違う」と分かる。彼女の体に刻まれた傷は、明らかにそんな優しいものではなかった。
腕にも足にも、それこそ無数に、何かで切ったような……いや、刃物か何かで人為的に傷つけられたような痕が大量に残っていた。
それもまだ全て、血の滲んだ新しい傷。
「はあ!? なんっ」
何なんだ、と声を上げようとしたその瞬間、不意にフェグルスは思い出す。
……そういえばこの少女、刀を振り回しながら何か言ってなかったか?
『何よ! 何なのよ! どうなってんのよこの街は!? 魔法使いに追われて殺されかけて必死に逃げて落ちてみれば! こんな貧相ヅラの男に……む、胸を揉まれるし!』
『あ、あんたもっ、あたしの命を狙う奴らのお仲間……!?』
『どうせこんな風に恥をかかせるだけかかせて、辱めるだけ辱めて、その薄汚いクソみたいな欲求をあたしで発散させてから殺すつもりなんでしょ……っ!』
魔法使いに追われて殺されかけて必死に逃げて落ちてみれば……?
命を狙う奴ら……?
殺す……?
「……待て、待て待て待て」
それって、つまり―――――いや、つまりというか何というか。
……いるのか?
この夥しいほどの傷を付けた誰かが。
この少女を『追っている』誰かが。
この少女を、『殺そうとした』誰かが。
「だっ、誰が、こんな……!」
混乱が、今まで以上に跳ね上がる。
「おいっ、おい起きろって!」
慌てて、ピクリとも動かなくなったミニマムサイズの体を揺する。
しかし返事は無い。
ただの屍……になっていては困るのだ、本当に。
「嘘だろ……! おい! 目ぇ覚ませ! 返事をしてくれ! 頼む!」
だが。
そんな心配を打ち砕くほど、返事はすぐに返ってきた。
ぐううううううううううぅぅぅぅ~、なんて。
そんな間の抜けた返事が。
少女のお腹から。
「…………」
これにはさすがに、フェグルスも言葉を失った。
少女は今にも消えそうな浮つく声で、端的に告げる。
はらがへった、と。
「……おう……?」
ちなみに。
そもそも日本刀程度じゃ自分の体には傷すら付かない事実をフェグルスが思い出したのは、少女が倒れてから数分後の事であった。