第一章01『懐かしい記憶』
「おねーちゃん。ニンゲンって、どーやったらなれるの?」
木漏れ日が差し込む森の中。幼い二人が手を繋ぎ、いつもの散歩道を歩いている時の事。
不意な少年からの質問に、『少女』は思わず足を止めて、
「人間に? フェグルスは人間になりたいの?」
「うん。あのね、ニンゲンになるとね、ニンゲンとともだちになれるって、おもったの。だからなりたい」
少年は素直にそう答えた。
それを聞いた『少女』は、まだ小さい弟と目線を合わせるようにしゃがんで、少年の頬に張り付いた葉っぱを払い落してあげながら、
「そうだね。人間になれたら、すぐに友達になれるもんね。それじゃあ人間の事、いっぱいいっぱいお勉強しないと。……ね、フェグルスは人間と友達になれたら、何がしたい?」
「え? ……えっとねー」
落ち着かないみたいにソワソワしながら、少年は『姉』の言葉に色々考えて、
「あのね! いっしょにあそぶの!」
「遊ぶ?」
「うん! えっとね、おいかけっこしたり、きのぼりしたりね、するの!」
「いいなー、すごーく楽しそう。……うん、きっと楽しいよ」
「おねーちゃんもいっしょだからね!」
その言葉に、『少女』はちょっとだけ目を瞬かせる。
「おねーちゃんもいっしょ! みんなであそぶの!」
少年の純粋な瞳は、夢と希望に輝いて、『姉』の瞳を一直線に見返していた。
一切の迷いのない真っすぐなその視線に、『彼女』は、
「ん、そうだね」
少しだけ笑う。
「そうだよね。皆一緒がいいもんね」
誰かの嘘を見抜くには、誰かの心の裏側を見破るには、あの頃の少年はまだ幼く、知恵も知識も足りていなかった。
だから、一番近くにいる家族の想いも、
「ねえ、フェグルス」
見えず、分からず、気付けないまま―――
「フェグルスは、人間達に優しくできる?」
その質問の意味も、あの頃の少年には分からなかった。
分からなかったからこそ、彼は何の迷いもなく、純粋な瞳で真っすぐに。
「できる! やさしくする!」
「うん、じゃあ安心。フェグルスは優しいもんね、人間達にも優しくできるよ」
できる、あなたならできる―――何度も繰り返すみたいにそう言って、『少女』は優しく少年を抱きしめて、頭を撫でる。
「大丈夫。フェグルスはちゃーんと、人間の友達になれるよ」
「ほんと? なれる?」
「なれるよ。フェグルスが優しい子でいてくれたら、そのお願い、きっと叶う。お姉ちゃんが叶えてみせるから。だから大丈夫」
「かなうの? おねがい」
「うん、絶対」
「じゃあ、おねーちゃん、やくそく!」
力いっぱい『姉』の胸から顔を離して、彼は満面の笑みで『彼女』を見る。
「ぼくがニンゲンになって、ニンゲンとおともだちになったら、おねーちゃんもいっしょにあそぶの! やくそく!」
「……分かった、約束する。フェグルスが人間の友達になって、幸せになるまで、お姉ちゃん、ずっとそばにいるね」
『少女』はもう一度、今度はさっきよりも強く、かたく少年を抱き締めて。
「ありがと。あなたとの約束、絶対に守るからね」
幼い少年は、愛しい家族の胸の中で、希望に満ちた夢を見る。人間達と共に暮らし、人間達と共に笑い合い、そして幸せになる夢を。
その夢の中では誰もが笑っていた。
自分も『彼女』も、いつか未来で出会う人間達も。
そして、いつもは『彼女』に手を引かれる自分が、今度は『彼女』の手を引いて、人間達の許へ向かうのだ。そういう未来が来るのだと信じていた。
まだ幼い少年には、それは当たり前の事だった。
***
バラバラに引き千切られた少女の死体。
―――愛する家族の死体。
木端微塵になった男の死体。
―――その次に見た死体。
首から上が粉々になった少年の死体。
―――三番目に見た死体。
体が捻じれて口から内臓が飛び出した死体。―――これは四番目。
首だけになった死体。―――いくつあったか分からない。
血を流し過ぎて青白くなった死体。―――そこら中に転がっている。
体があり得ない方向に折れ曲がった死体。―――もう数える事も諦めた。
縦に真っ二つに引き裂かれた死体があった。
真っ黒に焼け焦げた死体があった。
ぺしゃんこになって地面の染みと化した死体があった。
真正面からこじ開けられた死体があった。
大樹の枝に背中から突き刺さり、驚愕の顔を浮かべたまま死んだ男がいた。
綺麗な髪の隙間から脳味噌を撒き散らした女がいた。
地面に埋もれた岩石の下から飛び出す誰かの下半身が。グチャグチャに混ざり合って誰のものか分からなくなった血だまりが。皮膚が引き剥がされて男か女かも判別できなくなった顔が。地面に立ったままの足首が。上半身だけになった死体の下から伸びる、黒く腐敗した縄のように長い何かが。擦り削られたように地面に血と肉の線を引いて最後に残った頭部の先が。獣に食い荒らされたみたいに乱雑に飛び散った肉片が。手が足が胴が頭が肉が骨が内臓が何もかもが。
死んだ血と肉が、ずっとずっと向こうまで、途切れる事なく続いていた。
そんな地獄の中を、幼い少年が力なく歩いていた。
「大丈夫……」
目の前にあるのは、誰もが笑っている夢の世界などではなかった。
地平線の向こうまで、無数の死体が大地を覆い尽くす世界だった。
でも、目を逸らせない。
そんな地獄を作ったのは他でもなく、自分自身だったから。
「……大丈夫」
うわ言のように呟いて、少年は自分の両手に視線を落とす。
赤く、黒く、誰のとも分からない血と肉にまみれ、もはや元の色すら思い出せなくなってしまったその両手。
「……大丈夫……」
大丈夫なんかじゃない事ぐらい、分かってる。
けれど、そう言い聞かせていなければ、もはや真面に立つ事すらできなかった。
森を抜ける。
生まれて初めて、森の外へ出る。
『……分かった、約束する。フェルーが人間の友達になって、幸せになるまで、お姉ちゃん、ずっとそばにいるね』
『ありがと。あなたとの約束、絶対に守るからね』
あの優しい笑顔も、優しい言葉も、何もかもを血まみれの森の中に捨てて、幼い化物は外の世界へと放たれる。
願いは、約束は、叶わなかった。
そしてこれから先も叶わない。
もう二度と。
永遠に。
***
「――――だっ!?」
それは、フェグルスが一七歳の頃の記憶。
ベッド代わりのソファーから転げ落ち、その衝撃で懐かしい夢から醒めた、現在進行形で続く『今』の記憶。
「……なんて夢だ……。ってえぇぇ……」
床に打ち付けた後頭部が痛む。
揺れる頭を持ち上げて、いま何時だ? と時計を見て、肝を冷やしたのは一瞬。
―――朝の九時。
ヤバ! 仕事! と飛び起きかけ、直後に我に返る。
そうだ、もう時間を気にする必要はなかった。
仕事なら昨日、クビになったばかりじゃないか。
「はあああああぁぁ……」
ため息と共に、重い腰を上げる。
しかし動く気力など微塵も湧かなかった。
そもそも起きたところで何をするんだ。別に仕事に行くわけでも、学校に行くわけでもないのに。誰かが待ってるわけでもなければ、会う約束をしているわけでもないのに。
自分が行かなきゃならない場所なんて、どこにも無いのに。
そう思ったらもう駄目だった。動く理由を失って、全身から力が抜ける。フェグルスはそのまま倒れ込むようにソファに身を投げると、再び目を閉じた。
……目蓋の裏に、まだ夢の景色がこびりついているような気がした。
「クソ……」
呟いたって、吐き捨てたって。
あの日の景色は、手足の感覚は、奪った命は、犯した罪は、無かった事にはならない。
家族を失った事実も、無かった事にはならない。
「……クソ」
これは、一匹の魔獣の記憶。
全てを失い、全てを奪い、人間として生きる事を決意してから一〇年後の『今』の記憶。
一匹の化物の、日常の記憶。