第三章08『ねえ貴女、今、楽しい?』
グルグルと。ブズブズと。グジュグジュと。
ズルズルと。ビチャビチャと。ザリザリと。
グルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズブズグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュグジュズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルズルビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャビチャザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリザリ!!!!!! と。
凄まじい音の洪水があった。
何かが流動するような。何かが泡立つような。何かが這いずり回るような。何かが腐り落ちるような。何かが弾けるような。何かが互いに擦り合っているような。
そういう得体の知れない音が、神経を逆撫でするような響きを伴って、空間いっぱいに広がっていく。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
その音源は、人型の『黒い何か』だった。
真っ黒に腐った血液にも、黒一色に染まった幾千億の蛆虫にも、粉末状になった黒炭にも見える『黒い何か』が、ゾルゾルゾルゾルゾルゾル!! と凄まじい勢いで流動しながら人間の形状を保っている。『黒い何か』が人体の表面を覆っているというよりも……この『黒い何か』そのものが肉体の構成成分なのだ。
もはや律義に人型を保っているのが不思議なくらいの光景。
なんなら今すぐ形状崩壊し、千も万も触手を伸ばす怪物に変身しても頷けるような異形の姿。
そんな化物の、正体は―――――
「…………」
問うまでもなかった。
思考を空っぽにしたまま、ティーネは自然と理解していた。
「……フェグルス?」
自分の目の前で立ち尽くすその黒い化物に、弱々しく、声をかける。
覗いてはいけない闇の底を、覗き込むような心地で。
だけど、
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
返事は無かった。
ただ変化があった。
『黒い何か』が、消えていく。
潮が引いていくのとも違う。虫の大群が巣穴に戻っていくのとも違う。
例えるなら、ロウソクの火にかざした紙が、炙られた一点からジワジワと同心円状に広がるように焦げて無くなっていくような光景だった。
体のあちこちを起点として、『黒い何か』が同時多発的に引いていく。その内側から、人間のような皮膚が現れる。
――――いや、違う。ティーネは間近でそう直感した。
『黒い何か』が消えて皮膚が現れたんじゃない。『黒い何か』が己の材質を変化させて、皮膚に似た器官を作り出していたのだ。
まるで、人間を真似るかのように。
まるで、人間に『擬態』するかのように。
気付いた頃には『黒い何か』は完全に姿を消し、代わりに一人の少年がそこに立っていた。
フェグルスが、そこにいた。
「……なに、」
元の姿を取り戻したフェグルスだったが、異質な点があった。
ぐしゃぐしゃにひしゃげ、真面に機能しないはずの両足と右腕が、なぜか回復している。両足は体を支えられる形に、右腕は拳を叩き出せる形状に戻っている。
消失していた左腕すらも、復活を遂げていた。
……何なんだ。
フェグルスの体に、一体何が起きている。
「……あんた……」
恐る恐る、ティーネは口を開く。
信頼を寄せる存在のもう一つの顔を見てしまったように。
「あんた――――なんなの……?」
その疑問に、やはり答える声はなかった。
代わりに大きな動きがあった。
ぐらり、と。
フェグルスの体が大きく揺れ、そのまま力なく横に倒れていく。
「ちょっと、あっ、フェグルス!?」
ふと我に返ったティーネは、受け身も取れず地面に横倒しになったフェグルスに急いで駆け寄った。
抱き寄せ、慌てて顔を覗き込む。
見ると彼は完全に気を失っていた。
生気など感じられず、再び目を覚ますのか疑問に思うほど静かに眠っている。そもそも一度だって起き上がれるような状態じゃなかったはずなのに。
けれど、確かにさっき、フェグルスは。
その全身を、『黒い何か』に変貌させて――――
「失敗だ」
その時だった。
いきなり心臓を貫くような鋭い声が飛んで、ティーネは慌てて顔を上げた。
遠くにいる『ジェミニ』が、うっすらと口を開いているのが見えた。
「どこまでいッても失敗だ。……最悪で、最低で、退屈で、憂鬱で、落胆で、失望で……最高に、絶望した」
言葉に反して、『彼』の顔に絶望の色はない。
その代わりに、まるで希望に満ちた未来を夢見るような清々しい表情があった。
「いいもん見れッかと思えばつまんねェし、じャア殺してやろォと思えば面白くなりなりやがる。……上手くいかねェなァ、何事も。どいつもこいつも邪魔ばかり」
瞳が光る。
瞳が燃える。
「これは『試練』だ。絶望を叩き潰すための、オレサマに課せられたオレサマの『試練』。オレサマを試すつもりかクソ虫が。上等だ、のッてやる」
一体誰と会話をしているのか。『ジェミニ』は両眼に灼熱を宿しながら、意味不明に呟いていた。
いいや、もしかしたら特に相手などいなかったのかもしれない。
意識の中には、常に一人。
圧倒的な自分自身、ただ一人。
「嗚呼……素晴らしい、想像以上だわ」
そして、それに続くように放たれる声もあった。
甘く蕩けるような、脳天から爪先まで全身を舐め回すような、そんな気色の悪い綺麗な声が。
アクアリウスの声が。
「それが貴方の求める繋がりなのね。そんなに繋がりたいのね。奪われたくないのね。己の傍に在り続けて欲しいのね。震えるわ。その強大な繋がりへの渇望に、私の心も震えてしまう」
ギチギチギチぎちぎち……と。
顔の骨格までグチャグチャに掻き回すような笑顔を浮かべる。
「今の貴方を突き動かす―――その『保護本能』。それも立派な繋がりの一つ。人ならぬ身でありながら、人以上の激情を宿し、誰かとの繋がりを渇望するなんて。連綿、連続、連結、連鎖……ますます貴方に興味が湧く」
黒い瞳の輝きは、遠くから見ても凍えてしまいそうだった。
芯の奥まで染み渡る嫌悪感。見られたくない領域まで強引に覗き込んで来るような拒絶感。
そんな悪意を、眼光に込めながら。
「……期せずして同じ結論に達してしまったようだけれど、『貴方』はこれからどうするの? 『ジェミニ』」
「風情のねェ汚物がオレサマと同じ結論に至れると思うな。絶望すんだろォが」
「見え透いた虚勢はやめなさい。『貴方』、もうあまり時間が残っていないのでしょう? 分かっているわ」
「…………」
短い沈黙があった。
直後だった。
ズドッ!!!!!! という局所的な爆発が炸裂した。
当然のように理解不能。
原理も論理も不明な『何か』が『ジェミニ』から放たれ、それをアクアリウスは難なく防ぐ。
一度ではない。
数万もの衝突が短い間隔で繰り広げられ、総体として一度の爆発と認識してしまっているだけだ。
「いい加減にしましょう。私達では決着がつかない」
呟いたのはアクアリウスの方だった。
おそらく『ジェミニ』もその事実に気付いていたのだろう。一〇秒にも満たないその爆撃の嵐は、それだけでピタリと止まる。
「そろそろ出ていられるのも限界でしょう? 分かる、分かるわぁ。私には『貴方』がよぉく見える」
白い少女の、赤い唇が、妖艶に蠢く。
「だけどいいのかしら? 『貴方』がいくら風情を謳っても、もう一人は『貴方』の風情を考慮しない。また全てを台無しにするわよ?」
「……はァ……」
ただのため息だったはずなのに、その一息には、幾千億もの呪詛と怨嗟が込められているようだった。
忌々しそうに顔を歪め、両目を痛々しい程に光らせる『ジェミニ』。
そんな『彼』はふと顔を上げ、長く垂れる髪の隙間から遠くを見据える。
その視線の先は、
「おい、実験動物」
その時、初めて『ジェミニ』は意識的にティーネを視界に入れた。
ほとんど名指しで呼ばれ、ティーネは思わず身構える。
しかし、
「そこのクソ虫を大事に抱えてろ。そして丁寧に手入れをしろ。それは、テメエがいねェとオレサマを満足させらんねェらしい」
「……は?」
飛んで来たのは。
攻撃でも魔法でもなく、言葉だった。
「オレサマは時間切れだ、また出て来るまでに相当かかる。いいな実験動物。オレサマがまた出て来るまで、そのクソ虫を、ダメにならねェように、しッかり、丁寧に、オレサマのために育てろ。分かッたな」
矢継ぎ早に叩き込まれる言葉に、何一つ理解が追い付かなかった。
手入れ? 時間? 丁寧に育てるって……何を? 誰を?
さっきからあの『男』は、何を言っている?
「……なに、言って」
「分かッたなッつッたよな」
ティーネの言葉を即座に切り捨てた。
「返事をしろよ返事を。オレサマは命令した。テメエはそれに従う。分かッたな。返事は、『かしこまりました』だ」
その底知れない輝きを放つ瞳に見据えられ、ティーネは全方位から刃を向けられているような錯覚に襲われた。
明確に感じる生命の危機。
隠す必要もないほど圧倒的過ぎる殺意に、息が詰まる。
声が……出せない。
「……それでいい」
ティーネの沈黙を、『ジェミニ』は肯定と見なした。
いいや、それもまた、命令だったのかもしれない。
否定は許さないという、肯定以外は許さないという、言葉を介さない絶対者の無言の命令。
「アアアアアアアアアアアアアアァーア、風情のねェ奴はこれだから……暇潰しを探すだけで一苦労だ」
言うだけ言うと、『ジェミニ』はティーネに背を向けた。
首の骨を鳴らしながら―――アクアリウスに一瞥もくれずに通り過ぎる。
もはや『彼』の意識には、白い少女など微塵も入り込んでいない。
「精々楽しませろよクソ虫。退屈させたら殺してやる」
それだけを言い残して、『彼』はハエを払うような仕草をしてみせた。
直後、『ジェミニ』の周囲の空間が、ガゴゴゴゴゴゴゴンッ!! と立体的なパズルのように乖離する。
次々と組み換わっていく空間の中に、『ジェミニ』は散歩するような気軽さで足を踏み入れた。
バラバラになった空間が復元され、元の風景が蘇る。
その頃にはすでに『ジェミニ』の姿はその場から消失していた。
後に残されたのは沈黙だけ。
たった一人が去った事で訪れた静寂が、一気に世界を埋め尽くす。
「……ふふふ……」
そんな中、小さな声があった。
思わず零れた笑みのような、甘い息が。
「……なにがおかしいの」
「可笑しいのではないわ。私はね、とても喜んでいるの」
愉悦に頬を緩ませて、アクアリウスは目を閉じる。
そして空を仰ぎ、まるで目蓋の裏に輝かしい星空を描いているみたいに両手を上に伸ばして、
「天の星々に届く術が、こうして私の許へやって来てくれた。そこの彼……フェグルスと言うのね? 嗚呼、しっかり胸に刻まなきゃ。私の求める道しるべの名」
その様は、まさに幸福を噛み締めているかのようだった。
あるいは、確実に来る幸福を実感しているとも見れる。
「人並に欲求と本能を兼ね揃えた知的生命体。それでいて、ゾディアックに相当する力を振るうとなれば、私の手にすら余る。……やはりそこの彼は貴女に預けておくのが適切かもしれないわね、今の所は」
ティーネはもう、その戯言に、何かを言い返す気力もなかった。
「そこの彼―――フェグルスは、貴女がいるからこそ本領を発揮する。いいえ、本領以上よ。なるほど、守りたい何かを設定する事で初めて機能するのね? 実に興味深い。誰かを守る、誰かを助ける、誰かを救う。とても純粋で、故に最も幸福に近い繋がりを構成できる。連綿連続連結連鎖。素晴らしくて、たまらない」
言いたい事を全て言い切ったのだろう。一切の未練もないかのように、アクアリウスは衣装の裾を翻しながらティーネに背を向ける。
あっさりと、ティーネ達の前から姿を消そうとする。
だけど、その寸前。
「なんでよ……」
不意に背後から声が届いて、アクアリウスは振り向いた。
未だに気を失ったフェグルスを腕に抱えて、項垂れたみたいに目を伏せるティーネが呟いていた。
「なんで、あたしじゃないの。……どうしてこいつばっか」
「…………。貴女は彼を巻き込む。彼は貴女に巻き込まれる。そういう『約束』ではなかったのかしら?」
「あたしは一度だってあんたに狙われてない!」
噛みつくように、ではなく、むしろ何かを懇願するような叫びだった。
どこか悲痛でもあった。
「さっきのわけわかんない魔法使いだってそうでしょ! 最初はあたしだけだったのに……なに、突然。今度はフェグルスばっか。あたしを殺しに来たんでしょ。だったらあたしだけを狙いなさいよ! 殺す相手はあたしでしょ!?」
こんなの、求めていた形じゃない。
自分は、守られなければならないのだ。助けられなければならないのだ。
悲劇のヒロインでなければならないのだ。
ただ誰かに守られてばかりの、何もできない、何も成せない、ただうずくまって泣いてばかりで、助けてくれる誰かを待つしかできない、無能で馬鹿で愚かで、周りを巻き込むだけの生きてる価値など微塵もないクズでなければならないのだ。
そしてフェグルスは、そんな自分を守り、助ける。自分はフェグルスを巻き込んで、フェグルスは自分を助け出す。そういう約束だ。そういう契約だ。死ぬまで一生そうなのだと誓ったのだ。
そういう約束だったはずなのに……なんだこれは?
これでは構図が逆転してしまう。
自分が狙われてフェグルスが巻き込まれるんじゃない。フェグルスが狙われて、自分が巻き込まれてしまうじゃないか。そんなの違う。狙われるのは自分だ。殺されるのは自分だ。クズなのは自分だけだ。生きてる価値がないのは自分一人だ。
「これじゃ……こんなの、」
まさか、フェグルスにも味わわせるつもりなのか?
誰かを巻き添えにするという地獄を。
誰かを巻き込むというあの苦しみを。
「違う……そんなんじゃ……」
誰かを巻き込むとは、誰かを道連れにするとは、そういう事なのか?
そこまで苦しませなきゃいけないのか?
互いが互いの痛みを、自分だけの痛みを、受け止め続けるだけじゃダメなのか? 他人の地獄まで味わわせなければいけないのか?
「あたしを、殺しに来たなら……あたしだけ殺せばいいじゃない」
こういう事か。
自分がこの男に課した罪とは、それほどまでに重かったのか。
その罪を背負って生きていけと、こいつに誓わせたわけか。
「どうしてあたしじゃないの! どうしてこいつなの!?」
本当に、救いようがない。
どいつもこいつも、自分もフェグルスも。
「どうして皆、あたしだけを殺してくれないのよ……!」
こんな言葉を、フェグルスが聞いてたらどう思うだろうか。怒るだろうか。裏切られたと思うだろうか。でも、もう心の中だけで抑え切れなった。どうせフェグルスは聞いてない。だから思わず口から出た。でもその言葉をぶつける相手も欲しかった。だから、すぐそこにいただけの、恨みがましい白い少女にぶつけてやった。
本当にそれだけだった。だから別に、返事など期待していなかった。
そうでなくとも聞き流されるだろうと思っていた。
なのに、
「死にたくならない? そんなに答えばかり求めていて」
アクアリウスは口を開く。
とても返事と言えるような言葉ではなかったが、その声には妙な力強さがあった。
ティーネは思わず白い少女の顔を見る。
彼女は、こちらを向いて笑っていた。
「望んだ答えを得られないと苦しいでしょう? ―――どうして自分なの? どうして自分じゃないの? 自分はどうすればいいの? どうしてこんな目に遭うの? これからどうなってしまうの? どこに向かえばいいの? ……そうやって、答えを求めて苦しむの。ただ現実を受け入れて、災難だったと割り切れば、苦しまずに済むというのに」
気味が悪く、気色悪い笑顔ではあったが。
その表情は、どこまでも偽りが無かった。
「自分でもいいじゃない。自分じゃなくてもいいじゃない。好きにすればいいじゃない。誰が酷い目に遭ってもいいじゃない。向かう方角なんて勝手に決めて、楽しく生きればいいじゃない。なのにどうして苦しむの? 望む答えなんかどこにも無いのに、どうして無いものを探して苦しむの? そんなの無意味だわ」
彼女は言う。
この上なく、心から楽しそうに、
「だってそう――――これはただの『ゲーム』なのだから」
真っすぐ、淀みなく放たれる彼女の言葉に、
「……げーむ?」
ティーネは愕然とした。
価値観を、芯から揺さぶられている気分だった。
「そうよ。文字通り、これはただのゲーム。生きとし生ける者、全てに与えられた『生きる』というゲーム。いつか死ぬまでの退屈でつまらない時間を、各々が好きなように埋めていくだけの遊戯」
あらかじめ用意していたスピーチではなかった。
しっかり根の張った思想が、アクアリウスという少女を隅々まで形作っている。
だからこそ、彼女の言葉に寸分の隙もない。
「なのにどうして苦しんでいるの? どうして答えなんか求めているの? なら貴女は私の問いに答えられるの? 私が満足できる答えを答えられるの? やめておきましょう。ただ虚しく、疲れて、退屈するだけ」
アクアリウスの言葉に、何一つ言い返せない。
「生きているだけで人は退屈してしまうものよ。退屈は人を殺す。だから楽しみましょう? 何をしたって所詮、退屈しのぎで、暇潰しでしかないのだから」
何をしても、何を積んでも、何を重ねても、何を連ねても。
「戦ってもいい。逃げてもいい。仕事をしてもいい。怠惰を貪ってもいい。遊んでも、勉強しても、汗を流しても、涙を流しても、血を流してもいい。希望に満ちても、絶望に沈んでもいい。誰かの手を握ってもいい。生きたいと願っても、死にたいと願ってもいい。誰かが誰かを助けても、誰かが誰かを恨んでもいい。何をしたって構わないし、何をしても変わらない」
選択肢は無限にある。
どれを手に取ってもいいし、どれを取らなくてもいい。
なぜならそれら全ては、結局はただの退屈しのぎで、暇潰しなのだから。
何であろうと、所詮全ては、ただの遊び。
「苦しむなんてゲームじゃないわ。だってゲームは、愉快に楽しむものでしょ?」
少女は言う。
「さて、貴女はどうかしら――――――」
白い少女は。世界最強の魔法使いは。アクアリウスは。
凶悪に笑いながら、問う。
「―――――ねえ貴女、今、楽しい?」
呆気なく放たれる言葉に、一つティーネは納得していた。
……『答えを求めるから苦しむ』。
なるほど。言われてみればそうなのかもしれない。
そういう見方をすれば、確かに自分はずっと問い続けるだけの人生だった。
実験動物として地獄の底に叩き落されてから、ずっと何かを探していた。自分の生きている意味だとか、自分がこんな目に遭わなきゃいけない理由だとか、助けてくれる誰かとか、自分に宿る魔法の価値だとか、どうしてこんな運命を生きなくちゃいけないのか、だとか。
探しても、答えなんかあるわけがない。
そう、全ては運が悪かった。災難だっただけなのだ。
己の受けた苦しみは、痛みは、絶望は……そしてその合間に見えた微かな希望は、一つ残らず、退屈を紛らわすためのアイテムに過ぎなかった。
これはゲーム。
退屈しのぎの暇潰し。
『さァ、ゲームオーバーだクソ虫共』
であれば、あいつの言葉は正しかったわけだ。
これがゲームだとするなら、確かに自分はとっくの昔にゲームオーバーだ。
楽しめなくなったら、苦しんでしまったら、もうおしまいだ。
「……楽しいって……」
なら自分は、ずっとゲームオーバーだった。終わりっぱなしだった。
そんな奴が―――とっくに終わってるはずの存在が。
「楽しいわけないでしょ……」
退場しているはずの存在が、引っ掻き回したというのか。
生きている人間達の世界を、ルール違反で場に踏み込んで、全部ぶちのめしたとでもいうのか?
そして、なんだ。
自分に巻き込まれて死んでいった人達は、じゃあ何だという。
あれもゲームか? 人間を、ゴミか何かのように爆ぜ散らせるお遊びとでも言うつもりか?
所詮あれも、退屈しのぎの暇潰しだとでも?
あの苦しみも。
あの時の感情も。
あの日の苦痛も苦悩も。
あの瞬間の心も決意も勇気も。
実験動物として繰り返し体を弄繰り回される屈辱も、頭の狂った魔法使いに何度も何度も殺されたあの痛みも、周りの人間を巻き込む事しかできない後悔も。
フェグルスが助けに来てくれた、あの怒りも、恨みも、憎しみも、喜びも。
全部、何もかも。
ただのゲーム。
「楽しいって……本気で言ってんの、あんた」
視線の先で気色の悪い笑みを浮かべる女が、全く別な生き物に見えた。
人間の顔をして、人間の体をして、人間の言葉を操るだけの、全く異質で穢れた化物に見えた。
「馬鹿じゃないの。何言ってんの……何が、楽しいって……はあ? ……はあ!? ふざけんじゃないっての! 楽しいわけないでしょ!? こんなの! なにが面白いのよ! 楽しいわけないじゃない!!」
馬鹿にしてるのか?
誰かの暇潰しで、誰かが死んだとでも? 誰かが退屈をしのぐためだけに、あれだけ大勢の人間が木端微塵に散らばったと?
苦痛が、絶望が、後悔が、全部暇潰し?
……ふざけるな。
ふざけるな。
「ふざけんな!! 楽しいのはあんただけでしょ! 面白くなんてない! なにも面白くないわよこんなの!! だったらあんたが死になさいよ! 今まで! どんだけ……っ! どんだけあたしが苦しんだと思ってんだ! ざけんな! どうしてあんたじゃないのよ!? そんなに言うならあんたが苦しみなさいよ! あたしじゃなくて、こいつじゃなくて! あんたが苦しんでよ! そんなに退屈ならあんたが一人で楽しんでろ! そのまま死ね! 地面這いつくばって無様に泣いて粉々になって死ね! ふざけんな!! 死ね!! いっぺん死んで出直して来い!! 馬鹿にしないで! 馬鹿にするなああああああああああああああああああ!!」
頭に昇るマグマのような熱の塊を、そのまま言葉にしてぶん投げた。
あまりに拙い。上手く言葉が出て来ない。フェグルスを相手にしてる時は次から次へと罵詈雑言が思い浮かぶというのに、この時ばかりはもう脳味噌が爆発したようだった。
自分ではその感情の奔流を止められなかった。
今は全身を駆け巡る熱をなんとか外に解き放つ事しか頭になかった。
歯を剥き出しに鼻息荒く、顔を獰猛に歪ませて、目を見開き、両の瞳を怒り狂う肉食獣のように鋭く険しく輝かせる。
叫び続けた。何を叫んだのかは覚えていない。
でもとにかく、息が切れるまで、もう何の言葉も出て来なくなるまで色々ぶっ放した。
「はぁ、はあっ、げほ! ……っはあ!」
「…………」
アクアリウスは、深い笑みを決して絶やさなかった。
自分に向けられた言葉の数々に、一体何を思ったのか。
何かは感じていたはずだ。何かは届いていたはずだ。
あれだけの幼稚で粗末な言葉を、断ち切る事なく聞き続けていたのだ。
だからアクアリウスにも。
ティーネの心の、断片ぐらいは―――
「素敵。ようやく素直な心を見せてくれたのね、嬉しいわぁ」
何一つ届いていなかった。
否定ではない。拒絶でもない。ティーネの心を一つ残らず受け入れた上で、それを無理やり曲解した。
自分好みに、自分の好きなように。
他人の心を好き勝手に着色し、自分の好きな色に染め上げた。
言葉は通じても。
心が、決定的に通じない。
「怒りは人の本性を表層へ引き摺り出す。こうして人と人は繋がっていくんだわ。永遠に、未来永劫いつまでも。ずっとずっとずっとずっと」
この時、ティーネを襲ったのは真の寒気であった。
異常を見た。
異端を見た。
こんな奴が自分と同じ生物なのかと思うと、原始的な吐き気が湧き上がる。
「やはり良いわね、誰かと心から語り合うというのは。虚偽も虚構もない、暴力的なまでの本心。それを叩きつけ合う人の営み。嗚呼、心の底から、私は楽しい」
想いを、踏み躙るのでもなく、切り捨てるでもなく、『書き換える』。
白い少女を危険だと思った理由が、今、ハッキリした。
引き摺り込まれそうだからだ。
心を受け入れられ、誘われ、そして自分も気付かぬうちにあの少女に近寄って、そのまま違う形に自分が作り替えられてしまいそうで。
「もう、わけわかんないわよ……あんたら」
異常な奴らだとは分かっていた。分かっていたが……こんなにか。
こんなにも違うのか。
こんなにも、理解を諦めなければならないのか。
「理解の道を自ら閉ざしてしまうなんてやめなさいな。孤高と孤独は同じものよ。苦しみたがりなのね、貴女」
「黙れ。あんたの声は虫唾が走る」
「虫唾で結構、嫌悪や憎悪も立派な興味関心よ。人と人との繋がりの一部。震えてしまうわね」
気色の悪い笑顔が、どこか恍惚に浸るようにとろけ始めた。
凶悪から醜悪に。醜悪から極悪に。
「だからこそ、繋がる価値がそこにある。連綿と続く結びの連鎖、それをひたすら繋いでいくの。私は、私が、繋げていくの」
まるで宣言にも似た言葉が放たれた、その直後だった。
横合いから、不自然な風が吹き抜けた。
「じゃあねお嬢さん。今の所フェグルスは貴女に預ける。また会う時が来るまで、たくさん実を結んでおいてね」
それっきりだった。
突如、吹き荒ぶ風が降り積もった粉雪を舞い上げ、ティーネの視界を白一色に埋め尽くした。
肌を刺すような冷気に、思わずティーネは片手で顔を覆う。
風はすぐに止んだ。
舞い上がった白い粉塵が晴れると、いつの間にかアクアリウスは、その場から姿を消していた。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
どうしようもない沈黙だけが降り積もる。
最悪の脅威が立ち去った後も、ティーネはただ俯いたままフェグルスの体を腕に抱いて、しばらく動けずにいた。
解放感などあるはずもない。
安心感なんて、もっとない。
あるのはただの虚無感と喪失感。
そして、自分一人の力では何もできなかった事に対する、人生何度目かも分からない怒りと後悔。
束の間とはいえ、生きる事を許されて。
それでもティーネの心の中は、泥沼のように薄汚く濁ったままで。
でも、このまま立ち止まっていても何も前に進まなくて。
じゃあ自分は、どうすれば――――
「……どうすりゃいいって……」
この先、何を、どうすればいいのか。
どこに向かえばいいのか。どこを目指せばいいのか。
約束を果たすために、今の自分に、何ができるのか。
「……わかんないよ、そんなの」
呟いて、目を閉じる。
彼がいなくては、進むべき方角すら分からない。
それでもフェグルスは、まだ目を覚まさない。
瞳は開かない。
戻って、来ない。