第二章18『ひとへに風の前の塵に同じ』
この世界は、とことん残酷だ。
こんな展開しか用意していないのか。
慈悲などあったものではない。情けも容赦もない。
苦しみしか与えないつもりなのか。あと何回、苦しみ続ければいいんだ。
そんな問いに答えてくれるような優しさもない。
苦しみを与えるだけの世界は、再び彼らに最大級の試練を振りかざす。
前兆も予兆もない所が、その悪趣味さを如実に物語っていた。
ズズン……ッ!!!!!! と。
沈み込むような重圧が、街の大通りを丸ごと呑み込んだ。
「……は?」
最初にあったのは、疑問だった。
直後に理解が追い付いた。
街全体が地盤ごと沈み込むような、まるで重力が二倍にも三倍にも膨れ上がったようなその現象に、フェグルスは、ティーネは、心当たりがあった。
記憶に新しいどころか、こんなもの、後にも先にも一つしかない。
世界最強の魔法が、その力を発揮した合図だった。
最悪な世界が、最悪のタイミングで、最悪のシナリオを執行する。
ティーネは信じられないものでも見るような視線を、遠くへ向けていた。
フェグルスは背後から津波のように押し寄せる狂気に、今までで最大の恐怖を抱いていた。
終わらない、終われない、終わりたくても終わらせてくれない悪夢が。
今一度、彼らを絶望の渦に引き摺り込まんと闇の底から浮上する。
「……ゥ……ェ……げェ、ィア……!」
遠くで何かが蠢いている。
地を這いつくばり、地に顔面を擦り付けながら、不気味に蠢き呻く何か。
ゆっくりと、数ミリずつ、数センチずつ。
もはやアリの行進よりもなお遅く、しかし確実に、フェグルスたちに狙いを定めて地面を這いずって来る。
「……うそ……」
「――――」
その姿を見た者は、一人残らず震え上がった。
不意に蘇る恐怖と苦痛の記憶に、ティーネは怯えるみたいに呟いた。
フェグルスにいたっては真面な声すら出せなかった。
『常軌を逸する』という言葉の本当の意味を、その時彼らは初めて知った。
「ぐ、ェげ……ィ、ィアアア……!」
声にならない声を上げる、肉の塊。
関節もそうでない箇所も関係なく迷路のように折れ曲がった右腕で、ズタズタに引き裂かれた紙袋のような体を必死に引き摺る。
左腕は肘から先が、二本の足は付け根から先がゴッソリ消失していた。
胴体の皮膚はほとんど捲れ、剥がれ、削られ、赤く染まる筋肉と白い骨が大胆に露出する。
地面と擦れ合う腹部からは、桃色に染まる縄状の物体が長く長く顔を覗かせた。
「ふ、……ェ」
髪は全て抜け落ち、耳も千切れ、喉も潰れ、鼻も抉れ。
そんな有様になっても、そんな見るに堪えないただのクズ肉になり下がっても、まだ諦めない。
あるのはただ、底無しの執念。
望んだものを、求めたものを、欲したものを、何としてでも手に入れようとする執着心。
それだけが、彼を突き動かす。
「ふ、……ェ……ぜ……ィ、いいいい……アアアアアア……ッ!!」
顔を、上げる。
丸めた紙屑のように潰れた瞳から滂沱の鮮血を垂れ流し、引き裂かれた喉からも無理やり血を吹き出しながら。
「クズ……に、くがァ……!」
それでも、彼は叫ぶ。
「風情じャア! ないんだよォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
風情を手に入れたはずだった。
絶対の安心と幸福を手に入れ、心の底から満たされたはずだった。
だというのに。
満たされてもなお、満たされない。
手に入れてもまだ、飽き足らない。
それもそのはずだ。
だって、ジェミニという魔法使いは。
一度でも手にしてしまったものになんて、一切の興味もないのだから。
第二章『魔法編』、完。
次回、第三章。