第二章17『スタートライン』
これで五回目だった。
一回目の事は、よく覚えている。
二回目に関しては未だに曖昧。
三回目は判断が微妙だ。数に入れていいものか……。
四回目に至っては、そうせざるを得なかったのだと言えば、まあその通りで。だけどやはりそれは、言い訳になってしまうのだろうか。
そして、今回の五度目。
「…………」
もう二度と力を使わないと誓ったあの日から、五度も自分を裏切り、力を振るってきた。
きっとこれからも、自分はこんな事を続けるのだろう。
何度も自分に嘘をついて、何度も自分を誤魔化して、過去の自分を裏切るのだろう。そして未来の自分に裏切られるのだろう。ずっと同じ事を繰り返していくのだ。何も学ばず、何も活かせず、同じ失敗ばかりを犯していく。
だって、上手くやれる方法を、自分は知らない。
失敗ばかりの人生で、失敗をなんとか乗り越える事で今までギリギリ生きてきたのだ。今さら失敗しない方法なんて、失敗しない生き方なんて、分からない。
今もそうだ。力を使ってまで、助けてはいけない少女も助けてしまった。
大きい視野で見れば、それは明らかに間違いで。
小さい視野で見たら……いや、それもそれで、やはり間違いなのだろう。
でも、振るった拳は無かったことにならない。
進んだ時間は取り戻せない。
自分が犯した失敗や間違いを、背負って進むしかない。
「分かってんだよ、そんな事……」
破壊された大通りを歩きながら、フェグルスは一人でそう呟く。
そして考える。
自分があの少女のために『力』を使った事が、果たして正しいのか。もっと他に道はなかったのか。誰もが納得できる他の選択肢は本当になかったのか。これでよかったのだろうか。
もしも自分じゃなければ、もっとスマートに解決できたのかもしれない。自分が当事者だから盲目になっているだけで、第三者の視点で見れば、簡単に誰もが幸せになる道を見つけられたかもしれない。
今さらこんな事を考えても遅い事など分かっている。けれど考えずにはいられなかった。
いつかシルフィが言っていた。未練たらたら。その通りだ。
あり得たかもしれない『もしも』を、ずっと引き摺って行くのだ、自分たちは。
一度選んだ道は変えられない。
だってこれは、自分が選んで、自分が歩んだ自分の道。
死んで欲しくない少女がいた。生きていて欲しい少女がいた。そんな自分勝手を押し通すために、拳を握り、邪魔な誰かを叩き伏せる。
結局フェグルスは、自分の力を自分のためにしか使っていなかった。
助けたいと思ったのも、力を振るったのも、少女は自ら死ぬ事を望んでいたのに、その思いを勝手に踏み躙ったのも、全て自分。
……何かを守ろうとすれば、自分は変われるかもしれない―――なんて。
思い上がりも甚だしい。そんなわけがないだろう。
フェグルスという化物は変われない。
変わらず、そのまま、誰かを傷付け、誰かの思いを無為にする事しかできやしない。
「やっぱり駄目だ、先生」
一人静かに納得して、フェグルスは前を見据える。
「こんな『力』を持ってても、俺は誰も救えないよ」
フェグルスは、傷だらけの大通りを静かに歩く。
視線の行く先に、地面にへたり込む少女がいた。
「……やってくれたわね」
傍まで歩み寄るや否や、そんな事を言われた。
「……自分が何をしたのかわかってんの。台無しにしたのよ、あんたが、全部」
突き立てられたその言葉は、今まで以上に鋭かった。
自分が振り撒いた破壊の意味を、改めて叩き付けられている気分だった。
目を背けたい。目を逸らしたい。正当化して、自分の心を守りたい。気を抜けばすぐにでもそんな願望にしがみついてしまいそうになる。それを、なんとか堪える。
「……わかってる」
「わかってないじゃない」
否定は早かった。
少女は地面に手を付いて、俯いたまま、フェグルスの心を責め立てる。
「あたしが死ねば……それで全部済むの。なのに……なんで今さら……」
少女の言葉に、フェグルスは何も返せなかったし、返す権利なんてものはそもそも無かった。
これはフェグルスが自分で望み、自分で招いた結果。
少女の想いを踏み躙って強引にもぎ取った、自分本位の自分勝手な結末。
「ふざけないでよ、馬鹿じゃないの。そうやってわかったフリして……何にもわかってないじゃない。どうせまた誰かが殺されるわよ、あたしのせいで。あんたがあたしなんかを助けたせいで。もう嫌なのに、嫌で……嫌だって言ったでしょ! だからここまで来たのに! 全部台無しよ、あんたのせいで……!」
ティーネの言葉は、
「また、知らない誰かを、あたしが殺すのよ……」
紛れもない真実だった。
自分が犯した罪の大きさを、今一度、深く、真の意味で自覚させられる。
フェグルスが彼女を助けた事で、フェグルスが強引に押し通した勝手な想いのせいで、助けたいと思っていた少女に罪悪感を押し付けるのだ。
「どうするつもりよ」
一言一言が、あの魔法使いの攻撃よりも重く大きくのしかかる。
「あたしを助けて、そのせいでまたどこかの誰かが死んだらどうするつもりなのよ。……ねぇ、何がしたいの、あんた。わからない、全然、あんたが何をしたいのか、わからないわよ全然!」
少女はずっと首を横に振って、ひたすら何かを否定している。
何を否定して、何を拒絶しているのかは、多分、彼女自身もわかっていない。
「答えてよ! 何をしたいの!? そんなに……そんなにあたしに、誰かを殺させたいわけ? ……それは、なに? あたしに対する罰なの? 巻き込んじゃったから……あたしを、責めてるの? もしも、そうなら……っ、お願い、もう、やめて……! ごめん、ごめんなさい、もうやめてよ、謝るから、だからもう! おねがい、も、やめてよ……おねがいだから……」
何を言えばよかったのか。
何を言うべきだったのか。
違う、そうじゃない、謝ってほしいんじゃない、責めたいわけじゃない、死んでほしいわけじゃない。俺はお前に、死んでほしくないんだ。
ただそれだけの事が言えない。
だって、フェグルスのその気持ちが、今の彼女を苦しめているのだ。
彼女を死なせたくない想いが、彼女を縛り、痛めつけ、心を引き裂いていく。
「……、……」
口を開いても、正しい言葉が見つからない。
何を言ってもその言葉は彼女を苦しめて、絶望へと追いやっていく。
修復不可能なほどズレてしまった二人の願いは、互いに互いを傷付け合うしかできなくなっていた。
「……違う。そんなんじゃないんだ」
「じゃあ、なに」
ようやく口をついた言葉を、それでも少女はすぐに振り払う。
彼女の声が、ゆらゆらと揺れた。困惑、混乱……少女の声に、不安の色が強く浮き出てくる。
「わからない、全然……わからないわよ……」
少女の心が、本音が、今やっと、見えてきた。
「何を……したいの……? あんたは……なんで、そんなに」
「お前を死なせたくなかった」
不安に揺れる彼女の声に、フェグルスはそれだけを強く答えた。彼の返事を聞いた途端、少女の肩が僅かに跳ねる。
「俺のやりたかった事は、それなんだ」
「そんな事して、意味、あるの……?」
その言葉の矛先は、本当はどこに向かっていたのか。
「あたしが生きてて……生きてたって誰かを殺すだけで、そんなの……。なのに、なんで? あんたが、な、なんで……こんな事してるのか、わからない。わけが、わからないの……! もうっ、全部、わけわかんなくて……わからないの……っ」
想いの数なんて一つじゃなかった。
死にたくないと願うのも、死ななければいけないと思うのも、全部含めて彼女の心だった。
どっちかが本心なんじゃない。
どちらも彼女の本音なのだ。
おそらく、とっくの昔に制御不能だったのだ、少女の心は。
どちらかの想いが中途半端なものだったら、もしかしたら自然と片方が消えていたのかもしれない。けれどそうじゃなかった。どちらも本気の想いだった。生きたいという想いも、生きていちゃ駄目なんだという想いも、二つの想いはどちらも強すぎたのだ。
妥協もなく、妥当もなく。
結果として、相反する二つの想いは彼女の心を真っ二つに引き裂いた。
だから……わけがわからなくなった。
それが少女の―――ティーネの心の本性。
彼女が抱える一番の敵の正体。
「あたし、生きててもいいの……?」
多分それは、彼女だけじゃなくて、本当はフェグルスにだってわかっていない。
だからこそ。
「―――分からない」
そう答えた上で、
「分からないから……ここに来た」
言葉を続けた。
誰かの生きている意味なんて、誰にだってわからない。生きる価値だとか意味だとか理由だとか、そんなものは誰にも、本人にだってわかるわけがない。
「ずっと言ってる、俺は納得がいかなかった。意味なんて分かるかよ。俺だって自分が生きてる意味なんて知らない」
誰も彼も同じこと。
自分が生きている意味なんて知らないし分からない。だから自分なりの答えを見つけようと今を生きているのだ。
それが分からないまま、見つけてないまま、殺されようとしている少女がいた。
そんな理不尽に、どうしても納得ができなかった。
「俺はお前を助けない」
言葉を重ねるごとに、フェグルスは自分の進む道が見えてきたような気がした。
自分が本当にしたい事。
自分が目指したい事。
フェグルスという化物が、本当に目指したかったもの。
「まだ、生きれる道を探してない」
その言葉は、スイッチのようだった。
今まで機能しなかったフェグルスの中の何かが、ぎこちない音を上げながら動き始めた。
「お前の体……暴走だの何だの、訳分かんねえモンがあるってのは分かってる。でもほんとに『これ』しかなかったのかよ。本当にこんな結末しかなかったのか、分からないんだ、まだ」
怯えるばかりだった己の体が、動く。
「お前が死ななくてもいい可能性が、道が、まだあるんだ、あるかもしれないんだ。諦め切れなかった」
まだ、手を伸ばしてもいないのだ。
「どうにか、できるかもしれないんだ」
「だったら」
ティーネの声は、まだどこか拒絶の色が強く、
「どうにもできなかったら、じゃあ、どうすんのよ」
それは最悪の結末の可能性。
フェグルスが希望を抱いた道とは、真逆の進行方向。
否定したくても、拒絶したくても、どうしたって無視する事のできないシナリオの一つ。
「わかんないわよ、どうなるかなんて……。でも、駄目だったらどうすんのよ。あんたの言ってる可能性が、全部、無駄だったら……」
「…………」
「あたしが、死ぬしかないって分かったら?」
「……それは―――」
「じゃあ」
その瞬間、多分ティーネは笑っていた。
純粋な笑みじゃない。
もう何もかもを放り投げて、全てを諦めた人間の浮かべる不気味な笑顔。
「もしも、あたしが死ぬしかなかったら」
こんな事を言ってしまう自分を心底殺してしまいたくなる心地のまま、ティーネはそれでもはっきりと、
「あんたがあたしを、殺してくれるの?」
そう言った。
でも、それはあり得るはずの可能性でもあった。ティーネという少女が救われる道があるなら、救われずに死ぬしかない道も当然ある。道は一つだけではなく、二つなのだ。
フェグルスだって、決してその道を無視していたわけではない。
目を逸らしていたわけではない。目を背けていたわけではない。
だけど、こうして目の前に突き付けられると、今にも心臓が止まりそうになる。
「……俺は、」
言い淀むフェグルスの声を聞いて、ティーネはついに諦めた。
ほら、やっぱり。できないじゃないか、結局。
それでいい。どうせそうなるんだ。そうなる事を望んでさえいた。
もう自分と関わって、苦しむ誰かがいなくなるなら。
「あたしが、もう、どうしようもなくなったら……あんたに責任が取れる? あたしを殺してくれるの?」
「あぁ」
驚愕が、少女の全身を貫いた。
その即答に、ティーネは弾かれるように顔を上げた。
フェグルスの顔を、初めて見る。
見たこともない表情だった。一つの感情じゃない。十も百も、数えきれないほどの感情がフェグルスの中でない交ぜになっていた。
口元は、困っているようにも、笑っているようにも、覚悟を決めているようにも見える。二つの瞳は真っすぐティーネを見据えて、怒ったみたいに、泣いているみたいに、希望に満ちているみたいに、絶望しているみたいに輝いている。
「……どうして……」
だからこそ、余計に分からなくなる。
どうすればいいのか、分からなくなる。
「あんたは、なんで……そこまで……」
「何度も言ってる。納得できなかった」
そこがスタートラインだった。
「諦められなかった。可能性の一つにも手を伸ばしてない。伸ばそうともしなかったんだ。……何も分からないまま、終わる事もできなかった」
言葉は続く。
彼はまだ諦めない。
「本当にこれしかなかったのか、分からないんだよ本当に。分からないまま、こんな結末、納得できない、したくない。だから戦う。俺はお前の願いを叶えない。お前を助けない。お前を、救わない」
強く言い切り、深く息を吸う。
「うかうかもしてれられねえ。こんな所で立ち止まってられないんだ。誰も殺させねえ、誰も死なせない。誰かを犠牲にしてとか、死ななきゃとか色々……もうっ、こんなクソみたいなのはごめんなんだよ!」
まだ歩き出してすらいない。
「誰かが死ぬのも誰かが殺されるのも全部! もう!! 受け入れてられるか!! いちいち!! もう終わりだ!! もうやめだ!! ふざけるな!! もう誰も!! 俺の知ってる人間全員!! 死なせて堪るか!!」
まだ。
まだだ。
「まだ始まってもいないんだ! また誰かが犠牲になる前に、考えられる事一つ残らず全部やってやる! できる事は全部やってやる! 何かはあるはずだ、あるはずなんだよ! だってこの街は魔法使いの街なんだ! 魔法使いのためにあるんだ! お前だって魔法使いなんだろ!? やれる事も、可能性も、数えきれないぐらいあるはずなんだ! ……それで……」
そして、ここからが本題。
フェグルスが向き合わなくてはならない一番の脅威。
「それで、もしも。……それでも、何をやっても、駄目だったら」
肝心なところで、言葉に詰まる。
その先を、言うべきなのだろうか。
いや駄目だ。言うべきじゃない。少なくとも今ここでは。
だってそれは、どうにもできない事を前提とした可能性だ。彼女の死を許容した答えだ。
そんなふざけた言葉はいらない。
馬鹿げた結末を先に見据えた答えは、フェグルスの求めるものじゃない。
しかし、
「その時は、あんたがあたしを殺して」
先に口をついたのは、ティーネだった。
「……約束して」
ゆっくりと、彼女は右手を、フェグルスの方に差し出した。
それの意味する事は。
「そんなに言うなら、約束して。もしも本当にあたしが、どうにもならないって分かったら、なんの可能性もなかったら、どうにもならなくなったら、殺して」
それは覚悟か。
それとも諦念か。
「あたし、ほんとに死ねるのかも分からないけど……でも、なんとしてでも殺してよ。あたしが、何をしても死ぬしかないんだってわかったら……あんたが、あたしを、殺して。殺される相手ぐらい、あたしに選ばせて」
「…………」
フェグルスは何も言わないまま、自分の右手を、少女の右手に重ねた。
優しく、静かに、ゆっくり、だけどしっかりその手を握る。
細くて柔らかい、小さな手だった。別にフェグルスでなくとも、男の力なら簡単に折れてしまいそうなほど脆そうで、弱そうで、少し触れただけでも崩れ落ちてしまいそうで。
それでいて、信じられないほど熱い。
血が通い、命で満たされ、彼女の体は紛れもなく生きていた。
その手を握り締める。互いに互いを、握り締めた。
そして、二人はお互いの体の熱の余韻を惜しむみたいに、未練がましくゆっくり時間をかけて、手を放す。
「……間違えたわね」
「は?」
「今のはあたしの手を払いのけるのが正解よ」
「遅いだろ、全部」
彼女がこの場で死んでしまう事が、おそらく一番正しく、合理的で、論理の通じた結末なのだろう。そんな事は分かっている。
だから、それを否定しようとした。
「俺はお前を助けない。だから、もうこれ以上死なせないぞ」
覚悟ならもう決めた。
逃げる事はできない。だって、自分から足を踏み入れ、自分から拳を振るい、自分で決めて自分で誓ったのだ。
どこまでも自分勝手で自分本位。他人の事などまるで考えもしていない。
それでも、歩き始めたのは、自分だ。
「馬鹿でしょ、あんた」
「知ってる」
「馬鹿じゃないわ、もう、ただのクズよ。ほんと、救いようがないわ。あんたみたいな……」
「……?」
「だあああああああああああああ!」
突然の咆哮に、心構えのできていなかったフェグルスは「おうっ!?」と半歩だけ後ずさる。心臓が少しばかり跳ね上がる。
猛獣のような雄叫びを上げて、ティーネは勢い良く立ち上がった。そしてほとんど殴り掛かるみたいに、フェグルスの胸をドンッ! と叩き、
「もう逃げらんないわよ!」
彼女のその気迫は紛れも無く、あの時―――フェグルスの家に空から落ちてきた時とまるで同じもので。
言葉の一つ一つが相手を圧倒するかのように、鋭く、強く、確かな声で。
「絶対にあんた、後悔するわよ。わかってんの」
「あぁ」
「それでもいいの? 自分が何言ってるのか、ほんとに分かってんの?」
「……わかってる」
「あたしなんかを、どうにかしようとしてるのよ? 死ななきゃいけなかったのに。死ぬんだって、あたしがようやく決めたってのに、あんたはそれを全部まとめてぶち壊したの。台無しにしたの、無駄にしたのよ。最悪、最低よあんた。自覚して、ちゃんと」
しばし、沈黙。
ティーネは深く息を吸って、
「感謝なんて、しないから」
当たり前だ。
「恨むわよ」
当然だ。
「あんたの事、絶対に許さない」
それだけの事を、したのだから。
「あたしが死んでも生き残っても関係ない。……一生、ずっと、今からずっと、絶対にあんたの事、許さない。恨み続けてやる」
「……分かった」
「それでいいの? あんたは」
「……あぁ」
「いちいち返事すんな。他人が喋ってんだからちょっとは黙ってられないの?」
「…………」
「返事ぐらいしたらどうなのよ」
「どっちなんだ……」
「どっちもよ」
いや無理だろそれは。
ツッコみたい気持ちをぐっと堪え、フェグルスは思わず言い返しそうになった口を堅く結ぶ。
今は、聞く時だ。
聞いて、受け止める時だ。
「……今あれ、持ってたりする?」
「あれ?」
「あたしが落としたやつ、あんたんちに」
三日月の形をしたお守りを事を言っているのだと、フェグルスはすぐに気付いた。
やはりあれは大切なものだったか。まあ名前まで彫ってあったんだし。
そう思い、
「いや悪い、今は持ってねえ。俺んちにある」
「ん、じゃあいい」
特に執着もなく、そう答える。
何が「いい」なのか分からなかったが、どうやら予想に反して、ティーネの中であのお守りは、そこまで重要なアイテムではなかったらしい。
名前をしっかり彫る辺り、かなり思い入れの深いものだと思ったのだが……。
しかし少女は即座にお守りの話を自ら断ち切って、
「で、あんたは?」
「……は?」
突然話を振られ、何が何だか分からないフェグルスに、
「あんたの名前、教えて。あんたがあたしの名前知ってるのに、あたしがあんたの名前知らないのってなんかムカつく」
「なんだその理由……」
まさかここまで理不尽な理由で名前を訊かれるとは思わなかった。
とはいえ別に断る理由もなく、それに、これからも『お前』だの『あんた』だのと呼ばれるよりは百倍マシであるのは確かで。
だから、
「俺は―――俺の名前は、フェグルス」
「フェグルス……」
たった今聞いた名を、繰り返すようにティーネは口にする。
一生恨み続けると決めた相手。絶対に許せないと誓った相手。そんな奴の名前を口にする気持ちは、一体どんなものなのだろう。
フェグルスには、想像がつかなかった。
「……あんた、言ったわよね? あたしを死なせないって」
「あぁ、言った」
「あたしの分も、傷付くわよ。戦う事にもなるでしょうね。これからもっと。……分かってる?」
「分かってる」
「あたしの罪を、あんたも背負ってくれる?」
「覚悟はできてる」
顔を少し俯かせて問いかける少女に、少年は真っすぐ答える。
知ってしまった己の本音に、もう嘘はつけない。
今からどんな地獄に叩き落されようとも、自分の決断からは逃げられない。
「なら、覚悟してよ」
ティーネから放たれる言葉一つ一つを、決して聞き逃さずに、全て受け入れる。
言うなればそれは、フェグルスに課せられた罰や責任の一つだった。
「自分で言ったんだから、ちゃんと最後まで責任とってよね。フェグルス」
その声は。
相手を見下すでも、侮蔑するでも、呆れているわけでも、諦めるのでもなく。
「あんたを絶対に、後悔させてやるから」
体の底から絞り出すように、彼女はそう言った。
それがティーネの出した答え。
少女は少年を決して許さず、恨み、憎しみ、拒絶し続ける。だけど少年は少女を決して拒絶しない。見放す事も、見捨てる事も、絶対にしない。してはいけない。
少女は少年を罰し続ける事を望み。
少年はその罪を背負い続ける事を望んだ。
全てが合致してしまった。何の障害もなく、容易に答えが導き出される。
「……わかってる」
迷いはなかった。覚悟なんてもうとっくに決めているのだ。
罪を犯す覚悟も、罪を背負い続ける覚悟も、フェグルスは己の心に決めていた。
そこがスタートライン。まだ歩き出したばかりだ。
あとは目指すべきゴールを、目指したかったものを、真っすぐ正面に見据える。
追い風が吹いた。
今まで向かい風ばかりだった。吹き付けてくる風は恐ろしいほど強烈で、何度もフェグルスたちを吹き飛ばし、地面に叩き伏せた。立ち上がろうとするたびに、その風は狂気的な力でもって彼らの体を踏みつけた。
だけど、今なら。
逆風を乗り越えて、ようやくスタートラインに立てた今なら、走り出せそうな気がした。この理不尽な『物語』を、書き換えてやれそうな気がしたのだ。
風が吹く。
風が強まる。
フェグルスの背中を押すかのように、ティーネを包み込むように。
今やっと、前に進める風が吹いたのだ。
次の瞬間だった。
ズズン……ッ!!!!!! という衝撃と共に、街全体が沈んだ。
引力と斥力が、圧縮された現象だった。