第二章16『円頓』
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ァ?」
どす黒い瞳に、街の景色が映っていた。
破壊の限りを尽くされた大通りは、ひどく荒れ果てていた。
しかしそこから少し離れた場所にはさほど被害がないらしく、軒を連ねる建造物も、住人たちの営みの痕跡も、しっかり見て取れる。
ジェミニには今、魔導都市のほぼ全域が見えていた。
彼がクズ肉と称した者たちが創り上げる世界を、見せつけられていた。
そして。
街の風景を目にして初めて、
「は?」
ジェミニは、自分が遥か上空を飛んでいる事にようやく気が付いた。
正確に言えば飛んでいるのではない。吹き飛ばされたのだ。自分以外の第三者の手によって。
しかし誰だ。
そんな事ができる奴など、この世界にいるのか。
だって自分はゾディアック。
世界最強の魔法使いで、全てが満たされた、完成された存在。
そんな自分が、こうして何もできずに宙に舞い上げられている理由が、原因が、理解できない。
「……こん。な、事……」
―――フェグルスが、ジェミニの魔法に拳を叩き込んだ。
―――簡単な動作から放たれた莫大な余波は、ジェミニの放つ最大級の魔法を容易く消し飛ばし、そのままジェミニすらも上空へ吹き飛ばしたのだ。
……という事実に、ジェミニは最後まで気付けなかった。
吹き飛ばされた少年は、地上を見る。
すぐ真下に、フェグルスが立っているのが見えた。
「ア、の……腐れクズ肉がァ……!!」
喉の奥から血を吐き出しながら喚く。
再びジェミニの内側で、憎悪の炎が燃え上がる。
上等だ。やってやる。
何度だってやってやる。
何度だって魔法を叩き付けてやる。
何度だって何度だって、何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度何度だって、何度でも。
何度でも叩き潰してやる。
自分を蔑ろにして、見下して、踏みつけて嘲笑って侮辱して否定する連中を。
自分を馬鹿にするクズ肉共を。
この世から、一匹残らず駆逐するまで。
絶対に、止まるものか。
「やッてやるよゴミクズ如きがア!!!!!!」
叫んで。喚いて。
そうして再び、ジェミニは全力の魔法を発動させようとした。
自分の中にある魔力を、全て絞り出す。
より大きく、より鋭く、より強烈に、より凄惨に……自分を馬鹿にする奴らを、塵一つ残さず消し去れる威力の魔法を想像する。
潰してやる、クズ肉共。
後悔させてやる、クソ虫共。
操術魔法:『森羅聖誕』//地縛――――――《神力創世》
世界最強の魔法使い。
そんな少年が放つ最大威力の魔法。
標的はフェグルスだけじゃない。この街、この国、この惑星、この世界―――とにかく認識できる一切合切何もかもを、そのどす黒い瞳に捉えて。
「ボクをここまでコケにした事ォ!! 後悔しながら爆ぜ散れよクソカス共がァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
ジェミニは、何の躊躇もなく世界最強の魔法を解き放つ。
次の瞬間だった。
しん……と。
ジェミニの周囲には、斥力も引力も集まらなかった。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ア?」
異変があった。
その異変を認識するのにかなり時間を要した。
そしてようやく、『なぜか魔法が発動しない』という事実に気付いた時には、たっぷり一〇秒も経過していた。
「な……なにが……」
咄嗟に現実を否定しようとした。
しかしできなかった。
何度体内で魔力を練っても、何回体内で魔力を暴れさせても、もはや引力を使って自分の体を空中に繋ぎ止める事すらできなくなっていた。
……やっぱり、この局面に至ってなお、ジェミニは何も気付けなかった。
世界最強の魔法使い、ゾディアック。
彼らの魔法は極めて強力なため、『魔法を連続使用する機会』なんてほぼ訪れない。魔獣が相手でも魔法使いが相手でも、基本的には一撃二撃で事足りるからだ。
ジェミニもそうだった。
だからこそ気付けなかった。
フェグルスという『例外』を相手にした戦闘行為。彼を叩きのめすために、ジェミニは人生で初めて、何十発も何百発も連続して魔法を使用したのだ。
……ジェミニは全く考慮していなかった。
魔力を魔法に変換する『魔力回路』が、突然の負荷に耐え切れず、機能不全を起こしてしまう可能性なんて。
「……ば。か、な……」
言ってみればそれは……今まで真面に運動した事のない人間が、突然激しい動きをして筋肉が攣ってしまうのと同じ理屈。その程度の現象でしかない。
だけど今だけは、その現象がもたらす効果は非常に大きい。
今、攻撃をされたら……防げない。
「―――――ッ!?」
真の脅威に遅れて気が付いた。
自分の醜態にしか意識が向かなかったジェミニは、ようやく自分以外のものに目を向けた。
地上を見た。
地上にいる存在を見た。
遥か下の地上から、コチラを見上げる存在を見た。
燃え上がるような殺意を宿したフェグルスが、ゆっくり拳を握るのが見えた。
「へ?」
理解ができなかった。
これから何が起こるのかを心の底から認めたくなくて、意識的に現実をシャットアウトした。
しかし無理だった。
現実は、コチラがどれだけ目を逸らそうが、目を背けようが、そんなものお構いなしにやって来る。
―――フェグルスが、小さく一歩を踏み出す。
「ちョ……」
―――フェグルスが、ゆっくり拳を引く。
「ちョッと……」
―――フェグルスの瞳が、一直線にコチラを見据える。
「ち、待ッ、ちョッと、待て! 待ッて!! 待ッてェ!!!!!!」
―――そして。
フェグルスは上空に向かって、勢い良く拳を振り上げた。
その拳から生じたのは、天空を貫かんばかりの絶大な衝撃波だった。
鋭く、大きく、まるで一直線に標的を狙う一本の『槍』。それが地上から、凄まじい速度で上空へと這い上がって来る。
ソニックブームを辺り一面に撒き散らし、引力も斥力も歪むような膨大な圧力を伴い、信じられない爆音を鳴り響かせながら突っ込んで来る破壊の奔流。
それが自分に向かって来ている事を認識して。
ジェミニは、
「嫌だ! 嫌だアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! ふッ、ふざけるなよォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
抗う事を、あっさり諦めていた。
だって魔法が使えない。迫って来る衝撃波に対抗策が思いつかない。迫り来る攻撃を防ぐ手段が何一つ思い浮かばない。
けれども、あれを喰らえば自分は死ぬ。
死ぬ。確実に死ぬ。死んでしまう。クズ肉のように。虫ケラのように。なんの風情も幸福もなく、呆気なく、綿埃を振り払うような感覚で殺される。
恐怖と屈辱と憤怒に、ついに心が壊れた。
ジェミニは手足を振り回し、滂沱の涙を流しながら何度も喚いて泣き叫ぶ。
「ふざけるなアアアアアアアアア!! クソォォおおおおおおおおおお!! ふざけるなよォ! なんでだア!? アり得ないだろこんなの! ふざけるなッ、死ねッ、死ねよォ! 死んじまえよォォおおおおおおおお!! クソがァァアアアアアアアアアアア!! うわァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
許せない。否定したい。だけど否定するための力がない。怒りを撒き散らしたい。けど撒き散らす手段がない。そんな暇はない。自分は死ぬ。死にたくない。死ぬのは自分じゃない。自分以外の全てのはずなのに。こんな現実は認められない。否定する力がない。手段がない。でも許せない。馬鹿にされた。こんなの風情じゃない。否定したい。力がない。何もない。否定したい。でも何もできない。
「なんでだよ!! オマエらだ!! オマエらだア!! ボクは違うのにィ!! ふざけるなア!! 何なんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
死ぬのが怖い。死んだらどうなるのか分からないから怖い。死んだ先に何があるんだ。何もないかもしれない。それとも、どこともしれない場所に連れて行かれるのだろうか。
天国か? 地獄か?
それこそ馬鹿らしい。そんなものは信じない。
だとしたらどうなる。命が消え、意識が途切れ、思考も無くなった先にあるのは、やはり無か。空白なのか。漆黒なのか。誰もいない、何もない、自分という存在すら消えた世界。
そんな世界に、行きたくない。
誰もいない世界なんて、何もない世界なんて。
そんな下らない場所に―――
「……ア……」
理不尽に怯えるジェミニは、不意に気付いた。
誰もいない世界。何もない世界。空白と漆黒に塗り潰された無の世界。
もしも死の先にあるのがそんな世界だとしたら、それはつまり。
自分を馬鹿にするモノが、塵一つも存在しない世界じゃないか。
「……は……」
月の光に、世界の全てが照らされた。
街も、人も、建造物も、魔法使いも、魔導都市も。
宙を舞う無数の瓦礫も、その合間に漂う一人の少年も。
最大の光が、そこにあった。
「……はは……」
最高の風情を求めてきた。誰も見たことのない、誰も辿り着いた事のない、前人未到の風情を追い求めてきた。
ずっと馬鹿にされ続けていた。蔑まれ続けてきた。この世に自分を下に見る誰かがいるというだけで我慢ならなかった。いるかもしれないというだけでハラワタが捩じ切れそうだった。
けれど、もしも。
そんな心配が、不安が、疑念が、一つも存在しない世界があるのなら。
その世界が、死の先にあるのだとしたら。
求めていたものは最初から。
ずっとそこにあったのか。
「……すゥばァらァしィいィ……」
ジェミニは、両手をゆっくり大きく広げる。
空間を圧搾しながら直進する衝撃波に向かって、懸命にその手を伸ばした。
望んでいたもの。求めていたもの。欲していたもの。今まで散々苦しんで、もがいて足掻いて、心を痛めつけられてなお手に入れられなかったもの。
それが、目の前にあった。
「アァ、なんて――――」
そうだ、自分はこれを求めていた。この光景だ。この『死』だ。
最後で最期の『死』を見据える。
そして、ジェミニは。
「実に、風情だ」
心の底から満たされた、その瞬間。
上空に漂う『全て』の物体が、木端微塵に消し飛んだ。