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第二章13『拒絶』

 





 意味が分からなかった。




「ぼ……ォ……?」


 何が起きたのかを理解していないわけではない。理解していてなお現実を拒絶しようとした。

 破壊の波は間違いなく放たれていた。破壊の渦は間違いなく爪痕を刻んだ。

 でも、だとしたら。




 どうして自分は、地面に倒れている?




「……ち……ちが……こん、……アり、得……ッ!!」


 立ち上がろうとしても、地面と鎖で繋がれているみたいに体が重い。震える腕は体重を支え切れていない。顔を上げようにも首に力も入らない。少し筋肉を動かしただけで、全身が引き裂かれるように痛む。


 ジェミニはそれを、意思の力だけで乗り越えた。


 動かないはずの体を強引に起き上がらせて、ガクガク震える両足で地面に立つ。

 その途端だった。


「がぼッ! アがァァアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」


 喉の奥から、恐ろしい量の血が溢れ出た。

 原因不明の吐血に、思わずジェミニは目を見開く。

 しかしその原因を思考するよりも先に、頭の中は無意味な怨嗟に支配された。


(アり得ない……アり得ないアり得ないアり得ないアり得ない!! どうしてボクがこんな目に遭うんだ!? こんな、こんな事ッ、アッていいはずがない!!)


 もはや自分の言葉が声として出ていない事にすら、ジェミニは気付いていない。


(ボクを誰だと思ッてる!? ボクはゾディアックで! 誰よりも純粋に、誰よりも誠実に! 完成し! 正しく! このふざけた世界を、正、そうと……力、最強で、風情のないクズ肉、処分……クソ虫! そうだ! クソ虫だ! 倒れるのはボクじゃない! 逆だ! そのはずだ! ボクは、ボクがッ! ボクがオマエらを地に叩き付けて!!)


 否定の言葉を探した。否定の材料を探した。否定の確証を探した。

 そして、そもそもの大前提に気付かされる。


(……ボクの魔法が……届いてない?)


 その答えに行き着いた瞬間だった。

 目の前から、『声』が聞こえた。



「今は、終わらせないぞ。こんなクソみたいな結末じゃ納得できない! お前がいくら望んでも、死なせてくれって頼んでも!」



 ジェミニの耳が最初に捉えたのは、一人の少年の声だった。



「何が何でも絶対に! これ以上お前を死なせて堪るか!!」



 なぜそんなものに意識を向けてしまったのか、ジェミニ自身にも説明できない。

 ただ一つ、確実な事として。

 ジェミニは、自分から色が抜けたように感じていた。

 今までこの場を支配し、この場で一番に色付いていたはずの自分が見劣りするほどに、あの少年から莫大な『脅威』を感じていた。


 ……馬鹿にされている気分だった。


 自分という存在が、薄まっていく。虐げられていく。蔑ろにされていく。消されていく。見下される。嘲笑われる。貶められる。踏みつけられる。蹂躙される。





 また、そうやッて。

 誰かがボクを馬鹿にする。





(……違う。違う、違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う)


 否定する、何もかもを。

 拒絶する、一切合切を。

 否定する、拒絶する、否定する、拒絶する、否定する、拒絶する、否定する、拒絶する。認められない。頷けない。呑み込めない。受け入れられない。そんな事はできない。違う。間違えている。誤っている。何かが狂っている。おかしい。絶対にあり得ない。信じられない。見ていられない。こんな事が起こるわけがない。辻褄が合わない。これじゃない。これはそんな『物語』じゃない。思い描いていた『物語』とはかけ離れている。全然違う。作り直さなきゃ。書き直さなきゃ。思い直さなきゃ。認めたくない。ダメだ。間違いを正さなきゃ。もっと風情のある『物語』にしなきゃ。意味が分からない。どうしてこうなった。どうしてこんな間違いが平然とまかり通ってるんだ。誰が邪魔をした。誰が間違えた。誰が台無しにした。誰が馬鹿にした。自分じゃない。自分以外の何もかも。どうしてこんなに風情がないんだ。どうしてお前らはそうやって真面目に生きてる人間の邪魔しかできなんだよ。欠陥、欠落、欠失、欠損、全てが欠けてるクズ肉め。他人の心を搔き乱す極悪非道の罪人が共がッ、なんでだよ、どうしてだよッ、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!


「ち、が……」


 ようやく声を出せた直後、粘着質な液体が喉の奥からゴボォ! と勢い良く噴き出した。

 ジェミニは血を拭う事もせず、粘ついた鮮血を口から垂れ流したまま、視線の先にいるクズ肉を明確に見据える。


「こ、んな、事が……こんな『物語』がァ……!」


 その時、彼はふと思い出した。

 この下らない処分を終わらせるために、最大級の魔法を放った瞬間の事を。

 結果として、その魔法は粉々に散らされた。無様に転がる実験動物が何か特別な行動を取ったような事はない。問題は、それとは別にあった。


 あの少年が、実験動物と魔法の間に割って入った直後。

 彼はその魔法を、圧倒的な破壊の渦を、その右手で『殴った』のだ。


 その後の記憶はない。目が覚めればこの光景が広がっていた。

 だとすれば。

 自分の魔法を叩き伏せ、拳の一撃だけでそれ以上の破壊をもたらしたのは―――


「ふざけるな……」


 絶対に認められない。

 絶対に認めたくない。

 絶対に認められるはずがない。




 だッてこんなの、風情じャない。




「こんな風情の無い展開を! こんなに興の乗らない『物語』を! 認めるわけがないだろォ!?」

 

 操術魔法:『森羅聖誕』//地縛――――――《斥力拡散(まんげつ)


 次の瞬間、ドッ!!!!!! と不規則に生み出された大量の斥力の爆発が、壁のようにフェグルスへ殺到していく。

 逃げる隙間も、避ける余裕もない絨毯爆撃。

 そんな破壊の波が、真っすぐフェグルスへと流れ込む。


 そして。


「…………」


 フェグルスは、前だけを見据えていた。

 左手で拳を握る。しかし殴るための構えを取る事もしない。彼は左手の拳の甲で、襲い掛かる爆発の壁を裏拳気味に真上へと振り払ったのだ。

 まるで邪魔な蜘蛛の巣を払うような仕草。

 ただその一撃だけで。




 ゴッッッ!!!!!! と、空気が揺さ振られた。




 フェグルスが拳を振るった瞬間、ジェミニの魔法は一瞬で吹き散らされていた。

 あれだけ猛威を振るっていたエネルギーの奔流が、ガラス細工か何かのように木端微塵に消し飛んでいく。

 それっきりだった。

 ジェミニの放った魔法は、跡形もなく世界から消失していた。


「……ち、違う、これは……こんな……ッ!」


 起きた結果と、自分の中にある理論が噛み合わない。

 目を剥いて、犬歯を丸出しにし、呪詛でも唱えるかの如く言葉を吐き出す。


「こんなのおかしいだろォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」


 操術魔法:『森羅聖誕』//地縛――――――《引力終点(しんげつ)


 周囲の空気が、一点に引き寄せられる。

 出現したのは二〇個もの『引力の塊』だった。

 あらゆる全てを強引に吸い込み、凝縮し、圧搾し、押し潰し、擦り削り、粉微塵に変える地獄の魔手。

 それを、一斉に解き放つ。




 莫大な衝撃と共に、全てが捲れ上がった。




 回避不能、防御不能、そんな速度と圧力で射出された『引力の塊』は、進行方向にある何もかもを食い破りながら一直線にフェグルスの許へと突っ込んで行く。

 烈風を撒き散らし、大地を削り取り、空間をすり潰し、通った跡には更地しか残さず、二〇の球体が襲来した。


 距離なんか眼中にない。

 あらゆる障害を引き千切り、周囲の空気も巻き込んでさらに巨大化しながら、ただ一直線に突っ込んで行く。



 その全てを、フェグルスは右手を振るっただけで強引に吹き飛ばす。



 単純な殴打。

 握った拳を、前に突き出すだけの動作。

 それだけで引力が爆散した。


「は?」


 粉々に吹き散らされた魔法の余波は、大地を地盤ごと捲り上げながら音速並みの速度でジェミニのすぐ脇を突き抜けて行った。


「……ゥ、嘘だ、違うッ、何かの! こんなの何かの間違いだ!!」


 現実も、事実も、真実すらも、それが自分の望むものとかけ離れているというだけで許せない。

 自分の思い通りにならない事が許せない。

 自分が否定されるのが許せない。

 自分以外の何もかもが許せない。


「クズ肉ッ、共がァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! こんなッ! 風情のない展開でェ!! そうやッてボクを侮辱するつもりなのか!? ただこれだけでボクを超えたつもりか!? ふざけるなアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


 イラつきに任せて、ジェミニは思いっきり地面を踏み付けた。

 直後、ズン……ッッッ!!!!!! という轟音と共に視界が斜めに傾く。

 視界だけじゃない。実際に半径数キロメートルの大地が皺寄せした絨毯のように歪み、魔導都市そのものが豪快に傾いていた。


「つけ上がるなよクズ肉ォ!! 最初から! 無いんだよ! オマエらに与えられた役なんてさァ!! このボクをッ! ボクをボクをボクをボクをボクをボクをボクをォ! ボクを馬鹿にした事ォ!! 心の底から後悔させてやるからなア!!」


 叫ぶと同時に腕を振るう。


《斥力拡散》――――突き放す力の猛威。


 一〇〇近くも生み出された『斥力の矢』がフェグルス一人に殺到した。

 しかし届かない。

 膨大な数の『斥力の矢』を、フェグルスは右腕を横薙ぎに振るっただけで木端微塵に砕き尽くす。


「これはボクだけの『物語』だ! ボクが描いたボクの『物語』に! オマエらみたいな風情のない腐れクズ肉の役目なんか! 最初から!! 無いんだよ!!」


 次の瞬間、ボバッ!!!!!! と空気が爆ぜる。

 八本の竜巻が生み出され、真正面からフェグルスに突っ込んだ。


《引力終点》――――引き寄せる力の極致。


 竜巻一つ一つは、きっと街の一区画を簡単に呑み込める規模だったのだろう。ジェミニ本人でさえ、自ら放った魔法の余波に両手で顔を塞いだほどだった。

 そのレベルの破壊が、凄まじい勢いで叩き付けられる。


 それでも、なお。


 フェグルスが乱暴に腕を振るった直後、ズドッ!!!!!! と空気が爆散し、瞬く間に八本の竜巻が力づくで引き裂かれる。


「こん、こんなッ……こんな馬鹿げた事、起こるわけがァ……ッ!!」


 単純すぎる結果が、大きな障害となって眼前に立ちはだかる。

 その度し難い状況が、ジェミニの理解力を遥かに超えた。

 唇の端を噛み千切り、口の中を己の血で満たしながら莫大な悪意を迸らせる。


「どうしてェェェェェ……ッッッ!!」


 いくら問うたところで、答えてくれる誰かなどいない。

 意味のない疑問は、ただジェミニの自尊心をズタズタに引き裂いていく。

 そして。











    ***










「……どうして……?」


 その疑問は、ジェミニだけに限ったものではなかった。

 ボソリと呟く声を、フェグルスは確かに聞いていた。

 それは彼の背後から。

 吹き荒れる爆風のせいで、すぐにでも掻き消されてしまいそうなほど、弱々しくか細い、ティーネの声。


「なんで、あんた……」


「理由はない。もう言った、納得できなかったんだ」


 気が抜けてしまうほど安易な答え。それこそ納得なんてできるはずがなかった。

 痛みさえも捻じ伏せて、ティーネは動けないはずの体を無理に起き上がらせる。

 どうしても、問いたかった。


「なんで逃げなかったの……?」


「このままじゃ、俺は何も納得できなかったからだ」


「そうまでして……何がしたいのよ、あんたは」


「何もない。納得できなかったんだよ。だから来た、それだけだ。お前の求めてるような答えは、悪いけど、ない」


「そんな……、そんなの」


 ティーネは地面だけを睨み付けている。顔を上げて、堂々と言葉をぶつける事ができなかった。

 どうしようもなく恐ろしかったのだ。

 今、目の前にいる男を、この目でハッキリと見てしまう事が。


「ねえ、やめて、お願いだから……。もう全部、あたしが何とかするから」


「だから、それじゃ納得できなかったんだ」


「納得してよ! じゃなきゃ、あたしは」


 あたしは……なんだろう。そこまで言って言葉に詰まる。

 こうでもしないと死ねない自分。誰かに殺される理由がないと死ねない自分。死ななければならない状況に追い詰められでもしないと、死ぬ覚悟もできない自分。

 この男を前にしていると、己の醜い部分全てが一つ残らず抉り出されるようで。


「諦められなかった」


 自分だって、できるわけがなかった。


「これでいいって、思えなかった」


 自分だって、思うわけがなかった。


「違う……思いたくなかった。これが最善の策だって、まだ何にも手を伸ばしてないのに、これでいいって思いたくなかった」


「それで……なに、あたしを助けようっての? 勝手な事言わないでよ! あたしが死にたいんだって言ったじゃない!」


「俺は、お前を助けたいわけじゃない」


 喉が詰まる。

 この男にぶつけてやりたかった言葉の数々が、ただその一言の前に容易く砕け散っていく。


「俺はお前を助けない。俺はお前に、生きてて欲しいだけだ」


 その情けない言葉は、驚くほど芯の通った強い言葉だった。

 目を逸らし、目を背け、見て見ぬふりをしていた時とは段違いに、彼の声は重く苦しい。自分が何を言っているのか、その結果誰を苦しめるのかを、覚悟している言葉だった。

 それゆえに、どこまでも醜悪。


「……死なせたくなかった」


 自分だって死にたくない。

 生きたいに決まってる。逃げ出したいに決まってる。でもその願望は、誰かの犠牲の上でしか成り立たない。もしも自分が生きる道を選ぶなら、顔も知らない誰かの死体を踏み台にするしかなくて。……でもそれが嫌だから。


「諦められない。それだけなんだ」


 自分だって諦めたくなかった。

 でも諦めるしかなかった。諦めなければいけなかった。

 諦めなきゃ―――


「……あたしだって、」


 そんなの、


「諦められるわけ、ないでしょ」


 生きる事を諦めるなんて、そんな簡単な事じゃない。

 いつも苦しかった。諦めようとした事なんていくらでもあった。だけどいざその時になると、どうしようもなく怖くなって、あと一歩が踏み出せなくなる。


「こんなの、納得なんて」


 死んだ方が楽なのは分かってる。死んだ方が正解なのは知っている。

 だけど、素直に楽な道を選ぶなんて、正解の道を選ぶなんて、結局、


「できるわけないじゃない……」


 どれだけ生き地獄を味わっても、どれだけ死にたいと思っても。

 ティーネという実験動物は、どうやっても生きる事を諦められなかった。


 ……たとえば自殺志願者なら、簡単に死を選ぶ事ができたのだろうか。

 ……もしも生きる希望を見つけられなくなった人間なら、容易に死を受け入れられたのだろうか。


 できるのだろう、おそらく。

 だけど彼女はまだ、この世界を見渡してすらいないのだ。

 世界の広さも、世界の限界も、彼女はまだ知らない。もしかしたらこの世界のどこかには、自分の求める希望が眠っているかもしれない。そんな淡い希望がいつも頭に湧いてきて、死にたい気持ちの邪魔をする。


 生きたい。生きていたい。まだ生きて、この世界を見渡して、せめて本当に希望が無いのかどうかを確かめてから死にたい。そしてもしも、生きていける希望がまだどこかに残っているのなら、その時は……。

 でも、だったら―――


「じゃあこれ以上どうすりゃいいのよ!?」


 生きたいと願うのも、こんな結末に納得できないのも、別におかしな事じゃない。誰もが抱く権利のある、当たり前の願望。それでも彼女がそれを選べなかったのは、彼女自身が自分の本音を否定していたからだ。

 彼女を苦しませていたのは、最初から最後まで、自分だった。


「あたしが生きて、生きてて……じゃあどうするのよ、どうすればいいの!? みんな死ぬの! あたしが生きてるだけで! 近くにいるだけで死ぬの! 生きたいわよ! 死にたくないの! でも……じゃあどうすりゃいいってのよ!?」


 自分が死ぬのは嫌だ。

 だけど自分が生きているせいで誰かが死ぬのも嫌だ。

 そして、その二つを同時に叶える事は不可能だった。だからどちらかを選ぶしかなかったのだ。

 誰かを犠牲にして生き続ける道。

 誰も犠牲にせず、一人で死ぬ道。

 どっちも嫌なのに、どっちも苦しいのに。

 じゃあ、どっちを選べばよかったんだ。


「納得なんてできるわけないじゃない! 考えたわよ! でもこれ以外に何もないの! 道が無いのよ! あたしが生きてたら周りの人達を殺すだけじゃない! 生きてて、何も、こんなに無意味なら、あたしは―――」


「……やっぱり生きたいのか、お前も」


「当たり前でしょ! でもだから何だってのよ! そう思った結果がこのザマ、勝手に逃げて色んな人を巻き込んで知らない人をたくさん殺すの! 死にたくない、納得できない、できるわけないでしょ、でもあたしが生きてたら皆死ぬの! だったらあたしが死ぬしかないじゃない!!」


 死ぬ以外の道があるなら、間違いなくその道を選びたい。

 だけどそんな展開にはならなかった。

 ティーネには、生きているだけで誰かを殺す実験動物には、最初からたった一本の道しか用意されていなかった。


「俺は、できなかった」


 それでもフェグルスは告げる。

 本当はティーネが一番口にしたかったはずの答えを。


「諦め切れなかった。頷けなかった、こんな結末じゃ。……逃げられなかったんだ、もう」


 目を背けられない。

 見て見ぬフリも、もうできない。


「もう一度言う。お前がいくら望もうが、死なせてくれなんて頼もうが、何が何でも絶対にお前を死なせない。―――俺は、お前を助けない」


 もう二度と、その意思は揺らがない。フェグルスの決意は今、それほどまでに固まっている。ティーネもとっくにその事には気付いていた。自分だって、そんな想いを抱いたことがあるのだから。

 だからこそ。

 自分の想いが否定される苦しみに、ティーネは心臓が握り潰されるかと思った。


「……何それ……」


 返す言葉が見つからなかった。たとえ見つかったとしても、言葉を出せば切り捨てられる。

 目の前が、真っ暗になった気がした。


「ふざけないで」


 喜怒哀楽の作り方さえ忘れかけたティーネの口は、ポロリとそんな言葉を洩らしていた。

 フェグルスの抱く想いだけは、決して許せない。絶対に許しちゃいけなかった。


「あんたなんかに……何が分かるってのよ……」


 そんな汚い言葉を彼にぶつけるしかなかった。


「あんたに! あたしの! 何が分かるってのよ!!」


 それは叫びに変わっていた。

 どうしようもない感情を、言葉にしてぶつけることしかできなかった。


「何も分からないくせに! 何一つ知らないくせに! 偉そうなこと言わないで! 逃げてって言ったじゃない! あんただけでも逃げて、生きて……そう思ったからここまで来たのに! あんたがそれを! 全部! ぶっ壊したのよ!?」


 それはティーネの意思に反して、口から溢れ出る。

 一度飛び出した言葉は止まらなかった。


「勝手なこと言わないで!! 生きたいわよ! でも……もうできないわよ! 誰かがあたしのせいで死ぬの! もう無理なの、嫌だって思っちゃったのよ! 誰か……本当に他人! あたしのせいで死んでいくの! それを見てる事しかできないの! それしかできないのよ! 止められないの! なんとかしたいって思うのに、思う事だけは偉そうで! 何もできないくせに馬鹿みたいに逃げ回ってるだけ! よくもまあ、今まで堂々と生きてたものよね!? さっさと死んでればよかったのよあたしなんか!!」


 知らぬ間に、少女の瞳からはどうしようもなく涙が零れ落ちていた。

 何の涙かは分からない。

 悔しいわけじゃない。怒っているからでもない。本当によく分からなかった。言葉と態度で上手く表現できない感情は、もう泣く事でしかそれを外に吐き出せなかった。


「だからさっさと消えてよ! あたしの目の前から消えて! どこにでもいいから早く逃げてよ! 厄介事が嫌なんでしょ! 巻き込まれたくないって言ったのはあんたじゃない! だから逃げて! もういいから! これでいいの! 納得したって意味ないでしょ! また誰かを殺すのよ! 生きてるだけであたしは誰かを殺すの! 嫌っ、なの……もう嫌なの! お願い、ねぇ、お願いだから、あたしはこれでいいから! だから! あたしにここで死なせて!!」


 言葉はただ溢れる。どうしようもなく飛び出す。

 だからそれは柔らかいオブラートに包まれる事もなく、一体なんと呼べばいいのかも分からない感情剥き出しで、言葉はその鋭さのままフェグルスへ突き刺さる。

 彼は、その叫びを黙って聞いていた。

 醜く汚い言葉でしかなかった。でもそれが彼女の抱く心の全てだ。

 それを聞いて、受け入れて、噛み砕いて、その言葉の裏に潜んだ気持ちも意味も汲み取って。

 その上で。




「それでも、お前に死んで欲しくないんだ」




 無数の言葉を押し付けられて、無限の想いをぶつけられても、フェグルスはその一言で自分のわがままを押し通す。

 ティーネの選んだ道は、決定的に崩れ去った。

 少女の中で時間の流れが停止する。

 フェグルスの放った一言の意味を理解するのに、数秒も要してしまった。



 この瞬間。

 少年と少女が互いを受け入れ合う道は、完全に断たれた。



「……俺には分からねえ」


 フェグルスは口を開く。


「お前がどれだけのもの抱えてるのか、どれだけ苦しんでるのかも。言葉程度で、伝えられるものでもないんだろうけど」


 吹き荒れる風が、見えない無数の刃となって押し寄せる。

 フェグルスはそれを、見えないまま強引に吹き散らす。


「でも、やっぱり無理なんだ。納得できない。そう思ったら止められないんだ」


 ゴッ!!!!!! という爆風が炸裂した。

 フェグルスが拳を振り回すだけで、強烈な衝撃波が四方八方に暴れ回る。

 そして、それが決定的だった。



 彼が額に巻き付けていた、包帯代わりのズボンの裾。

 それが爆風に煽られ、結び目がほどけ、呆気なくどこかへ吹き飛ばされていく。



「俺は本当に化物なんだ。そのせいで、今まで数え切れないくらい人間を殺してきたけど、多分、ダメなんだ。思っちまったら、決めちまったら、止まれないんだ」


 少年の言葉に続いて、ピシリッ、という不気味な音が響いた。

 薄いガラスにヒビでも入るような音響。

 それが、どこからともなく。


「俺には分からない。俺のやってる事が、間違ってるのかどうなのかも……多分間違ってる。でも納得できなかったんだ。このまま誰かが、死にたくないのに死んでいくのが、どうしても」


 次々と蘇る『あの時』の記憶が、今にもフェグルスの精神をへし折ろうと押し寄せる。しかし彼は、その恐怖から逃げようとしなかった。いや、ただ逃げられなくなっただけだった。

 逃げる事は、もうできない。だったらどうすればいい。

 血が滲みそうなほどの力を込めて拳を握り、その恐怖を自分の内に押し込む。


「俺だって戦いたくねえ。見てないフリしたい。でも、できなくなっちまった」


 ピシリピシリと、亀裂がどんどん広がっていくような細い音が、断続的に続く。

 その音響は明らかに、少年の肉体から聞こえていた。

 より正確には。

 ()()()()()()()()()


「俺は多分、昔から……生まれた時からこうなんだ」


 そして。




「俺はこの『力』を使わずにはいられないんだ。納得のできないものを、全部ぶち壊すまで」




 バギンッ!! と、決定的な破損が訪れた。

 ガラスが割れたというよりは、顔に付けていた仮面が割れてしまったような現象だった。

 何かが、はらりと地面に落ちる。


 それは皮膚だった。それは肉だった。それは骨だった。それは体の一部だった。それは体の表面だった。

 それは。

 フェグルスの額から、地面に落ちたそれは。


「…………」


 数分前、ジェミニに何度も地面に叩き付けられたせいで割れてしまった額。フェグルスはその傷を覆うために、破れたズボンの裾を引き千切って包帯のように巻き付けていた。

 ただしその認識は正しくない。

 そもそも彼の額には最初から、()()()()()()()()()()()


 では、代わりにあったものは何か。

 答えがあった。






 大きく開いた、真っ黒な『穴』があった。






 少年の額に、ガラス窓を叩き割ったような直径五センチ程度の歪な『穴』が開いていた。そこから全方位に蜘蛛の巣の如く広がる亀裂が、顔中を覆っている。

 そしてその『穴』の中では、黒い『何か』が流動していた。


 何か、としか表現できなかった。

 フェグルスの肉体の表面を構成していた、皮膚、肉、骨、それら全てが崩れ去った内側から現れたのは、ぞるぞるぞるぞるぞるずるずるずるずるずる!! と激しく流動する、黒い『何か』だった。



 いいや、あるいは。

 それこそが、魔獣フェグルスの『本当の姿』だったのか。



「ずっと」


 文字通り、人間の皮をかぶったその中身は、人間らしい骨でも肉でもなく、この黒く蠢く得体の知れない『何か』。


「昔からずっと、こうだった」


 こうしている今も、まだ亀裂は広がっている。

 フェグルスの目を貫き、頬を通って顎まで到達した。ピシッ、パキッ、と表面の破片が落ち、その内側からやはり黒い『何か』が顔を覗かせる。


「近くにいる誰かが死んでいくのが、どうしても許せないんだ」


 それは、少年が何よりも強く思う一番の心。

 いくら化物でも、どれだけ人間とは程遠くても、捨てられない想い。


 言動が噛み合ってない事ぐらいとっくに気付いている。

 誰も傷つけたくないから、誰も巻き込みたくないから『力』を振るわないと誓っておいて、それでも誰も目の前で死んで欲しくないから、その『力』を振るう。


 自分勝手な利己主義でしかない。

 そもそも綺麗なものなんて、今、この場のどこにもない。


 フェグルスも、ティーネも……そして、あの狂った魔法使いすらも。

 自分だけの想いを抱いて、自分だけの理論でその場を支配しようとして、自分だけが納得するために世界を回そうとしてここにいる。


 多分、『物語』なんてそんなもの。

 綺麗事だけが充満する『物語』なんて、きっとこの世のどこにもない。

 納得するか、しないか。それだけの事でフェグルスは拳を握り、少女の願いを踏み潰して、自分勝手に突き進む。


「俺の知ってる誰かが死ぬのは、もうごめんだ」


 躊躇は無かった。

 だんっ!! と、フェグルスは大きく一歩を踏み出した。

 直後、フェグルスの姿が消える。




 次の瞬間には、一〇〇メートル以上も離れていたジェミニとの距離が、一瞬でゼロにまで縮んでいた。




「―――――ッッッ!?」


 ジェミニの顔が、豪快に軋む。

 無数の杭に縫い止められたかのように、ガグンッ! と彼の体が全機能を停止させる。


 フェグルスの拳が、巨大に見えた。


 ジェミニの目には、人間大のサイズしかないフェグルスの拳が、まるで地上を丸ごと叩き割る隕石のように見えた。

 抵抗する事が無意味に感じてしまうほど圧倒的。

 常人がそれを見せつけられたら、即座に抗う事を諦めてしまったかもしれない。

 だが、


「風情じャない……!」


 どこまでも、救いようがないほどに。

 ジェミニの価値基準は、一寸たりとも揺るぎはしなかった。




「風情じャアないんだよ!! この腐れクズ肉がァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」




 直後。

 化物と怪物が、激突する。





 


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