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第二章12『何が何でも絶対に』

 





 ベシャリ!! と。

 引き千切られた少女の右腕が、地面の上に捨てられる。


 ―――もうこんなものに興味は無い。


 意味を失くした腕を自ら投げ捨てたジェミニは、下手な操り人形のように不気味な挙動で背後を振り向く。

 その視線の先には、地面に転がるティーネの姿があった。


「……ひっ、ぐ……ぅ、ふ……」


 引き千切られた腕の断面を必死に押さえ、まるで全身に駆け巡る激痛を耐え忍ぶみたいに丸まったまま、ティーネは自分の体から溢れ出た血だまりに沈んでいた。

 抗えない痛覚と、地面をのた打ち回る事しかできない自分への悔しさに大粒の涙を流し続けて、


「ぃぐ……ぅっ……!」


 それでも、耐えなければいけなかった。

 逃げたせいで、自分が貪欲にも生き残ろうとしたせいで、死ぬ必要のなかった命が犠牲になったのだとしたら……この痛みは、それに対する断罪の苦痛なのかもしれなかった。

 そう思えば、少しは楽になれ―――




「何をしてるんだよ」




 その一言で、ティーネは心の底から恐怖を覚えた。


「醜いだけの欠落品が、ボクの風情を穢すな」


 鬱屈とした声が、地を這うように響く。

 ……と思った次の瞬間には、ジェミニの爪先がいつの間にか少女の腹部に深くめり込んでいた。


「お、ぁ」


 痩せ細った少年の脚力ではなかった。

 振り回す細い足に、強烈な『斥力』が加わる。



 べぎべぎべぎべぎべぎべぎべぎべぎ!! と。

 体の奥で何本もの骨がへし折れる音が響いた直後、少女の体が錐揉み状に吹っ飛んだ。



 一瞬、ティーネの思考は空白に染まる。

 気付いた頃には、少女の体はまたも体が地面に強く叩き付けられていた。蹴飛ばされた小石のように瓦礫の上を転がり続け、ジェミニとの距離が開く。


「つまらないんだよなァ」


 怨嗟の声と共に、ジェミニは一歩を踏み出す。

 それだけだったはずなのに。


 ズドンッッッ!! と。

 巨大な重量を持った衝撃が、ティーネの腹から背中まで一直線に貫いた。


 斥力。物体を引き離す力。拒絶の力。その極致が、剣のような鋭さを得て少女の体に突き刺さって行ったのだ。

 肉が弾け飛ぶ。

 少女の体の破片が、『中身』の欠片が、小さい体からぶちまけられる。


「ぉ、ぇ……?」


 黒々とした液体が、喉の奥から吐き出される。

 ティーネの視界に明確なぐらつきがあった。

 それでもなお、死なない。

 引き千切られてしまいそうな意識はすんでのところで耐え凌ぐが、正常な思考はもう保てそうにもなかった。

 朦朧と、漂うような意識の中で、小さな少女の体は地面に落ちる。


「つまらない、つまらないつまらないつまらないッ!! もう少しで全部塗り替えられるはずだッたのに! それを! オマエが! ぶち壊したんだ! この期に及んでまだボクを侮辱するつもりなのか!? まだッ、そうやッてェ! ボクの事を馬鹿にするのかア!!」


 駄々をこねた子供のように、ジェミニは右腕を乱暴に振り回した。

 力そのものの奔流が、その動きを丁寧になぞる。

 べごりっ!! と、ティーネの細い体があり得ない方向に捻じ曲がった。

 そのままの勢いで宙に舞い上がり、地面に叩き付けられ、一〇メートル近くも地面を転がり続ける。

 それでも、なお。


「ぇ――――、ぁ……」


 死ねない。


 少女の肉体は、破壊されるそばから修復されていく。千切られた腕を、砕けた骨を、千切れた肉を、破裂したはずの内臓を―――止まったはずの心臓さえも。

 全てを治す。全てを癒す。

 傷を、怪我を、真っ向から否定する。

 彼女の宿すその魔法は、主が素直に死ぬ事すら許さない。


「そうやッてボクの幸福の邪魔をして何が面白いんだよ!? 人の心を踏み躙ッて人の心を弄んで人の心を嘲笑ッて人の心を侮蔑してェ! ボクを馬鹿にするのもいい加減にしろよ!!」


 爆音が連続する。その度に街が悲鳴を上げる。

 一方的な攻撃の波は、止まることを知らずに華奢な少女へと殺到した。


 おそらくジェミニは、ティーネを処分するという当初の目的すら覚えていない。

 自分の撒き散らした破壊が、一体どれほど風情をもたらすのか。彼の意識は今、その一点だけに集中している。

 少年にとってこれは、そういうものだった。

 だというのに。


「…………」


 彼の表情が僅かに固まり、次第に薄らいでいく。

 これだけ破壊を撒き散らし、激しい音響に聞き入っても……今まで味わってきたはずの感情の昂りが全く感じられない。

 振りかざされる引力と斥力は、何度も少女の体をボロボロに裂いていく。砕いていく。叩き伏せ、薙ぎ払い、吹き飛ばす。しかしもう何の感慨も湧かなかった。


 自分を蔑むクズ肉が、地面に這いずって朽ち果てる滑稽な姿。

 あれだけ求めたはずの光景を前にしても、ジェミニの心は何も満たされない。


「ごぼっ、ば。が……はっ……ぉ、ぇ」


 ただ荒々しく呼吸を続けて血を吐き出すだけの実験動物は、無様に地面の上で転がるだけで抵抗らしい抵抗を何一つ見せなかった。

 それを知った途端に、今度こそジェミニの顔から表情が消えた。


「……本当に何なの? オマエ。下らない、面白くない、つまらない、満たされないッ、こんなものォ……!」


 今度は燃え滾るような怒りが沸々と湧き上がる。

 笑われている気分だった。蔑ろにされている気分だった。見下されている気分だった。嘲られている気分だった。罵られている気分だった。虐められている気分だった。辱められている気分だった。馬鹿にされている気分だった。



 これだけ望んでいるのに、求めているのに、欲しているのに。

 どうして手に入らない。



「どういう事なんだよ。意味が分からないんだけど。アれだけ散々逃げ回ッて、アんなにボクを弄んでおいて! 今度はなんだよ! 大人しく寝てればボクの気が晴れるとでも思ッてるのか!? ボクを下に見るのも大概にしろよ!?」


 冷めてしまったはずの感情が、再びどす黒い炎を上げて燃え出した。

 目を剥いて、ジェミニは己の頭を掻き毟りながら、


「立ち上がれよ! そして無様に叩き伏せられてろ! 自分が不利になッたと気付いた途端に被害者面だ! まるでボクが悪者みたいじャないか!? そうやッて皆! 皆皆皆皆皆ァ! ボクを悪役にしてッ、自分を正当化するんだろォ!!」


 苛立ちに任せて、ジェミニは足元に転がる瓦礫を乱暴に蹴り飛ばした。それは銃弾のような速度で、一直線にティーネの顔面へと突き刺さる。

 凄まじい爆音と共に、血が、肉が、皮膚が、盛大に飛び散った。

 少女の顔が勢い良く跳ね上がる。首からベギリ!! と嫌な音が鳴り視界が一回転した。


「どうしてオマエらはそうやッてボクから何もかもを奪い取ろうとするんだ!? こんなにボクの心を弄んで、痛めつけて、傷付けてェ! そうまでして! 一体! 何がしたいんだよォ!?」


「……ぼっ、げほ……。ぁ……あんたには、絶対に、分からないわよ……」


 血を吐いて、血を流して。

 もはや立ち上がる力すら出せないティーネは、それでもハッキリと声を出した。


「あたしの、気持ちなんて……」


 無様でも、惨めでも、みっともなくても―――実験動物だと言われようが、薄汚いクズ肉だと罵られようが―――誰にどれだけ否定されたって、譲れないものがそこにあった。

 そうだ、誰に理解できるはずもない。

 だってこれは、自分だけの気持ちなのだ。


「あんた、なんかには……絶対に分からない」


「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」


 その決意を見せつけられ、ジェミニは何を思ったのか。

 理解不能と称した思考の片鱗に触れ、彼は何を感じたのか。

 周囲に満ちていた不可思議な空間の歪みは、いつの間にか消えていた。

 まるで時間そのものが停止したかのような空間で、少年は静かに、ティーネを見据える。


 沈黙があった。

 無音があった。


 そんな中、ジェミニは静かに口を開いた。

 ゆっくりと息を吐いた。

 そして一言。





「は?」





 一ミリも届いていなかった。

 そもそも彼の意識には、ティーネの声なんて真面に入ってすらいなかった。

 一切の躊躇はない。ジェミニが右手を適当に振るった途端、力の奔流が最短最速で少女の体へと突っ込んで行く。

 ティーネの体が、信じられない勢いで折れ曲がる。


「がっ……!?」


 直撃を受けたティーネはそのまま地面を何度もバウンドし、数十メートルも転がされていく。

 ジェミニの目には何の輝きも無い。

 興醒め―――まるでそう言いたげな両眼が、膨大な悪意を詰め込んで腐敗する。


「腐れクズ肉が」


 少年は軽く足の裏で地面を叩く。

 瞬間、ゴッ!! とジェミニの足元が爆発した。飛び散る瓦礫が、吹き飛ぶアスファルトの破片が、ショットガンのように放たれて少女の体を貫いて行く。


「誰に口答えしてるんだよ」


 次の破壊が襲いかかる。新たな破壊が生み出される。

 それは、華奢な少女の体を貫く形で。それは、一匹の実験動物を叩き潰す形で。それは、道に転がるゴミクズを引き裂く形で。


 少女の掠れた悲鳴が聞こえる。血を吐く湿っぽい雑音が鼓膜を揺らす。その小柄な体が地面に叩き付けられる鈍音を捉える。未だに繰り返す虫の息を感じる。視界に入れるだけで吐き気の催す実験動物が、動かせないはずの体を無理に動かそうと手足に力を込めるのも伝わる。


 それら全てが。

 何もかもが。


「風情じャない。風情じャない風情じャない風情じャない! 風情じャアないんだよォォおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 どうしても、胸の内から湧き出る怒りを抑え込めない。

 脳が搔き乱される錯覚を覚えながら、それでもジェミニは裂け切った口を開く。


「いつまでェ! ぼ、ボク、ボクを、ボクをォ!! 認めないつもりだア!? オマエらみたいな欠陥品がこのボクに盾突くなんて、それこそボクに対する最大級の侮辱ッてやつじャアないのかなア!? 許されるはずがないよなア!!」


 ティーネの体が、人形のように吹き飛ばされた。

 数えるのも諦めるほど宙を舞い、数えるのも億劫になるほどその身を破壊され、数えることが意味を成さないほど引き裂かれる。


「はふ……。ひ、ぐ……」


 空気を吸えない。肺や心臓が正常に動いているのかも分からない。

 腹の中から口の外へ、一気に血の味が溢れ返る。

 だが、激痛にのた打ち回ることも許されない。


「なんでッ、寝てるんだよォ……!」


 気が付けば、ジェミニは地面に倒れ伏すティーネのすぐ脇に立っていた。

 彼の取った行動はとてもシンプルだった。

 己の足を持ち上げて、そのまま一直線に下へ振り下ろす。




 ジェミニは華奢な少女の体を容赦なく踏み潰し、体内に敷き詰められた内臓の八割を爆散させた。




「ごぶっ……ぼっぉ、ぁ……」


 悲鳴も出なかった。

 少年の細い足がティーネの腹部に突き刺さった直後、彼女の口から信じられない勢いで赤黒い液体が噴き上がった。小さい少女の体は何度も大きく痙攣し、その拍動に合わせるように鮮血の塊が彼女の口から溢れ出る。


 見た事も無いほどの大きな血だまりが、みるみる内に膨れ上がった。

 少女の体がそのまま……ピクリとも動かなくなる。


「ふううううううう! ふううううううううう!! こんな屈辱、アッていいはずがない……! こんなの違うッ、こんな展開は風情じャない! ボクはこんなの! 一度だッて! 望んじャいない!!」


 ジェミニは、自分が踏みつける少女の姿を視界にも入れなかった。

 今の少年は、心臓を強引に裂くような怒りと、脳が捻じ曲がってしまいそうな悪意だけで満たされている。


「これで満足か実験動物! 人が望んで求めて欲してるものを奪い取ッてえ! 実験ッ、動物ッ、如きがッ! ここまで人を絶望のどん底に叩き落してええええええ!! これがオマエのやりたかッた事か! これがオマエの果たしたかッた願いか!? 欠陥品だからッて甘ッたれるてるなよ! 自分が下手に回ッていれば許容されるとでも思ッたか!? 勘違いするな! 風情もなく死に損なッた下等生物の分際で偉そうに人様の心を土足で踏み躙りやがッて!!」


 少年の足が、連続してティーネの体に降り注いだ。

 足に、腹に、腕に、胸に。耳を潰し、目を潰し、骨を砕き、肉を蹴破る。余す所なく踏み潰されるティーネの体は、少年の足が叩き付けられるたびに小さく震えるだけだった。


「笑えよ」


 絶望的な声が、地を這うように襲い掛かる。


「どうしたんだよ黙ッちャッてさア。嘲笑えばいいだろ! ボクから何もかも奪い去ッて! 悲痛に喚くボクの姿を嘲笑うのが目的だッたんだろ!? そうだろ! そのはずだ! そうに決まッてる! そうやッて純粋に風情を求めるボクを! オマエも! アイツも! 皆!! 全員ボクの事を笑うつもりなんだろお!?」


 突如、突き刺すような烈風が四方八方から炸裂した。

 斥力の散弾が恐ろしい速度で射出され、少女の全身へと豪雨のようにぶち当たった。


「――――ッ!! ぉ、っあ!?」


 皮肉な事に、その強烈な一撃が『死んでいた』ティーネの意識を呼び覚ました。

 しかし目が覚めた時には、すでに彼女の体は宙を舞っている。

 小さい体がずっと後方へと吹き飛んだ。体内から大量の血が溢れ出る。そんなティーネの姿になど目も向けず、ジェミニは悪意のままに虚空に吼える。


「もういい! もうッ、いい!! クズクズクズクズクズクズクズ! どいつもこいつも誰も彼も! 一人残らずッ、見渡す限りクズばかりだ!! 風情の欠片アりャしない!! 絶望したよ! オマエらにはァ!!」


 ゴッ!!!!!! と音を立てて、不可視の力が爆風という形で渦を巻く。

 しかし無秩序に吹き荒れるのではない。

 風は、ある一点に向かって吸い込まれるように流れていた。


「潰しても削っても殺しても死なない腐れクズ肉! アァ実に風情が無い! そんな! オマエに! ボクが手ずから裁きを下してやるんだ! アりがたく思え!」


 流れの先にいるのは、一人の魔法使い。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。キミという痕跡は、この世に一片たりとも残らない。アァ、薄汚い実験動物にはお似合いの末路じャアないか」


 世界そのものを味方につけた、最低で最悪の最強が。

 動く。




 ドンッ!!!!!! と、都市全体が()()()




 もちろん物理的な意味ではない。辺り一面を埋め尽くす謎の圧力が、瞬間的かつ爆発的に増加したがゆえに、ティーネの体がそう錯覚してしまっただけだ。

 漠然とした『力』が、強引に引きずり込まれていく。

 ジェミニの許へと吸い寄せられる。

 物理現象そのものが、少年の支配下に置かれる。


 それを合図に大きな変化が生じた。


 空間の歪みが『一つの形』に整えられていく。水に溶かした砂糖のように薄く歪んだ風景が、輪郭を描いていく。

 斥力と引力。

 物理現象を司るジェミニの魔法―――その極限の形。




「操術魔法:『森羅聖誕』//地縛――――――《神力創世(つくよみ)》」




 形状は『槍』。

 色はない。透明だが、異常な空間の歪みが風景を蜃気楼のようにぼやかせて、一種の投擲武器の形状を浮き彫りにさせた。

 当然、ただの槍じゃない事はすぐに理解できた。

 あれは、引力と斥力の塊だ。


「光栄に思えよ虫ケラ。『物語』のクライマックスを、その大事な場面をキミに譲ッてやると言ッてるんだ。この、ボクが」


 槍の形状に歪んだ空間を、ジェミニは右手で優しく握る。

 それだけで世界が震えた。ズズン……ッ!!!!!! という激震が魔導都市全体を揺さ振り、大地に巨大な亀裂が何キロメートルにも渡って駆け抜ける。

 引力と斥力が一段と収縮し、凝縮し、そして槍の矛先がティーネを捉えた。


 ……今から目撃する。

 世界最強―――その名を冠する者の魔法が、どれほどの破壊をもたらすのかを。

 たった一匹の実験動物を処分するという形で。


「さァ、ゲームスタートだクズ肉共」


 ジェミニは静かに、そして強く宣言した。

 本当に、これまでの全部に終止符を打つかのように。

 動作そのものは簡単だった。右手に握った槍を、そのままティーネに向かって放り投げた。

 ただそれだけで。





 神話の規模に等しい破壊の渦が、少女一人に殺到した。





 竜巻のようだった。

 しかし本質は全く違う。それはただの空気の流れではない。

 物体を強引に引き付けて、押し潰し、すり潰し、削り取り、粉微塵に消し飛ばす引力と―――物体を無理やり引き離し、叩き潰し、千切り、引き裂き、木端微塵に吹き飛ばす斥力―――その二つの力が双方混じり合いながら無秩序に荒れ狂う圧力の渦だ。


 まるで、巨大な口を開いた大蛇が地表の全てを呑み込んでいくようだった。

 一刀両断という言葉を惑星レベルにまで引き上げた猛威。


 それは一本の『芯』を中心に全方向へ圧倒的な力場を生み出し、放たれる衝撃波が地上の全てを薙ぎ払う。舞い上がる大量の粉塵が本来見えないはずの現象を視覚化し、進行方向にある一切合切を塵に変えて突き進む。

 もはや『破壊』などという生易しい言葉で表現することすら躊躇われた。これは『消滅』だ。この世に生きた証など微塵も残さない完全なる終焉。


 そんな必殺が、迫る。

 もうすぐ自分は、死ぬ。


(……死ぬ……?)


 実感は湧かなかった。ありとあらゆる感情が噴き上がるようなこともなかった。

 気付けばティーネは、ただ静かにその結末を受け入れていた。


(これで……ぜんぶ……)


 数秒程度だったはずの時間が、不思議なほどゆっくりと流れる。

 全身の感覚が薄くなっていく中、それこそ死んでしまったみたいに、心地良い何かに身を任せてティーネは目を閉じる。


 終わる。


 散々誰かに利用されて、実験動物として使い潰されて、全人類が魔法使いになるためだけの踏み台として扱われ続けた己の人生も、そして誰かを巻き添えにしなければ生きていけない人生も、終わる。


 これが、彼女の選んだ『物語』の終わり。


「もう……いい……」


 誰に聞かせるわけでもなくそう囁いた。あるいはその言葉は、自分に向かっていたのかも知れなかった。

 ―――もういい。

 それがティーネの、自分の人生に対する感想。


 これが自分の望みだ。これが最高の結末だ。これが正しい答えなんだ。


 これでいいんだ。

 これでよかったんだ。


 これで。



















『じゃあ、どうしてあたしは逃げ出したの?』















    ***


















 これでいいはずだ。

 これでよかったはずだ。

 だって自分は、元々は死ぬはずだったのだ。そうなるはずで、そうならなきゃいけなくて―――


 なのに、死ぬのが嫌で逃げ出した。

 逃げ出した結果がこのザマだ。関係ない人間を巻き込んで、関係ない人間を大勢殺して、挙句の果てに、自分を助けてくれた誰かの決意も踏み躙って……。


 ……一体、どうすればよかったんだ。

 生きてるだけで周りにいる誰かを殺す実験動物。そんな奴が、当たり前に生きられる方法。

 そんなのやっぱり、どこにもない。


 答えは最初から決まっていた。散々悩んでいたのは、ただの現実逃避。目を逸らして目を背けて、見て見ぬふりで知らんふりで、結果がこれだ。自分の周りには死体ばかり。

 なら、こうするしかないじゃないか。

 嬲られて、弄ばれて、惨めに無様に這いつくばって死んでいく。

 そうやって、馬鹿みたいに死んでいくしかないじゃないか、自分は。



『それが嫌だから逃げ出したんじゃないの?』



 そうだよ。知ってるよ。分かってるよそんな事。

 死ぬのが嫌だった。理由も分からず訳も分からず、自分が納得できないまま死んでいくのが嫌だった。そうだよ、その通りだ。

 だったら、じゃあどうすればよかった。

 逃げたら逃げた分だけ誰かが無意味に死ぬ。誰かに縋ったら、せっかく助けてくれたそいつも死ぬ。皆死ぬ。自分が関わったら……違う、近くにいるだけで誰かが粉々になって死んでいく。

 だからもう、これでいい。

 これしかない。



『それでいいの?』



 そうしなくちゃ駄目なんだ。



『それが自分のしたかった事?』



 そうだ。

 それが自分の責任で、自分の負わなきゃいけない罰で。



『だったら、なんであたしは逃げたの?』



 そんなのどうでもいい、とっくに終わった事なんだ。

 だから、もう……。



『本当は、何がしたかった?』



 もうやめて、お願いだから。もう納得したんだ、もう諦めたんだ、もうこれでいいんだって決めたんだ、やっと決められたんだ。だから、お願い、もうやめて。もう、これで―――



『あたしは――――』



 これで。







『―――結局あたしは、何がしたかったの?』
















    ***


















 どれだけ潔いふりをしたって、どれだけ諦めた風に装ったって。

 どれだけ自分の心に嘘をついたって、どれだけ自分を誤魔化したって。

 心なんて、そんな簡単に変わるわけがない。


 死を目の前にして、死ぬしかないと分かっていて、それでも諦められない想い。


 結局あたしは、何がしたかったの?


 答えは。






























「……死にたくない……」


「それがお前の本音だろ!!」






 聞こえるはずのない声が、鋭く突き刺すように響き渡った。


「っ!?」


 その声は、その声の主は。

 一人の少年は。

 まるで襲い掛かる破壊の渦から少女を庇うように、叫びながら、どうしようもなく震える右手を勢い良く前へ突き出した。

 それだけだった。

 次の瞬間。




 街が、地上が、世界が、この世が爆ぜた。




 空気という空気が爆発した。

 空間という空間が壮絶な悲鳴を上げ、木端微塵に粉砕された。

 遅れて発生する轟音は衝撃波と化し、街という街に覆い被さった。舞上げられる粉塵が凄まじい勢いで街を駆け抜けた。街が呑まれ、地上が波打ち、魔導都市という名の一つの街が縦に震えた。


 いつの間にか、ジェミニの放つ魔法は強引に粉砕されていた。

 破壊が破壊を呑み込む。


 それほどの事態が街を襲ったにも拘わらず、一番近くにいたはずのティーネには何の被害も及んでいなかった。まるで、その破壊は、彼女一人を守るためだけに放たれたとでも言うかのように。

 だから少女は、恐怖に再び目を閉じることもない。

 彼女の瞳はただ一つ、自分の前に立つ少年の背中だけを映していた。


「ぁ、……あ……」


 なんでもいい、何か言葉を発しなければと、ティーネは動かない口を無理やり動かそうとした。枯れ果てて使い物にならない喉をどうにか動かそうとした。

 だが、その前に。


「……ぐっ!」


 フェグルスは、慌てて両手で自分の口を押えた。

 心臓の奥から勢い良く湧き上がる、絶大な吐き気と嫌悪感。

 内臓全てが押し上げられるような感覚が、猛烈に襲い掛かる。一瞬でも気を抜けば、途端に気色悪い吐瀉物を吐き散らすかもしれなかった。


『あの時』の記憶が、感覚が、恐怖が、押し寄せる。

 だけど、その忌まわしい記憶を、感覚を、恐怖を。


「っだあああああ!! くそったれえ!!」


 強引に呑み込んだ。

 息を荒げながら、フェグルスは―――


「ちくしょう!! 何やってんだ俺は!?」


 息を荒げながら、フェグルスがそう叫んだ。

 叫んででもいなければ、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。


「何やってんだ! 何なんだ、なんでこんなっ……逃げるんじゃなかったのかよ。なのに何やって……はは、馬鹿だ。あー、やっちまった、なに……何やってんのかなぁ俺……今さらだろ全部」


 目を固く閉じて、ひたすら悔やむ。奥歯を噛み、肩を震わせ、ただ延々と何かを恨む。その恨みの対象は自分自身でもあったし、自分をこんな目に遭わせたその他全てでもあった。


 あんな事をしなければ、あんな事にならなければ。

 あの時、あんな奴と会わなければ。

 あんな事を考えなければ。


「ちくしょう……ちくしょうちくしょうちくしょう……!」


 けれど、こうしてここに来たのは、ここまで足を運んで来たのは、紛れもなく自分自身だった。

 誰のせいにもできない。誰の責任にもできない。

 この決断も、その行動も、フェグルスが決めた事だった。

 だから、もう終わりだ。

 いい加減に、目を逸らすのはやめにしよう。


「……納得できない」


 右手が震える。まるで怯えているような、大きな恐怖を目の当たりにして足が竦んでしまう子供のような、そういう弱々しい震え。

 フェグルスは震える右手を左手で殴りつけながら、


「今さらだ、こんなの。でも、諦められねえ。無理だ、どうしても。あんな話されて……諦め切れるか、割り切れねえ、納得なんかできない……!」


 泣きそうだった。どうしてこんな事をしてしまったのか、なんでここに来てしまったのか、そんな自己嫌悪と遅過ぎる後悔で今にも心が捩じ切れそうだ。

 叫んでいないと、このまま逃げ出してしまうかもしれなかった。


「やっぱり駄目なんだ! これでよかったなんてどうしても思えない! 逃げられなかった、終われなかった! こんな形で! 誰かに傷付いて欲しくないとか死んでほしくないとか! お前っ、本当にそれで納得できると思ったのかよ!? あんな話を聞いちまったら諦められないだろ!」


 明らかにフェグルスの言葉は、ティーネの意思を無視していた。

 自分は誰かを巻き込んで、そのせいで誰かが傷ついて。それが嫌で選んだ結末が、順当な『処分』を受けるという形だったのなら、彼はその答えを尊重し、認めてあげなければならなかった。


 なのに。

 納得がいかないという理由だけで、フェグルスは彼女の答えを切り捨てた。

 明らかな冒涜。そこには彼のエゴしかない。

 彼自身だって気付いていた。これは我儘で、自分勝手な言い分だと。



 でも、もう遅い。

 結局この『力』を、振るってしまったのだ。



「誰も巻き込みたくないって、何言ってんだよ! もう遅ぇだろ! 俺だって手遅れだ! とっくの昔にあの魔法使いに喧嘩売っちまったよ! お前を助けようとしたんだ! 今さら諦めたって遅かったんだよ! もうお前は巻き込んでるんだ! もう俺は巻き込まれたんだ! 逃げられないんだよ俺は!」


 最低な言葉と、最低な理屈を並べて、拳を握る。

 とても強引で、あまりに力づく。

 少女を救うどころか、むしろ最悪の地獄に叩き落すような暴挙。


「理由なんかいらねえ」


 それを自覚した上で、言う。


「分かってる……俺がやりたいから、やるだけだ」


 もしティーネがこの世界から消えたところで、大勢の人間が悲しむわけじゃない。だって、誰も彼女の事を知らないのだ。彼女が殺されても、この街は、この街の住人たちは、いつも通りの平和な世界を笑って生きていくだろう。


 そして、たとえフェグルスがティーネを見捨てても、誰も彼を咎めはしないだろう。フェグルスはただ巻き込まれただけの被害者で、何よりティーネ本人が自ら見捨てられる事を望んだのだ。責められる要素がどこにもない。


 でも、無理だった。

 そんな状況がどうしても許せなかった。


「……これが終わったら、もう絶対に、誰にも関わらねえ……」


 ひどく小さく、自分だけに言い聞かせるようにフェグルスは呟く。


「次は絶対に間違えない。誰が傷付いてようが知ったこっちゃねえ。絶対に、絶対に、絶対に厄介事から逃げてやる……全部他人のせいにして、面倒事は誰かに押し付けられる、そんな生活を送ってやる……。誰が倒れてても知ったことか……助けを求めてたって、聞いてやるかそんなもの……もう二度とこんな目に遭わねえぞ。これが終わったら、全部、全部、やり直してやる。……けど、今は―――」


 言い終えて、吐き終えて、そして。

 最低で最悪で最強の化物は、全力で前を見据えた。


「今は、終わらせないぞ。こんなクソみたいな結末じゃ納得できない! お前がいくら望んでも、死なせてくれって頼んでも!」


 だから言う。

 そして誓う。




「何が何でも絶対に! これ以上お前を死なせて堪るか!!」




 この時、この瞬間。

 誰も知らず、誰にも見えず、誰にも聞こえない、そんなどこかで。

『物語』の歯車が大きく動いた。





 



 


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