第二章09『小さな声』
ティーネを抱えて、ひたすら歩き続けていた。
大通りから少し外れた商店街に出る。
なるべく見つかりづらい道はどこだ、なるべく追いづらい経路はどれだ……そんな事を考えながら足を動かす。
でも……どこまで逃げ続ければいいのだろう。
逃げていれば、いつかは逃げ切れるものなのだろうか?
多くの自動車がそこら中に捨て置かれたまま、誰もいなくなった街。フェグルスはたまたま目に付いたバスの車体に背中を預ける。
奴は……まだここまで追って来ていない。
それを確認すると、途端に全身から力が抜けた。
「はぁ……。あの野郎……どんだけめちゃくちゃだ……」
バスに背中を押し付けたまま、ズルズル滑るように地面に座り込む。
本当にめちゃくちゃだった。
服は破れ、顔は擦り切れ、体中は砂埃まみれ。何回も地面に叩き付けられた額はバックリと『割れて』いて、応急処置にしてはあまりに雑だが、ズボンの裾を無理やり千切って包帯代わりに巻き付けていた。
もう立ち上がるだけの気力も湧かない。
だが休んでばかりもいられない。
あいつは絶対に追って来る。そもそも最初のターゲットであるティーネをここまで連れて来てしまったのだ。奴は、何が何でも殺しに来るだろう。
「くそ」
だけど、これ以上どうすればいいんだ。『執行部隊』に通報しようにも手元に通信端末が無い。仮に通報できても、『執行部隊』が奴を止められるとも思えない。
ならば逃げるか? ―――どこに、どうやって、誰を当てに?
いやそもそも……彼女を逃がす事が本当に正しいのか?
逃げてる間に、無関係な人間を余計に巻き込んでしまうのではないのか?
「どうすりゃいいんだ……!」
せめてこいつの怪我さえどうにかできれば……そう思い、彼は傷を負った少女の体へ目を向ける。
見れば見るほど細くて小さい華奢な体。そんな奴が、ただそれだけの少女が、どうしてこんなにも傷を負っている。どうして人間とも思われないままあんな奴に殺されるんだ。
街の人たちは何のために死んだんだ。
この少女とは何も関係が無かったはずなのに、どうして踏み躙られた。
「くそ……くそ、くそっ、くそ!」
不可解過ぎる感情が、またしてもフェグルスの中で膨れ上がり始める。
と、その時だった。
「あんた……ちょっとうっさい……」
フェグルスの耳が、今にもかすれて消えてしまいそうな弱々しい声を捉えた。
誰の声だ?
もはや考えるまでもない。
「お前! 気が付いたのか、ようやく……!」
少女の睫毛が震えるように動き、顔をしかめているのが分かった。
良かった、目を覚ました、しっかり生きてる。その事実に思わず気が抜けそうになる。心の底から安心したのだ。
ティーネは腕の中で静かに目を開けると、
「……おろして」
相変わらずの太々しさでそう呟く。それを聞き、フェグルスはバスの車体に背中を預ける形で、彼女を地面に座らせてやる。
「おいっ、大丈夫なのか本当に!? だってお前、血……!」
「騒がないで。……見ての通り大丈夫よ、さっきからそう言ってるじゃない」
「言われてねえよ。……でも、大丈夫って」
見ての通りだったら余計に大丈夫じゃないだろう。血まみれだし。
そう言おうと口を開きかけたが、
「なに」
ギロリと睨む少女の眼光に、思わずフェグルスは口を噤む。
「あたしが大丈夫って言ってんだから大丈夫なの、分かった? 分かったらそのやかましい口を閉じなさい」
「もう閉じてるよ」
「閉じてるんだから言い訳禁止」
「…………」
「返事ぐらいしたらどうなの」
「どっちなんだ……」
「どっちもよ」
いや、無理だろそれは。
咄嗟に言い返したくなる衝動を、それでもなんとか抑え込む。
「大丈夫なのは、まあ分かったけど……。でもお前、マジで冗談にならねえぞ、その傷。血だって出てるし。無理とかしてねえだろうな」
「無理してたら何なのよ。あんたに治せるの?」
「それは……そうじゃねえけど……」
確かに彼女の言う通りだった。
大丈夫じゃなかったら……じゃあ自分は何をするつもりだったんだ? 傷を癒せるわけでも、応急手当の技術をもっているわけでもないのに。
言い淀んだフェグルスに、少女は呆れるみたいに息を吐いて、
「……一応、もう大丈夫。あんたが心配してるような事は、多分ない」
「え? あ、そうなのか……?」
「そうよ。あたしがそうだって言ってんだからそうなの。傷はあるけど、痛みはもう結構、完全じゃないけど、そこそこ退いてきたし」
「そう、か……。あぁそうか、それなら、よかった。さっきまでお前、気絶してたわけだし、まあ目が覚めただけでも、まだなんとか……」
「ていうか結構前から気が付いてたし」
「そうなの? だったら、うん、だいじょ―――」
少女の言葉に、思わずフェグルスは安堵の息を吐き……そうになって。
ちょっと考えて、
「――――は? え、いやでも……は? ……はあ!?」
己の耳を疑った。コイツは今、何と言った?
とっくの前に気が付いていた、だと?
「気が、付いてたって……お、お前! いやっ、だって、反応も何も!」
「だって何が起きてるのか分からなかったんだもん。目が覚めた時には、あたし倒れてたし。全身痛かったし、動けなかったし、なんか砂埃まみれで周りもよく見えなかったし。起きちゃったら逆にマズいかなーとか、色々考えてたのよ、あたしなりに」
ふん、と鼻を鳴らして、ティーネは明後日の方向に目をやった。
「でも、あんたの声は聞こえてたから。じゃあ後はこいつに任せよっかなーとか、そう思って動かなかっただけ。勝手に殺さないでくんない」
「んな、んな、……な……」
もはや絶句して言葉も出なかった。こちらが一体どれほど心配したと思っている。極めつけになんだ。感謝の気持ちなど欠片も感じさせないこの態度。
色々文句は尽きない。けど、本当は全身が脱力するくらい安心していた。今まで心配していた自分が馬鹿みたいだが、それでも良かった。ちゃんとしっかり大丈夫そうだ。本当に良かった……と安心していたのもつかの間。
――――こいつ、いつから起きてた?
安心して初めて、新たな疑問が浮上する。
思い返してみると数分前、自分はあの狂ったゾディアックの野郎に向かってかなり偽善者じみた小っ恥ずかしい説教文句をずらずら並べていた記憶があり、
「……お前……俺が何言ってたか、聞こえてた……?」
「え、なに? いや、頭痛くてよく聞こえてなかったけど」
それを聞いて、思わずホッ、と。
「『あいつの名前はティーネだ!』って辺りまでは全部聞こえてたけど」
それを聞いて、思わずホッ……ではなく「ああ!?」と。フェグルスはあからさまな奇声を響かせた。
何が「よく聞こえてなかった」だ。しかもそれは終盤も終盤。その辺りまで聞こえてたって……全部じゃないか。丸裸じゃないか。
ティーネは、彼の口から迸る「ああ!?」にウケたのか何なのか、堪え切れずに「んふっ」と笑いを洩らす。
「あんたってホント、なにあれ傑作! もう声出そうになるの堪えるの大変だったのよ? 笑うと傷口に響いちゃうし」
自分の傷の心配はするくせに、他人の傷口には容赦なく塩水をぶっかけてくるあたり、やはりこいつは日本刀を振り回すような猛獣なのだと知る。
「ていうかあんたなんであたしの名前知ってるわけ? キモ。なんなの?」
「……俺の家に、あの、三日月型の、落ちてたから……」
「あー、あれあんたんちに落としたんだ。あの後結構探し回ったのよ、どこ落としたんだーって。……で、それであたしの名前知ったの? 余計キモくない? 他人のもん勝手に拾ってそれをじめじめストーカーみたく覚えてたってわけ? うーわ最悪」
……なんでここまで言われなければいければいけないのだろう。
「それに何なのよあれ。なんにもできないくせして魔法使いに喧嘩売って、結局馬鹿みたいに叫んで逃げ回るだけだってのに、よくもまあいけしゃあしゃあとあんなこと言えたわね。愚か者の図よ、まさに」
「愚か!? て、てめえこの野郎! よくもまあそんな事が言えるな! この俺に! 俺はお前を助けてやったんだぞ!?」
別に褒められたくて助けたわけじゃないが、それとこれとは話が別だ。
なんだこの態度。なんだこの罵倒。
自分はそんなに悪い事をしたのか? 傷付いた誰かが目の前にいたから、それを思わず助けてしまったのだ。それを愚かだと……?
「ちょっとは……ちょっとはお前、こう、感謝、みたいな、そういう心があっても……っ」
「は? なんで? あたしは別に助けてくれなんて頼んでないし。勝手に助けて勝手に逃げ回ってたのはあんただし。そういうお節介野郎がこの世で一番損をするのね。あらやだ、悲惨だわ」
「ひさ……!? 誰が!」
「あんたしかいないじゃない。まさか自覚も無かったわけ? うえ、余計に悲惨さが増してきたわね。喜びなさい、あたしが憐れんであげる」
「お前なあ……!」
畳み掛けるように傷口を抉りにかかる。
ここにきてフェグルスは、こんな暴力女の罵詈雑言に何一つ言い返せない己の語彙の乏しさを本気で恨む。
「あんたって本当に救いようがないのね。馬鹿だし、愚かだし、言ってる事もやってる事もてんで的外れだし」
ここまできたら犯罪行為だ。自分の命の恩人に……恩獣に対してこの態度。心への暴力そのものじゃないか。
「思い出すだけで鳥肌もんよ、あんたの台詞。まったく、なに考えてんだか。あたしなんかを、こうやって助けちゃうし。あたしなんか赤の他人のくせに、自分が死ぬかも知れないってのに……もう、ほんと……」
やっぱり、こいつは猛獣だ。
乱暴で、野蛮で、極悪非道で、
「ただの馬鹿よ。いっそドクズと言ってもいいわ。なによ、あれ。あたしのこと……あんな話、聞いて、それで『人間』なんて、なんで……こんな……」
小さく、細く、呟いて。
そして、
「あたしみたいな実験動物のこと」
俯くことしかできないのか。
俯いて、顔を隠して……自分の事をそんな風に呼ぶしかできないのか、この少女は。
「……実験動物って……」
自分の事を実験動物だと言い放ったティーネに、ついにフェグルスは何も言えなくなる。
違う、そんな言い方をするな、お前は人間だろ、そう言いたかった。しかし喉を塞ぐ蓋はいまだフェグルスの胸をせき止めていた。
何を言えばよかったのだろう。この少女に対して。
人間じゃないフェグルスは、己を人間以外の何かだと吐き捨てたこの少女に、どんな言葉を掛ければよかったのだろう。
分からなかった。
だから無理に、話題を逸らした。
「お前、ホントに何なんだよ。なんだってこんな事になってんだ」
「もう分かってるでしょ」
間髪入れずに放たれたその一言は、少年の息を詰まらせるのに十分だった。
「だから言ったじゃない……声は、聞こえてたって」
そうだとしたらコイツは、一体いつから聞いていたんだ。というかいつから目を覚ましていた? どうやらかなり前には気が付いていて、そこから先は狸寝入りだったらしいが。
まさか、最初からとっくに……? じゃあ最初とはいつだ。
この少女は、いつからフェグルスの声を聞いていたんだ。
誰が、何を言って、何をしようとしていたのか、この少女はどこまで把握しているんだ。
……いや分かってる、それを事細かに聞き出す事に大した意味など無い。結局フェグルスの自己満足。そんな事は承知の上だ。けれど、もしも。
もしも彼女が、本当に最初から目が覚めていて、何もかもを聞いていたなら。
フェグルスの声を、言葉を、そしてあの訳の分からない魔法使いの声を、言葉を―――『原点』の話を、人体実験の話を、どういう気持ちで、どういう想いで、聞いていたというのか。
「……あいつの話、全部、本当か?」
覚悟を決めて、フェグルスは重たい口を無理に開き、敢えてそう尋ねた。
どこまで聞いていたのか、それを確かめる意味もあった。
「…………」
彼女は黙ったまま、こくん、と小さく頷いた。
それだけでフェグルスの心が大きく軋む。自分から訊いたはずなのに、その肯定はあまりにも重く、深く、強烈だった。
そしてもう一つ―――ティーネは、やはり分かっていたのだ。
フェグルスが、何を知ってしまったのかを。
「くそっ」
あんなイカれた魔法使いの言う事なんか、全部デタラメだと思い込んでいたかった。現にそう思っていた節がフェグルスにはあった。
けれど、もう信じるしかない。
『原点』の事。『処分』の事。魔法教育の裏で行われている『人体実験』の事。
そんなものに、この少女が巻き込まれていた事も。
「……どうして言わなかった」
誰かに助けを求める機会ならいくらでもあったはずだ。それこそあの日の朝、フェグルスの住む借家に落ちて来た時に。
それだけじゃない。ジェミニの話によれば、彼女は一ヶ月も前から逃亡を続けていたはずなのだ。
だったら、もっと―――
「チャンスならいっぱいあっただろ。あの日の朝だって、もうお前傷だらけだったじゃねえか! 空からだって落ちて来た、どう考えたって異常だろあんなの! だからあの時、何か言ってくれれば―――」
言ってくれれば、自分はあの時、どうしていただろう。
ティーネを助けるために、拳を握っていただろうか?
いや、そんなわけがない。
だって。
――――なにも自分から巻き込まれに行く事はない。
あの時、自分は何をしていた?
目の前で飯を食べるティーネという少女から、ひたすら目を背けていたんじゃなかったか。
「言ってくれれば俺は……別に『原点』とかそんな話じゃなくても……そう! ただ『命を狙われてるから助けてくれ』でよかったんだよ!」
何を言ってるんだ、自分は。
厄介事から目を背けようとしていた奴が、どの口で、そんな言葉を吐いている?
「それだけ言ってくれりゃあよかったんだ! 助ける方法なんていっぱいあるんだよ! 『執行部隊』に知らせたり、警察に通報したり! お前が助けてくれって、それさえ言ってくれれば! 何か俺にも……俺にだって」
「本当に……」
少女の口から、空っぽな声が漏れる。
それが聞こえて、必死に喚いていたフェグルスも思わず口を止めた。
「本当に、考えなかったって思う?」
「……は?」
「あたしがあんたに助けを求めようとしなかったなんて……思うの?」
「…………」
彼女の言葉に何も返せず、問われたフェグルスはただ焦る。胸が締まり、息が詰まる。まるで何かを怖がるみたいに、思わずティーネから目を逸らした。
でも、いくら目を背けたって意味などなく、
「助けて欲しかったに決まってるじゃない」
その一言が。
どんな言葉よりも強く、フェグルスの心へ突き刺さる。
「助けてって……言いたかった、言おうとしたわよ。したに決まってるじゃん、そんなの」
全身を圧迫してくるような恐怖のわけを、彼はようやく知った。
「助けて、欲しかったわよ」
己の間違いを、突き付けられているような気がしたのだ。
厄介事に関わらない―――そんな事を心に誓って、空から降って来た一人の少女を見て見ぬフリで見捨ててしまった自分。その全てが間違いだったのだと糾弾されているかのようで。
「あんたんちで何か変なの食べてた時も、あんたがウザったらしく絡んできてた時も……したわよ、話そうと。今こいつに全部話せたら……魔法も使えないような役立たずでもいいから、しゃべっちゃおうかって。話してみたらさ、もしかしたらなんか奇跡みたいなのが起きて、助かるかもとか……はぁ、馬鹿みたい。そんなわけないのに」
「―――っ! 思ったんなら……!」
自分でも何が悔しいのか分からなかったが、気付けばフェグルスは、己の爪で掌の皮膚を突き破る勢いで拳を握っていた。
「話そうって、そう思ったんだろ! だったらなんで!」
「巻き込んじゃダメだって思ったのよ」
答えはあまりに簡単すぎた。
だからこそ余計に、彼女の意図が分からなくなる。
「巻き込んじゃダメって……はっ、何言ってんだお前。落っこちて来て早々日本刀振り回しやがったのはどこのどいつだよ。巻き込む気満々じゃ―――」
「その時は。……その時は、追われてたから。疑心暗鬼だったの、人が全部敵に見えて……追って来た奴の仲間か、あたしを攫いに来た研究者か何かじゃないかって思って。……でも」
彼女は言葉を区切って、
「……あんたは、敵じゃなかったから。……それに魔法使いでもなかったから」
「魔法使いじゃないって……」
魔法使いじゃなかったから、助けを求めなかったのか?
役に立たなそうだから、何を言っても仕方がないと……。
「変な勘違いしないでよ。別にあんたが役立たずだから言わなかったとか、そういうんじゃないから」
「じゃあなんで」
「あんたまで殺しちゃうと思ったの」
……は? と、思わずフェグルスの口はそう声に出しそうになって―――しかしその瞬間、彼の脳裏を過ったものがあった。
あの日の朝の事だ。
ティーネが去り際に、ボソリと漏らした言葉。
『魔法使いなんて全員死ねばいいって思ってるけど』
「もう聞いたでしょ、あたし実験体なの。魔法を使ってる人間の体で、何が起こってるのかを研究するための」
―――『原点』、実験体、研究施設、処分。
あの狂った魔法使いの言葉が、今さら耳の奥で鳴っているような気がした。
「だから死ねばいいって思ってた。……自分たちの使ってる魔法が、どこでどうやって研究されてるかも知らないで、のうのうとそれを使って笑って暮らしてる魔法使い全員」
「…………」
「そりゃ知る必要なんてないわよね、どーせ自分たちには関係ない話だもの。……どっかの国の、どっかの実験室で……貧乏な国から攫ってきた痩せた子供を人体実験に使って、体がバラバラになるまで使って使って使い続けて、死んだら焼いて捨てて、数が足りなくなったら実験体の女に無理やり産ませて増やして、それでも足りなかったらまた攫って来て、そんな事を何十年も前からずっとずっとずっと繰り返してても」
ティーネは、
「分かる? 積み重なった死体の山がどんなに臭いか。人の焼ける匂いも。悲鳴ってどんなに壁が分厚くても聞こえてくるのよ。腕が腐って落ちる音も! ねえ! 分からないわよね! ざけんな!! あんたら全員!! こっちがっ……あたしが、あたしたちがどんだけっ……どんなに苦しんでるのか!! 知ろうともしないで!! 幸せそうに笑ってる奴ら全員!! 死ねばいいのよ!! 全員殺してやりたかったわよ!!」
叫ぶ。喚く。
「だから、誰でもいい、巻き込んでやろうと思ったのよ! あたしの事情に無理やり巻き込んで! 身代わりみたいに盾にして! そいつが死んでも何しても関係ない! この街の奴ら皆まとめてあたしの身代わりにしてでも! あたしだけは助かってやろうって! ……そんな風に」
そんな風に……思っていたのか。
じゃあなぜだ?
死ねばいいと思ったのだろう。殺してやりたいとすら思ったのだろう。なら好きなだけ巻き込めばよかったじゃないか。身代わりの盾にするみたいに、この街を―――この街どころじゃない、世界中の魔法使いを。
巻き込んで、そして。
助けを求めればよかったじゃないか。
「そう思ったのよ。……そう思ってたの……最初は」
ティーネの声は、すり潰されていくように低く細く消えていく。
「あんたも見たでしょ」
声が沈む。
「街で人がいっぱい死んでるの。……ねえ、あいつらなんで死んだと思う? あたしを守ろうとしたから? あたしの身代わりになったから? そんなわけないわよね。だってあたしの事なんか誰も知らないもん」
力なく、言う。
「あたしがそこにいたからよ」
言ってしまう。
一番恐ろしい事実を。
「本当にそれだけ。近くにいただけで殺されちゃった。あたしの盾になったとかじゃなくてよ? 身代わりになったわけでもなくて……あたしを追う邪魔になるからって……それだけで」
『邪魔だからだよ』
『分かるだろ? ターゲットがすぐ目の前にいるッていうのに、ボクの周りにはボクの邪魔をするクズ肉ばかり。街に溢れ返るのはクソ虫ばかり! こんなのダメだと思わないかい? ダメなんだよ。風情じャアないし興も乗らない』
『だから! 全部ッ! 吹き飛ばしたのさ!!』
「ほんとに死んじゃった……大人も子供も、皆……」
見せつけられてしまったから。
「……それだけよ」
どれだけ頭の中では憎んでいても。
どれだけ心の中では殺してやろうと思っていても。
いざ現実を見せつけられて……盾にも身代わりにもならず、「ただ邪魔だから」という下らない理由で粉々になっていった命を見せつけられて。
自分がそこにいるだけで。
そんな風に人間が砕け散ってしまうのだと思い知らされて。
「もう……嫌になっちゃった……」
ボソリとこぼれるティーネの声は、とても小さかったはずなのに、どこまでも深く深く沈み込んで行くようだった。
「それだけで、あたし、あんなにいっぱい人を殺せるの」
「お前じゃねえだろ」
そんな言葉を返すだけで精一杯だった。
目の前の現実すら真面に向き合えない化物には、そんな事しか言えなかった。
「なに自分が殺したみたいに言ってんだよ。お前じゃねえだろ。殺したのはアイツだ、あのイカれた魔法使いだ。全部アイツのせいだ」
それはティーネに対する言葉ではなく、むしろ自分に対する確認行為に近かったのかもしれない。
自分の敵を、自分の相手を、否定すべき相手を、こうして言葉に出す事で、より根強く己の心に刻み付けるための。
「全部、あのクソ野郎のせいだろ……っ!」
あるいは。
ティーネから目を背けようとするフェグルスの逃避先が、あの魔法使いなだけだったのか。
「……そうかもね……でも」
でも―――
「あたしが逃げてなければ」
もしもティーネが、逃げようとしていなければ―――
「さっさと殺されてたら」
その声に、何か答えを出すべきだったかどうかは分からない。
黙りこくったフェグルスを余所に、少女は言葉を続けた。
「あたしが逃げたりなんてしないで、普通に殺されてればそれでよかったの。誰も死なないはずだったの。なのに、あたしが逃げて……あんな所にいたから」
「―――――っ!!」
もう我慢はできなかった。
「お前まで言ってるのかよそんな事! 殺されてればってお前、真面目にそう思ってんのか!? あの野郎みたいなこと言いやがって!」
凄まじい勢いで溢れ出す想いに、思わず口が勝手に動いていた。
己の気持ちを、正しく言葉にできない。
自分の命を蔑ろにしている事が我慢ならなかったのか。それともあの狂った魔法使いと同じ事を言っている事が癪に障ったのか。
何にしても、腹が立ったのは確かなようだった。
「なんで殺されなきゃいけないんだ! 自分が死ぬのが正しいみたいな言い方! お前もアイツも訳分からねえ! 意味分かんねえよお前ら! なんで死ぬ! どうして殺される!?」
「どうしてって」
叫ぶフェグルスとは対照的に、少女はひどく落ち着いた声で、
「あたしが『原点』だから。それ以外に理由なんてないわよ」
簡単に言われてしまう正解が、苦しい。
一刻も早くこんな現実から目を背けたがっている化物にとっては、その正論が、どうしようもなく苦しい。
「あたしを殺そうとした魔法使いの言ってた事は、全部ほんと。あたしは『原点』で、実験動物。処分されるはずだったのに、あたしは……それが怖くなって、逃げ出して来たの」
「お前……!」
衝動的に叫び出してしまいそうになり、フェグルスは慌てて息を整えた。
叫んだって、喚いたって、何も変わらない。
「……まだ言ってるのかよそんな事。誰だって怖いだろ死ぬのなんか。逃げて当然だ。お前は何も間違ってない」
「違う」
言葉を無理やり途切れさせるような否定に、フェグルスは思わず言葉を喉に詰まらせる。
「あたしは死ななきゃいけなかったのよ、絶対」
「っ! だから、死ぬのが当然みたいに言うなよ! 実験動物だかなんだか知らねえよ、生きようとする事の何が悪いんだ!」
落ち着いたはずの心がまた暴れ出す。そんな風に叫ぶフェグルスに、少女はもう言い返しもしなかった。
違う、違うの、と。俯いたまま、ティーネはひたすら首を横に振り続ける。
「……何なんだよ……」
これが本当にあの少女なのか?
空から降って来て、日本刀を振り回して、空腹でぶっ倒れたあの少女なのか?
あの時の少女と、目の前にいる今の少女を重ねる事は、フェグルスにはもうできなかった。
「あいつがあたしを狙ってる理由は、分かってる」
海の底から響いて来るみたいに、少女は低く声を落として、
「あたしは……『暴走』するかもしれないから」
「……ぼうそう……?」
思い返せば確かに、あの魔法使いはそんな言葉を口にしていたような気がする。
『加えて実験体には『暴走』の兆しアリ。……アァ、全く風情がない「物語」だ』
しかしフェグルスには、そのワードが示す重要性を正しく認識できない。
知らないからだ。
今いるこの場所には、この世界には、知らない事が多過ぎる。
「あたしの体にある魔力は、普通の量とは比べ物にならないんだって。本当なら人の体で抑え込めるはずなのに、あたしのは量が多すぎて、何かの拍子に抑え切れなくなって、どうにもならなくなっちゃって、暴走して……って。だから」
「……なんだよそれ」
あり得ない、と否定したい一方で、否定できる材料がない。
魔力は正体不明のエネルギーだ。未だに解明されていない事も多い。そのせいもあってか、『暴走』という現象がそれほど信憑性に欠けるものとは思えなかった。
肯定できない代わりに、否定もできない。
もしかしたら自分が知らないだけで、『暴走』は現実に存在するのかも……。そう考えてしまう。
だけど。それでも。
「信じられねえよそんなの……。そもそもお前、そんなのどこで知ったんだ」
「……あたしを実験してた、よく分かんない研究者が言ってて」
「ほら見ろ、他人から一方的に言われただけじゃねえか。俺だって魔法とか魔力の事は詳しくねえけど、この街で暮らして一〇年、そんな言葉は一度も聞いた事がねえ。お前はどうなんだよ。その『暴走』ってのを実際に見た事は? 『暴走』に関する詳しい原理は?」
ティーネは弱々しく首を横に振る。
つまり彼女は、見た事も、聞いた事も、それどころか『暴走』という存在の真偽すら知らない。
「だったらまだ、お前がそんなもん抱えてるって決まったわけじゃない。確かめてすらいないんだろ。お前をこんな目に遭わせた奴がでっち上げた嘘って事も……」
「嘘じゃない」
否定の言葉は早かった。
少しの希望を持つ事さえ許さないみたいに、誰よりそんな現実を認めたくなかったはずのティーネ自身が、その希望を拒絶する。
「なんで……嘘だって言い切れんだよ! 見ても聞いてもねえ事、そんなあっさり受け入れられんのかよ! そのせいで殺されそうになってんだぞ!?」
「……確かに、そう。見た事も、聞いた事も、あたしはない」
「だったら」
でもね、と。
ティーネの声が、ますます弱く、薄く、儚く、沈んでいく。
「あたし……知ってるの」
フェグルスは反論できなかった。
「実際に見てなくても、聞いてなくても、記憶になくても、知ってるのよ。あたし、『暴走』しちゃうかもしれない事も。あたしが……『暴走』したせいで……」
その瞬間、
「たくさんの人……殺しちゃったのも……」
世界から、音が消え去った気がした。