第二章05『異質、異常、異様』
「だから……分かるッて言ッてるだろ、さッきから」
本当に、忌々しそうな表情だった。
「キミの気持ちは分かる。こんな風情のない舞台に不満がアるのも分かる。……分かるか? 分かッて、やッてるんだよッ……分かる必要もないッ、オマエらみたいなッ、クズ肉! 相手にだ!! この!! ボクがアアァ!!!!!!」
いきなり怒りが沸点を超えた。
癇癪を起こした子供のように、一方的な感情の爆発が起こる。
「これだけ!! ボクが!! 理解を!! 示して!! アげてるのに!! まだそうやッてオマエはァ!! オマエらはアアアアアアアアアアアア!! ……どうしてボクを、馬鹿にするんだよォ……ッ!!」
理解が。
この少年に対する理解が……遠のく。
「理解力の無い相手に理解を求めるほど無駄な事はないな。風情じャない。実に不愉快で、実に不条理で、実に実に実に実にじッつッにッ……不合理だ。そうやッてボクの貴重な時間を、風情へのチャンスを奪い取ろうとするんだろ。欠陥品のクズ肉共め、ボクを貶めようッたッてそうはいかな―――」
「……いや、お前……」
「アァ!?」
言葉を遮られ、ジェミニはそのまま喉元を噛み千切って来そうな剣幕でフェグルスの顔を睨む。
その瞳が、さらにどす黒く腐敗する。
「ち、違うだろ……。お前、人を……こ、殺したんだぞ……?」
恐る恐る、震えた声でフェグルスは告げる。自分が何を言えた義理でもない事は分かっているが、それでも言わずにはいられなかった。
だって、この少年は『前提』が違う。
罪悪感の有無とかの問題じゃない。そもそも己の行為に対する認識が、感情の構造が、思考の過程が、全く違う。
だから思わず、そんな言葉を吐いていた。
それに対してジェミニは、
「だから―――」
なぜそんな事を告げられているのか、全く理解できないという顔で、
「言ッてるだろ……ボクが、丁寧に、親切に」
口を歪め、目を狂気的に光らせ、足の裏で剥き出しの地面を叩きながら、ジェミニは苛立ちを誤魔化すように右手で顔を掻き毟りながら、
「すぐに死ぬッて事は生きる覚悟ができてないッて事だ。すぐに砕けるのは軟弱だからだ。すぐに爆ぜ散るなんて甘え以外の何なんだよ。他人に寄り掛かッて頼るのが当たり前みたいな顔をする厚かましい奴には誰かが罰を下すべきなんだ」
これほど無残に街を破壊しておいて、これほど大勢の命を奪っておいて。
それを、自覚しておいて。
「ていうか許せないだろ。ボクは必死に生きてるのに、そんなボクを傍目に怠け切ッて……そうやッて自分の責務もボクに押し付けるつもりか? ボクの事を下に見て、侮ッて、嘲ッて、笑ッて、馬鹿にしてるのか? じャア良かった、死んで当然じャアないか。そんなクズ肉、生かしておく方が間違ッてる。そうだろ? こんな簡単な事も理解できないのか? はァ……キミ、ほんッと救いようがないクズだなァ。死ねば?」
彼の目には、ジェミニという名の少年の意識には、周囲の惨状も、自分が殺した人々の死体も、おそらく目の前にいるフェグルスやティーネすらも入っていない。
「いつもそうだ。どいつもこいつもそうやッてボクを馬鹿にする。ボクが気紛れで少し慈悲を見せてやれば勘違いしてつけ上がッて……なんのつもりだよオマエら。ボクを馬鹿にして面白いか、楽しいかッ、満足なのかよォ!? ボクを貶める罪人め! 風情の欠片もないじャアないかア!!」
頭の中にあるのはただ一つ、圧倒的な自分自身。
自分の都合と自分の価値感が絶対で、それ以外の全ては排除すべきゴミクズ。
この少年は心の底から、それが真理だと思い込んでいる。
その異質。その異常。
その異質で異常な状況を、普通であると許容してしまっている異様な姿。
(……駄目だこいつ……)
フェグルスは、理屈ではなく直感でそう結論付けた。
素直に『駄目』だと思った。話が通じないなんてレベルじゃなかった。目の前の少年には何もかもが通じなかった。
言葉が、思考が、感情が、善悪が、常識が、精神が、理屈が、因果が、正誤が、価値観が、これまでフェグルスが培ってきた人間という種族の『当たり前』が。
一切、通じない。
(何なんだよ、こいつ……っ!?)
その混乱に耐えきれなかった。
もはや無意識の行動だった。
困惑の極みに立たされたフェグルスは、意識を失っている少女の体をぐっと抱きしめるように引き寄せると、思わずそのまま後ろに下がろうとした。
逃げたかった、この訳の分からない状況から。
逃げ出したかった、あの意味不明な少年から。
だが。
「アのさァ」
直後、体の奥にまで響き渡るほど静かな声が飛んだ。
次の瞬間だった。
ズンッッッ!!!!!! と。
大地を地底深くまで押し潰すような衝撃が、フェグルスのすぐ背後で炸裂した。
轟音が衝撃波と化すほどの威力と速度でもって、フェグルスのすぐ後ろの地面に『見えない何か』が叩き落されたのだ。その一撃はクレーターを作る事すら許さず、そのまま大地を奥深くまで一気にぶち抜いていた。
数センチの距離も無かった。
半歩でも後ろに下がっていれば、フェグルスは一瞬で潰れたゴミクズのように肉体をグチャグチャにされ、地面の奥で丸まっていたかもしれなかった。
そう思わせるだけの圧力。
あの世界最強の後輩の魔法を片腕一本であしらうフェグルスをもってして、そんな想像が掻き立てられてしまう程の破壊力。
「―――――っ」
真面な恐怖を抱く余裕もなく、ただ固まるしかできないフェグルス。
そんな彼を見て、ジェミニはゆっくり口を開く。
「……何を、してるんだよ、オマエ」
耳が腐り落ちるのではないかと思えるような、穢れと不浄を溜め込んだ声。
それほどの、怨嗟。怨恨。怨念。
「ボクを無視して逃げるつもりか? それは……いくらなんでも風情じャアないよなァ」
ジェミニは、掻き毟り過ぎて皮膚が破けた頬から鮮血を散らしながら、
「まして『ソレ』を抱えて逃げるつもりだッたろ。……オマエ何様のつもりだよ」
ジェミニは体ごとフェグルスへと向き直す。
そして。
「台無しなんだよ、『ターゲット』を持ッて行かれちャアさァ。ようやくここまで追い詰めたッていうのに」
ゾッと、フェグルスの背中に冷たいものが走った。
不意にだ。
不意にフェグルスの脳裏に、数日前の記憶が蘇る。
ティーネが空から降って来たあの日―――彼女は「魔法使いに追われている」と口走っていなかったか?
「……こいつ……」
ターゲット。ようやくここまで追い詰めた。……ジェミニ本人の口から出た言葉が、嫌な予感に明確な形を与えていく。
その一方で、
「ボクの努力を無駄にするつもりか? それはいくらなんでも興が削がれるよなァ。努力は報われるべきだ。苦労は称えられるべきだ。それは当然の報酬だ。それをボクから奪い取るつもりなのかい? どこまでボクを蔑めば気が済むんだ!」
どこまで行っても自分の事。
ジェミニは今にも飛び掛かってきそうな勢いで大きく足を踏み出して、指を突き付けながら唾を飛ばす。
「ソレを返せ! 今すぐにだ! ソレがコソコソ害虫みたく逃げ回るからわざわざボクがこの街を滅茶苦茶にしてやッたのに! 恥を忍んで! オマエらみたいな腐れクズ肉に! 手を煩わしてやッたのに! その努力と苦労と屈辱を無視するつもりなのかなア!! アァ!?」
理解不能の限度をついに超えた。
今こうして目の前で叫び散らせしている少年が、自分の知識にある『人間』という一つの定型から大きく逸脱していて、整合性が取れなくなる。
「……なんだよ……」
だからフェグルスは訳も分からないまま、ごく自然に尋ねていた。
「お前、なんだ……目的は……何のためにこんな」
「何のため!? 決まッてる!」
もはやフェグルスの言葉を最後まで聞く事もしなかった。
ジェミニは、その黒く渦巻く瞳を、どこまでも狂気的に輝かせて。
「ソレを『処分』するのさッ! 微塵も、欠片も、跡形もなく、ソレをこの世から抹消する! それがボクに与えられた『使命』なのさ!」
「……処分……」
点と点が一本に線に繋がっていく。
嫌な予感が確信に変わっていく。
間違いない。
こいつは、ティーネを殺そうとしているのだ。
しかし、確信してなお実感が湧かなかった。
恨みがあるわけでもなく、事情があるわけでもなく……人間を殺す事を『使命』だと? それも『殺す』ではなく『処分』。もとよりティーネを『ソレ』と呼んでる時点で何かがおかしかった。
いいや、そもそも。
もしジェミニの言葉が真実だとすると……どういう事だ?
今こうしてフェグルスの周囲に広がっている光景は、どう説明したらいいんだ?
原型すら留めずに壊し尽くされた大通り。そこに散らばる人間の残骸。死肉と、そこから飛び散って乾いた血と、瓦礫と破片と残骸しかない変わり果てた風景。
これは一体、どう説明したらいいんだ?
まさか、ティーネ一人を殺すためだけに、こんな事をしたというのか?
「わか、ん……」
余計に訳が分からなくなる。
言葉だけが、勝手に溢れる。
「お前はこいつを……殺そうとして」
「風情じャない」
食い気味に放たれたジェミニの返答は、やはり意味が分からない。
「今、キミ、なんて言ッた? 殺す? ほら見ろ。ボクが寛容に接していればすぐに調子に乗る。ボクを悪者にするのもいい加減にしろよ。言葉の意味は正しく使え。さッきも言ッたはずなんだけど、これは『殺す』んじャなくて『処分』なんだよね?」
「そんな事はどうだっていいだろ!!」
吐瀉物をぶちまけるような勢いで叫んだ。奴の口から出る気味の悪い言葉の数々を、どうにかして遮りたかった。
怒っているからではない。
これ以上、頭がおかしくなりたくなかったからだ。
「そんなもんはどれも同じだろうが! 殺すも処分もおんなじだろうがよ! そうじゃ……そうじゃ、ねえんだよ……っ!!」
どうしてこんなに話が通じないんだ。
どうしてこうまで意思の疎通ができないんだ。
人間と同じ言葉で、人間と同じ態度で接して……どうしてこんなにも噛み合わないんだ。
「これっぽっちも分からねえよ! なんだよ処分って! 殺すってのか!? こいつを!? 街もめちゃくちゃにして! こいつを、お前はっ……ホントに何なんだよ! 理由はなんだよ!?」
フェグルスの目には、数日前に見た傷だらけのティーネと、今こうして自分の腕に抱かれているティーネの姿が、ぴったり重なっていた。
「答えろ! こいつもこの街も他の人たちも! 何の理由があって殺した!? 何のために!!」
「ソレが『原点』だからに決まッてるじャアないか」
一秒と間を空けなかった。
当たり前の事実を述べるような感覚で、彼は聞き慣れない言葉を口にした。
「正確には『魔力完全転換技術開発実験』の生物実験体ナンバー:008―――今キミが抱えているソレの名前だよ。もうすぐ廃棄処分になるはずだッた、正真正銘の欠陥品ッてわけ。ほら、単純でしョ? ……そうだろ」
意味不明な単語の羅列で、ジェミニは説明した気になっている。しかしフェグルスは、彼の言葉の裏に隠された事実を何一つ認識できていなかった。
おりじん? はいきしょぶん?
目の前にずらずらと並べられた一つ一つの言葉が、さらに思考を締め上げる。
頭の整理が追い付かない。理解への道のりが遠い。
「……アァ、キミもその類か……」
その時だった。
地を這うような声が、フェグルスの耳に滑り込む。
「何も知らない、何も知ろうとしない、無能な自分を誤魔化しながら呼吸しているだけの無価値で無生産なクソカスのクズ肉。……キミさァ、文明ッて『勝手に発展してる』と思ッてるだろ」
フェグルスの心情など知る余地もなく、ジェミニの言葉が続く。
まるでそれは、『答え合わせ』のように。
自分が正しいのだと、証明するかのように。
「根本的に間違ッてるんだよ。文明は自然現象じャアない。誰かが最初に発案した『技術』が、世界中に広まッて初めてそれが『文明』と呼ばれるんだ。始まり……『原点』がアるんだよ、全てに。魔法も例外じャない。今の魔法文明を築く魔法技術には、その『原点』がアる」
どす黒く染まったジェミニの視線が、フラフラと揺れながら不規則に蠢く。
その瞳が、突然、虚空の一点を見つめて動きを止める。
「キミが抱えるソレは、魔力を一〇〇パーセント魔法に変換する『魔力完全転換技術』を開発するための実験体だよ。一ヶ月前にアメリカの『研究施設』から逃げ出してね。しかも一週間前にはこの街に侵入してるッて言う。加えて実験体には『暴走』の兆しアリ。……アァ、全く風情がない『物語』だ。だからこそボクたちがこうしてソレを追ッているわけさ、崇高な『使命』としてね。……これがキミの知りたがッていた理由だ。これで分かッたろ? ボクが正しくて、オマエらが間違ッてるッて」
途中から、ジェミニの言葉なんて耳からすっぽ抜けていた。
……こいつはさっきから何を言っているんだ?
さも当然のように語られる事の経緯に、フェグルスの頭には疑問しか浮かんでこなかった。
おりじん? まりょくかんぜんてんかんぎじゅつ? けんきゅうしせつ? ……暴走とは何の事だ。自分は今、何に関わっているんだ。
「なん……」
全く、分からなかった。
今まで語られた事が真実かどうか分からない、という意味ではない。
むしろ、今の話が真実かどうかは二の次だ。問題は、その話を『真実』だと知った上でティーネを殺そうとしている奴がいるという『事実』だ。
だからこそ、脳裏を過る疑問。
「……なんだ……」
――――実験体ってなんだ?
ボソリと、恐る恐る口にする。
しかし独り言レベルのその声音は、相手の耳にまで届かなかった。
ジェミニは未だ虚空を眺めて、
「そう、理解は大事だ。互いを思い遣れる世界、実に風情がアる。そうやッて互いに理解が深まッていけば、ボクを馬鹿にする奴もいなくなる。ボクの風情を邪魔する奴も消えてなくなる。欠陥品は排除されて然るべき―――」
「違ぇ!!」
あまりに軽いジェミニの言葉を、フェグルスは強引に彼の言葉を遮った。
「お前今、実験体って……! どういう意味だ!?」
「キミの抱えているソレの事でしョ」
呆気ないほどあっさりと、単純な答えが恐ろしいほど簡単に告げられた。
そんな真実を平然とした顔で口にするジェミニという少年に、得体の知れない嫌悪を覚える。
「少し頭を使えば誰にだッてわかる事なのに、常識を欠落したクズ肉クソ虫にはこんな事すら気付けない……。当たり前の話だ」
本当に当たり前のように。
「どうやッて魔法を開発したと思ッてる? 魔力の練り方、魔力の使い方、魔力から魔法への変換方法―――この一連の技術を、そもそもどうやッて確立してきたと思ッてるんだ? 魔力だなんて訳の分からない力を、ただ机上の計算だけで簡単に説明できたとでも?」
不意に、数日前のシルフィとの会話が脳裏を過る。
『そもそも魔力自体、まだまだ未知のエネルギーだからね。「生物の体内に存在する」って事と、「どうすれば活用できるか」って運用方法は分かってるけど、肝心の「どういう仕組みなのか」「どういう物質で出来てるのか」ってところはまだ全然』
そうだ。考えてもみれば当たり前の話だった。
未だ正体不明のエネルギー。仕組みも構成物質も分かっていない不可視の力。
そんな謎に満ちたエネルギーの制御法なんて、そもそもどうやって確立させたというのだ?
そしてこれは過去の話だけじゃない。
魔力の制御法に関する研究は、今でも続いているのだ。
『一〇〇の魔力を使っても、一〇〇全部が魔法に変換されるわけじゃないの。どれだけ良くても九〇くらい。残りの魔力は魔法に変換され切れずに、空気中にちょーっとだけ漏れて行っちゃうの』
『だから僕たち人間は、一刻も早く自分の魔力を一〇〇パーセント魔法に変換する方法を探らなくちゃいけないの』
だがその研究は、一体どのように行われている?
ただの計算式のようなものだけで解明できるものなのか?
生物の体内で何が起きているのかを確認する、最も確実な方法は――――
『むぅ……フェグルスくんの体、一体全体ホントにどうなっちゃってるの? まさか魔力を通した刃物も通さないとは』
―――もう、分かっているじゃないか。
魔獣生態研究室。
病院の地下で魔獣の研究をしているあの少女は、魔獣の体をどう扱っていた?
「ねェ、いちいち言葉で言わないと分からないわけ? 結局さァ」
さして面白そうでもなく。
答え合わせのように、ジェミニは告げる。
「『原点』の体を何度も何度も開いて、何度も何度も中身を入れ替え、何度も何度も裏返し、何度も何度も叩き、割り、潰し、砕き、千切り、ばらし、またくッつける。そうやッて人間の体の中で何が起きてるのか繰り返し実験するんだよ」
そんな答えを口にしてなお、彼の声には何の感情も宿らない。
平然と、平気なツラで、いっそ『興醒め』とでも言いたげな表情で。
「アと、キミが何をどう勘違いしてるのか知らないけど」
そう前置きして。
「さッきから言ッてるはずだろ。これは『殺す』んじャなくて『処分』だ。ボクが人殺しをしているみたいに言うなよ気持ちが悪い。そうやッてボクを悪者にするつもりなのかい? アアアアアアアアアやめてくれよ、それこそ風情がない。ボクを悪役に仕立て上げるのもいい加減にしろよクズ肉。いいかい? 最後だ、よく聞け。……ソレは、人間とは程遠い、『実験動物』だ。分かッたろ」
「じっけん、どうぶつ……」
フェグルスは愕然としたまま、ジェミニの言葉を繰り返した。
……『原点』も、実験も、その真偽もフェグルスには分からない。ただこのジェミニという少年は、それら全てを真実として上でティーネを実験動物だと言い放った。
そして、いらなくなった実験動物を殺処分する感覚で、一人の少女を、今も殺そうとしているのだ。
いいやそれだけじゃない。
―――「人殺しをしているみたいに言うなよ」だと? まるで今まで誰一人として殺してこなかったような口ぶりはなんだ。
今もこうして辺り一面に散らばっている無数の死体は、死骸は、血と肉は、じゃあ一体なんだ。
この少年には、歩いただけで舞い上がる綿埃にでも見えているのか。
「さて、分かッたのなら早いとこソレを渡してくれないかなア。これ以上つまらないゴミ処理に時間を割くなんて、アまりに無益な話じャアないかア。それともなんだ、ボクの時間を、このボクの人生の一部を、無駄に無意味に使い捨てようと言うつもりなのかい。……ボクを、そうやッて、馬鹿にするつもりかい? ん?」
ジェミニは右手を突き出したまま、ティーネを渡せとジェスチャーで命じる。
それが当然、という表情で。
自分が世界の常識を代弁しているような声で。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
もう返す言葉も見つからない。
仮にそんな言葉があったとしても、多分あの少年には届かない。
だからフェグルスは何も言わず、奇妙なほど落ち着いた心地のまま、自分の腕に抱えられている少女を見下ろしていた。
……ティーネは未だに、目を覚まさない。
いっそこのまま永遠に目を覚まさないような気がしてしまうほど、今の少女からはまるで生気を感じられなかった。
だけど、
「――――、……。……――――」
注意して見なければ気付けないぐらい小さく、少女の唇は、確かに震えていた。
大丈夫だ、呼吸はしてる。
血を流し、意識を失っていても、まだ生きている。
まだ生きているなら。
生きてさえいるのなら。
「……何やってんだ俺」
相変わらず、自分の決意の脆さには呆れ返る。
いつもそうだ。平凡で平穏な生活なんてものを望んでいたはずなのに、気付けばいつもこのザマだ。
厄介事を無視する覚悟も、面倒事から目を逸らす覚悟も無く、ただその場の流れに身を任せて、気付けば首を突っ込んでいる。
今の自分がこうしてここにいるのは、己の意思の弱さが招いた結果だ。
褒められた事では、決してない。
けれど、今は。
今だけは。
「……はア?」
フェグルスは、ティーネの体をより強く抱き寄せた。
要求とは正反対の行動に、ジェミニは思わず疑問の声を上げていた。
「……なんのつもりだ」
「なんでもねえよ」
フェグルスはティーネを抱えたまま立ち上がり、数歩だけ後ずさる。
この少女を見捨てる―――なんて選択肢を選ぶ気は、さらさらなかった。
「こいつを連れて、ここから逃げるだけだ」
最大限の虚勢を張り、ジェミニを真正面から睨みつける。
分かってる。所詮フェグルスは部外者だ。無関係な赤の他人。そんな自分がこの感情を抱くのは、あまりに筋違いでお門違い。
だけど、それでも、許してはダメだと思ったのだ。
この少女を、今ここで見殺しにしてしまう事だけは、絶対に。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………アのさァ」
そんなフェグルスを前にして、
「キミ、聞いていなかッたのか?」
声が、低く、暗く、重く、響く。
ジェミニの瞳の奥にあるどす黒さが、みるみる膨れ上がっていく。
「ボクは説明したはずだ。ソレはボクの『ターゲット』だッて。ソレは実験動物なんだッて。ここまで追い詰めたボクの努力を無駄にするなッて。言ッて、聞かせて……分からないかなァ」
息が荒くなる。肩が震える。
奥歯を力の限り噛み締めながら、一直線に突き刺すようにフェグルスを睨む。
「キミのしてる事がボクにはまるで分からないんだけど。ボクの話を聞いておいて、逃げる? はア? なにそれ。ねェ、教えろよ、どうしてそうなるんだよ」
理性が。
崩れる。
「誤解を招かないように、ボクに勘違いさせないように、自分の言葉に気を付けながら、一語一句に配慮と心遣いを込めて、もう一度、しッかりと、ボクにもわかるように説明しろ。キミみたいなクズ肉の話す言葉なんか聞きたくもないんだけどね、ほら、ボクは、寛容で慈悲深いからさ。キミのような風情のない欠陥だらけの落第生物にもチャンスを与えよう。……いやもう生物じャないよね、それじャアボクとキミが同じみたいじャアないかア。汚物だ、吐瀉物だ、廃棄物だ、物だよ物。生き物だなんておこがましい。そんなオマエにも、ボクは、慈悲をかけて、発言し直す機会を、与えてやッてるんだよ。今度は間違えないで欲しいな、いくらボクでも限度がアる。二度目だ。この二度目が最後だ。わかる? だからさッきの発言は取り消そう、うん、ボクがそれを認める。はい消えた。ほら、やり直しだ。キミみたいな脳味噌グズグズのクズ肉の事だから人間の言葉は難しいと思うから、時間をアげよう。それぐらいは与えよう。だからしッかり、ボクにもわかるように、正しい言葉で、正しい意味で、正しい答えを言い直せ。直せよ、ほら、早く、さッさと訂正しろよ。いやまず謝れよ。それが最初だ、常識じャアないか。相手に迷惑をかけたら謝るだろ普通は。キミは普通じャない、異常、頭がおかしい、生き物として最低限の礼儀も弁えないクズ、殺されても文句は言えないだろ。ほら早くしろよ。謝れ、そして感謝しろ。チャンスを与えてやッたんだ。謝罪して、感謝して、自分の非を認めろ、その上で言い直せ。なにやッてるんだよ、言えッて言ッてるんだよ。直せッて言ッてるんだよ、いつまで待たせる気だ。そうやッてボクを馬鹿にするつもりか、ふざけるのも大概にしろよクズ肉が。ボクが、キミみたいなクズに、丁寧に、親切にしてやッてるのが、わからないのかなアッ。ここまで言ッてやッてるのに、まだッ、理解できないかなア!」
「分かんねえよ」
真っ向からの否定。
フェグルスは真っすぐにジェミニを見据えて、そう答えた。
「『原点』も、実験も、分かんねえ。お前の言ってる事、何一つ理解できねえ。どうでもいい。知る気もない」
なぜか心の中は、驚くほどに冷静だった。
それがなぜなのかは、フェグルス自身にも分からなかったが。
「さっきからお前、何言ってるのか分かんねえよ。風情だの興醒めだの……何がクズ肉だ、何が実験動物だっ、さっきから意味分かんねえ事ばっかほざきやがって! 何様なのはどっちだ!! 人を人とも思えねえ奴が!!」
物体じゃない。実験動物じゃない。クズでもクソでもない。
自分のような化物や、目の前の少年のような理解不能の生き物なんかと比べれば。
この少女は―――
「―――こいつは普通の人間だ!! そんな事も分からねえ奴が! これ以上こいつを馬鹿にするな!!」
そう叫んだ直後、濃密な嫌悪感がフェグルスを真正面から貫いた。
原因は、眼前に立ちはだかるジェミニの視線。
彼の視線が一直線にフェグルスを見据えていたのだ。
「……はアアァァァァ」
毒素を含んだ湯気でも立ち昇りそうなほど、深く静かに、ジェミニは息を吐く。
「……まだ足りないのかよ……」
どす黒い声だった。
「ボクは待ッた。キミが理解を示す時間はたッぷりアッた。キミが正しい選択をする時間もアッた。ボクがそれを与えた。その上で、そうした上で、ボクを、ボクを、ボクをボクをボクをボクをボクをボクをボクをボクをボクをボクをボクをボクをボクをボクをォォおおおおおおおおおおおおおおおおお!! ボクをォ!! 侮辱するのかア!! 風情の欠片も無いクズ肉如きがア!!」
怒り、恨み、憎しみ―――もっとそれ以上。
ありとあらゆる穢れた感情が、一つ一つの区別も付かずに混ざり合って津波の如くなだれ込む。
「ここまでボクをコケにしてェ! 楽しいのかよクズ肉がア! 人の事をそうやッて馬鹿にして嘲笑ッて見下して蹴落として! 自分の下に誰かを追い遣ッて踏み付けて勝ち誇るんだ!! そんなクソみたいな優越感に浸るのがそんなに面白いのかア!? 本当に! 本当に本当に本当にィ!!」
ジェミニを中心に、烈風が吹き荒れた。
その風は狂ったように空気中を舞い、フェグルスを含めたその空間一帯を覆う。
そして、次の瞬間。
「風情じャアないんだよ」
前兆もなく、爆ぜた。
ゾドァッッッ!!!!!! と、恐ろしく巨大な『見えない何か』がフェグルスのすぐ横を掠め、大地を五〇〇メートルほど引き裂いた。
視界から得られる情報など皆無。
ジェミニは顔色一つ変える事なく、世界最強の魔法を容赦なく炸裂させたのだ。
「……――――っ!?」
フェグルスは思わず二、三歩後ずさった。
遅過ぎた反応だった。
頭の反応速度が追い付かない。もしかしたら、視界から入った情報が頭に送られるよりも速かったかも知れない。
「もういいよキミ。関わるだけ時間の無駄、生きているだけで害悪だ。一人で勝手に腐ッて死ねよ、他人を馬鹿にする害虫が」
もし直撃していたら、などと思い巡らせ、しかし途中でやめる。
過ぎた時間にいつまでも執着している訳にはいかない。
今考えなければならないのは、早くこの場から逃げる事だけ。
「もうキミみたいな虫ケラに何の興味もないけれど……ここまでコケにされて何もしないのは、いくらなんでも興が削がれるじャアないかア」
空気が震える。
ジェミニから放たれる気配が、空気を振動させる。
迫る。
奴が迫る。
最強が迫る。
「世界は平等でアるべきだ。だからボクを踏みつけた分、今度はキミが踏みつけられるんだ。当たり前じャアないか。それが風情。当然の必然を前に何もできず這いつくばッて、ボクの苦しみを味わいながら惨めに死ね、欠陥品」
巨大な鎌を振るい、容易に魂を刈り取る死神が。
迫る。
「さァ、ゲームスタートだクズ肉共」
次の瞬間。
世界最強が、炸裂した。