第二章02『物語はいつでもそこに』
四月一四日。
「おう!?」
「きゃっ!」
間一髪―――女子生徒の頭に落ちる寸前だった段ボールを、フェグルスはなんとか片手で抑え込む。
しかも割とヤバかった。受け止めた感じ、箱の中にかなり重めの荷物が詰め込まれている。こんな重量物を頭に喰らったら一歩間違えば大怪我だ。
聖プリエステラ魔法学園のとある一室。
視聴覚室という、ほとんど物置みたいに使われている部屋を掃除していた時の事だった。
何か備品を探しに来たのか、その女子生徒は清掃中の視聴覚室にやって来た。そこで掃除をしているフェグルスを見るなり彼女は「げ……」みたいな顔をしてたが、しかし目的優先、嫌そうにしながらも目的の備品を探し始めた。
で、何かの拍子に組み立て式の棚に少女の肘かケツがぶつかり、棚の上の方に不安定な置き方をされていた段ボールが少女へと降って来そうになり……それをギリギリでフェグルスが受け止めたのだ。
……必然的に、フェグルスは少女に覆いかぶさるような体勢になってしまい、
「な、何するんですか! 先生に言いつけますよ変態!」
あらぬ疑いをかけられ、少女に怒鳴られる。
いや、怒鳴られるのはいいのだが、
「い、言いつけてもいいから早くどけてくれ……! この体勢きつい……!」
その言葉に、少女もようやく「あっ」と自分の置かれた状況が分かったらしい。無理な体勢でプルプル震えるフェグルスの下から急いで脱出する。
安全を確認してから、フェグルスは掃除用具をその辺に放り投げ、両手で段ボールを抱えるように床に下ろす。
「はぁ……っぶねー……。なんだって高い所に置きたがるかな……」
一安心して、フェグルスは少女の方を見て、
「……まあ……気を付けてな、今後は」
「…………」
少女は訝しむような視線をフェグルスに向けたまま、まるで熊と出会った時の対処法、ゆっくり後退しながらガラッと扉を開け、ピシャン! と何も言わずに出て行った。
……ところで探し物は見つかったのだろうか。
「……はぁ……」
まあいいや。どうせ自分とは関係ない。変に気を遣って、また勘違いされても面倒だ。そう思い、フェグルスは再び掃除用具を拾い上げる。
その時だった。再び、ガラッ、と扉が開いて、
「……あの」
「ん?」
声がして、思わずフェグルスは振り向いた。
たった今出て行ったばかりの少女が、難しい顔をして扉の前に立っていた。
そして彼女は言いにくそうな顔をしながら、それでも口を小さく開いて、
「―――ありがとうございます」
言った瞬間に、またもやピシャン! と強めに扉を閉めて、今度こそ彼女は姿を消した。
もはや独り言にすらならないくらい小さな声のお礼を聞いたフェグルスは、
「……え」
どういたしましても言えず、しばらく固まっていた。
***
四月一五日。
「すみませんでした……」
「……すーませんでした」
「……っす」
廊下の掃除中に呼び止められ、一体何事かと思って顔を上げたら、突然見知らぬ男子生徒三人に、謝罪の言葉と共に頭を下げられた。
いきなり過ぎる出来事に、フェグルスも当意即妙な返しが思い付かず、
「……えー……っと……」
何が? ―――身に覚えのない謝罪に困惑するしかなかった。
なんだコイツら。なぜ謝っている? なぜ俺は謝られている? 記憶をいくら掘り返しても理由が見つからず、というかそもそもこの三人の顔など全くもって見た事がなく……。
と、その時、フェグルスの視界の端にチラッと映る人影が。
「ん? ……ひっ!?」
ジトォ――――――――――――――――――――――――ッ、と。
かなり向こうの方。廊下の曲がり角から顔の半分を覗かせて、凄まじい眼光でコチラを睨み付ける謎の不審者の姿があった。そのあまりの怪しさにフェグルスも思わずビクゥ! と体を震わせる。
あれはまさか……この世に未練を残した学園生の霊!?
……というわけではなかった。
よくよく見るとその不審者は、見た事のある少女だった。
ギラリと光る刃のような眼光。姿を隠しても隠し切れない凛々しいオーラ。ついでにチラリと見えるのは、栗色の髪を一本に結った長い三つ編み。
見間違うはずもない。聖プリエステラ魔法学園のセートカイチョー、ツクモ=アラン=シュヴァリエ、その人であった。
その人影を見て、フェグルスも「あー、そういう……」と全てを察する。
突然謝りに来た三人の男子生徒。そして遠くからコチラを睨むツクモの視線。
つまりあれか。この三人、勤務初日に水をぶっかけてきた奴らか。
おそらくツクモにあれこれしごかれ、ケジメとして直接謝りに来させられたのだろう。
また随分とスパルタな事を……と思わないでもないが、しかし気持ちは嬉しかった。彼女、そんなに自分の事を考えてくれていたとは。
その気持ちに応じるならば、フェグルスの方もある種のケジメとして、しっかり彼らを怒ってやらなければいけないのだろう。
けれど、
「……あー……んー……まあ、うん。……そうだな」
怒る、なんて、どうやればいいのか全然分からなかった。
そもそも水をかけられた事について、フェグルスは特段、何とも思っていなかった。あまりにも蔑まれるのが日常過ぎて、いちいち怒りなど覚えるのが馬鹿らしかったのだ。
だからこの場合、何と言えば正解なのか咄嗟に判断がつかず。
無意識に……。
「―――まぁ水でよかったよ」
……とか、意味不明な事を言ってしまったのだった。
それにはさすがに、謝りに来た男子生徒も三者一様に「は?」の表情。
ついでに、遠くの方ではツクモも「は?」と。
「ジュースとかだとマジでヤバかった。あれのシミって意外と落ちなくて、なんか専用の洗剤とか使わなくちゃいけなくてさ。あとは石鹸使って落とすとかクソ面倒で……」
そこまで言って、途中で自分の言っている事の不自然さに気付いたフェグルスも遅れて「は?」と。
……一体何を言ってるんだ自分は。なんで液体をかけられる事を前提で話しているんだ?
「あ、やっ、違う! 間違えた! ……えっと……そう、これからはあまり水をかけないでもらえると助かる」
じゃあまあそういう事で、と。
それだけ言ってフェグルスは男子生徒たちに片手を上げ、さっさと掃除に戻ろうとする。
が、もう一つ言うべき事があったのを思い出し、
「あ。後あれだ、ガム。あれを校庭とかに捨てるのだけはやめてくれるとマジで助かる。一度固まったら全っ然落ちないんだあれ」
今度こそ「じゃ、授業頑張って」と適当な言葉をかけてやり、フェグルスはさっさと元の業務に戻って行った。
男子生徒三人がしばらく唖然としていたのも、フェグルスには分からなかった。
数分後。
「貴殿は甘過ぎるのだ!」
誰もいない視聴覚室で、ツクモがすごい形相で腕を組んで声を荒げ、
「貴殿のそれはもはや悪を助長させる振る舞いだ! ああいう時はしっかり相手を諫め、叱咤し、然るべき怒りを表して反省を促すのだ!」
「はい……」
「そうする事で初めて己の過ちに気付く者もいるのだ! 人から反省の機会を奪ってはならん! 分かっているのか!?」
「はい……誠に反省しております……」
逆にフェグルスが説教を受ける羽目になった。
***
同じく四月一五日。
その日の仕事も終わり、清掃員用の休憩室で一息ついたフェグルスは、掃除用具を片付けようと、ベコベコに凹んだ古い縦長のロッカーを開ける。
その時、
「おう?」
ヒラリヒラリと、ロッカーのドアに挟んであったらしき一枚のメモ用紙が、フェグルスの足元に落ちてきた。
とりあえずそれを拾い、「なんだこれ」と紙の裏側を見た瞬間……フェグルスの時間が止まる。
文字が書かれていた。
『いつもお掃除、ありがとうございます』―――なんて。
「……あはは」
誰が書いてくれたのかは分からなかったが、思わず笑っていた。腹の底から自然と湧き上がってきたような笑い声だった。
そして思う。
――――なんだ。
――――思ったより自分は、人間の世界で、そこそこ上手くやれているらしい。
***
呆気ないほど高速に、時はただただ過ぎ去っていく。
空から少女が降って来るという大事件から、気付けばもう六日が経っていた。
いい加減、そろそろいつも通りの平穏が戻ってきたかと思いきや……しかしそういうわけにもいかないらしく。
この世界は誰の事情もお構いなしに、落ち着く事を知らない獣のような勢いで、今日も今日とて荒々しく動き続けている。
街を覆う活気。
街を埋める人の波。
魔導都市を丸ごと揺さ振るような声の洪水。
今日は四月一六日。
待ちに待った『魔法祭』、その前日だった。
祭りは明日だというのに、大通りの活気はすでに前年の二割増しぐらいに膨れ上がっていた。
地上はもう人の頭しか視界に映らない。空中を移動できる魔法使いたちが行き交う空中道路も、いつもは比較的空いているはずなのに今日は珍しく渋滞。もはや数メートル前進するだけでも一苦労な有様。
前日でさえこのザマなら当日はどんな騒ぎになるのやら……。
そんな恐ろしい想像をしていると、
「やあ」
「おう」
思いがけないところで、意外な人物と出会った。
大通りのど真ん中に、巨大なステージが設置されていた。
されていた、というか、現在されている真っ最中。聖プリエステラ魔法学園の制服を着た生徒たちが、魔法を駆使しながら部品を運んだり組み立てたり、舞台を作っているところだった。
そこで、
「仕事の帰りか? 日々の清掃、感謝する。貴殿のおかげで我が校は清潔に保たれている」
「いやいや、こっちこそ感謝だ。セートカイチョーが色々やってくれたおかげで、俺もメチャクチャ掃除しやすくなった。助かったよ」
セートカイチョーのツクモが、ステージ作成の生徒たちに指揮をしていた所に出くわしたのだ。
最初に見つけたのはフェグルスの方だったが、大声で生徒たちに指示を出してるツクモを見て、忙しそうだなと思い、気を遣って声をかけるのをやめたのだ。
が、まさか彼女の方から声をかけてくるとは。
「貴殿も祭りの下見か? 楽しみなのは分かるが、くれぐれも用心してくれ。こういう時にスリや引ったくりが出る」
「大丈夫、盗られるもんは身につけてねえから。……そっちこそ大丈夫か? メチャクチャ大変そうだけど」
「ああ、問題はない。一番大変な段階はもう終わっている。後は総仕上げだ」
ふーん、と生返事。具体的に何が総仕上げなのかは分からないが、見た感じ、確かにステージはほぼ完成している。残りは細かい所の取り付け作業だけ、という意味なのだろう。
「でっけぇステージだな。アイドルでも踊るのかよ」
「それも演目に含まれているようだぞ。二日目の一〇時だな」
適当に言ったら正解してしまった。
なるほど。これはそういう事をするステージか。
「……貴殿、さてはアイドルに興味があるのか? 意外だな」
「意外ってなんだ意外って。……別に興味ねえよ、何に使うステージなのかなって思っただけで。―――てかセートカイチョー、まさか『魔法祭』全部のプログラム覚えてんの?」
「当然だ、何かあってからでは遅いからな。『魔法祭』の内容、ステージ演目、各エリアの露店、イベント、隅から隅まで全て把握している。『執行部隊』としてすぐに対処できるようにな」
「すご……」
一度は『執行部隊』に勧誘された身だが、ツクモの話を聞くと、断っておいて正解だったとフェグルスは思う。『力』の使い方云々の前に、ここまで徹底した仕事は自分には無理だ。絶対に途中で嫌になって辞めたくなっていた。
「てかなんで学生がステージ作ってんだ? 普通業者とかじゃねえの?」
「ちょっとしたトラブルがあったらしくてな、業者の方がステージの組み立てに着手できなくなったのだ。明日は私たちもステージを使う。その準備も兼ねて、我々が代わりに請け負う事になった」
「あー、そういや出し物するって言ってたっけ」
「そうだ。学生全体で演劇を……ぁ」
「ん?」
唐突に、ツクモは固く口を閉ざした。
「…………」
何なんだ突然。
ツクモの顔をじっと覗き込みながら、フェグルスは、
「……劇やるんだ?」
「うむ。まあ、そうだな。……うむ」
やるのかやらないのか、ハッキリ答えずに口をモゴモゴさせるセートカイチョーのツクモ。
いつもの彼女からは想像もつかない歯切れの悪さに、フェグルスも「なんだ?」と訝しみつつ、
「劇かぁ。……観に行ってもいい?」
「ぐっ。……うむ……。そこは……貴殿の自由だ、私にそれを縛る権利はない。自由に……観に来てくれ」
心の底から来て欲しくなさそうに、口をひん曲げ眉間にシワを寄せ、しかし己の律義さには抗えなかったのか、あくまで自由だとツクモは言ってのける。
それ見て、「はっはーん」とフェグルスは理解する。
さてはこの少女、自分の演技を見られるのが恥ずかしいのだな?
「恥ずかしがる事ないじゃんか。いいじゃん劇、好きだぞ俺」
「う、うむ……」
「まあ演技は向き不向きあるし、言い方悪いかもしんないけど、プロじゃねえんだからさ。気軽にやっていいじゃん。セートカイチョーは何役? てか何の劇?」
「アーサー王伝説を基に、演劇部の学生たちが作ったオリジナルの劇、らしい……」
「アーサー王伝説ってあれか、聖剣出て来るやつ。エクスカリバーの」
絵本だったか漫画だったか覚えていないが、フェグルスも何かのタイミングで見た事があった。確か選ばれた者しか抜けない剣を抜いた、勇者みたいな奴の英雄譚だった気がする。
肝心のアーサー王が男だったり女だったりと揺らぎがあるようだが、おそらく『諸説あり』という事なのだろう。
「聖剣持ってあれこれする感じの劇? じゃあセートカイチョーが主役か。ピッタリじゃねえか」
「私は登場人物全員を絶望に陥れる狂気の魔女役だ」
「…………」
……こんなに気まずい事があるだろうか。
今度はフェグルスが口を閉ざし、心の奥で後悔を噛み締める。
なんでこういう時に限って察しが悪いんだ自分は。聖剣だとか英雄だとかのイメージが先走って、普通にツクモが主人公役だと思い込んで物を言ってしまった。
なるほど。見られたくなかったのは演技というより、役そのものか。
「……すまん」
「いい。もう決まった配役だ、今さらどうこう言うつもりはない。ただその……」
悩ましく、唸るような声で、
「当然何度も演技練習を重ねたのだが、この役がなんというか……自分でも恐怖を覚えるほどにハマリ役でな。演劇部からの評価も高かった。私もこの役に不満があるというわけではない」
「……? じゃあいいじゃん。むしろ観たくなってきたんだけど」
「そう、なの、だが……」
ツクモは重そうに口を開き、
「……なるだけ貴殿には、観られたくないというか」
「なんで俺だけ」
「む……。うむ……」
腕を組んで、顔をしかめ、なんだか苦悩する梅干しみたいな表情になって「うむぅ……」と唸る。
他人からの評価も高く、彼女自身にも不満はなく、一体何が問題なのだろう。
「でも魔女役かー」
「む?」
「聖剣とか出て来る話なら絶対主役はあんただろ。どう考えても」
「……レイピアと聖剣は違うぞ?」
「そういう事じゃ……まあそれもあるけど」
普段からそれっぽいものを持ち歩いているから、という理由も大体当たっているのだが、
「でも聖剣持って戦う役っつったら、まあセートカイチョーが一番だろ。騎士って感じじゃん、いつもしっかりしてるし、礼儀正しいし、正義感あるし、ドートク? もあるし。……あと俺を助けてくれたし」
凛とした立ち姿も、自分みたいな社会の底辺にも見せてくれた律義さも、己の役割を全うしようとするその真摯さも―――フェグルスの目には、全てが気高く映っていた。これほど『主人公』という言葉が似合う人間を、彼は他に知らない。
「俺ん中じゃやっぱ……」
彼女と出会ったのは四日前だが、それでも今日の事のように思い出せる。水を浴びせられて憂鬱に浸っているフェグルスの許へ、すぐに駆け付けて味方をしてくれた彼女の姿は、本当に英雄のようだった。
「あんたが主役だけどなー」
だから、素直な感想を言っただけだ、フェグルスとしては。
舞台の上に立ち、聖剣を片手に天を仰ぐ姿なら、彼女以上に様になる奴などそうそういるまい。そう思ったから、言葉にしただけだ。
それが一体、どんな風に琴線に触れたのだろう。
ツクモは、
「んはははははははははははははははははははははは!」
「ぇ……」
突然、馬鹿デカい声で大笑いを始めた。
いっそ腹を抱えるみたいに体を曲げて、彼女は心底可笑しそうに、
「あはははははは! まったくもう! 何なのだ貴殿は!」
「おう!?」
バン! と、かなり強く背中を叩かれ、フェグルスはよろめく。
理由がまるで分からない彼女の豹変ぶりに、フェグルスは何が何だか全く理解が追い付かない。
「随分と人をいい気にさせるじゃないか! 何が目的だ? ん?」
「いやいやいや、普通に思っただけで。そんな目的も何も……」
「そうか? あはははは!」
……本当に何なんだ。
「ふふ、貴殿にはよく笑わせられる。だが……うむ、今ので少し自信が付いた。ありがとう、感謝する」
「お、おう……」
理由も分からないまま感謝されてしまった。
お礼を言われるような事は何一つしていないのに。
今まで堅物のイメージが強かったツクモだが、こうして接してみると案外、やる事も言う事もかなり突拍子がなく、むしろ変わり者の印象。意外な一面を見た気がした。
「フェグルス」
完成しつつあるステージを見上げながら、ツクモは、
「もし暇なら……暇ならでいいのだ。我々の劇は明日の一四時からの予定だ。観に来ないか?」
「え。……あんま来て欲しくなさそうだったけど」
「忘れてくれ、その時は自信が無かった。今なら最高の魔女を演じられるような気がする」
なんだその変な自信は、とフェグルスは苦笑するが、意外にも少女の顔は真剣だった。
頬を緩ませながらも、真剣だった。
そんな顔で頼まれたら、断れるわけがなかった。
はなから断る気は無かったが。
「……おう、観に行くよ。『魔法祭』は友達と一緒に回る予定だから、そん時に」
「ああ、心待ちにしている。最高のショーをお見せしよう。私の魔女っぷりに腰を抜かすなよ?」
あの真面目なセートカイチョーにしては珍しくユーモアたっぷり、両手の指で両目尻を釣り上げて悪い顔を作ってみせる。フェグルスも「こわ」とおどけてみせて―――「魔女って事は主人公と戦ったりするの?」「あぁ。最後は断末魔を上げて爆散する」「大ネタバレじゃねえか」―――そんな風にしばらくあれこれ話して、
「明日、楽しみにしてるから。じゃあまたな」
「うむ。また明日」
そう言い合って、二人は手を上げて、明日の約束を交わす。
他人との関わりを持とうとしないフェグルスにしては、珍しい約束だった。
誰かと会う約束なんて―――今までシルフィとしかした事がなかった。彼女との約束だって、相手側からほとんど一方的に結んで来たようなものだ。
こうして二人で何気なく、自然な形で互いに結ぶ約束は、多分、今日が初めてかもしれなかった。
ツクモと別れ、帰路につく。大通りを抜け、都市の繁華街をそのまま真っすぐ突っ切って、街の外れまで。
大通りから離れるほど人通りは少なくなり、辺りは静寂に包まれ始める。
フェグルスの住む借家も、そんな街外れの一角にある。
グローバル化が進み過ぎて、もはや『国』なんて概念も薄れ始めたこの現代。魔導都市の中心街では国際色豊かな色も形もとりどりの民家が建ち並んでいるが、フェグルスが歩く現在地は、まさに『古き良きニホン』と言った景観。
一体いつの時代だと思うような街灯に、ヒビの入ったブロック塀。中心街の方では決して見ないような側溝まで残っており……ここだけ過去にタイムスリップした気分に襲われる。
古びた街並みだったが、フェグルスはここの雰囲気がとても好きだった。
自分の足音だけが響く寂しい道。
朝には鳥の鳴き声がハッキリ聞こえる閑静な街外れ。
そんな道を、いつものように、のんびりゆっくり歩きながら、ふと。
「……なんだかな……」
ツクモとのやり取りを振り返りながらフェグルスは、「どんどん自分が自分じゃなくなっていくみたいだ」と思っていた。
あんなの全然自分らしくない。
そもそも以前までの自分なら、祭りの日に街へ出かけようなんて考える事もしなかった。
厄介事が嫌だからと、『力』を振るうのが嫌だからと、色んな言い訳をして他人との関わりを避け、一人で生きていければいいと思っていた自分が、だんだん別人のように感じてしまう。
こんなの自分じゃない。
全くフェグルスらしくない。
だけど。
本当は、今の自分が、昔なりたかった理想の自分だったのだ。
人間の友達になりたい。人間と共に生きてみたい。人間と一緒に遊んで、一緒に楽しんで、一緒に笑いたい。……それが、幼い頃の自分の夢だったはずだ。
いつの頃からか、それは単なる夢なのだと諦めるようになった。
この世に生まれて一七年。
この街で生活を始めてからは、ちょうど一〇年。
ずっと下を向いていた。胸を張れるような生き方はしてこなかった。
けれど今……今になってようやく。
「…………」
ほとんど誰も通らない帰り道で、フェグルスは夕暮れの赤色に染まる空を、ぼんやり仰いで目を細める。
今ならもう一度、夢を見れるような気がした。
忘れかけたあの頃の夢を、もう一度胸に抱いて、明日に向かって希望を持てるような気がした。
一〇年も人間の街で過ごしてようやく今、自分を変えられる自信が付いてきた。
変わるというより、戻るのだ。
あの頃の夢に戻るのだ。
幼い自分が夢見ていた、理想の自分に。
「……理想か」
呟く。
「……頑張ってみるか、もうちょい」
誰に対して、というわけでもない。ただ自然な気持ちで、誰に聞かせるでもなくフェグルスはそう言った。
変われるかどうか、戻れるかどうかは分からない。
未だに恐怖はある。自分の近くにいる誰かが、何かの拍子に死んでしまうんじゃないかという『喪失』への恐怖は、今なおフェグルスの心を掴んで離さない。
それでも、頑張ってみてもいいじゃないか。
その恐怖を乗り越えてみようと、努力してみてもいいじゃないか。
そう思えた。
まずは最初の一歩だった。それを踏み出さなければ始まらない。フェグルスにとっての最初の一歩は『魔法祭』だ。陽菜と共に祭りを楽しみ、ツクモの魔女役を見るところから始めよう。
なら今日は、明日に備えて早めに寝なければ。
珍しく未来に向けて前向きに、楽しい想像を頭の中で思い描きながら、再び足を動かし、歩き出す。
と、その時だ。
まるで地面に縫い止められたみたいに、フェグルスの足がピタリと止まる。
突然だった。
唐突だった。
まともな反応を取ることすら許さない突発性をもってして、『それ』は起きた。
爆発があった。
凄まじい轟音に、地面が縦に揺さ振られた。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
時間が止まる。そう錯覚した。
そう錯覚する事さえ、一拍遅れていた。
大地が揺れる。空気が震える。フェグルスの体内にまでビリビリとした振動が伝わっていた。
しかし彼の体を大きく揺さぶったその爆音は、近くで発生したものではない。むしろ遥か遠方で炸裂したものだった。
ゆっくりと、後ろを振り向く。
爆音が飛んで来たのは、後方から。
より正確には、ついさっき通り過ぎたばかりの街の大通りからだった。
「……は?」
そして、彼は見た。
信じられないものを見た。
その異様な光景は、やはり大通りで巻き起こっていた。
『何か』が宙を舞っていた。
夕暮れ時の上空に、無数の『何か』が散りばめられていた。
見方によれば、それは薄く闇がかった夜空に煌めく星々に見えたかもしれない。
しかし今は完璧な夜ではなかった。地平線から顔を覗かせる夕日が、空に舞い散った『何か』の正体をぼんやりと照らしている。
「…………」
遥か上空に舞い上がるそれらは、星々などではなかった。
フェグルスはその光景を見て、しばしの間、思考が空白に染まる。
そして、今も宙を舞っている『何か』の正体を知った。
先程まで大通りを埋め尽くしていたもの。
大量の建築物と、自動車と、イルミネーションと、アスファルトの。
残骸。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?」