オープニング1『とても平穏な逃走劇』
たとえばここに、朝っぱらから大都市を走り回っている少年がいたとする。彼はなぜ走り回っているのだろう。
マラソン?
ランニング?
遅刻した待ち合わせに急いでいる?
正解は――――――
「うォォォォォォォォォォォォォォォああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
腹の底から絶叫しながら、白髪の少年は、高層ビルが立ち並ぶ街を全力で逃げ回っていた。
気分はもちろん最悪だ。
買ったばかりの服はすでにボロボロだし。顔も体も砂埃まみれだし。靴の片方はいつの間にか消えてるし。ついでに財布もどこかに落としたし。
そもそも今、アルバイトの真っ最中だったのに。
「無理無理無理無理無理無理!! 無理!! 無理だって!!」
少年は一瞬だけ背後を見て、すぐ正面に向き直す。
直線勝負じゃダメだと思ったのか、少年はたまたま目についた十字路を、転びそうになりながらも左へ曲がる。
直後だった。
ズドァッ!!!!!! という凄まじい轟音が、少年のすぐ背後で炸裂した。
いくつもの建築物が一気に吹き飛んだ。
頑丈に造られたはずの鉄筋コンクリートの塊が、瓦礫と破片になって宙を舞う。粉々になった鉄骨が、木端微塵になったコンクリートが、豪雨のように街中に降り注ぎ、周囲の建物や道路へ突き刺さり、広範囲に破壊を撒き散らしていく。
それでも『追跡者』は止まらなかった。
邪魔な建物を体当たりだけで消し飛ばした『追跡者』は、そのままアスファルトを抉り返しながら少年の背中を追い続ける。
逃げる少年の背後から、迫る。
ソレが迫る。
『ゴォォォォォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!』
都市全体を揺さ振るような大絶叫。
人間の声ではない。かと言って動物の声でもない。
建物を薙ぎ払いながら現れたのは、『全長七メートルの化物』だった。
魔獣―――そう呼ばれる化物が、少年のすぐ背後に迫り来る。
二本の足で地面を踏み、その上に胴・腕・首・頭の順に並ぶ、人間と同じパーツで構成された全体像。
にも拘らず、その姿は人間とは似ても似つかない。
見上げるような体躯は、全身が縄のように盛り上がった筋肉に包まれていた。さらにはドス黒い体毛、人間の腕一本分はある鉤爪。極めつけに、頭部は人間のものではなくヤギのそれ。
まさに絵本に出て来る『悪魔』そのもの。
そんな化物が、少年一人に襲い掛かっているのだった。
「どうしろって!? こんなん!! 魔法も使えねえ俺に!!」
どうしようもないから、逃げるしかなかったのだ。
しかし逃げたところで事態が良くなるわけではない。すばしっこく逃げ回っていたって、この体格差ではいつか必ず追い付かれる。
ついでに、逃げれば逃げるだけ街に被害が広がっていくというこの状況―――
「最悪だ!!」
よりにもよって、魔獣が出ようものなら即座に飛んで来るはずの魔獣討伐組織『執行部隊』が、今日に限って出動が遅い。
泣きたくなるような不運と不幸の連続だが、嘆いてばかりもいられない。
これ以上被害を広げないためには、今ここで、自分がこの魔獣をどうにかするしかないのだ。
けど、具体的にはどうやって?
周囲の人に助けを求める?
―――魔獣が規格外過ぎて、皆とっくに逃げてしまっている。
あまり人のいない狭い路地裏とかに逃げ込んでみるとか?
―――強固な建築物を簡単に薙ぎ払える化物相手じゃ無意味だ。
いっそ対話でも試みるのはどうだろう?
―――それこそ無理だ。魔獣と意思疎通が不可能なのは、ここ数十年の研究で分かっている。
じゃあどうする。
「くそ……っ」
ちらり、と。
一瞬、少年は己の掌に視線を向け、しかしすぐに目を逸らすと、再び逃げる事だけに集中する。
―――自分に宿る『力』を振るえば、最悪、もっと被害が広がりかねない。
一度でも振るってしまったら最後、この『力』は自分でも制御が利かなくなるのだ。また『力』に呑み込まれる。目に映る全てを壊してしまう。だからダメだ。この『力』を使うのは。
……だが、このまま逃げ続けても被害が広がる事には変わりがない。
何より今、街の住人達は一斉に避難しており、周りには人がいない。
今なら『力』を使っても、誰かを巻き込む心配がない。
やるなら、今しかない。
「クソ!!」
少年は叫び、足を止めて背後を振り向いた。
素直に殺されるためではない。
迫って来る魔獣を、真正面から迎え撃つために。
『ゴォォォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!』
雄叫びと共に、ドンッ!! という轟音が炸裂する。立ち止まった少年を見て、魔獣が凄まじい勢いで地面を蹴ったのだ。
この体格差、質量差……どう見ても白髪の少年に勝ち目は無い。これほどの巨体が相手では、単純に突進されただけで即死してしまう。
でも、少年は逃げなかった。
少年は右手を握り締める。押し寄せる恐怖に拳が震える。魔獣に対する恐怖じゃない。自分自身の『力』に対する恐怖だった。
しかし怖がってはいられない。
もう、『力』を振るうと決めてしまったのだ。
圧倒的な巨体を前にして、だんっ!! と少年は大きく一歩を踏み出した。
身長一七〇センチ程度の少年と、全長七メートルを超える怪物が。
真正面から――――――――――――
激突。
「何してんスかー? 先輩」
その時、相手を小馬鹿にするような声が、どこからともなく響いて来た。
次の瞬間だった。
ズドッッッ!!!!!! と。
赤黒い『閃光』が、魔獣の上半身を背中側から吹き飛ばした。
まるでレーザービームのような一撃。稲妻のような速度で魔獣の肉体を消し飛ばしたその『閃光』は、空間に強い残像を焼き付けながら、そのまま数百メートルも空気を引き裂いた。
直後、莫大な衝撃波が撒き散らされ、辺り一帯の全てが巻き上げられた。
粉々になったアスファルトはもちろん、建物の瓦礫も、まだ道路に立っていた標識も、乗り捨てられた車も、何もかもが平等に。
そして、当然―――
「ぅ、お」
―――『閃光』のすぐ間近にいた少年も、例外ではなかった。
「お、あ、あ、あぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
ぶあっ、と体が浮いた時には全てが遅かった。爆風に持ち上げられた少年の体は、あっという間に数十メートルもぶっ飛ばされてしまった。
……で、浮いた体は最後まで立て直しが利かなかった。
足から着地できなかった少年は、顔面から地面に突っ込んで行く羽目になった。
「ぶぼァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
ざりざりざりざりぃぃいいいいいいい!! と、顔面が擦り削られる音が響く。
……もう、あまりの激痛にのたうち回るしかなかった。
「いっっっ……づぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああクソァァああああああああ!! なんっ……何なんだクソ!! ああああああぁぁ、いってぇぇぇぇ……!!」
何なんだとか言いつつも、本当は、何が起きたのかをなんとなく察していた。
あの赤黒い『閃光』……完全に見覚えがあったのだ。
少年は顔面を押さえながら、恐る恐る立ち上がる。
下半身だけになった魔獣がドズンッ!! と地面に倒れる。
しかし少年は、初めから魔獣など見ていなかった。
彼の視線は、魔獣のさらに先。
魔獣の背後に立っていた、一人の『少女』に向けられていた。
「いやいやー! 緊急事態とは言えチョー雑なお片付けになっちゃって遺憾極まりないッス! 甘口に付けて六〇点ぐらいスかね!」
言いながら、その『少女』は自分が殺した魔獣の死骸にヒョイっと飛び乗ると、少年を物理的に見下し、ツーン! と死体の上でふんぞり返る。
相手を挑発するような目つき。
憎たらしく上がった口角。
美しいと認めざるを得ないほど全体的に整った顔立ち。
赤みがかった髪にネコ耳カチューシャを付けた『少女』は、今日も変わらず太々しい態度。そこそこ質量のある胸を強調するみたいに腕を組む。
そして。
ここらでは有名な『魔法学園』の制服を着た、その少女は―――
「どう思いまスー? フェグルスせーんぱいっ!」
上から目線の笑みを浮かべながら、少年の名を呼んだ。
時は二〇五三年。
世界中に『魔法教育』が行き渡り、全人類が魔法を使えるようになった時代。
それと同時に、魔獣と呼ばれる化物が現れ、人類に牙を剥くようになった時代。
これはそんな魔法時代の、どこにでもある、平穏な日常のお話。