第二章01『思い出せない記憶』
今でもたまに思い出す事がある。
昔の記憶だ。
まだ人間の街に来る前の、森の中で『姉』と過ごしていた、あの頃の記憶。
***
「いい? フェルー。人間と会った時はね―――」
思えば、人間としての振る舞い方を教えてくれたのは彼女だった。
喋り方、挨拶、仕草。何を食べて何を話し、どこに住んで誰と暮らすのか。
……憶測でしかないけれど、あの頃から彼女は戦っていたんじゃないかと思う。
フェグルスを、人間の『ともだち』にするために。
「人間の街に出たらさ、思い切っていーっぱい、すっごく美味しいもの食べちゃおう! もう食べきれないってぐらい、いっぱい!」
希望を持たせようとしていたのかもしれない。夢を見せようとしていたのかもしれない。
あるいは。
希望を持ちたかったのも、夢を見たかったのも、彼女自身だったのか。
「フェルーは人間とお友達になったら何したい? なんでもいいんだよ? 一緒に遊んだり、一緒にご飯を食べたり、一緒にお勉強したり。本当になんでもいいの、なんでもできちゃうんだから」
幼いフェグルスにとって、彼女の言葉が全てだった。
人間たちが住む世界は希望に満ちていて明るくて、こんな薄暗い森の奥深くとはまるで違う、いつも太陽の光で照らされた夢のような場所なのだと、そう教えてくれたのは彼女だった。
その言葉を信じたかった、というより。
その言葉以外、信じられるものが彼にはなかった。
「大丈夫、大丈夫だよ。フェルーはぜったいに、人間の友達になれる。だからね、心配なんてしなくてもいいの。お姉ちゃんがなんとかする」
多分彼女は今までずっと、幼いフェグルスが不安にならないように、上手に嘘をつき続けてくれていた。
大丈夫、お姉ちゃんにまかせて、私がなんとかしてみせる。……そう信じさせてくれていた。
だけど。
「大丈夫だよ。フェルーは今よりもっともっと、もーっと幸せになれるの」
幼い頃は信じた嘘も、幼い頃には気付かなかった真実も、いつかはどこかで気付く時が来る。
魔獣フェグルス、この世に生を受けて十七年。ようやく現実が見えてきた。
見えてきたからこそ分かる。
あの時、あの頃、たった一人の姉が必死になって、自分に何を教えようとしてくれていたのか。どう生きて欲しかったのか。
己の全てを犠牲にしてまで、フェグルスに、どうなって欲しかったのか。
***
「……まただ……」
懐かしい記憶を思い出し、フェグルスは自宅の鏡の前で、寝起き直後のシケた面を眺めながらそんな風に呟いた。
なかなか直らない寝癖に苛立ちながら、曇る鏡を乱暴に手の平で拭う。
そこに映るのは、相変わらずの不幸顔と目つきの悪さで鏡を睨む己の顔面。
「はぁ……」
オンボロ借家の一室で寝て起きて、満足に家賃も払えないほど貧乏で、魔獣である事を隠し人間と偽って生きている。
友達はできた……ような気はするが、どうだろう。
目が合ったら喧嘩を吹っ掛けて来る世界最強。すぐ全裸になりたがる変態野郎。拷問道具に愛を注ぐ変態医師。どれも友とは呼びにくいが。
でも、セートカイチョーのツクモと、可愛い陽菜がいるし。
「それだけでも十分過ぎるか」
十分というか、多いくらいだ。本当だったら友達など、一人も作るつもりがなかったのだから。
身なりを整え、必要最小限の道具をポケットに入れて部屋を出る。
今日も相変わらずのいい天気。
太陽を見上げ、青い空を眺め、春の心地良い風に前髪を躍らせて。
ふと。
「……大丈夫……」
彼女の言葉を思い返しながら、今になってようやく気付く。
あの頃、自分に向けて語ってくれたあらゆる言葉の中で、幸せになるのはいつもフェグルスだった。
人間と友達になるのも、美味しいものをいっぱい食べるのも、楽しい未来が待っているのも、大丈夫なのも、全てフェグルスだけだった。
彼女の言葉には一度たりとも。
彼女自身が幸せになる未来は、語られていなかった。
今でもたまに思い出す事がある。
昔の記憶だ。
まだ人間の街に来る前の、森の中で『姉』と過ごしていた、あの頃の記憶。
けれど、まだ思い出せていない事もたくさんある。
それを思い出さなければ、この物語は始まらない。