第一章14『もうすぐ祭りがやって来る』
『大丈夫。フェルーは何も心配なんていらないんだから』
『そうよ、大丈夫なの。大丈夫』
『もし何かあっても、お姉ちゃんがぜーんぶ何とかしてあげる』
『だからねフェルー、あなたは何も心配しなくていいの』
『大丈夫だよ。お姉ちゃんが何とかする』
『お姉ちゃんが絶対に、フェルーのお願い、叶えてみせるから』
『お姉ちゃんはすごーく強いんだから。何でもできちゃうのよ』
『だからね、フェルー。あなたは何も心配しなくていいんだよ』
『大丈夫だよ。フェルーのお願いは、ちゃんと叶うから』
『ありがとうフェルー。約束、絶対に守るからね』
ずっと理由が欲しかった。
どうしてあの日、『彼女』は死ななきゃいけなかったんだ?
どうしてあの日、『彼女』があんな目に遭わなきゃいけなかったんだ?
どうしてあの日、『彼女』は自分に謝らなければいけなかったんだ?
どうしてあの日、『彼女』は泣かなければいけなかったんだ?
……誰かを責め立てるような疑問は、常にフェグルスの心を蝕んでいた。
とにかく納得できる理由が欲しかったのだ。
どんな悲劇にもきっと何かの理由があって、そうならざるを得なかったプロセスがきっちりあって、だからあんな事が起きたのだと―――誰もが納得できるような理由が、絶対あるのだと思いたかった。
だって、そうじゃないなら……『彼女』は理由もなく死んだって言うのか。
大した理由も、大きな原因もなく、言ってしまえばただの不運や不幸の連続で―――そんな下らないもののせいで『彼女』は死んだのか?
そんな馬鹿な話、あるわけがない。そんな理不尽は信じられない。
きっとどこかに理由や原因があるはずだ。納得できる理由が。そうならざるを得なかった原因が。
そう思い込まなければ、自分の感情を制御できない。
理不尽への怒りが、唯一の家族を失ってしまった喪失感が、独りぼっちの寂しさが、燃え滾るような絶望が、純粋な悲しみが、何もできなかった無力感が。
感情が、ちょっと気を許せば暴れてしまいたくなるくらい溢れてしまって、もう自分一人では抱えきれなくなってしまった。
だから欲するのだ。分かりやすい理由を。明確な原因を。
厳密には―――この感情の矛先を。
理由があるなら、その理由を恨みたかった。
原因があるなら、その原因を憎みたかった。
恨める何かが、憎める何かが、その標的になり得る何かが欲しかった。
簡潔に言えば……フェグルスは『敵』が欲しかった。
自分の全てを奪った憎き敵が欲しかった。このどうしようもない感情の波を、罪悪感なくぶつけてしまえる分かりやすい悪役が欲しかった。
『あの子たちにあるのは本能だけだよ。「壊す」とか「殺す」とか、そういう本能に従って動いているだけさ。そういう意味ではロボットに近いかも。プログラムで動いてる感じ。フェグルスくんには無いのかい? そういう破壊衝動みたいなの』
『ない。……と、思う、多分。とりあえず、あんな大暴れしたくなる事はそんなにねえよ』
あんなのほとんど嘘だ。自分は他の魔獣とは違うんだと、本能だけの獣とは違うのだと、そう思い込みたかっただけの醜い優越感だ。
実際は、敵意と悪意で頭も心もいっぱいだ。
本当は恨みたくて仕方がない。本当は憎みたくて仕方がない。自分から大事なものを奪った『明確な敵』を、この手で直接粉々に叩き割って、押し潰して、バラバラに引き裂きたくて仕方がないのだ。
そうしなければ、押し潰されてしまう。
『彼女』を失った悲しみに、一人になってしまった現実に、潰されてしまう。
潰されないためには足掻くしかないが、フェグルスには『力』を振るう以外の足掻き方が分からない。だから敵が―――『力』をぶつけられる相手が欲しかった。
ソイツさえ叩きのめしていれば、心が和らぐような気がしたから。
けれど同時に、頭の片隅では理解していた。
多分そこに『納得できる理由』なんてない。己の感情をぶつけられる『明確な敵』なんていない。この世界はそんなに単純じゃない。あらゆるものが複雑に入り組んでいて、数え切れないほどの理由と原因が歯車みたいに連動していて、『一つの標的』なんて決められるようなものじゃないのだ。
人間の生活を続けて、もう一〇年。
フェグルスだって、それくらいの事には気付き始めていた。
おそらく『明確な敵』を無理やり見つけようと思えば、一人二人じゃ済まない。芋づる式にズルズル色んなものが見えてきて、いずれこの世界の全てが憎くなり、全てを壊し尽くさなければ気が済まなくなる。そういう確信がある。
だって自分は、魔獣だ。
敵意と悪意の獣だ。
暴力を振るう理由を見つけてしまったら、今度こそ自分は、自分を抑え切れなくなる。
全てを壊してしまう。全てを殺してしまう。
でもそれはできない。
壊したくないものに、殺したくない人たちに、もう出会ってしまった。
「フェグルスさん!」
「おっ……」
思ったよりもずっと近くから、自分の名を呼ぶ声がした。
考え事をして、ボーっとしていた。
気付けば陽菜がすぐ目の前に立って、こちらの顔をじっと覗き込んで、
「大丈夫ですか!? なんだか思いつめたような顔をしていたので!」
「……おう、大丈夫。ちょっと考え事してて」
陽菜の眩しい瞳から、視線を逸らす。彼女の目は、自分には眩し過ぎる。
その反応に何かを誤解した陽菜は、少し眉を下げながら、
「ごめんなさい、フェグルスさんを悩ませるつもりではなかったのです。恩返しの件、無理にとは言いません。ちょっとしたお誘いみたいなもので」
「や、違うんだ! 本当にそれだけは違う。迷惑だとかそういうんじゃない。嬉しいんだ、むしろ。……ただ」
「はい」
「……少し……まだ怖くて」
『俺はべつに、無敵のヒーローとかじゃないし、そんな大した奴でもない。誰かを救ったり、助けたりとか、幸せになったりとか……ごめん先生、まだ無理だ。……まだ怖い』
シルフィにも言ったセリフが、今さらリプレイのように脳裏を過る。
あの時フェグルスが「怖い」と言ったのは、本当は、自分の『力』が誰かを傷付けてしまう可能性に対してだけじゃない。
誰かが自分のために、何かをしようとする事も恐怖だった。
だって。
自分のために何かをしようとした人は、死んでしまうかもしれないから。
……それが、フェグルスの求め続けた理由だった。
『彼女』が死んでしまった理由。『彼女』があんな目に遭わなければいけなかった理由。明確な理由。明確な敵。そんなもの、探しても見つからない事は分かっていた。
だけど、そう思いたくなかった。
血だまりに沈んだ『彼女』の死体が、ただの不運や不幸の産物だなんて思いたくなくて、だから必死に理由を探した。
考えて考えて、そして得られた結論はこうだった。
――――自分のために何かをしようとしたから、『彼女』は死んだんだ。
強引過ぎる答えかもしれない。でも、それでよかった。強引だろうが無理やりだろうが、理由を見つけさえすれば満足だった。
その理由を恨んでいれば、心が安定する。
その理由を憎んでいれば、感情が落ち着く。
恨むべき敵は、憎むべき敵は、他でもなく自分自身だった。
そう思った日から怖くなった。自分のせいで人が死ぬのだと思った。
因果の有無など関係ない。とにかく誰かが自分を見て、自分を思い、自分のために何かをしようとしただけで、あらゆる条件を無視してその誰かが死んでしまうんじゃないかと本気で信じてしまった。
だから、受け取るのが怖い。
誰かが差し出してくれたものを、受け取った瞬間に、その『呪い』が始まってしまうんじゃないかと思えて。
「フェグルスさん?」
「…………」
ずっとずっと怖かった。「今こうして目の前にいる奴が、死んでしまったらどうしよう」という想像こそが、恐怖の根源だった。
失いたくないから。
次に何かを失ったら、今度こそ心が抑えられない。
『僕は君に救われたんだよ?』
『ヒナは、フェグルスさんに救われました』
分からない。自分は本当に、彼女たちを救ったのだろうか。
いや、この際事実はどうでもいい。
問題は、彼女たち本人が、「自分はフェグルスに救われたんだ」と信じ込んでいる事だ。
そして、そう信じているからこそ、
『ヒナはフェグルスさんに、「あの時」の恩返しがしたいのですよ』
恩返しをしようとしている奴まで、現れてしまった。
恩返しがしたいという陽菜の気持ちは嬉しかった。そこに偽りはない。自分が誰かの助けになっていると思うと、素直に喜ばしかった。
でも、恩返しはしちゃダメだ。それをしたらダメなんだ。
自分のために、何かをしようとしたら最後―――
『今までありがとう。さよなら、フェグルス』
「……俺が、恩返しを受け取ったら」
言葉にすればするほど、
「なんか……悪い事が起こる気がして」
「そんな事ありません! フェグルスさんはそれを受け取るだけの事をしてくれました!」
「違う。俺にじゃない」
どんどん、『呪い』が強まるような気がした。
「お前に。……お前らに」
自分の『力』が嫌いな理由を、フェグルスはこの時、真の意味で理解したと思った。
「お前らを、今度は俺が……不幸にする気がして」
かつてフェグルスは、多くの人間を殺した事がある。
一〇年前のあの日。魔獣の殲滅を目的に結成された軍隊を、フェグルスはたった一人で、『相手の命を奪う』という形で壊滅させ、その戦争に終止符を打った。
その時に思い知った。自分の『力』は、こんなにも簡単に命を壊せるのだと。
だから恐れた。恐れて、今後一生使わない事を心に誓った。
でも、それだけじゃなかった。
『フェグルスくんの「力」は、もっとずっと色んな人の役に立てる』
『その「力」があれば、色んな人を救えるんだよ?』
シルフィの言葉は、ある意味で真実なのだろう。暴力だって使い方次第だ。この『力』も正しく使えば、多くの命を救えるかもしれない。
それも怖いんだ。
この『力』を使ったせいで、誰かを救ってしまうのも怖いのだ。
誰かを救ってしまったら、その誰かは、自分のために何かをしてしまうんじゃないかと思って。
何かをしようとした人たちまで、殺してしまうような気がして。
「フェグルスさん」
突然、正面から両手を掴まれた。
力は思いの外強かった。その小さい手のどこにこんな力が収まっているか、そう思うほどきつく、陽菜はフェグルスの両手を握り締めると、
「ヒナはここにいます」
言う。
「フェグルスさんのおかげで、ヒナはここにいます。それだけは確かです」
強い口調じゃない。元気な声音でもない。
でも、これまでのどの言葉よりもよく響く声で、少女は言う。
「覚えてますか? フェグルスさん。ヒナと初めて会った日の事」
「お前と? ……初めて会ったのは―――」
「ちょうど一年前ですね。その日フェグルスさんは、傷だらけのヒナを助けてくれたんです。……まあフェグルスさんは色んな人を助けているので、もしかしたら覚えてないかもしれないですが」
「覚えてるよ、忘れられるわけねえ。この街のずっと東の、ホントに外れの方で」
「あい。路地裏で倒れてるヒナの所に、フェグルスさんは来てくれました」
それこそちょうど一年前だ。
一年前の四月。よく覚えてる。
その日フェグルスは、何かの用事があって、魔導都市の東部まで遠出をしていたのだ。今となっては何の用事だったのかは思い出せないが、その帰り……道に迷ったのだ。
割と狭い路地裏に入ってしまって、どこを曲がれば元の道に戻れるのかも分からなくなって、しかも気付けば陽が落ちて夜になってしまってて。
で、散々さまよっているうちに、
「道に誰か倒れてんなーって思って、近寄ったら陽菜だった」
「あい! あの時ヒナ、とっても嬉しかったですよ! フェグルスさんが助けに来てくれて!」
「助けに行ったわけじゃない。ただ偶然出くわしただけで」
「ヒナにとっては同じ事なのです。あの時助けてくれなかったら、ヒナは今、ここにはいませんから」
掴んだフェグルスの両手を、陽菜はブラブラと左右に揺らしながら、
「でも、ヒナだけではないのですよね。フェグルスさんはもっともっと、色んな人を助けているはずです」
「……助けたかどうかは、微妙だ」
「でも、手を差し伸べてくれました」
――――差し出された手は、掴んでもいいんだよ?
「何も掴めず、溺れて消えていくしかなかったヒナに、フェグルスさんは手を伸ばしてくれました。それだけでヒナは救われたのです」
「…………」
「あなたの手に、救われたのですよ?」
――――フェグルスくんだって色んな人を助けてるし、救ってるよ。
「あなたの手に救われた人は、他にもいるはずです」
フェグルスにとって、誰かとの出会いはいつもそうだった。
道すがらちょっと肩がぶつかって……みたいな、そういう普通の出会い方をした事はなかった。
彼と出会った人たちは、いつも助けを求めているか、倒れているか、血を流しているか、泣いているかだった。
たとえば。
一族の中でも突出して強力な魔法を手にしてしまったが故に、家族からも疎まれ、迫害され、異常者扱いされ、一人で生きるしかなくなった世界最強の魔法使いの少女に、傘を差し出したあの時。
たとえば。
空腹で行き倒れている少年に、食べ物を分け与えたあの時。
たとえば。
生まれた時から合理的な判断しかできず、そのせいで人間のもつ心や感情が理解できず、ひたすら非人道的な人体実験を繰り返して大量の屍を積み上げて来た幼い天才の少女に、人の優しさを伝えたあの時。
たとえば。
科学の発展のためだけに生産され、『不良品』というレッテルを貼られ、廃棄されそうになっていた人造人間の少女と、路地裏で出会ったあの時。
「ヒナは自分の顔、ずっと嫌いでした」
色んな人種の皮膚を繋ぎ合わせた、モザイク状に色とりどりな継ぎ接ぎだらけの自分の顔を、陽菜はそう評しながら、
「でも、今は少しだけ好きになりました。フェグルスさんに助けてもらった証のように思えて。……自分を見てくれる誰かがいたんだって、その証明に思えて」
「……ヒナ」
「まあでもいつか手術して普通の顔に戻してもらいますけどね! お金も溜まったので!」
このままひっくり返ってコケてやろうかと思った。
「おうっ……ちょ、なんだよ。少ししんみりしちゃったじゃねえか」
「やっぱり綺麗ごとばかり言っていられませんからね! この顔だってしっかり不便なのです! 初めて会った人に『うわ……』みたいな顔されるの、しっかり傷付くのですよ! それにあまりいい思い出もないので!」
陽菜はフェグルスの手を放すと、ぴょんぴょん跳ねながら距離を取って、
「でも、嫌いじゃなくなったのはほんとです。ヒナが自分を嫌いじゃなくなったのは、あの日フェグルスさんがヒナに手を伸ばして、傍にいてくれたからです。なのでその恩返しがしたいのです」
「…………」
「不幸になんてなってません。ヒナは今、幸せです。……恩返しと言うと大袈裟かもしれませんね。これは幸せのおすそ分けです。ヒナを幸せにしてくれた分、フェグルスさんにも幸せになって欲しいのです」
『あまり、自分から不幸になろうとしないでね』
いいのだろうか。自分が幸せになっても。
こんな血に汚れた化物が、幸せになろうとしても。
『差し出された手は、掴んでもいいんだよ?』
掴んでもいいのだろうか。
それを掴んでしまったら最後、相手に不幸が降りかかってしまうとしても。
『ヒナは、フェグルスさんに救われました』
いいのだろうか。
その言葉を受け入れてしまっても。
「一人にならなくても大丈夫ですよ」
それは、少しだけ変な言い方だった。
一人にならないで、ではなく、無理に一人にならなくても大丈夫なのだと。
「何か困ってる事があるなら、ヒナに言ってください。怒っているなら、怒っていると言ってください。悲しいなら、悲しいと言ってください。寂しいなら、寂しいと言ってください。傍にいますから。フェグルスさんが安心できるまで」
心が暴れているのなら、誰かに話してみるのもいい。
怒りを、喪失感を、寂しさを、絶望を、悲しみを、無力感を、誰かに話して、誰かと少しずつ分け合って、そうやって皆で支え合って、乗り越える。
心を落ち着かせる方法は、暴力だけでは決してない。
心が叫ぶままに『力』を振るう以外にも、感情を吐き出す術がある。
コミュニケーション。
言葉と言葉で伝え合って、支え合う営み。
魔獣と人間を分け隔てる大きな違い。
『悩みがあるなら聞くよ~? お悩み相談乗っちゃうよ~? 俺っちたち、親友なんだし~?』
手なら散々、差し出されていた。
せっかく誰かが支え合おうとしてくれたのに、それを見て見ぬフリで目を背け、自分から一人になろうとして、自分から不幸になろうとした。
差し出された手を、何度も振り払った。
何度も振り払っているのに。
どうして、
「……なんだってそこまで」
こんなに拒絶されておいて、どうしてそれでもなお、関わろうとする?
答えは、
「全部フェグルスさんがしてくれた事だからです」
簡単だった。
陽菜はいつも通り、真っすぐな瞳で、
「ギブされたからのテイクってわけじゃないのです。フェグルスさんがしてくれた事を、ヒナもフェグルスさんにしたいのです。つまりはヒナのわがままなのです! ヒナの感じる幸せを、フェグルスさんにも味わってもらいたいって!」
わがまま。
自分がしたいからしている、ただそれだけの事。
それを言ったら、自分だって本当にわがままだ。フェグルスは心からそう思う。
わがままというか、自分勝手だ。自分は散々他人に手を伸ばして、それを掴む事を望んできたクセに、いざ自分がされたら拒絶するのか。
いくらなんでもわがまま過ぎだ。
他人を拒絶しているつもりだったが実際は、相手の優しさに付け込んで、寄り掛かって、ぶら下がって、わがまま放題で自分勝手に振る舞っているだけだった。
最初から、他人と関わらないようにするなんて無理な話だったのだ。
誰よりも他人との関わりに頼り切っていたのは、他でもなく自分だったのに。
この世に生まれて一七年。
わがまま放題が許される時期は、もうとっくに終わっている。
「俺は……」
でも。
素直に相手の手を掴むには、
「……やっぱり、陽菜の恩返しは受け取れない」
自分の思想に囚われた時間が、長過ぎる。
今すぐここで、心変わりなんてできそうもない。
まだ、一歩前へ進めない。
「……分かりました」
陽菜のその言葉は、やっぱりどこか残念そうだった。
「でもでも、こうしてお久しぶりにフェグルスさんと話せて楽しかったのです! それだけでもヒナは」
「あ、いや、それなんだけど―――」
咄嗟に言葉を遮っていた。遮った直後、フェグルスは「しまった」と思った。
何かを言おうとしたわけではなかった。ただ、あんな残念そうな顔をした陽菜をそのまま帰らせるわけにはいかないと思って、咄嗟に口を動かしてしまったのだ。
口ごもるフェグルスを見て、陽菜は「?」と首を傾げる。
どうしよう。余計に何か言わなければならない雰囲気になっている。これで「なんでもない」とか言おうものなら本当に陽菜を悲しませるかもしれない。
だから。
……ああ、もう駄目だ。諦めよう。
強がったって仕方がない。
「―――もっと話そう」
上手い言い方が見つからず、訳の分からない事を言ってしまった。
「四日後、『魔法祭』。……どうせ俺、予定ねえし。祭りの日に一人で何もする事ねえの、それはそれで寂しいっつうか……」
少しだけ唇が震えている。胸がドキドキ鳴っている。ただ言いたい事を言うだけなのに、なんでこんなに緊張しているのだろう。
多分、初めてだからだ。
自分からこんな事を言うのは、おそらく、生まれて初めてだから。
「恩返し、断っといて、こんな事言うのも勝手かもしれないけど」
これが最初の一歩だ。
差し出された手を掴む事はまだできないけど。
それでもこれが、相手に歩み寄るための最初の一歩。
「祭り……俺と一緒に回ってくれないか」
「―――――――っ!」
その瞬間、陽菜の顔が、もはや太陽よりも熱く大きく輝いた。……ように見えた、フェグルスの目には。
それはそれで正しかったのかもしれない。彼女は大きく息を吸うと、全身の太陽エネルギーを振り絞るかのように胸を膨らませ、
「はい!!!!!! 喜んでー!!!!!!」
「うっ……」
いっそ衝撃波みたいな元気な声が飛んで来て、思わずフェグルスは耳を塞ぐ。一応ここは街の中。近くを通りかかっていた住民たちもその声に驚き、「なんだ?」「うっさ……」―――嫌がるような視線も飛んで来る。
「ちょ……抑えろ声っ、街ん中だぞ」
「うわあ! ごめんなさいです! つい嬉しくて声を!」
慌てて両手で口を押さえ、アホ毛をひょこひょこ揺らす陽菜。
……なんだこの可愛い生き物は。
「でもフェグルスさん、言いましたからね! ヒナと一緒にお祭りに行くと!」
「おう。言った、しっかり」
「しっかり約束しましたからね! もう逃げられませんよ!」
「逃げるつもりなんかないって。俺から誘ったんだから」
「んふー!」
大きな瞳を輝かせ、彼女は嬉しそうに満面の笑み。
「フェグルスさんフェグルスさん! 手を出してください! 両手をパッと!」
「え? ……あぁ」
陽菜の言う通り、両手を開いて見せてやる。
そこに、
「はい!」
陽菜は、ニッコリ笑顔が描かれた小さなシールを、フェグルスの両の掌にペタリと貼った。
「……なにこれ」
「予約シールです!」
予約シールだった。
……なんだ予約シールって。
「約束ですよフェグルスさん! 四日後! 『魔法祭』! 絶対ヒナと一緒に見て回りましょうね! 他の用事を入れたらダメですよ! 見てください! 予約! しちゃいましたので!」
「お、おう。なるほど、そういう……」
己の手の平に貼られたシールを眺めつつフェグルスは納得。
なんと、自分は予約されてしまったらしい。
「……ん、分かった、絶対に予定は入れない。約束する。祭りの日はよろしくお願いします」
「そんなに仰々しくなくても大丈夫ですよ! 楽しみましょ、フェグルスさん!」
ぷくぷくに頬を膨らませて、手の平のシールよりも明るい笑顔で陽菜はクルリと背を向けた。
スキップでもするみたいに地面を跳ね、ブカブカの白衣をなびかせつつ、陽菜はフェグルスと距離を取る。そして再びコチラを振り返り、正面からフェグルスと向かい合って、
「ではでは! ヒナはこの辺で失礼するのです!」
「おう。……てか、そもそも陽菜、なんでこんな所にいたんだよ。そういや聞きそびれてたけど」
「ふっふっふー、それは企業秘密というやつなのですよ」
「……? まあいいけど。それじゃあ帰り道に気ぃ付けろよ」
「あい!」
元気に片手をあげて、陽菜はいつも通りピョンと小さく跳ねる。
「それではフェグルスさん! 四日後、お祭り! 楽しみにしてますからね!」
「おう、また四日後。俺も楽しみにしてるから」
「あい!」
そんな別れの言葉と共に、陽菜は短い歩幅で勢い良く大通りの中へと姿を消していく。
元より小さい体の持ち主だ。大通りの人混みに紛れてその姿を消してしまうのも早かった。
フェグルスもフェグルスで、別に暇を持て余しているわけではない。そもそもフェグルスはアルバイトをしに大通りへ来たのだ。早いところ仕事場へ行かなくては、八百屋の主人に怒られる。
消えゆく陽菜の姿を少しだけ見送って、フェグルスは目的地へと足を向けた。
「…………」
手の平のシールを眺め、少し歩調が速くなる。
ふふ、と不気味な笑いが込み上げて来てしまう。
ダメだダメだ、らしくない。こんなの全く自分らしくない。
こんなシール一枚で、未来を楽しみにしてしまう自分なんて。
らしくない。本当に。
だけど、
「……お祭りか」
今日と、明日と、明後日と……そして三日後と、四日後と、そこから四日間ぐらい続く祭りの日くらいは、らしくなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。
人間でも、化物でも、どっちでもいい。どっちがらしくてもいい。
ちょっと先の未来、あの可愛い『友達』と、一緒に祭りを楽しめるのなら。
「……恩返し、受け取っちまった……」
溢れる人の波の中、人じゃない少年がここに一匹。
陽の沈みかける大通りを、近い未来を期待しながら、のんびり人間みたく歩いていく。
第一章『日常編』、完結。
次回、第二章。