第一章10『理解者』
今日の仕事は終わったが、今日という一日はまだ終わっていない。
あと一つ、『厄介な用事』が残っている。
「やっべ、さすがに遅れ過ぎた……!」
セートカイチョーと仲良くお喋りしている場合ではなかった。そもそも今日の仕事は日中には終わる予定だったから、今から向かう『用事』の相手にも「夕方前には行くよ」みたいな事を言っていたのだ。
今がその夕方だ。なんなら陽が沈みそうですらある。
聖プリエステラ魔法学園を出て、小走りで一〇分ちょっとの場所にある『大学病院』とやらに、フェグルスは何の迷いもなく入って行く。
別に治療をして欲しいわけではなかった。
なんなら病院そのものにも特に用はない。
すれ違う看護師たちに会釈をしつつ、フェグルスは病院の廊下をズンズン進む。案内表示も読まずに決まった角を曲がり、さらに奥へと進んで行く。
……廊下の突き当りは、地下に続く階段になっていた。
かなり急な角度で作られたそれは、もはや最奥が見えないほどずっと下まで続いている。
この病院には『地下施設』が存在する。
そこに、本日の待ち人がいる。
「なんだってこんな、好き好んで不健康な所に……」
ここに来るたびにいつも思う。もっと日の当たる所で会えないものか。
さらにこの地下施設というのが本当に深い。諸事情によりエレベーターを付けられなかったらしく、辿り着くまでに階段を一分以上も降り続けなければならない。
下に行けば行くほど当然空気は悪くなり、温度も低く、雰囲気も重く、全身がゾワゾワと謎の悪寒を覚え始める。
そしてついに辿り着く地下施設。
分厚い鉄で出来た、横に滑らせて開閉するタイプの大扉が、ドン! とフェグルスの目の前に凄まじい存在感で現れる。
天井の蛍光灯も切れかかっていて、ジジジジ、ジジジ……と不気味に点滅し、余計におどろおどろしさに拍車をかけている。
「先生ー。遅れて悪い、今着いた。ちょっと仕事が長引いて」
鉄の扉をドンドン! と叩きながら、扉の奥にいるであろう待ち人を呼ぶ。
しかし返事が無い。
いつもは呼んだら秒もなく扉が開いて襲い掛かってくるはずなのに。
「…………? おーい。……おーい! せんせー! 聞こえ―――」
その時だった。
無骨な鉄の大扉がゴゴン!! と凄まじい音を立ててちょっとだけ開いて、中から『それ』が飛び出して来た。
待ち人が?
いいや。
正体不明の『黒い腕』が。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?」
本当に『黒い腕』としか表現できなかった。
まるで地面や床に映った『影』をそのまま立体化したような、巨大な腕が一本、開いた扉の隙間からニュッと静かに伸びてきて。
そして、ガシッ! と。
「おう?」
『黒い腕』はフェグルスの体をがっちり捕獲すると、そのまま恐ろしい勢いで扉の内側へと引き摺り込んだ。
「おおおおおおおおおおおおおおう!?」
何もかもが突然過ぎて、何かを考える暇もなかった。ただ黒い腕に部屋の中へと連れ込まれたと思った次の瞬間には、フェグルスの両腕両足はしっかりガッツリ拘束され、身動きを封じられ、気付けば何もできなくなっていて。
直後に、ガカァ!!!!!! と目を潰すような光が放たれた。
室内の照明器具が一斉に光を灯し、瞬く間に暗闇を白く塗り潰す。
その眩しさにもようやく目が慣れてきて、視界が回復したフェグルスは自分の体を見下ろし、「なんじゃこりゃ……!」―――己の状態に驚愕したのは一瞬、
「ニャーッハッハッハー!!」
突如として鳴り響いた笑い声。
フェグルスは思わず声のした方に視線を投げて……すぐに「はぁぁぁぁ」とため息。声の主を視界に収め、やっぱりか、と。やっぱり『この人』の仕業だったか。
疲れたみたいに項垂れるフェグルスを余所に、部屋の主である『少女』は元気いっぱい。
「レディースエーンジェントルメーン! 我が研究室へようこそだよ! フェグルスくん!」
「ようこそっつうか……レディースはいねえし。男も俺一人だし」
生来のフェグルスの不機嫌そうな顔が、さらに不機嫌そうに歪む。
別に「人間共に反撃の狼煙を上げてやろうぞ!」と内に秘めたる復讐心を燃え滾らせた訳じゃない。ただちょっと、面倒な空気を察しただけだ。
「……悪いけど先生、まずはこの状況を説明して欲しいんだけど」
自分の状態を見下ろしながら、「ホントになんだこれは」と顔をしかめるフェグルス。
しかし、
「ちっちっちー」
先生と呼ばれた『少女』は、立てた人差し指を左右に振るだけで、
「物事には順序ってものがあるのだよ、ワトソンくん」
「誰だよ……」
「説明の前に、まず僕に言わなきゃいけない事があるんじゃないかな!」
キッ! と鋭い目つき。『少女』は腰に両手を当てて、ぷりぷり怒った仕草をしてみせる。
そんな『彼女』の態度に、一応は己の非を自覚しているフェグルスは一瞬黙り込み、ボソッと。
「……遅れて悪かったよ」
「そ! お! だ! よ! 夕方前には来るからってずーっと待ってたのに! いつまで経ってもフェグルスくん来ないし! 僕見捨てられたと思ってずっと枕を濡らしていたんだよ!?」
「それに関しちゃホントごめん。ちょっと仕事が長引いちゃって……」
「僕との約束よりも仕事の方が大事だって言うの!? ひどいよ! 君がそんな冷酷無比な男だったなんて思わなかったな! ふん! 君には一人で寂しく孤独に打ちひしがれるか弱い女の気持ちなんて分からないんだ! この薄情者! 浮気者! ハゲ!」
「ハゲてはいねえだろ……」
なんなら浮気だってしていないし、誰かと恋仲になった記憶もない。
「こんなにも君を愛する良妻が健気に待ってるのに、仕事の方が大事だなんて!」
「それは本当に誰の事だよ……」
良妻にも覚えがなければ、健気な奴にも覚えはない。
「これでも僕は怒ってるんだよ! なのでフェグルスくんに罰を与えます!」
むふーん! と『少女』は鼻息を荒げつつ、
「という訳で、フェグルスくんを十字架に張り付けてみました!」
「だからそれを説明しろって言ってんだよ!」
気分だけならまさに咎人。約束の時間を盛大に破った罰として、ただいまフェグルスは、十字架に極太ワイヤーで両手足を縛り付けられているのだった。
……いやなぜ? どうして? 十字架? なに?
意味も分からなければ訳も分からなかった。
そんなフェグルスの心境などお構いなし。ニャハハハハー! と、ネコの耳にも似た癖毛をフワフワ揺らして高笑いを決めるこの『少女』こそ、何を隠そう……何も隠しちゃいないのだが、この地下施設の主にして大学病院の院長、シルフィ=コルレオニスその人であった。
「呼び出した奴を拷問道具に縛り付けるとか……何考えてんだ」
これが本当に医者なのか? フェグルスは未だに信じられない。
職人に特注で作らせたという着物を身に纏い、肩から太ももまで地肌を隠している。深紅の生地に黄金のラインを走らせたようなデザインで、彼女の肩まで伸びる銀髪が美しく映える。
さらにその精美さを際立たせるのは、彼女自身の幼さ。
綺麗なミルク色をした卵型の童顔は、誰がどう見ても一〇代の少女特有のもので―――というか、実年齢が一五歳なのだから仕方がない。
挙句に、
「えー!? フェグルスくんはこの十字架を見て興奮しないの!? 見てよこれ! この一切の狂いも無い完璧なクロス! 人体を痛めつけるには最高最適のフォルム! まるで人間を恐怖と絶望のどん底へと叩き落すためだけに生まれてきましたと言わんばかりの圧倒的な存在感! フ~ニャ~、癒される~!」
手の施しようがない根っからの拷問道具マニア。
IQ160を叩き出し、豊富過ぎる医療知識と卓越した治療技術で、特例的に未成年で病院の院長を務めるという稀有な天才少女がまさかのこのザマだ。もはやため息しか出て来ない。
そんなわけで。
ここは病院の地下数十メートルに広がるシルフィ専用の『研究室』。
フェグルスはこの少女から、『とある用事』で呼び出されていたのだ。
「むっ、どうしたのフェグルスくん。顔色がまるでゾンビのように……」
「疲れてるだけだ。ほっとけ」
街へ出れば全裸マフラーと出会い、仕事場へ行けば水を浴びせられ、病院では十字架に吊るされ……どうなってるんだこの街は。
安息の地はどこにもないという事か?
「まさか先生、患者にまでこの趣味に付き合わせてるんじゃないだろうな。大丈夫なのか? 医者として」
「何を言うのさ! 大事な大事な患者さんにそんなヒドイ事するわけないよ! フェグルスくんだけにしかやらないもん!」
「ヒドイ事だって分かってんならなんで俺にやるんだよ……」
「そっちの方が興奮すると思って」
「それはあんただけだドM馬鹿め」
「ニャんと! 縛られて興奮しないだなんて! ……フェグルスくんってもしかして、特殊性癖?」
夜仲といい、変態は基本的に自分がおかしいとは思わないのだろうか。
しかもシルフィに関しては立派な『医者』だ。誰よりも人間について知っていなければいけない立場でこの体たらくか。
こんな奴が医療を司っているとは。……この街はもうすぐ滅んでしまうかもしれない。
「あれ? 縛られて興奮しないという事はつまり……フェグルスくんは縛る側!? そんな! 僕、フェグルスくんに縛られたりなんてしたら興奮し過ぎて死んじゃうよ! ハッ! さてはフェグルスくん! 僕を夜通しでクタクタになるまで攻め通した挙句! 緊縛監禁調教して首輪を付けていつでもどこでも情欲を吐き出す肉奴隷にするつもりなの!? ウニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! 想像するだけで興奮しちゃうよお!!」
「……どうしろってんだ……」
ゾクゾククネクネ~と恥ずかしそうに身をよじらせる変態医師を、フェグルスは世界中の闇を携えた魔王の如き眼差しで睨みつける。
手に負えない。こんな変態は。
「心配しなくても大丈夫だよフェグルスくん!」
「あ?」
「僕は攻めるのも攻められるのも得意さ!」
「攻めるつもりも攻められるつもりもねえんだよこっちはハナから!」
「え!? フェグルスくんは今日、僕の初めてを貰いに来たんじゃないの!?」
「誰が貰うかそんなもの! あんたに関して欲しいものなんか何もない!」
どうしよう、本気で帰りたい。コイツとの約束なんて無視してやればよかった。
何を後悔したとこで、結局今さらだが。
「んもー、フェグルスくんったらどうしちゃったのさ。なんだかいつもより冷たい……はっ! これが噂に聞く倦怠期!?」
「あんたみたいなのが相手だったら誰だって嫌んなるよ!」
結局その後数分はシルフィの興奮が治まらず、発情期の猫さながらに騒いで暴れて「ニャーニャー」鳴き散らして無駄に想像を飛躍させてゾクゾクして、結果として出血多量で十分ほど気絶。覚醒してからも幾度に渡るフェグルスの「いいから解放してくれ!」を経て、やっと解放へと向かったのだった。
で、テイクツー。
「ニャーッハッハッハー!! レディースエーンジェント―――」
「振り出しまで戻るな」
十字架の上で大半の気力が削がれ、疲労し切ったフェグルスは心を入れ替える。
そうだ、別に自分は変態と戯れるためにここへ来た訳ではない。しっかり『用事』があるのだ。
ならさっさと要件を済ませてしまおうと、フェグルスは口を開きかけ、
「おーっと待ったぁ!」
しかし、シルフィの方が一足早い。
「皆まで言わなくても大丈夫、君の訊きたい事は分かってるよ。うんうん。……しっかり体は洗って来た!」
「起こらねえよ、体を洗っとかんきゃならねえイベントなんて、この先ずっと、あんたと俺の間には」
「え、違うの? てっきり僕の処女を貰ってくれるという話かと……」
「いらん貞操の押し売りをするんじゃない、医者だろあんた。……まさか色んな奴にそんな態度じゃねえよな。節操なさ過ぎるだろ」
「むっ! フェグルスくんは僕をなんだと思ってるの!? 舐めてもらっちゃあ困るよ! 僕が身も心も捧げるのは君だけさ!」
「俺に捧げてもらっても困るんだよ」
フェグルスは心の中で頭を抱える。だって根本的に話が通じない。真面な意思疎通が取れやしない。ストレスだけがどんどん溜まっていく。
人間社会で生きていくというのは、こんなにも大変な事なのか。
……多分、違うと思う。
「本当にどうなってんだ、俺の周りの連中」
喧嘩っ早い最強魔法使いに、全裸マフラーの露出狂、そして拷問道具マニアの変態医師。
正体を隠すため、普段から外界との接触を最小限に抑えているフェグルスからすれば、彼らは貴重な人的財産だ。にも拘らず約半分が変態ときたもんだ。これを嘆き悲しまずにいられるか。
知り合いを増やしたくないというのは本音だが、それとは別問題として、セートカイチョーのツクモと知り合えたのは本当に良かったとフェグルスは思う。
少しは常識人の知り合いを作りたい。
「……つれない。今日のフェグルスくんはいつにも増して冷血かも。お預けをくらう僕の身にもなってよね!」
餌を目の前にした猫のようにソワソワと落ち着きなく、シルフィは「ングゥゥ」と猫そのものみたいに喉を鳴らすが、
「……ん。でもこれ以上フェグルスくんに嫌われるのも嫌なので、いいでしょう、このシルフィ先生が閑話休題にしてあげます」
「最初からしてあげてくれ……」
ニャッハハハー! と笑って流された。
どこまでも掴めない人間だ。
「さて、それじゃあ本題に入ろっか」
そう言って、シルフィは着物の内側に手を突っ込むと、懐から無造作に取り出したのは、
「ああ、一体この日をどれだけ待ちわびた事か! ついに僕の手が届くんだね……フェグルスくんの肉体に!」
「もっと健全な言い方できないのか」
「健全なんか知ったこっちゃなーし! 何を言おうが今日は僕の言う事を聞いてもらうんだからね! そういう約束だもん!」
だもん! と言われてしまうと、まぁ、そうだとしか答えようがなかった。
今日は彼女の言う通り、彼女の言う事を聞くという約束をしてしまっている。
「というわけで!」
シルフィは元気ハツラツ。
着ている着物を精一杯着崩しながら、
「今日はフェグルスくんの体、いーっぱい見ちゃうんだからね! ンッフー!」
ギラリと光る医療用の刃物を何本も器用に指に挟んで、少女は嫌らしい笑みを浮かべてみせた。
『魔獣生態研究室』。
それが、この粉々になった魔獣の死骸で溢れ返る地下施設の名前であり。
目の前にいる少女こそが、世界でも名を馳せる若き天才医師にして、魔獣生態研究の第一人者。
そして。
フェグルスの正体を知る、唯一の『理解者』だった。