魔獣の子
―――ニンゲン?
―――ニンゲンってなに?
それは『彼』が三歳の頃の記憶。
薄暗い森の中で、歳の離れた姉の胸に抱かれていた時の事。
「人間っていうのはね、私達とはちょっとだけ違う生き物の名前だよ」
少女は胸に抱いた『弟』を見つめ、静かに笑う。
彼女の言葉に、『少年』は首を傾げた。
「ちょっと、ちがう?」
「そ、ちょっとだけ。でも、同じ場所に住んでるんだよ。家族みたいなものかな」
かぞく……と。
『彼』は姉の言葉を繰り返しながら、その言葉の意味を思い出す。
それは以前、少女に教えてもらった言葉だった。同じ場所に暮らし、共にご飯を食べ、互いに支え合う生き物の事を『かぞく』と呼ぶのだ。
でも。
「じゃあ、どーしてニンゲンは、ここにいないの?」
「それはねー。私達と人間が会っちゃうと、喧嘩しちゃうからなの」
「けんか?」
「うん。ちょっとだけ仲が悪いんだ、私達」
少女はちょっとだけ困ったみたいに眉を寄せた。
そんな彼女の様子を見て、『彼』は、
「ニンゲンって、こわいの?」
「んーん、ぜーんぜん怖くないよ。人間はとっても優しいの。困っていたらすぐに助けてくれるぐらい、とってもとっても優しいんだよ」
「ほんと? じゃあなんでニンゲンと、ぼくたちは、けんかしちゃうの?」
「んー」
幼い『弟』からの質問に、少女はちょっとだけ考えてから言った。
「まだ、お互いの事をよく知らないからかな」
「……?」
「いつか分かるようになるよ。『 』がもっともっと大きくなったらね」
首を傾げる『弟』に微笑みかけて、少女は優しい手つきで『彼』の頭を撫でる。
「大丈夫。何も心配なんていらないから」
「だいじょーぶ?」
少女の真似をして、『彼』も同じ言葉を口にする。
それを微笑ましく見つめながら、
「そう、大丈夫なの」
少女も繰り返す。
「もし何かあっても、お姉ちゃんがぜーんぶ何とかしてあげるからね」
「……だいじょーぶ」
「うん」
あの頃の『彼』にとって、彼女の言葉は全てが魔法だった。
頭を撫でられて、笑顔を向けられ、「大丈夫だよ」という声を聞けば、本当に大丈夫なのだと信じていられた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
彼女の言葉を心の底から信じていた。
幼かった『彼』にとって、それは当然の事だった。
***
―――ねえ、おねえちゃん。
―――ニンゲンに会ってみたい。
それは『彼』が五歳の頃の記憶。
木漏れ日の差す森の中を、少女と一緒に手を繋いで散歩していた時の事。
「人間に? どうしたの? 突然」
散歩の足を止め、少女は驚いた顔で『弟』を見つめた。
彼女のその反応に、『彼』は少しだけ驚いて顔を伏せる。もしかして、何か悪い事を言っちゃったのかも……そんな風に思ったのだ。
そんな『弟』に、少女は、
「大丈夫。怒ったりしないから、会いたい理由、言ってみて」
しゃがんで、目線を合わせながらそう言った。
「……ちかくの町でね、ニンゲンがおまつりやってたの。だからぼくも行きたい」
「お祭り? ……そのお祭りで、人間達と一緒に遊びたいの?」
俯いたまま、『彼』は小さく頷く。
それを見た少女は、一瞬考えるみたいに黙り込むと、すぐに『彼』の髪を撫でながら、
「……私達、まだ人間達とは遊べないの。ごめんね」
「うぅん、だいじょうぶ」
森の端から、人間達が楽しんでいる姿を見ているだけの毎日だった。
もし彼らと友情を築けたら、自分もあの光景の一部になれたら……そんな事ばかりを考える日々だった。
そして、それが無理な願いだという事も、頭のどこかでは理解していた。
「大丈夫だよ」
「おねえちゃん?」
不意に、少女の腕が『彼』の背に回される。
引き寄せた『弟』の小さい体を、少女は強く抱き締めながら、
「大丈夫。お姉ちゃんが何とかするから」
芯のある声音で、何かを決意する。
でも何を決意したのかは、あの頃の『彼』にはまだ分からなかった。
「絶対に『 』を、人間の友達にしてみせる。人間と喧嘩なんかしないで、助け合えるような世界にしてみせるから。……ね、どう? 人間とお友達になりたい?」
「ともだち?」
少女に問われ、『彼』は少し考える。
人間の友達。
もしもそんな存在に、自分がなれるとしたら……。
「……なりたい」
「分かった。じゃあお姉ちゃんが、人間と友達になれるようにしてあげる」
「え、でも」
不安がって声を細める『彼』に、それでも少女は、
「大丈夫」
魔法の言葉と共に、大きな笑顔で『彼』の頭を撫でる。
「お姉ちゃんが絶対に、『 』のお願い、叶えてみせるから」
「……おねがい、かなうの?」
「そう、叶うの。叶えてみせる。だってお姉ちゃんはとーっても強いんだから。なんでもできちゃうのよ」
なんでも? と首を傾げる『少年』に、少女は「そう、なんでも」と頷いた。
「だからね、何も心配しなくていいんだよ」
「……うん」
唯一の家族のその言葉に、『彼』は心を委ねていた。彼女がそう言うのだから本当に大丈夫なのだと、素直に信じ、疑う事すらしなかった。
でもそれは、彼女を信頼していたからではなかった。
今なら分かる。あれはただ単に、彼女を疑ってしまえば他に信用できる存在がいなくなってしまうと分かっていただけだ。
「大丈夫。大丈夫だよ」
―――魔法のように繰り返されるその言葉は、いずれ自分を裏切るのだろう。
―――自分だけじゃない。その言葉はいずれ、彼女自身をも裏切るのだ。
あの頃の『彼』には、それがしっかりと分かっていた。
分かった上で、彼女の言葉を信じようとした。
目の前の事実から目を逸らし、分かっているはずの未来に目を背け、必死に現実から逃げようとした。あり得ない希望を信じようとした。
だからそれはもう、立派な罪だった。
***
―――お姉ちゃん?
それは『彼』が七歳の頃の記憶。
引き千切られた姉の死体を、ぼんやりと眺めていた時の事。
「お姉ちゃん」
何度呼んでも、彼女の表情は変わらなかった。
いつものように優しい笑顔を見せてくれる事もなかった。
そして、「大丈夫だよ」と言ってくれる事もなかった。
「お姉ちゃん」
涙は出なかった。
それどころか、悲しいという感覚すら薄かった。
ほら、やっぱり。
結局こうなるじゃないか。
そんな諦めだけが、ずっと胸の奥で渦を巻く。
やはり自分は人間ではないのだと、つくづく実感する。
「…………」
『少年』は顔を上げる。
ゆっくりと周囲を見渡す。
そうして初めて、大勢の人間が自分を取り囲んでいる事に気付いた。
森全体を埋め尽くすほどの、何十何百という恐ろしい数の人間達が、その瞳に強烈な感情を宿して自分を睨み付けていたのだ。
その頃の『彼』には、彼らが抱いている感情を、本当の意味で理解できていた。
憎しみ、恨み、怒り。
敵意、悪意、殺意。
そしてその感情は、自分に向けられているという事も理解できていた。
――――ごめん、ごめんね……お姉ちゃん、間違えちゃった。
ふと『彼』の脳裏を過ったのは、昨日の出来事。
彼女は、何度も何度も謝って、泣いていた。
――――あなたのお願い、叶えられなかった。私、何もできなかった。たくさん間違えて、たくさん悪い事しちゃった。……ごめん、ごめんね。
何を間違えたのか。どんな悪い事をしたのか。
そもそも彼女が何をしようとしていたのかも、『少年』は知らなかった。
――――『 』は生きて。
ただただずっと。
彼女の言葉だけが、『少年』の耳の奥で響き続けている。
――――あなたに出会えて、私、幸せだったから。私の全部は、あなたに救われたから。だから今度は、あなたが皆を救ってあげて。大丈夫。私にはできなかったけど、『 』は私より強いから、きっとできるよ。……だから、大丈夫。
唯一の家族の、最後の言葉。
それを思い出しながら、『彼』は目を閉じる。
「今までありがとう。さよなら、『フェグルス』」
直後だった。
人間達が、一人の『少年』に押し寄せた。
***
今から一〇年前。
『魔法』を発展させた人類は、当時絶大な力を振るっていた有害生物『魔獣』への総攻撃を開始した。
その戦いは後に『魔獣大戦』と名付けられ、人類史初の種族間戦争として記録される事になる。
しかし実のところ、魔獣大戦は人類側の一方的な『害獣駆除』であった。
すでに著しい発展を遂げていた魔法技術は、もはや魔獣の力など脅威としなかったのである。
計画通りに作戦が進行すれば、ほとんどの魔獣はひと月もあれば一掃できるはずだった。
だが意外にも、その戦争は二週間足らず終わる事になる。
人類の技術力が魔獣の力を上回った結果、当初の予定よりも早く魔獣の殲滅に成功した……というわけでは、しかしなかった。
実際に多くの魔獣の討伐には成功したものの、その討伐数は、当初予定していた半分にも満たない。
それでも魔獣大戦は、終わらざるを得なかった。
その理由として、魔獣大戦を記録した当時の文書には、こう明記されていた。
ある日、魔獣殲滅に赴いた全勢力の九割が、一夜にして壊滅したのだと。