第99話
明確にどちらのものとも言えない初回を越え、俺は表情晴れぬまま腰掛ける。
「フックを狙い撃つのは事前通りだけど、今のはちょっとしてやられたね。でもあの左には驚いたよ、偶然とはいえ顎に入ってたから。」
水を口に含みながら頷く。
あれが無かったら本当にヤバかった。
だがこういうことが起こると、何故か気分も乗って来る。
しかし毎回偶然に頼る訳にもいかない為、集中を高める様に息を吐き第二ラウンドのリングへ歩を進めた。
そしてラウンド始め、向こうからいきなり踏み込んでの左ストレートが飛んで来る。
まさかいきなりあれが来るのかと警戒しガードを上げるが、続くコンビネーションでボディを突かれまともにもらってしまった。
(くっそ、さっきのは偶然だってわかってるな。後手を引くと調子に乗らせちまう。)
出端を挫かれ、こちらとしては少し落ち着きたい所。
そう思い、得意の中間距離で立ち回り積極的に左を突いていく。
だが向こうはそれをしっかりとガード、打ち終わりを狙い踏み込んで再度強めの左を伸ばしてくる。
しかし飛んで来るのは左フックではなく、警戒を逆手に取ったボディストレート。
こちらが嫌な事ばかりをしてくるのは流石、歯噛みしながらも対応できず後手を引く展開が続いた。
思考が一辺倒になるのは駄目だと分かっていても、先のフックが脳裏にちらつきどうしても意識が向いてしまう。
結果ボディをかなりもらってしまっている。
このままではいずれ足が止まるだろう。
そうなればこちらの立ち回りはかなり制限される。
(さて、どうするか。まだ余裕のある今のうちに何か掴まないとな。)
確かに良い状況ではないが、一時的な劣勢は結構いつもの事。
なので慌てず、しっかり自分のボクシングを組み立てていけばいい。
そして今まで積み重ねてきたものが、決して間違っていなかったことを証明するんだ。
「…シッ…シィッ!」
左のフェイントから踏み込んで右ストレート。
今までの試合を見る限り、この選手は基本ガードで受けるタイプ。
案の定この右もしっかりガードで受けられるが、こちらも上下の打ち分けを意識しボディへと繋げる。
だが流石の反応で、これも綺麗にガードで受けられた。
しかし流れ的には悪く無い、後手を引いて主導権を握られるよりはずっといい。
(横の動きと出入り、この試合はこれが重要だ。)
この人のディフェンスは、攻撃までの流れが非常にスムーズ。
今もこちらのボディブローをガードした直後、反撃を警戒しスウェーした俺の鼻先を右の打ち下ろしが掠めていった。
だが大事なのはこの後、相手に好き勝手打たせずこちらもしっかり返していく。
「…シッシッ…フッ!」
ジャブ二発から踏み込んで右フック。
今回はガードではなく足で距離を作られ、掠りもしなかった。
そこから攻守交替と言わんばかりに、返ってきたのは左のショートストレート。
対するこちらは下がって躱すのでなく、サイドステップで回り込む様にして躱す。
そして左を突きながら距離を作り、得意の差し合いで主導権を握れるよう立ち回った。
▽
第三ラウンド、互いにゆったりと距離を測りながら近づいていく。
向こうも俺と同じく、急な展開はそれほど好みでは無いのだろう。
先ほども中盤からはじっくりとした展開になり、この辺り非常にやり易いと感じていた。
だが、俺がそう感じるという事は向こうも同じ筈。
その証拠という訳ではないが、開始早々、自分の土俵でもある中間距離から思い切り良く左を伸ばしてきた。
「…シッ!」
俺も反応しジャブを返し相打ちになる。
だがそれは一発目の話。
「…シッシッシッ!」
こちらは相手の体勢が整う前に、更に二発三発と浴びせていく。
差し合いに関しては回転の速い俺に分がある。
向こうもそれは承知の上らしく不利を悟り一旦距離を取られるが、それを無理に追う事はしない。
そしてまたも落ち着いた展開になり、仕切り直しとばかりに互いが中間距離で左を突き合う。
この展開なら確実にこちらがポイントを上げられる。
だが敵もさるもの。
時折踏み込むフェイントを見せ、こちらの強打を誘ってくる。
(…危なかった。今の振り切ってたらやられてたかもな。しっかし…露骨に狙って来るな。)
相手の狙いは得意のコンビネーション。
左ストレートからの左フック。
それが分かっている為、安易に強打を打つ事は出来ない。
(あのフック…来たら合わせたい。もう一回打たせてタイミング覚えるか。)
少し危険だが、このままではじり貧になりそうなので仕方が無い。
「…シッ…シィッ!」
相手がワンツーを打ってきた所で、こちらも同じく返す。
まだ勝負の気配はない。
向こうもまだ勝算つきかねると言った所か。
「シッ!…シィッ!」
誘う様に距離を保ったまま、もう一度ワンツー。
相手はこれをしっかりとガード。
隙間から覗く瞳はギラギラと輝き、明らかに狙っているのが分かる。
そしてもう一度、こちらから手を出し様子見。
まだ来ない、攻勢を強めているのはこちらだが少し嫌な感じだ。
そうして張りつめた空気が満ちると一度間を置く為、互いに軽いジャブを突き合いリズムを作り直した。
そこから俺は、誘う様に右を伸ばす素振りを見せる。
その時だった。
「…っ!?」
頭の中はまさかここでという思いで一杯。
相手からギラリと強い意志の籠った瞳が覗くと、思い切り踏み込んで左フックを被せてきたのだ。
それはフェイントである事を最初から読んでいなければ、到底打つ事の出来ないタイミング。
まさに熟練の経験があってこそ為せる駆け引きであり、俺の若さが出た一瞬でもある。
そしてこれは、この試合初めて見るコンビネーションではない本気のフィニッシュブロー。
それはやはり鋭く、ガードが間に合わず綺麗に俺の右側頭部を捉えた。
瞬間、三半規管が揺れ足元が定まらない。
「…っ!?……くっ!!」
(…ダウンして回復を図るかっ!それともこのままっ!)
そんな思いも空しく、迷う暇など与えられずガードの上から叩かれ抗う事も出来ない。
そのまま俺はふらふらと後退しロープを背負ってしまった。
相手もここが勝負所と見たか、間髪入れず打ち続ける。
俺は必死にガードを固め続けるも、冷静に上下を打ち分けられボディのダメージが蓄積していく。
そうして耐え続けている時、拍子木の音が聞こえた様な気もしたが今確かめる術は無い。
静寂から一転の激しい試合展開に会場は大きく沸いていた。
いや、どちらかと言えば悲鳴に近い声が多い様だ。
(…今は…今は耐えるしかないっ!)
無理に手を出せば傷口を広げるだけ。
劣勢だからこそ、冷静でいなければ勝てる試合も勝てない。
それでもレフェリーストップだけには気を付けつつ、必死にガードを固め凌ぎ続けた。
「…ストップっ!」
レフェリーが割って入り、一瞬TKОかと肝を冷やしたがどうやらゴングが鳴っていたらしい。
まさに命からがらと言った感じだ。
やる前から分かっていた事だが、やはり…強い。
▽
自陣へ戻り腰掛けると、会長は腫れ止めの金具を右目に押し当てる。
まだ腫れてはいないが、最後のラッシュで上にもいくつか貰ってしまったらしい。
そんな状況を受け、牛山さんも及川さんも何か忙しなく見える。
「ボディどう?そこまで効いた感じはなさそうだけど。」
その通り、今のところは足が止まるほどのダメージではない。
強打のある選手だったら先ほどのラッシュで倒されていたかもしれないが、彼はそこまでじゃないらしい。
会長に肯定の意思を示した。
「ちょっと狙いが偏り過ぎてたかもしれないね。」
それは俺も感じていた。
このまま続けても良い方向に転ぶイメージが浮かんでこない。
「次からフック狙いは止めて、徹底的に距離を守って勝負しよう。」
まあそうなるだろうなという流れ。
あのフックに屈した様な形になるので、もやもやとしたものが胸に残ったが取り敢えず頷いておく。
カァ~ンッ!
第四ラウンドのゴング。
先のダメージがあるうち一気に来るかと思われたが、思いのほか静かな立ち上がり。
向こうは警戒含みの瞳でガードの隙間からこちらを覗いて来る。
ならば好都合、自分から打って出るとしよう。
「…シッ!」
通常より力を籠めたジャブ。
まだまだ健在だぞと意思表示をしてみた。
すると当然、向こうからも返事が返って来る。
初撃は際どいタイミングでの相打ち、だが俺は間髪入れず更に左を三発。
向こうも差し合いでは勝てないと思っているのだろう、踏み込まんとする初動を察知。
対するこちらは、大袈裟と言って良いほど距離を取った。
この行動は保険の意味合いも兼ねている。
先のダメージがどの程度残っているのか、自分自身把握できていないのだ。
リングを大きく使いサークリングしつつ調べた結果、どうやら決定的と言える程のダメージは無さそう。
それでも当然万全とは言えないが。
(こりゃ、場合によってはクリンチだな。)
こんな所で躓くわけにはいかない。
俺は何としても勝たなければならないんだ。
劣勢に傾いた流れを自覚しながらも、意地で今一度自分を奮い立たせ前に進み出る。
「…シィッ!…シッシッシッ…」
初撃は強めの左ストレート、相手も警戒を強めたか視線から緊張感が伝わってきた。
そこからジャブの連撃に繋げる変則コンビネーションで、向こうの出端を挫く。
あの左フックは打たせないのがベストだろう。
つまり、踏み込んできたら距離を取って逃げるのがベター。
幸いジャブの差し合いではこちらに分がある為、自分の距離に徹底すれば後手を踏む確率も低い。
そしてこの作戦が功を奏し、取り敢えずラウンドの主導権を掴む事が出来た。




