第97話
暦は十月に入り、試合まであと一週間ほどとなった。
本番は十月十日の月曜日、この日はスポーツの日という祝日であり、三連休の最終日という人も多いだろう。
子連れで観戦に来る親子などもいるかもしれない。
会場は泉岡アリーナ、これからはここをホームとしてやっていく予定。
だがこの防衛戦を越えた先のチャンピオンカーニバルは、向こうでやる事になるのだろうか。
今までの流れを調べると、数少ない異例はあるにせよ殆どあちらのホールで行われている。
必ずしもそういう決まりがあるわけではなさそうだが、まあ普通に考えればそうなりそうだ。
「亜香里ちゃん、ちょっと見て。これでどうかな?」
「あ、はい。問題ないと思います。」
「でも凄いね~。減量メニューとか自分で考えたの?」
「いえまさかまさか。兄さんがやってたのを受け継いだだけですよ。」
この時期になると、どうしてもピリピリしてしまう。
仕事中は気を張っているから大丈夫なのだが、家に帰ると少し甘えが出てしまったりもするのだ。
春子は以前からそうだったのだが、非常に空気の読める女性であり、こちらの空気を敏感に察しつつ付き合ってくれている。
それでもやはり言葉が少し荒くなるのは仕方なく、
「これ少し多いって…」
「多かった?ごめんね。ご飯このくらいでいい?」
「うん…」
こういう時、自分への嫌悪感と罪悪感に苛まれてしまう。
何故ならこれは、只の八つ当たりだから。
食事の量は予定通りで、決して多くは無かった。
しかし今日の練習後量った体重が、少しだけ予定から上方にずれただけ。
それだけでこんな嫌がらせをしてしまう俺は、どこまで器の小さな人間なのだろうか。
いや、実際亜香里に対してはこういう態度を取った事はなく、恐らく春子に対してだけ。
彼女が傍にいると、どうしても自分の弱い部分が見え隠れしてしまう。
「じゃあ、いただきましょう。」
そんな俺の感情を知っているからこそ、春子は意図して明るい声を響かせるのだろう。
そしてそんな今に、幸せを感じている。
▽
翌日の練習始め、試合直前の時期に嬉しい話題を聞いた。
それは高校生三人組のプロテスト合格。
三人共が同日向こうへ行き、結果はこちらに帰ってきてからホームページで確認するという形を取った。
少し待てば彼らのライセンスも届くだろう。
「…おめでとう。多分同じ興行に出るのは大分先になりそうだけど、それまで勝ち続けてよ。」
「「「あざ~っすっ!!」」」
予想では三度目の防衛戦は向こう、彼らはデビュー戦を越えたら新人王トーナメント。
つまり彼らの活躍次第だが、勝ち抜くと仮定すれば再来年になるかもしれない。
その時には俺も、今よりもっとメインイベンターに相応しい肩書を得ている筈。
「良かったな坊主。この時期はピリピリしてっからよ。こういう話題があると少し和むだろ?」
「…ええ、本当にそう思います。」
極力そういった面を出さない様にしているのだが、空気だけはどうにもならない。
どんなに言動に気を付けようと、自然と溢れ出るものはあるのだから。
そんな中有難いのは牛山さんの態度、この人はいつでも接し方が変わらずこっちも気を使う必要が無いので助かる。
その牛山さんも、今は何人かの練習生の指導を任され凄く忙しそう。
意外と言っては失礼だが、彼の教え方は根性論が無く論理的でわかりやすいと評判。
まあ厳密にいえば会長から教わったことを、しっかり復習しそれを伝えているだけだが、それでも大したものである。
正式なトレーナーではないが、それと同じ役割を受け持ってくれているのだから。
そして練習終わり、開け放ったままの扉の向こうから大柄な男性の姿が覗く。
「ちぃ~っす!結果見たぞ。お前ら全員合格してたな。それでなんだけど~、来月俺の方からも二人受けさせっからよ、何か聞かれたら教えてやってくれな。」
「「「はいっ!」」」
実の所俺は、清水トレーナーが見ている選手たちと殆ど面識がない。
何故ならこちらだけでも練習相手が充実している現状があり、あまり向こうの選手と手を合わせる必要性がないから。
しかし高校生三人組は、会長の指示で向こうの選手ともスパーリングをこなしている。
「見てろよ遠宮君。こっちからも直ぐに一軍選手出してやっからな。へへっ。」
「えっと、どっからが二軍なんですか?」
「そりゃ、遠宮君と佐藤君だろ。中堅が菊池君か。そっちの三人はまだ二軍だな。あ、俺のとこは殆ど三軍な。」
「清水トレーナーって、面白い考え方しますね。」
「そうか?這い上がる為の目標が見えてるとやってて楽しいだろ。遠宮君だってここから這い上がったんだからよ。」
そう言われれば確かにそうか。
何も無い空き地のプレハブ小屋から、俺も上を見続けて這い上がったんだ。
今向こうのプレハブで練習している彼らにとっては、見上げる人物それこそが俺なのだろう。
「はは、ちょっとこそばゆいですけど、追い付かれないようどんどん上に行かせてもらいますよ。」
「おう。そうしてくれ。寧ろそうじゃねえと困る。やっぱうちのジムで道を作るのは、遠宮君しかいねえんだからよ。」
勝てば勝つほど背負うものは増える。
当たり前の事だ。
要は、それを背負い力に変える器があるかどうか。
大丈夫、俺にはあるさ。
そこを疑うようなら、今すぐ立ち止まってしまえばいい。
だから迷う事無く突き進め、勝ち続けろ。
▽▽
十月九日計量日。
報道陣は地元の記者が六人程度、専門誌からは二人くらいといった感じ。
明らかに前回の試合よりも人数が減っているのには、二つ理由がある。
一つはこの試合があまり注目を集めるカードではないという事。
もう一つは、同日に中央で世界戦が行われる事。
確かフライ級の試合だったはず。
まあ二つ目の理由は最初から分かっていた事で、そもそも俺の集客には関係ないので気にする必要もないだろう。
会長が作り上げた今の環境は、小さなジムの戦略としては一つの最善形ではなかろうか。
勿論それには軸となる看板が最低一枚必要となるが、それさえしっかりしていれば早々揺らぐ事はない。
つまり、俺がしっかりしている限りうちは大丈夫だ。
そんな心持ちでいると、佐藤さんも明君もいつのまにか計量を終えており、急ぎ俺も秤にあがると一発通過でホッと一息。
挑戦者である上田選手も一発で通過し、並んで一枚と相成った。
「すいません、二人供が顎の下に拳を付けて、あとこう睨み合う感じでってお願い出来ますか?」
そう告げたのは陸中テレビの山崎さん、何だか久しぶりな気がする。
断る理由もないと、上田選手も頷き視線を重ね合った。
この人は黒々とした髭を蓄えた、ナイスガイという見た目をしている。
体型がちょっと独特で、撫で肩のせいか実際よりも首が長く見えるが、まあ試合になればそんな事を気にしている余裕は無いだろう。
そして撮影も終わり互いに握手をするのだが、全くピリピリしている感じが無いのは意外。
寧ろ張りつめているのは俺だけという印象を受けた。
▽
帰りの車中、いつも通りハンドルを握る牛山さんが半分後ろに顔を向けながら告げる。
「上田の野郎、流石アマエリートだけあって落ち着いてたな。寧ろ坊主の方が舞い上がってたじゃねえかよ。」
「いや、舞い上がってはなかったと…」
ここはタイトルホルダーのプライドとして、否定しておかなければならない。
実際呑まれてはいなかった訳だし。
「しかしあれだな、映像見た感じあそこまで綺麗なボクシングする奴も珍しいよな会長。」
「そうですね。でも統一郎君の場合、そう言う選手とは結構相性良いと思いますよ。」
「確か上田は倒して勝った試合、全部左フックだったよな?」
「そうですね。踏み込んでの左。見たまんま切れがあるのでガード要注意ですけど、統一郎君は結構ガード高いタイプなので打ち終わりさえ気を付ければ大丈夫かと。」
俺も確認したけどあれは凄く速い。
だがずっと会長に躾けられてきたディフェンスのお陰で、そこまで脅威には感じていないのも事実。
何故なら俺の武器はやはり左で、相手の左をガードするのは基本右腕だから。
故にリードブローの制約は殆ど受けないだろう。
それさえ封じられなければ、試合をコントロールするのは俺だ。




