第86話
第八ラウンド、相変わらず両者重い体を引き摺り前に進み出る。
しかし最初の時間は圧倒的に俺が優位。
左はまだまだ生きており、当たり所によっては倒せるほどの切れも秘めているのだ。
だから苦しくとも、王者が自らの領域に辿り着くまで打ち続ける。
するとダメージが限界なのだろう、彼はガードの上から叩かれる度に仰け反り少し後退。
それでも一歩一歩距離を詰め、射程に入ると思い切り振り回して来る。
「…はぁはぁ…シッ…シッ…」
(俺も腹…打ってやる。これであいこだ。)
左フックをガードしたらこちらは左ボディを突き上げる。
右フックをガードしたら今度は右ボディを突き上げた。
いかな精神力があっても、いつまでも思考がクリアでいられるわけではない。
明らかに王者の攻撃が上に集中している。
無意識か意識的か分からないが、早く勝負を決めたいという思いがその行動を促しているのだ。
「…シュッ!…はぁはぁ…」
一方こちらは、ボディのダメージばかりなので思考はきく。
正直腹を叩かれ続ければ倒されかねないが、王者の瞳からは通常の理性を感じない。
正に精神力だけで立っている状態。
体にも力を感じず、体重を掛け押すだけで容易に下がらせる事も可能。
しかし直ぐに執念で食らいついて来る。
「はぁはぁはぁ……シッ…」
(押して…下がって…打つっ!)
流れを掴んだ。
パンチを丁寧にガードし、力ない相手を押し込む様な右で下がらせる。
同時に俺も少し下がってから、左。
ふらふらと近づいてきた所を、同じ流れで突き返す。
王者にはもう正常な思考を行える余力がない。
妄執とも呼ぶべき勝利への執着で食らいついてきているだけ。
断ち切らねば、鋼の精神力ごと。
▽
「…後二ラウンドだよ。ポイントは圧倒的だ。やっぱり強いね君は。」
返す言葉はなく、コーナーポストに寄りかかりながら軽く頷くだけ。
疲れた。
王者のパンチはもう速さなど微塵もないが、今なおズシリと重い。
貰えば間違いなく深刻なダメージを負うだろう。
また次も集中ししっかりガードで受け止めてから、あの重い体を押し返さなければならない。
その繰り返し。
正直、心が疲弊して白旗を上げたくなってきた。
「君がベルト巻いた姿を見たら、皆喜んでくれるよ。」
会長の言葉で、沢山の顔が浮かんでは消える。
そして最後まで残り続けたのは、春子と亜香里の笑顔だった。
カァ~ンッ!
第九ラウンドのゴングが響く。
のそのそと両者寝起きの様な動きでリング中央へ。
「…シッ…シッ…」
近づかれる前に少しでもダメージを蓄積させておきたい。
二発目の左で弾いた直後、王者は気持ちだけが急いたか前につんのめり転がった。
足が縺れて転んだのが実際だが、レフェリーはダウンを宣告。
しかし王者はカウントを数える前に立ち上がっており、抗議などせずそのまま真っ直ぐこちらに歩み寄って来る。
だがレフェリーが一旦間に割って入り、グローブを拭いてからの再開。
止めても良い頃合いではあるが、その判断も難しい試合だ。
傍で見ているからこそ分かるのだろう、俺の方も限界が近いという事実を。
それこそボディに強烈な一発が入ったら、崩れ落ち立ち上がれないかもしれない。
「…はぁ…はぁ…シィッ…」
(どうして…そこまで頑張れる?)
幽鬼の如く歩み寄る王者に、力を込めた左。
それをしっかりガードすると、今度はふらつかずこちらに体を預けてきた。
そして胸に拳を押し付け距離を作ってから、体全体を使い右を振って来る。
見え見えの大振り、カウンターを取りたいが体が動いてくれない。
仕方なくこちらもガードで受け止め、同じように右を押し付け距離を作ってから左。
これだけは当たる。
だが倒れてくれない。
やはり意識を断ち切る一撃が必要らしい。
俺にとってそんなパンチは一つ、しかし今の状態で打てるだろうか。
そんな迷いを抱えたまま、またも意地をぶつけ合った。
▽
「ラストだよ!ここを越えれば君が日本チャンピオンだ!」
「遠宮君、大丈夫!勝ってるからね!」
「いけるぜ坊主、もうすぐお前の腰にベルトが巻かれんだ!だから気合入れてけ!」
まだまだ頭は働くようで、三人の声が良く聞こえる。
対角線を見やれば、王者は椅子に座りながらもずっと俺から視線を外さない。
もしかしたら、もう意識が無いのでは?
そんな疑いさえ持ってしまった。
そしてラストラウンドのゴングが響く。
「…よろしくお願いします。」
前に進み出て俺がグローブを差し出すと、王者もゆっくり合わせてくれた。
「…シッ!」
のそりとした動きで近づこうとする松田選手。
そこを襲う、今だ切れを失わぬ左。
すると血がタラリと瞼から零れ、視界を覆ったか一瞬見づらそうに目を細めた。
この一瞬、俺の中で色々な思考がせめぎ合う。
判定まで行けば勝ちは揺るがないだろう。
ならばこのまま凌げばいい。
いや、決められるなら決める、そうでなければプロとして…王者として胸を張れない。
「…っ!?」
僅かな逡巡が命取りだった。
気付けば王者は身を沈め、俺の腹部目掛け右を伸ばしている。
瞬間的に捌く敏捷性など今の俺にはなく、これは受けざるを得ないと覚悟を決めた。
「…ぁっ…ぅっ…」
(…倒れるな…倒れたら…もう立てねえ…ぞ。)
直後、ズシリと腹の底まで響く重い衝撃が走る。
俺の視界を覆っているのはマットの白。
上体がくの字に折れ曲がっているのだろう。
何でもいい、何でもいいから動かなければ。
追撃をもらったら…終わる。
無意識に左足をスッと後方に下げていた。
自然とサウスポースタイルになり、右拳が前に出る。
歯を食いしばり視線を上向かせると、左を振りかぶり強く引き叩きつけようとする王者の姿。
(…被せる…流れに逆らわず…叩いて…)
踏ん張りの効かない足に喝を入れ、左腕を引き力を溜める。
迫り来る左拳に右を被せ、出来るだけ力に逆らわず下方へ叩くと、王者の体が完全に崩れた。
何を打とうが、もう躱せる状態にはない。
「…ヂィッ!!」
最後の力を籠め放たれた左コークスクリューブロー。
だが目算を誤った。
距離が近すぎる。
しかし最早止まる事は出来ない。
強引に振り切るだけ。
するとやはりと言うべきか、腕が伸び切る前に王者の顔面を捉えてしまう。
(…関係ないっ!このままっ!)
全身の力を使い、左腕をねじ込みながら前に押し出す。
止まるなと、強い意志を拳に乗せて。
バシンッ!!
顔面の骨を抉り込むような手応えが伝わった直後、王者の体は大きく弾き飛ばされた。
そして人形が倒れるみたいにゆっくりと、後方へ傾いていく。
「…ダウンっ!」
駆け寄ったレフェリーはカウントを数えなかった。
すぐさま両腕を交差させ、試合終了を宣言したのだ。
松田選手は意識が無いらしく、ピクリとも動かない。
俺はロープにしがみつき体を支えると、牛山さんが駆けつけ肩車で称えてくれる。
ガッツポーズを取る余力もない為、少々不格好な形だった。
会場は歓声とざわつきに満たされており、肩車から降ろされた俺は真っ先に松田選手の元へ向かう。
そして囲む陣営の隙間から覗き込むと意識が戻っており一安心。
「…有り難う…ございました。」
「ああ…負けたよ………やはり君は強いね。」
上体を持ち上げ語る彼は、王者の風格を纏っていた。
タイトルを失った直後の選手に思う事としては、少々おかしいかもしれないが。
そして俺の腰に、日本チャンピオンベルトが巻かれた。
前王者である松田選手は、俺の腕を取り掲げると観客達に称える様リングを練り歩く。
この時間こそが、俺にとって一番誇らしいと感じた瞬間であった。




