第85話
「隠せないくらいダメージあるよ。休ませちゃ駄目だ。次で決めよう。」
俺は強く頷き肯定の意を示す。
確かに松田選手の回復力を侮ってはならない。
恐らくだが、回復されたら流れは急激に変わるだろう。
加えこちらのダメージもそう楽観視できるものではなく、ボディを随分打たれたからか、少し足が重くなってきた。
カァ~ンッ!
第六ラウンドのゴングが響く。
俺にとっては勝負のラウンド。
向こうにとってはどうか、耐えるラウンドであってほしい。
見やればやはり出足が鈍い。
それでも突き進んでくるのは流石の精神力だが、今は無謀だろう。
「…シッシィッ!」
力強いワンツーをガードの上から叩きつける。
すると王者は、今までのようには耐えきれず少し後ろにふらついた。
やはりここは勝負所。
これをむざむざ逃すようなら、この試合を取れるかどうかも怪しい。
「…フッ!シィッ!…シッシッシィッ!」
(多少強引でもいい。反撃の初動を見逃さなければ。)
踏み込んで左フックから右ストレート。
そこからジャブ二発、そして右のボディストレートへ繋げる。
最後の一発以外は全部ガードの上、しかし確実に体は揺らぎロープに詰める事が出来た。
今までとは真逆の展開、俺が追い立て王者が下がる。
(目がぎらぎら輝いているな。反撃の一発狙ってる。)
対してこちらもその瞬間を狙っている。
このままガードの上から打ち続けても、ダウンにすら繋がらないと分かっているから。
俺がこの人を倒すには、意識の外から急所を打ち抜くかカウンターしかない。
ガードの隙間から覗く瞳を見やれば前者は厳しく、必然的に後者となる。
そして俺がレバーブローを放とうという瞬間、右を強振する気配を察知。
素早く反応し仰け反ると、剛腕が目の前を掠めた。
だが臆したりはしない。
その打ち終わりを見逃さず、再度レバーブロー。
「…シュッ!」
(よしっ!完璧に入ったっ!)
完璧な手応えにダウンもあり得ると思った次の瞬間、王者は既に反撃の体勢を取っていた。
それは斜め下から力任せに振り抜く左。
油断していたつもりはないが、反応が遅れてしまった。
ガードは一応置いているが、体勢が受ける形を取れていない。
「…っ!?」
(…重いっ!)
ガードごと押しつぶすような圧力を秘めた一撃。
直撃ではないのに一瞬視界が揺れた。
そして眼前を見やれば、次が飛んできている。
俺はなりふり構わずタックルのようなクリンチ、仕切り直しを求めた。
(傷狙ってくると思ってたんだが…そういう固定観念は危険か。)
少し嫌な気分だった。
追い詰めていたのはこちらにも関わらず、その形を捨てたのもこちら。
逃げたと言い換えてもよい。
「…ストップっ!」
引き剥がされ再開と思いきや、レフェリーが中断の合図。
見れば王者の右瞼の出血が激しくなり始めた様だ。
奇しくもこの流れは、大道選手と同じ。
このまま決着となれば個人的に釈然としない、しかし今は形などどうでもいい。
しかしそこまでではなかったらしく直ぐに再開、王者にとっては良い休憩にさえなったのでは。
「…ヂィッ!!」
(一気に決める!傷口に一発強いの!)
再開直後、俺は踏み込んで思い切り右を突き出す。
だがこれは悪手だった。
冷静なのは王者側で、こちらの心の動きまで見切り潜り込んで左ボディストレートを伸ばしてきた。
かなり力の籠った一撃、それが深々と俺のみぞおちを捉える。
「…ぁっ…ぐっ!?」
(…やっべぇっ…効いちまった…)
瞬間、腹の奥でくすぶっていた何かが一斉に表面へと這い出して来る。
上体が折れ曲がり、中々持ち上げる事が出来ない。
王者も苦しいのだろうが、鬼のような形相を浮かべ渾身の力で突き上げようとしている。
これをもらったら本格的にヤバい。
俺も意地で仰け反り躱すと、体に染み込んだ癖で自然と左が前に出た。
「…シッ…」
パァンっ!
乾いた音が響き王者の顔面が僅かに弾かれると、信じられない事に体勢を崩しマットに軽く手を着いた。
ダウンだ。
こんな軽いパンチでふらつくとは、恐らく立っているのも厳しい状態。
にも関わらず下がらない精神力には、思わず背筋が寒くなった。
そして当然ながら直ぐに立ち上がり再開、数秒後ゴングが響く。
▽
「…勝利はもう目の前だ。向こうはもう限界ギリギリ、気持ちで負けたら駄目だよ。」
「…はぁはぁ…はい…はぁ…はっ…:
三回ダウンを取っている。
なのにKО出来る気がしないのは何故だ。
レフェリーが止めてくれればいいのだが、あそこまで力強い反撃をしている以上止められまい。
カァ~ンッ!
第七ラウンドのゴングが鳴る。
王者の足取りはやはり重い。
しかし目だけは始まった時と同じように熱い炎を宿していた。
だがこれをねじ伏せてこそ本物。
俺は本物になりたい。
「…シッシッ…シュッ!」
ジャブ二発から踏み込み右アッパーのコンビネーション。
相変わらず王者のガードは固い、歯を食いしばり耐え力強い反撃の構えを見せる。
ここを狙いたい。
しかし打ち終わりの今狙えば相打ちの可能性を孕む。
ダメージは圧倒的に向こうが上でも、勝てるビジョンは浮かばないのが情けない限り。
なのでこちらもしっかりガード、それから得意の中間距離へ。
(…足が重い…)
この時初めて実感した。
イメージでは軽快にステップを踏んでいる筈が、実際はマットを擦る様な足取り。
その姿を見た松田選手の瞳に、強い光が宿る。
ダンッと大きな音が響くほど力強い踏み込みと共に、右を振りかぶったのだ。
俺は咄嗟に左瞼をカバー、
「…ぅっ…ぇっ!?」
(…ボディ…息が…出来ない…)
背骨まで響く様な強烈な一撃だった。
苦しさから口を大きく開けてしまい、マウスピースが零れそうになっている。
だが倒れない、俺にだって負けられない理由があるんだ。
足を引き摺り後退すると、王者の追撃が空を切る。
完全に体が泳いでおり、向こうも限界が近い事を知らせていた。
(…打てば…当たるっ!)
手を出さなければこの苦境は越えられない。
そして苦しい時己が身を助けるのは、やはり一番積み上げてきたこの左。
この状態でも切れを失わず鋭く空を切り、標的を捉え乾いた音を響かせてくれた。
王者は一瞬ふらつくも頭を振り再度踏み込む構え、やはり折れてはくれない。
会場はヒートアップしており、大歓声が俺達を包み込んで熱狂の渦に誘う。
「…っ…っ!…っ!!」
(無理に打っちゃ駄目だ…しっかりガードして…)
傷口を守ろうとする意識を突かれ、更にボディに連弾をもらう。
もう膝をついて諦めてしまいたくなるが、その度に魂が語り掛けて来る。
『その程度の覚悟だったのか』と。
「…ヅャッ!!」
渾身の右アッパーを返すと、変な声が出た。
苦しい、でも俺だけじゃない。
王者はもっと苦しいのかも。
(…なんて顔だ…般若みてえ…)
互いが体重を預け合い、打っては打たれふらつきまたぶつかり合う。
クリンチはしない。
しがみ付いたら、気持ちが折れてしまいそうだから。
これは多分王者も同じ。
もう足が思い通りに動かないので、戦術も戦略もあってないようなものだ。
だからこそ、心だけは負けちゃ駄目。
ここを譲ったら…多分倒される。
そしてレフェリーが割って入り何かと思えば、ゴングが聞こえた。
▽
「…深呼吸、ゆっくり。」
「はい…はぁ~~…すぅ~~…」
「…勝ってるよ。大丈夫。一発一発しっかり気持ち乗せて打っていこう。」
今難しい事を言われたら、頭がこんがらがっちゃいそう。
だって出来る事なんてそう多くない。
足も上がらないし、腹の奥の鈍痛も収まらないんだ。
対角線にちらり視線を向けると、椅子に座った瞬間体が崩れそうになる王者の姿が目に入った。
やっぱり、どう考えてもダメージは向こうが上。
でも彼は倒れても直ぐに立ってきそう。
逆に俺は、立ち上がる自信がない。
どうすれば、あそこまで強くなれるのだろうか。




