第83話
二月十一日、青コーナー側個人用控室。
早めに会場入りした俺は、寝台の上で横になり体を休めていた。
昨日は殆ど寝られなかったが、まあ仕方ないだろう。
若干鼓動が早い事も自覚しているが、これもまた今日は仕方ない。
地元から駆けつけてくれる応援団は三十人弱、平日にこれだけ来てくれるとは有難いものだ。
そして一室の外のざわめきに耳を済ませどれだけ経ったか、いつも通り及川さんから声が掛かる。
「遠宮君、係の人来たからバンテージ巻こうか。」
「あ、はい。お願いします。」
世界戦などの時は相手陣営の誰かが見張りに来るらしいが、やはり国内だとそれはないらしい。
慣れた手つきで巻かれていくバンテージ、そしてテーピングをジッと眺める。
真剣なまなざしの及川さんは、少し額に汗を浮かべていた。
暫しのち巻き終えると当然何の問題もなく係員が印をつけチェック終了。
ここから少しずつ体を温め始めるのだ。
鏡でフォームチェックしながらのシャドー、若干動きが硬く肩を解しながらトントンとステップを踏む。
「肩、大丈夫?」
「特に何も、違和感も痛みもありません。」
不安など抱えていても無駄、ここまで来たならやるしかないんだ。
勿論楽観視しすぎるのは駄目だが、重く考えすぎるのはそれ以上にダメ。
ここで思い浮かべるのは出来るだけ現実に則した良いイメージ。
数十分ほど経っただろうか、会長がやってきて俺の手に青いグローブが嵌められると、構えるミットを相手の顔面に見立て先ずは軽く突いていく。
そこから徐々に回転を上げ、少し汗ばんできた所で終了。
▽
「セミファイナル終わったってよ。」
「遠宮君、準備良い?」
ガウンですっぽり覆っていた顔を持ち上げ頷く。
そして三人の後に続き控室を出ると、後援会の人達の姿が見えた。
激励を背に受けながら、俺は通路を進み階段を上り花道へ。
会場に流れるのはいつも通りのクラシック音楽、飛翔。
纏うガウンに記されるは、トレードマークのオジロワシ。
会場は満席だ、九割は向こうの応援団。
だがそんな事はどうでもいい、地元に帰れば俺にだっているのだから。
勢いよくリングへと駆け上がり対角線を見やれば、こちらを待つ王者の姿を視界に捉える。
口を真一文字に結んだその表情は、如何にも戦士と言った風貌。
そして会場のざわつきが収まった頃合いにリングアナの声が響いた。
『只今より~本日のメインイベント、チャンピオンカーニバル日本ライト級タイトルマッチ十回戦を行います。』
俺も松田選手も、ここが到達点とは思っていない。
この一戦を制し、もっと上へ駆け上がると決めている。
それはお客さん達も当然分かっているだろう。
だが俺と向こうでは状況が違う。
かたや名門かたや弱小地方ジム、ここを落とすという意味の大きさがまるで違うのだ。
俺にとっては、一戦一戦がサバイバルマッチである。
とは言えそれでも、勝ちたい気持ちは同じであろうが。
『赤コーナ~公式計量は百三十五ポンド~十四戦十三勝一敗十KО、ダイヤモンドジム所属~OPBF東洋太平洋ライト級三位~WBOアジアパシフィックライト級五位~…日本ライト級チャンピオン~、サムライ!まつだ~ったかぁ~ふみぃ~っ!!』
大きな歓声、彼のスタイルは泥臭くそして熱い。
女性よりも圧倒的に男性に受ける印象だ。
そう言う意味でも、日本のライト級を牽引してきた大道選手を継ぐ正統なる者と言えるだろう。
『青コーナ~………十七戦十六勝一敗七KО、森平ボクシングジム所属。OPBF東洋太平洋ライト級七位~日本ライト級一位~…二十年の歳月を経て再び旋風を巻き起こすか、新たなる地方の星!とおみや~とういちろう~っ!』
対する俺は、かつて地方から突如現れた天才ボクサー成瀬実を継ぐ者。
そう、俺は夢を継いでいる。
叔父の夢、会長の夢、牛山さんに及川さん、支えてくれる沢山の人達、そして今は亡き父の夢も。
負けられない理由がある、諦めてはならない理由があるんだ。
リング中央で向き合う両者、どちらも下を向いて視線を合わせない。
それから軽くグローブを合わせ自陣へと戻った。
「間違いなくこの一戦に合わせてきてるからね。相手の土俵に付き合っちゃ駄目だよ。自分のボクシング忘れないで。」
「はい。しっかり流れ作っていきます。」
カァ~ンッ!
ゴングが鳴る。
前に出る勢いは若干王者側が良く見え、リング中央軽くグローブを触れ合わせてから、俺は動きを見つつトンと軽快に下がる。
そして左。
「…シッ!」
王者はガードが堅い。
勢いよく踏み込むのではなく、重厚な盾を構えにじり寄ってくる。
速さはない、ならばこちらは回転の速い左を突いていくだけ。
だが当然これでは止まらない、じりじりとにじり寄る姿はまるで相撲取りのよう。
そこから射程に入った途端、力強くコンパクトな左右の連打が飛んで来る。
「…っ…シッシッシッ!」
(この感じはやはり似てるな。)
横の動きを混ぜフェイントを掛けながら翻弄しようとするも、王者はどっしりと構え引っ掛かってくれない。
鋭く距離を詰めてくるのではなく、粘着質に纏わり付きしがみ付いて来る感覚、非常に厄介。
ならばガードの上から強く叩き、体幹を揺らしてから距離を取りたい所だが、王者は岩の様にビクともせず逆に反撃を許す形となった。
「…っ…っ!」
(押し付けるようなパンチ…コーナーに押し込む気か?)
立ち位置には充分気を付けている。
ロープ際やコーナーに詰められた時の厳しさは、前の試合で経験済みだから。
彼に大道選手ほどの老獪さはないだろうが、その代わり王者には若さゆえの力強さがある。
それでも後手を引く展開は避けるべき、俺は強い連打で痛烈にガードの真ん中を狙い打った。
「……っ!?」
(やっぱりもらいながら被せてくるかっ!?)
貰いながらとはいっても、ポイントはずらされている。
急所さえ捉えられなければ問題ないとの判断、痛みでは折れないという意思表示だろう。
被せてくるタイミングも非常にシビアであり、いつまでも被弾を免れるのは難しいかもしれない。
とはいえ軽いパンチを重ねた所で、この人が相手では流れを掴めそうも無いのが現実。
大きなリターンを望むならば、こちらもリスクを覚悟しなければ。
▽
「正面のガードが硬すぎるから、横から狙い打とうか。被せられないよう打ち終わりのタイミングがベスト。」
「はい。」
横から、つまりフック。
フックの当たる距離は向こうの土俵だが、この流れのまま行くのは確かに不味い。
あまりやりたくはないが、こちらから踏み込んでインファイトに臨もう。
カァ~ンッ!
第二ラウンドのゴング。
俺から勢いよく駆け出し、相手の出端を挫く。
だがそんな目論見も、どっしり構えられ全く動揺の素振りが無い。
そして王者は強く放ったこちらの右を受け止めてから、向こうもしっかり腰の入った右を返してきた。
パンチの重さ自体は若干大道選手に劣るが、回転はこちらが上。
重心移動が非常にスムーズであり、モニター越しに見た印象よりも強打のコンビネーションが早い。
おまけにしっかり上下の打ち分けもしてくるので難しい相手だ。
「……シュッ!ヂィッ!!」
(くそっ!回転早くて力の入ったパンチが返せねえ…)
打ち終わりを狙ったフックは確かに当たっている。
だがその前の一撃をガードした時体勢が僅かに崩れるので、完全に手打ちとなっていた。
加え体全体の力でも負けている為押し合いも分が悪く、若干重心が後方寄りになってしまい力の入らない一因を生み出している。
(でもこれ、ダメージ的にはどうなんだ?)
確かに腹は叩かれているが、上はしっかりガードしているので貰っていない。
対して向こうは、軽いパンチとは言え再三左右のフックをもらっている。
「…っ…っ!」
(しっかりガード…からのフック!)
この攻防には一つの狙いがある。
再三フックばかり繰り返しているのは、相手の意識に刷り込むため。
意識がそちらに向かった瞬間を狙い、僅かに下がり距離を取ってから真っ直ぐ撃ち抜く腹積もりだ。
そしてその時はやって来る。
相手は強めの左を叩きつけた後、明らかにガードが外寄りになったのだ。
俺は迷わず半歩程足を引き、空いた隙間に真っ直ぐ右を伸ばす。
「…シィッ!?」
(…読まれてた!?)
相手は俺が下がった瞬間ぬるりと前進、真っ直ぐ右のボディストレートを伸ばす。
完全に裏をかかれ、深々とカウンターで突き刺さってしまった。
正直効いた。
だがこの一瞬がチャンスであるのもまた事実、相手は体勢が整っておらず下から突き上げれば当たるかもしれない。
俺は苦しさや痛みなど無視し、思い切り左を突き上げる。
「……ヂィッ!?」
手応えはあったが、同時に強い痛みも感じた。
王者は顎を突き上げられながらも、鬼のような形相で左ボディを返してきたのだ。
「…ぁ…はっ…シィッ!!」
(…我慢我慢…負けっかよぉっ!!)
両者一瞬動きが止まる。
しかしここは我慢比べ、歯を食いしばり右を突き出す。
王者も立ち直り力の籠った右を振るうも、僅かにこちらが先んじた。
カウンターで刺さり相手の顔面が後方へ弾かれると、大きく体幹が揺れたのだ。
直後たたらを踏んで下がる王者、間違いなくチャンス。
俺は間髪を入れず左を伸ばす。
だが、こちらを見定める王者は構わず打ち返そうとしていた。
しかしそれは無謀、体勢的にも先んじる事はあり得ない。
「…ダウンっ!」
会場からどよめきが上がった。
まさかインファイトで、俺の方が打ち勝つとは思っていなかったのだろう。
現在カウントはスリー、王者は既に立ち上がり足取りもしっかりしている。
余力は充分と言った感じか。
対する俺は、腹の深い部分に重い鈍痛を抱えてしまっていた。




