第73話
四月に入り、明君が出場する新人王トーナメントが始まった。
当然だが付いていくのは会長たちだけ。
なので俺は、そわそわしながら練習をこなし結果報告を待った。
帰り自体はどんなに急いでも夜遅くになるので、試合の予定時刻から一時間ほど経った頃合いで会長に電話。
『うん、勝ったよ。ダウンは取れなかったけど、ポイント的には結構差がついた形だね。』
その言葉を聞いてほっと一息。
『そっちはどう?二日間留守にしちゃったけど、ちゃんとメニューこなした?』
その辺は大丈夫、俺も含め皆真面目にやっている。
ただ監督者がいない状態ではスパーリングも出来ないし、やはりミットはトレーナーが持つに限ると実感した。
佐藤さんと互いのミットを持ち合ってみたが、案外難しいものである。
通話を終えると、皆揃って俺の方を眺めていたので結果を伝えると、
「何か遠征って大変なんすね。」
そう呟いたのは奥山君。
だが彼らの場合、恐らく地元でデビュー出来る筈。
その条件として、俺か佐藤さんがメインを張るにふさわしい肩書を持っていなければならないが。
「三人は新人王戦出られるなら出たい?」
トーナメントは避け、地道に一つ一つやっていくのも手だ。
特に彼らは学生であり、受験などを控える時期と被るだろうから。
「…自分は…はい。出られるなら…」
古川君はやる気十分、他二人はどうかと見やれば聞くまでもない感じ。
この弱小ジムから上を目指すには覚悟がいる。
それを彼らは、若くして理解出来ている様だ。
何とも頼もしい事ではないか。
▽▽
五月一日日曜日、昨日は春子の誕生日だったが仕事で会えず今日会う事に。
そして二人でどこへ行こうかと相談。
「リクエストあれば聞くよ?」
「う~んと、じゃあ水族館に行きたいかな。」
それは良いと俺も賛同し、一路太平洋側へ車を走らせる。
一時間余りのドライブを越え辿り着いたのは、出来てから四十年以上経つ隣町の水族館。
一昨年に大規模な改修工事をしたらしく、建物は結構立派に生まれ変わっていた。
「何かワクワクするね。」
俺の都合もあり中々遠出する訳にもいかない状況。
逢えば体を重ねる行為ばかりで、こうして純粋に楽しむという機会はあまりない。
なので二人供が童心に帰った様に心を弾ませていた。
「あ、ダイオウグソクムシだ。結構前話題になったよね。あはは、動きおそ~い。」
彼女が楽しそうにしているのを見るだけで俺も楽しい。
本当に大切な人といる時間と言うのは、特別な何かを必要としないもの。
何かの本でそんなフレーズを読んだ気がする。
そして今、それを実感してもいるのだ。
「統一郎君、ペンギンのショーやるんだって見に行ってみよ。」
春子はこちらの意思を確認する前に、俺の腕を引っ張り足早に歩きだした。
ショーの会場に着くと並んで着席、パチパチと拍手が響く中ペンギンたちが登場。
係のお兄さんがエサの入ったバケツを持って歩くと、ペンギンたちもその後をひょこひょこ追い掛ける。
「あの子達フンボルトペンギンって言うんだね、可愛いな~。」
芸をさせようとするも、それぞれが好き勝手に歩き回り中々進まない。
しかしそれが逆に面白かったりもする。
進行役の話術の高さも相まって、退屈する事なく最後まで楽しむ事が出来た、
それから昼食を取った後は、クラゲを眺め暫しのんびり。
「春子さ、前に俺が言った事覚えてる。」
「ん?全部覚えてるけど、どれの事かな?」
「卒業後どうするかって話。」
好きな事をやればいいと思うし、出来る限り応援もする。
だが彼女の場合、特にやりたい事はないという。
ならば傍に居て支えてはくれないかと、前にそう伝えたのだ。
「う~ん、お祖母ちゃんのお店継ごうかなって思い始めてる。そうすれば傍にもいられるし。」
「なるほど、経営学を学んだのも役に立ちそうだもんね。」
「でもこれってさ、何か夢の無い人生だよね~。」
「夢なんて無理に見つけるもんじゃないだろ。そういうのって大体不安定なもんだし。」
堅実に生きるというのもまた、それはそれで難しいものなのだ。
特に若い時分はあっちにふらふらこっちにふらふら、最終的な着地点など考えず彷徨ってしまう。
「それに俺はもう…夢なんて見てないよ。」
「うん?どうして?世界チャンピオンになるんじゃなかったの?」
「うん、なるよ。でもそれは夢じゃなくて実現可能な目標になってるから。」
厳密に言えば夢はある。
主要四団体統一王者、これこそ今の俺における正に夢だ。
流石に大言壮語すぎて、言葉にするのは憚られるが。
「春子にはさ、今俺が見上げてる世界を共有してもらいたいんだ。」
「ボクシングの事は良く分かんないよ…」
「それは別にいいんだ。ただ傍にいて…こんなに勝ちたいんだなとか、不安なんだなとか、そう言う気持ちを共有してほしい。」
上手く纏まってはいないが、ある程度感情を言語化する事は出来ている筈。
端的に言うなら、心に寄り添ってほしい。
亜香里にそこまで求めるのは絶対にダメだ。
それは同居人や妹という領分を完全に超えてしまっている。
「猛烈アプローチだね…ふふ。うん、じゃあそうしよっかな。統一郎君に乗っかって夢を見るとしましょう。」
誰かの背中に夢を見る。
それだって十分に面白い人生だ。
例え話としてそれがモニター越しの誰かであったとしても、本気で応援できる人がいるならきっとその瞬間は人生が華やいでいる筈。
これはスポーツに限った話ではない。
例えばアイドルに多額の金銭を費やす者がおり、そう言う人物を冷ややかな目で見る者もいる。
俺はどちらかと言えば後者になるだろうが、正直前者の心情も理解出来てしまうのだ。
だって心が砕けるほど何かに入れ込むのは、凄く楽しいから。
まあ当然ながら節度は必要であり、誰かを傷つけたり心に歪みを孕んだりしては元も子もない。
だがこれが難しい、人は入れ込むと過剰なほど攻撃的になったりもする。
もしかしたら俺も気付かぬうちに歪んでおり、春子に対し行き過ぎた独占欲を発揮してしまうかも。
そうならぬよう、己を自制していかねば。
▽▽
五月の中旬、二転三転していた俺の次戦が決まった。
「日取りは六月二十日の日曜日だよ。相手は帝都拳闘会の篠原武彦君、挑戦者決定戦のあと拳を痛めて休養中だったから今のランキングは八位だね。」
篠原武彦二十七歳、二十九戦十九勝八敗二引き分けKОが十一。
百七十七センチのどちらかと言えばファイター、身長は高いがリーチを活かした戦い方よりも打ち合いを好む。
俺のランキングは現在四位、いよいよ日本王者を射程に収めた。
因みに現在の国内ランキングは、一位から三位まで全て王拳ジムの選手。
当然ながら同門対決は避ける形を取るだろう。
なので実は、このままランクの変動が無ければ自動的に挑戦者決定戦のリングには上がれそう。
だが実際は何が起こるか分からない。
ランキングと言うのも結構曖昧に決められるので、確実に道筋を作っておきたい所だ。
「向こうは結構ブランクある上に、こっちのホームグラウンドでの試合だ。ここはきっちり決めろよ坊主。」
俺はいつだってどこだってそのつもりなのだ。
でもそうはいかないのが現実。
自分の性能を十全に発揮し、出来得る限りのことをやるしかあるまい。
「幸弘君は初の八回戦でセミファイナル、相手はフィットネス宮野のマーク堀田選手だよ。戦績は二戦二勝、アマチュアでもかなり有名な選手だからここが踏ん張り所かな。」
この選手、結構前のボクシング雑誌で見た事がある。
確かアメリカ人の父を持つハーフ、次のオリンピックにおける期待の若手とか紹介されていたが、いつの間にかプロになっていたのか。
当然かなりの難敵、これまた厳しめなマッチメイクをしたものである。
「七月には明君のトーナメント二回戦目もあるから、皆で気合入れていこう。」
色々と動き出してきた感もある森平ボクシングジム。
俺も佐藤さんも、上を目指すならまだここでは躓けない。
会長の言葉ではないが、今一度気合を入れ直していくべきだろう。




