第7話
用語解説
ヘッドスリップ:前で捌くと言う意味ではダッキングに似ている。しかしこちらは体の動きが小さくギリギリで見切り、素早く反撃に打って出る事を前提としたもの。
フック:横からの軌道をえがくパンチ。結構ジムによって教え方が様々、故に正解が一つとは一概に言えない。
「遠宮、ちょっと来い。」
試合翌日、また顔に痣を作ってきた目立たない生徒を、職員室へ呼びつける担任教師。
周囲の俺を見る目も些か冷たい空気を纏っている。
ボクシングをやっているなど誰にも言っていないので、まあ当然の反応だ。
教室では空気、あらゆる催しごとでも空気の俺、ひそひそと言われているのは隠れ不良だとかそんな感じ。
「また試合あったのか?結果は?」
「あ、はい。一応辛勝ながら…」
「おお、凄いな。そういえば体育の上田先生もお前の体付きを褒めていたぞ。」
去年の春にやった体力測定の時、確かに陸上部に興味は無いかと誘いを受けたのは覚えている。
因みに足はそれなりに早い。
「で、要件なんだが、進路希望は就職で間違いないか?」
「はい…一応。」
「そうか。とは言え、ボクシングの事を考えればここを離れる訳にはいかんのだろ?」
実はこれ、結構悩み所。
森平市は田舎だ、当然就職口は限られる。
「この近辺だと殆どが工場になるが、恐らく交代勤務だぞ?」
「そう…ですか。確かにそれはあまり歓迎できません。」
俺がというよりも、合わせてもらう会長に悪い気がする。
会長とて専業という訳では無く、ウェブデザイナーとか言うのを本職でやっているらしい。
そもそもあのジムの会長職自体お願いして来てもらったのだ、これ以上の無理を通す気にはなれない。
「遠宮、担任として聞きにくい事を聞く。」
「はい…」
「本当にプロボクサーとしてやっていく自信はあるのか?」
「………分かりません。」
「先生な、調べてみたんだ。プロボクサーという職業を。何でも世界チャンピオンまで上り詰めない限り、食っていくのも厳しいらしいな。」
「はい…」
「だからその道だけ、というのはあまりにもリスクが大きすぎる。そこでだ、学生のうちから何か資格の勉強でも始めてみないか?」
正論過ぎる。
正論過ぎて只々返す言葉が無い。
先生はそんな俺に構う事無く、パンフレットを手渡して来た。
「自動車免許は必須として、簿記なんてどうだ?先生も持ってるし、三級くらいまでならそんなに難しくもない。」
俺はいかにもちゃんと聞いてますよと頷き返す。
事実、こうして気にかけてくれるのは凄く嬉しいんだ。
クラスでも目立たない俺なんかに、こうして態々時間を割いてくれる。
生徒会の顧問でもあるし、とても真面目な人なんだろう。
そう、間違いなく良い先生だよ。
でも何故か今は、その親切心がとてもとても…迷惑だ。
「有り難うございました。家で考えてみます。」
俺はそう告げると、逃げる様にして職員室を後にした。
トボトボと廊下を歩く俺の横を、幾人かの生徒が楽しそうに話しながらすれ違う。
「お~い、カラオケ行こうぜ。」
「いいよ~あの子達も呼ぶね。」
男子生徒三人に女子生徒一人、いやこれから合流し同数になるのだろうか。
今年同じクラスになった人たちだが、誰も名前を知らない。
俺も向こうも、だ。
だがひそひそと話す小さな声は聞こえる。
「おい、あいつだろ?喧嘩して先生に呼ばれた奴って。」
「え~意外。どうみても陰キャでしょあれ。カツアゲされたとかじゃないの?」
「智子いるじゃん?あの子去年同じクラスだったんだけど、冬頃にも凄い怪我してたって。」
「何それ…怖!」
今から駆け寄って、否定がてら仲良くなったりできるだろうか。
いや、俺には無理だ。
ああいう関係、正直に言ってしまえば羨ましい。
俺は一人が好きなのではない、ただ今まで積極的に触れ合ってこなかったから、どうしていいのか分からないだけ。
本当は彼女だって欲しいし、一緒に遊ぶ友達も沢山欲しい。
「すぐ練習って気分じゃなくなったな。」
会長からは休めと言われているが、休む気はない。
だがその前に気分転換、人が少なそうな図書館へ向かう。
到着し静かに引き戸を開けるが、意外にガラガラと大きな音が響いてしまった。
だがやはり人は少なく、係の者も含め五人程度。
(あの辺座るか。)
俺は誰の邪魔にもならない隅っこを選び座る。
で、何をするか。
取り敢えず図書室に来た訳だし、何か本でも読むとしよう。
そう思い立ち上がった時だった。
「ねね、君さ、喧嘩ばっかりしてる不良ってマジ?」
「…っ!?」
いきなり耳元で囁かれ、驚いた俺は椅子にぶつかりガタンと大きな音を立ててしまう。
一体誰だと見やれば、それは意外な人物。
「まさか…私の事知らない?校内じゃ結構有名だと思うんだけど。」
残念ながら知っている。
何故ならこの人は生徒会長だから。
ウェーブの掛かった長い黒髪と少し切れ長の瞳が特徴的、化粧はナチュラルメイクというやつだろうか、してるのかどうか分からない。
だが、こうして近くで見ると肌は凄く綺麗だ。
名前は確か、如月春子だったはず。
「生徒会長の如月さん…ですよね?」
「ですです、はい。で?君は不良なの?」
「どうみても違うでしょう…こんな不良いないですよ。」
「同級生に敬語いらないって…えっと、何君だっけ?」
「遠宮…です。」
如月さんは生徒会長だが、決して優等生という訳では無い。
成績も真ん中くらいと聞いた事がある。
そんな彼女が何故会長職をと思うが、恐らくは周りに担がれてとかそういうノリだろう。
まあ後は美人だからとか、そんな理由もあるか。
とは言え仕事自体の評判は結構よく、本人も楽しんでやっているお陰で学園が明るくなったと語る者も多い。
「そそ、遠宮君だ。でさ、その傷何なの?…いいじゃぁ~ん、教えてよぉ~。」
ここまでの僅かなやり取りだけで十分に理解した。
俺はこの人が苦手であると。
「もう…帰るんで。」
「え~?じゃあ私も帰るぅ~。」
如月さんはそう語りながら、ニヤニヤと締まりのない顔で俺の後を付いてくる。
一旦玄関口で別れホッとしたのも束の間、靴を履いて外に出るとまたも横に張り付いた。
「はぁ~~…すみませんっ!!」
このまま張り付かれては堪らないと、俺は校門迄ダッシュ。
それから後ろを見やると、拳を振り上げ追いかけて来る美人生徒会長の姿。
「…こらぁ~~まぁ~てぇ~っ!」
いや、待たなければならない理由が分からない。
俺は状況が呑み込めない恐怖を胸の内に抑え込み、振り返る事なくジムまで駆け続けたのだった。
▽▽
駆け続け約二十分、裏手に廃工場、周囲を田んぼに囲まれたプレハブ小屋が見える。
数年前に出来たばかりなので、地元の人間でも存在を知る者は殆どいない。
とてもボクシングジムとは思えない外観だが、俺にとっては大切な場所だ。
その感情には、ジムの設立費用とプロとして活動する為に必要な協会加盟金に、父の保険金が当てられているという事情も含む。
これは全て俺の我が儘からなった事であり、支えてくれた叔父や会長など周囲の大人たちには一生頭が上がらないだろう。
敷地自体は広く、元々は建築会社が事務所として使っていたとか。
「おお坊主…どうした?やけに疲れてんな。」
「おや統一郎君、珍しく息切らしてるね。」
挨拶をしながら見やれば、どうやら牛山さんがセコンドの技術を教えてもらっている所。
圧迫止血などによる出血の止め方とか、マッサージに氷嚢の当て方、加え心構えなども教わっているらしい。
「ああいえ、そこまで疲れてはいないです。」
告げながら奥に進み手早くバンテージを巻き、ストレッチを済ませ練習に入る。
「今日はもう体温まってそうだし、二ラウンドシャドーしたらミット打ちやろっか。」
会長はそのやんわりとした口調とは裏腹、課して来るメニューはかなりきつい。
「ラスト三十!ラッシュラッシュ!苦しくなってからが本番だよ!ほら、顎上げない!」
五ラウンドのミット打ちの最後を飾るのは、いつも無呼吸地獄。
少しでも休もうものなら、横っ面を思い切り叩かれるのだ。
選手が俺しかいないので、ずっとリングを独占できるのは贅沢といえば贅沢か。
「じゃあ疲れているうちに僕とスパーやろうか。牛山さんグローブお願いしますね。」
「はいよ。ほれ坊主、お前からつけてやる。」
少し長めのインターバルを取り、ヘッドギアを付けマウスピースを銜える。
会長は四十を過ぎているが、スパーではいつも俺が圧倒されていた。
会長は現役時代ライト級を主戦場に十五戦十五勝、無敗のまま引退という正に怪物。
世界戦を前に網膜剥離を患い惜しまれながらの形だが、間違いなく王者の器であったと言われている。
だがそんな傑物が、何一つタイトルを得ず現役を終えた事に、世の難しさも感じてしまうのだ。
当時の所属は、父親が経営する成瀬ボクシングジム。
地方の片田舎から世界王者が生まれると期待され、凄い人気だったらしい。
その期待を裏切った罪悪感からか、向こうでは少し距離を置いて指導していた感じだった。
つまり、弟子と呼べる選手がいるのなら、それは間違いなく世界で俺だけだ。
故に恩を返すと言う意味でも、必ず結果を出し報いなければならない。




