第55話
五月初旬平日の朝、亜香里を起こしに行くと何だか具合が悪そうだった。
なので今日は休めと伝え、無理矢理に部屋へと戻らせる。
学校へも俺の方から伝え、仕事の昼休憩の時に母にも事の次第を伝えた。
『やっぱり、またそうなるのね…』
母の声には心配と不安が入り混じっている。
これからの対応を考える為にも、しっかり話を聞いておくべきだろう。
『以前も病院に連れて行ったのよ。けど精神的なものじゃないかって。』
俺から見た感じでも仮病という線はない。
今にも吐きそうなほど顔色が悪かったのだ。
「母さん、一応言っておくけど、このままそっちに帰す気はないから。無理に連れ帰ろうとしたら駄目だよ。」
『…本当、貴方には迷惑ばっかりかけるわね。』
それは違う。
減量時に感じた事なのだが、強い姿を見せたい人が傍に居ると体の奥から力が湧いて来る。
恋人とはまた違った意味で、妹という存在も意外に大きいと感じた。
「亜香里が傍に居てくれるだけで、充分俺の為になってるんだよ。」
『そう…じゃあ申し訳ないけど、これからも娘をお願いするわ。有難うね統一郎。』
通話を終了し、一息つきながら考える。
現実的に俺が出来る事は何だろうかと。
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その夜、練習を終え帰宅して直ぐ亜香里の様子を確認。
居間でぼ~っとテレビを眺めているが、その顔色は朝より幾分かよさそう。
「あ、兄さん…今日はごめんなさい。」
「何で謝るの。別に何も悪いことしたわけじゃないでしょ。」
極力明るい声で語り掛けるが、帰って来る言葉には力が無い。
表情も暗く、俯き加減。
そんな姿を見て湧き上がる感情、それを知り確信した。
俺はやはり、彼女に対しそこまで親身にはなれていないのだと。
何故なら俺は、まだ見ぬ彼女の未来なんかより、とにかく今の彼女を守ってあげたいと思ったから。
本当に親身になっているならば、高校くらいは出てほしいと願う筈。
最終学歴が中卒では、今の世の中結構厳しいのだから。
だが、俺にはそれすらどうでもいい。
しかしこれは正しい在り方ではないと思うので、しっかり言葉にてスタンスを明確にしておいた方がいいだろう。
そう結論付け、彼女と向かい合う形で腰を下ろす。
「明日からはちゃんと学校行くから。大丈夫だから…」
「…行かなくていいよ。というか、そんなに嫌なら行かせない。明日から家の事やりなよ。」
渡瀬夫妻ならば、学費が無駄になるとかそんな小さなことは言うまい。
最悪、その辺りは俺が何とかしてもいい。
「でも…それじゃ…」
「無責任な事言ってるなって、それは自分でも分かってる。でも俺は亜香里の保護者じゃないから。将来より今苦しそうな顔してるのが嫌。」
彼女は俯いたまま何も語らない。
恐らく根本の原因であろう、中学の時に何があったのかくらいは聞けるかと、そう少し期待していたのだが。
多分待っていても話してくれることはない気がするし、ちょっと踏み込んでみるのも良いか。
それも出来ずに何が家族か、ちゃんちゃらおかしい。
「亜香里、俺だけに教えてくれないか?前にあった嫌な事。」
「…言いたくない。」
「…俺は聞きたい。少しでもいいから、もっと亜香里の事を知りたいんだ。」
沈黙が続いた。
腹も減ってるしこれは埒が明かないと、取り敢えず夕食にする事に。
食卓に響くのはカチャカチャと箸が食器に当たる音、そして芸人の笑い声。
俺達は終始無言、下手に踏み込んでしまったが故に、空気の重さに拍車をかけてしまった。
「…ご馳走様。」
亜香里はそう呟くように告げると、すっと立ち上がり自室へ籠ってしまう。
これ以上無理に聞き出しても傷つけるだけ、俺も食器を片付けてから風呂へと向かった。
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時刻が二十二時に差し掛かろうという頃だった。
俺の部屋をノックする音が聞こえ開けると、亜香里が立っており入っても良いかと問うてくる。
「いいよ。布団の上に座って良いから。」
彼女は小さく頷き、室内を見回しながら膝を抱えて座る。
「何にもないね。パソコンと雑誌、後は小っちゃい衣装ケースだけ。」
「殆ど寝るだけだもん。エアコンも居間にしかないから。」
どうでもいい事を語り合いながら、俺は静かに彼女が本題に触れるのを待った。
数分間、互いにただ見つめ合う時間が続き、漸く亜香里から口を開く。
「…いじめとかはね、受けてないよ。今も、中学校の時も。ただ…」
語りたくなかった嫌な事、それを彼女は語り始めた。
俺を信頼しての事か、それともここに居続けるために必要だと感じたのか。
心の内は定かではないが、都合よく解釈し前者と捉えておこう。
「兄さんは知ってる?」
「主語が無いと分かんないよ。何の事?」
「…お母さんが、大人向けの映像作品に出た事があるって。」
一瞬、頭が空白になった。
言葉を反芻しても、正確な意味として捉えてくれない。
「えっとそれはつまり…そういう、あれか?」
「多分考えてる通りのやつ。今実物はないけど事実みたい。これ、お母さんに話したら絶対駄目だからね?」
「ああ~うん…了解、確認は済んだ。一旦その話題は横に置いて本題を進めてくれ。」
「ゴメン。これからする話に結構関わって来る…」
頭を抱えてしまう。
母親がそういうのに出てた話とか、実の息子である俺が聞くのは拷問に等しい。
だが聞かねば話が進まないなら、聞くしかないだろう。
「三年生に嫌な人がいたって言ったの覚えてる?」
「ああ~うん。初めて会った時に言ってたやつだよな。」
「その人さ、住んでる場所も結構近いんだけど、なんでかずっと私の事嫌ってて…いつ頃だったかな?ある日成人向けのそれを持ってきて私に見せつけたんだ。」
亜香里自身最初は何のつもりかと思ったが、よくよく見て血の気が引いた。
何故なら、パッケージに載っている女性が今の母親だったから。
「退部届出せって。じゃないとばらすぞって…」
この子は本当に心根が優しいんだなと、話を聞いていて思う。
普通の子供ならば、反発心や思春期特有の潔癖が発動し、母親を容赦なく罵倒する所だ。
なのにその全てを自分の中に押し込め、誰も傷つけまいと耐えているのだから。
「言う通り退部したのにさ、学年上がったら同級生にその噂広まってて。私の事も援交やってるとか、そんな事一杯言われて…」
正直、聞いてるだけで辛い。
そいつらに報いを受けさせたいが、現実的に考えそれは無理だ。
何より、母にこの事を知られるのは亜香里が嫌がるだろう。
「…何で男子ってあんな感じなんだろ。凄くいやらしい目で見てくるの…おまけに先生まで。そういうの分かるんだよ、向けられてる側は。」
聞いてるだけだと分からないが、そう言う視線に晒され続けるストレスは如何ほどか。
「…その嫌な先輩の腰巾着みたいな同級生がいてさ、そいつが広めてるって分かってたんだけど、どうにもできなくて。結局、学校行くの嫌になっちゃった…」
それは嫌になるだろう。
寧ろ出席日数足りるまでよく耐えたものだ。
だが一つ不思議な事がある。
「しかしよくそこまで行って苛めにならなかったね。」
「それは…演技だけど、切れたら本当にヤバいやつ演じてたから。先生いない時にカッターの刃出して眺めたり、目を見開いて意味なくにやついたり…」
一見笑い話になりそうだが、それだけ身を守るのに必死だったという事だ。
それを一年間続けたとなれば、確かに色々な意味で有名になりそう。
地元の高校には進学したくないのも頷ける。
しかし話を聞いただけでも察せられた、どれほど苦しい生活だったかが。
「亜香里は…母さんの事が本当に好きなんだな。」
「一生懸命、良いお母さんになれるよう頑張ってたの知ってるから。」
「それでも普通は無理だよ。中学生がさ、自分が傷ついても母親を守ろうなんて…優しすぎるにも程がある。」
ある意味彼女は、俺と正反対の人間性。
何故なら俺は、自分のやりたい事の為に父が残した財産まで使い切る我が儘な人間。
だがこうも思う、元来子供とはそういうものだと。
彼女があまりにも出来過ぎてるんだ。
庇護欲とは厄介なもので、一度湧き上がると止めどなく溢れ出す。
現に今、何を敵に回しても彼女を守りたいと思ってしまっている。
「理由は分かんないんだけど…いつからか幻聴が聞こえるようになったの。」
敢えてどんな声が聞こえるかは問わなかった。
今まで耐えてきた彼女が苦しそうにしている、決断するにはそれだけで十分だ。
「…とにかく明日から、少しでも行きたくないって思うなら学校行ったら駄目。約束だ。」
「変な約束…でも、分かった。なら本当に行かないよ?」
「うん。行かなくていい。どうしてもって言うなら通信制のとこにしよう。」
これで会話は終わり。
彼女は心なしかすっきりした顔をしており、今日は良く眠れそうだと語る。
一方俺は叔父に電話し、精神医療の事を聞いてみた。
『あ~妹ちゃんの事か?言っておくが、うちの心療内科は評判悪いぞ。来たら逆効果になりかねん。』
「…え?同僚でしょ?」
『同僚でも駄目なもんは駄目だ。こういうのはどこの病院選ぶかで相当変わってくるからな。良いとこ調べといてやるよ。』
素人は医者というだけで信用してしまうが、中々難しいものだ。
まあ取り敢えず、亜香里の問題は二歩くらい前進したのではなかろうか。




