第54話
試合から二日後の四月十八日、職場には今日まで休みを頂いている。
いつも通り朝のロードワークを終えると、ご飯仕度を済ませ亜香里を起こす為部屋へ。
「…起きてるよ。」
登校初日より更に表情が曇り俯き加減になった亜香里、そんな姿を見てしまえば何とかしてあげたいと思うのが人情。
だがどうする事も出来ないのが現実。
実はこの先の展開、何となく予想は付いており、その時どうするかという難題が目の前にある。
そんなこんな悩みは尽きないが、一つだけ確実に決めている事もあるのだ。
それは何かと言えば、いざ問題に直面した時、問題を抱えたままの彼女を母に丸投げしないという一点、これだけは絶対。
そう心に固く誓っている。
「忘れ物ない?そっか、いってらっしゃい。」
怠そうに自転車を漕ぎ学校へ向かう亜香里、その背中が何とも心許ない。
その時、良い案が浮かんだ。
いや、そこまで良い案ではないのだが、学校での彼女を知る事は出来るかもしれない。
「あ、もしもし明君?突然ゴメンね。ちょっと頼みがあるんだ。今日のお昼休みにさ…」
俺が頼ったのは明君、同じ学校の二年生である。
高校入学を機に、自分用の携帯を持ち番号も一応教えてもらっていた。
その彼に、クラスでの亜香里の様子を覗き見してもらおうというのだ。
彼の都合など考えない図々しいお願いだが、快く引き受けてくれて一安心。
もし苛めなど受けているようなら、そいつら只じゃおくまい。
世間体など関係なく、俺はやるとなったら徹底的にやる。
「まあ、苛めとかそう言う感じでもないんだけどさ…」
厳密にいえば、中学の時はそう言う事もあったかもしれないが。何となく今は違う気がする。
▽
時刻は十三時過ぎ、明君から連絡が入る。
『遠宮さん、聞いた特徴から見て多分あの子だと思うんですが、机で一人お弁当食べてますね。特に問題はなさそうです。』
「そっか。いや本当ありがとね。変な事頼んじゃってゴメン。」
『いえいえ、また何かあったら言ってください。』
通話を終えちょっと考える。
友達がおらず毎日一人でお弁当、まさに俺じゃないかと。
だが俺の場合は、特にそれを苦痛とは思っていなかった。
「でもペアを組んでやる授業とかは結構苦痛だったな。亜香里は俺より社交性低そうだし、余計きついだろうな~。」
若しくは過去に嫌な事があり、同世代の集団に身を置いていると思い出すとか。
これは結構ありそうな気がする。
中身はともかく外見が非常に大人びてるから、周りが近づきにくいってのもあるだろうし。
まあとにかく、今は見守る事しかできない。
それから数時間後、帰宅部である亜香里の帰りは早く、十六時前にはもう家に帰って来た。
そんな彼女とすれ違う形で俺はジムへと向かう。
今日は久しぶりにBLUESEAの面々がやって来る日だ。
▽
「今週も始まりました人気コーナー、地方の星!今日はもうお馴染みとなったこの人です。」
会うたびに少し大人びていく三人娘。
正確に言えばリーダーの藍さんは出会った時から大人びており、他二人がと言う意味だ。
確か三人共が現在高校二年生だったか。
「一昨日の試合も完勝でしたね。この勢いならば、近いうちに大きな試合に漕ぎつけられるのではありませんか?」
何度かやっているから分かるが、台本があるのはリーダーの彼女だけ。
他二人は完全な野放し状態。
だが俺を通じてボクシングには多少興味が出たらしく、それなりに深い話題も振って来る。
こうして大体藍さんが大まかな流れを作り、次に口を開くのは桜さん。
「今の日本ボクシング界と言えば御子柴選手の話題が欠かせませんが、遠宮さんはどう思いますか?」
「そうですね。凄い選手だと思いますよ。技術は勿論なんですが、そのスター性やカリスマ性は他の追随を許しませんよね。」
「なるほど~力は認めても、自分も負けてないぞと言った雰囲気ですね。」
法則の様に、続いて口を開くのは問題児の花さん。
毎回何を言われるのか戦々恐々、だがお茶の間にはそれが大変人気らしい。
「階級近いですし、何かのはずみで当たるかも…ふふ。そうなったら勝つ自信はありますか?」
言葉遣いを選ぶ所に精神的な成長を感じる。
だが相変わらず答えにくい事を聞くものだ。
「それは…無いとは言えませんね。自分も現役ですから。」
「個人的には凄く見たいカードです。どちらも中間距離が得意な選手ですし…何よりあのイケメンを地方選手が食うっていう所に、ドラマがありますからね。」
「あはは…有難う御座います。でも多分当たる事はないですよ。」
「どう…ですかねぇ~。私はいつか当たりそうな気がしてますけど。うふふ。」
前からそうだったが、更に妖しい気配を漂わせるようになってきた。
存在感と言う意味では、間違いなく三人の中で一番ある。
そして変な空気になった現場を纏めるのはリーダーの藍さん、いつもご苦労様と労ってあげたい。
「では最後に成瀬会長から、一言お願いします。」
「はい。皆さんいつも御支援有難う御座います。漸く看板選手である彼がランキングに名を連ね、その先を考えられる様になってきました。しかし……」
相変わらず会長の弁舌は見事なものだ。
ジムへの勧誘やフィットネスジムの宣伝も忘れず行い、この辺りも流石の一言に尽きる。
まあ、勧誘しても大体は及川さんの方に流れていくらしいが。
そしてカットの声が掛かりこの日の収録は終わり、彼女達を見送ってから俺も挨拶して帰路に就いた。
▽
その日の就寝前、春子に話したい事があり連絡を取ってみる。
『はいは~い。愛しの恋人ですよ。』
向こう側から聞こえる元気な声。
後ろからは南さんの小さな笑い声も聞こえる。
今日の話題は決まっており、以前約束していた通り亜香里を紹介する日取りを決めようというのだ。
『うんとね、週末ならいつでもいいけど、今度の日曜でもいい?』
こちらとしても特に問題はなく、紹介するのは数日後の日曜日となった。
そういえばもうすぐ春子の誕生日、今年は二十歳という節目でもあり、何か特別な贈り物をしたい。
そう思っていた所、まるで心を読んだかのようにこんな言葉が返って来る。
『ああそうだ。誕生日プレゼントとかは別にいいからね。前も言ったかもしれないけど、いつか統一郎君がチャンピオンになったら…ね。』
話すべき事はある程度話し終えた所で雑談タイムとなるのだが、春子は珍しく何かを言いづらそうにしている。
なので遠慮なくどうぞと促し、その言葉に耳を澄ませた。
『え~何というかですね、致したのは直近でもう三週間前になる訳ですよ。それでですね、え~……』
俺としては言われずとも会えばするつもりだったのだが、まさか向こうから催促されるとは。
彼女の背後からは、珍しく南さんの大きな笑い声が響いている。
それを気にしない俺も大概だが、正直今更だ。
「俺も最初からそのつもりだったから、こっちに戻って来る時に少し休憩してこようか。」
『あ、あはは…別にね、あの~そこまで溜まってるとか、そういう訳ではないんだけどさ…えへへ。』
「え、そうなの?俺は滅茶苦茶溜まってるんだけど。あ~意識しちゃうと駄目なんだよな…」
『え~そうなの?何かゴメンね。』
こういうのは一度意識してしまうと、どうにも悶々としてしまう。
だから普段はなるべく、男女の営みに関する事は考えない様にしているのだ。
減量時期はそちらに意識が向かないので問題ないのだが、そこから解放されると欲が後から後から涌いて出る。
特に今は、完全に意識してしまったので苦しい。
春子と会うその日までは、亜香里にバレないよう自分で処理しながら過ごすしかないだろう。
▽▽
約束の日曜日、俺はロードワークを終えると直ぐ隣町にある春子の元へ車を走らせた。
自分では冷静にしているつもりだったが、少し普通では無かったかもしれない。
そして笑いをこらえている南さんと挨拶し、助手席に恋人を乗せて戻る。
勿論途中のホテルで二時間ほど休憩を挟むのだが、その短い時間で三回戦もこなすとは我ながら中々だ。
「もう昼近いし、亜香里と一緒にご飯にしよう。」
「うん。どんな子だろう。凄く楽しみだよ。」
やはり欲は適度に発散するべきだ。
お陰で色々な物事を理性的に考えられる。
「お~い亜香里、昨日伝えてたさ、紹介したい人連れてきたからおいで。」
俺の声に反応し、彼女は恐る恐る居間から顔を覗かせる。
対する春子は、パァっと明るい笑顔で迎えた。
「わぁ~、めっちゃ美人じゃん!足なっが!背も高いし、本物のモデル体型ってやつだ。」
亜香里はその勢いに一瞬気圧されたが、手を握られニコニコとした笑顔で自己紹介されると、自分も控えめに返す。
春子の笑顔はちょっと不思議で、何と言うかどんな人間にもある嘘臭さが垣間見えないのだ。
きっと亜香里にもそれが分かったのだろう、徐々に小さな笑みを浮かべながら話す様になってきた。
「あ~本物の妹より可愛いな~。よしよし。」
妹の冬子ちゃんも十分可愛いと思うのだが、家族だと色々あるのだろうか。
それはさておき昼食はどうしよう、何だか今日は贅沢をしたい気分だ。
「お寿司を取ろう。二人供それでいい?」
「わ~い!豪勢なお昼だ~。ね~亜香里ちゃん。」
頭をなでなでされている亜香里は、意外にも結構嬉しそう。
別に人間嫌いという訳ではないのか。
ならばどうして友達を作れないのだろう。
何人かは話しかけるなどして、距離を詰めてくれた子もいただろうに。
(ま、今はそんな事考えるべきじゃないな。楽しそうにしているんだし、それを喜ぼう。)
お寿司が届いたのはそれから四十分後。
奮発した甲斐があり、味も良く会話も弾み良い時間を過ごせた。
「春子は大学出たらどうするか決まってる?」
「う~ん、全然決まってないんだよね。何の為に大学行ってるんだか…」
そもそも思うのだが、無理にやりたい事を探す必要ってあるのだろうか。
その仕事に就ける確約などあるまいに。
だったら、俺の我が儘を押し付けてもいいのではないか。
「専業主婦は嫌なの?」
「おお、いきなり突っ込んでくるね…どうしたの?」
仲の良い二人を見て、この光景が一時的なものであるのは嫌だと思った。
もしかしたら俺自身、家庭というものに過ぎた憧れを持っているのかもしれない。
きっと自分が持ちえないものだったから。
「まあ、只の可能性の話。でも春子が嫌じゃ無かったら考えておいて。」




