第5話
用語解説
デトロイトスタイル:昔はアメリカンスタイルと呼ぶこともあったらしい。前に構えた腕を肘から折り曲げ胸の下あたりまで下げる形、オーソドックス構えに比べ視界が広い。メリットデメリット両方あるので、どちらがいいかは選手と状況次第。
「…五十八,九㎏、遠宮選手スーパーフェザー級リミットです。」
計量会場であるボクシング協会の事務局。
そこには明日の試合に出場する選手が大勢集まっていた。
その中には当然俺も含まれる。
体重計から降りると、安堵から一瞬眩暈に襲われた。
だが付き添いの会長が支えると同時、経口補水液を口に含ませてくれる。
減量にまだ慣れていないせいか落とすペースが分かっておらず、三日前になってから慌てふためき、僅かな水分以外全てを断った結果がこれだ。
地方選手にしか共感出来ないだろうが、何気に長時間の移動も恐ろしくきつい。
「…はぁ…染み渡りますね。」
昔は今とは違い当日計量、つまりこれからすぐ試合という流れだったらしい。
ちょっと考えられないな。
そして俺達は、牛山さんが下に車を回してくれているので、乗り込みレストランへ向かった。
水分が体に染み渡れば、今度は体の奥から溢れ出る食欲の波。
「お肉も食べていいけど、沢山は駄目だよ。パスタとかうどんとかなら良いけどね。」
明日の試合に備え、消化の悪いものは控えろと言う意味だ。
だというのに、俺が頼んだのはカツ丼とバスタ、更にうどん。
「おいおい坊主…会長の話聞いてなかったのかよ…」
「すいません…なんか口が勝手に動いて……はむ…もぐもぐ…」
そう言っている内にも、目の前に置かれたカツ丼をモリモリ頬張る。
俺はこんなにも心が弱い人間だったのか。
後の事等考えられない、とにかく貪りたい。
「いやしかし…凄いね。きつい減量明けの選手って胃が小さくなってるから、必然的に量を食べられないはずなんだけどね。」
「お前、明日になったら動けませんとか…勘弁しろよ。」
因みにだが、これらは全て牛山さんの奢りだ。
少し不安気に眺める二人をよそに、俺は全て平らげても正直まだ物足りない。
「あの…デザート、いいっすかね。」
口をあんぐり開ける二人に了承を得て、俺はバフェとケーキを追加注文。
甘いものは別腹、女性が良く口にするその言葉が今は良く染みる。
腹も膨れた後は当然ホテルに向かい休み、ゆっくり明日に備えるのだった。
▽▽▽
翌日、試合の前には軽い検診を行い、当日の体重も計らなければならない。
「…六十五キロジャストか。体の切れも悪くないし、統一郎君は稀に見る頑丈な胃袋の持ち主だね。」
「へっ…それが坊主の生まれ持った一番の才能ってか。」
「いえ、一番は…」
会長が小さく呟く、左…と。
何でも会長曰く、俺の左は瞬間握力が恐ろしく強いので、相手は石で殴られた様な感覚を覚えるらしい。
「…あと二試合終われば出番だね。」
俺のバンテージには、既に係員によるチェック済みの印が付けられている。
今でこそこういう制度が確立されているが、昔は本当に色々な事件があり、中にはシャレにならない事故もあったとか。
「…ワセリン塗るよ。」
この時間が、俺は凄く嫌いだ。
試合前に傷防止の意味も兼ね、顔にワセリンを塗ったりするのだが、この感触が本当に慣れない。
因みに、沢山塗り過ぎると滑るので警告を受ける事もある。
そしてグローブを嵌め軽くシャドーをしていると、係員の呼ぶ声が響く。
控室を出る時、傷だらけの顔で項垂れた選手が視界に入り、少し鼓動が高鳴った。
(ああ…心が定まらない。落ち着け…大丈夫。あんなに練習してきたんだ。)
通路を抜け、控室のある四階からリングのある五階へと上がっていく。
体は準備が出来ている筈だ。
問題は心、だけどその時になればきっと大丈夫。
だって、沢山練習してきたんだから。
▽▽
「只今より、東日本新人王スーパーフェザー級一回戦、第一試合を始めます。赤コーナ~一戦一勝、公式計量は……とおみや~とういちろう~。」
リングアナに紹介され前後に二度お辞儀をした後、軽くシャドーをして緊張を解す。
「青コーナ~二戦一勝一敗、公式計量は……さとう~しゅうじ~。」
両者の紹介も終わると、レフェリーの合図に従いリング中央で向かい合った。
「バッティング注意して正々堂々…」
相手の体格は、並んだ感じ身長は変わらないくらいで俺より若干細く見える。
強引に打って出て来るタイプには見えないが、予想など当てにはならないだろう。
そして軽くグローブを合わせた後、両者がコーナーに戻り決戦に備える。
「統一郎君、大丈夫?」
「はい、問題無いです。」
「うん、大丈夫そうだね。無理に倒しに行こうとだけはしないように。でも消極的になりずぎるのもダメだよ。」
「了解です。慎重に、でも積極的にペースは取りに行きます。」
会長はマウスピースを差し出しながら語り掛け、同時にこちらの精神状態を確認しているのだろう。
相変わらず鼓動は煩いが、しっかり地に足は着いている。
(同じミスを二度する奴は阿呆…誰の言葉だっけ?)
そんな事を心中呟き、第一ラウンドのゴングが響いた。
両者同時に歩を進め、リング中央で軽くグローブを合わせた後、俺は少し距離を取り相手の構えを観察する。
右のグローブを顎の位置に、左を胸の辺りに下げ視界を広く保つ構えデトロイトスタイルに似ているが、カウンター重視の選手だと推察出来る。
即ち、ある程度距離を取って戦う、こちらと似通ったスタイルと見た。
そして互いにリング中央、円を描き左を差し合う思った通りの展開。
そしてこれは俺にとって最も自信のある展開でもあった。
「シッ!」
向き合い、自分の距離を保ちながら左を突き合う流れ、最初にクリーンヒットを取ったのはこちらのジャブ。
それを受け、相手が少し下がった所を踏み込むべきか迷うが、誘いである事を考慮し距離を保ったまま丁寧にジャブを突く。
すると相手はこちらを消極的と判断したか、踏み込んでくる気配。
「…っ!」
そう思った直後、左のフェイントを交えながら右の強振を放ってくる。
だがこれはしっかりとガードで受け止めた。
(強気に来るな。少し誘ってみるか。)
ジャブに合わせて少しバックステップすると、それを見た相手は追いかけてワンツーを放つ様相。
「……シィッ!」
こちらはワンツーの右をヘッドスリップで逸らしながら、踏み込んで左ストレート。
一瞬捉えたかと思ったが浅く、ペースを握る決定打とはならなかった。
向こうは一旦仕切り直しを計り、バックステップで距離を取ろうとしている。
踏み込んで畳みかけるか、またも選択を迫られるがまだ慌てる段階では無い。
結果、追い掛けるのではなく落ち着いてじりじりと距離を詰める戦法を選んだ。
こちらはフェイントを交えながらプレッシャーを掛け、相手がフットワークで描く円は内側から押し出される様に、段々とロープ際へ追いやられていく。
相手はロープが背に擦れる位置を嫌がり回り込もうとするが、それは許さぬと的確にジャブを突きながら、俺は更に隅へと追い立てる。
「シッシッシッ……シィッ!」
時折右の強打を織り交ぜ、倒せるパンチもある事を伝えながらしつこくじりじりとにじり寄っていく。
気付けば俺はロープを背負う事無く、相手は常にロープ際を移動する展開。
(これでいい。無理に行くのではなく落ち着いて隙を待つ。)
こちらのペースで試合は進み、カンッカンッと拍子木の音が鳴り響いた。
「…っ!?」
(…ここで来るのかっ!?)
この時を狙っていたのか、相手は重心を下げ思い切り踏み込んでくる。
「シッ!シィッ!」
(そう上手くいくかよっ!)
俺は予備動作でそれを察知し、下がりながらワンツー。
ガードの上からだが、確実に動きを止めた所でゴングを聞いた。
▽
「良い感じだ、文句無い。焦る事は無いんだ。自分の距離を守れば問題無く勝てる相手だよ。」
俺はゆっくり呼吸を整えながら、会長の指示に耳を傾けていた。
(焦らず、焦らずだ。ゆっくり向こうが隙を見せるのを待つ。集中、集中だ。)
セコンドアウトがコールされ椅子を下げる時、目が合った牛山さんも拳を握り頷く。
こちらもそれに頷き返し、第二ラウンドのゴングを聞くと同時、気合十分進み出るのだった。




