第49話
三月初旬、近くの高校が入試を終えた直後の時期。
俺は会長に頼み鈴木ボクシングジムへ出稽古に行きたいと伝えた。
すると、
「実はね、僕も向こうに行く用事があったんだ。良い機会だし今回は明君も連れていこっか。そろそろ緊張感ある実戦形式もやっていかないと。」
確かにこれは弱小ジムの課題。
俺や会長が相手だと、どこまでいっても身内感が抜けない。
ボクシングに限らずスポーツ競技とは、ひりつく緊張の中でしか得られないものが多分にあり、それが本番で勝敗を分ける一因にもなりうる。
「おおそうだ坊主、後援会から新しいリングシューズとトランクス送られたからよ。次の試合で使ってやれ。」
「マジですか?何か申し訳ないですね。高価なものなのに…」
「な~に言ってんだよ。後援会ってのはそういう組織だろうが。だろ?」
手渡されたそれらを確認すると、デザインはあまり変わらないが翼を広げたオジロワシの刺繍が入っている。
いつかこれがトレードマークとして定着するなら、何となく誇らしい。
「統一郎君、向こうの会長が詳しい日取り知りたいってさ。君の都合のいい日教えてくれる?」
今週は丁度シフトで土日が休みになっているのでそれを伝えると、すんなり出稽古の日が決まった。
その時視界に入った明君が、少々顔をこわばらせていたので俺から一言。
「大丈夫だよ。只の練習試合。いつものスパーと変わらないから。」
「は、はい。そうですよね。でも恥にならないよう頑張ります!」
彼の性格上自分のではなく、ジムの恥にならないようと言う意味だろう。
どうやら俺が声をかけた程度では、気持ちを解す事が出来ないらしい。
「こんなんで緊張してどうすんだ明。お前プロになんだろ?シャキッとしろ!」
牛山さんが背中をバシンと叩き喝を入れると、不意に体から余計な力が抜けたように見える。
何だかんだ一番世話を焼いているのが牛山さんなので、俺の言葉よりもずっと染みる様だ。
▽▽▽
週末、牛山さんが運転するワンボックスカーに乗り、一路南に隣接する陸前県へと向かう。
最近は天候にも恵まれ路面状態も良好、高速を使い一時間と少しの旅路である。
「これが鈴木ボクシングジムか~大きなジムですね…」
国道に面した立地にあり、ガラス張りの先進的なデザインも目を引く。
プレハブ小屋のうちしか知らない明君にとっては、結構衝撃的な光景なのだろう。
「よく来たね。今日はよろしく頼むよ。光一もまた遠宮君とやりたいって言ってたからさ。」
屋内に入ると更にその充実ぶりが際立つ。
壁沿いに並ぶトレーニングマシン、そこに並ぶはプロ選手のみならずフィットネス会員もおり、数十人もの人間が同時に体を動かしている。
前にちょっと調べたのだが、このジムのオーナーは会長とはまた別で、大きな不動産会社の社長らしい。
だからこその羽振りの良さ、これならば良い選手も育つだろう。
「成瀬君、この子が幸弘だよ。四月からよろしくお願いしますね。」
何だろうか、一人の選手を鈴木会長が連れてきて丁寧に紹介している。
耳を澄ませて聞いているとどうやら移籍するらしいが、この環境からうちに来るなど正気の沙汰とは思えない。
そもそも自分のとこの選手を簡単に手放すという事自体、結構珍しい。
「佐藤幸弘です。まだまだ未熟ですのでご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。」
物腰が凄く丁寧な人で、俺達にも礼儀正しく挨拶してくれた。
その流れで、どうして移籍するのかを聞いてみる。
「仕事の都合ですね。四月から森平市の工場に赴任する事になりまして。それが一時的ではなく恐らくずっととか。」
こうして近くで見ると結構背が高く、多分百七十五くらいありそう。
だが階級はスーパーバンタム(55,33㎏)でやっているらしい。
これは叔父の言葉だが、生まれ持った骨の太さが落とせる体重の幅に大きく影響するとか。
「リーチも百八十以上ありそうですね。これでスーパーバンタムか…」
「はは、その代わりインファイトは苦手なんですよ。今の所は何とかなってますけど。」
「坊主こいつはな、アマチュアでもプロでも未だ負けなしの二十歳、逸材だぜ。」
「い、いえいえ、負けなしと言ってもアマチュアで四戦、プロではまだ二戦しかしてないですから…」
デビューは高校三年のインハイ予選、勝ち抜き全国大会へ駒を進めたが直前に盲腸を患い入院。
そこから一年ほどのブランクを経て、もう一度ボクシングを始め今に至る。
意外にボクシング歴が浅い事を鑑みても、まだまだ伸びしろのある選手なのだろう。
そうして話ながら奥へ進み、明君と一緒に準備を進める。
すると、俺の相手である相沢選手がロードワークから戻ってきた。
「お、来てんじゃん遠宮君。久し振り、それとこの間の試合見たけど、メインよりずっと良い試合だったよ。」
彼、相沢光一は現在フェザー級の日本王者である。
二月の始めに行われたタイトルマッチでは、終始前王者を圧倒し四ラウンドTKО。
まさに圧巻というべきパフォーマンスを見せた。
しかも前王者はWBAの十四位という肩書も持っていた為、それも頂いた形。
地方の有力選手程度の扱いだった彼が、たった一夜にして世界ランカーの仲間入りを果たしたのだ。
「はは、有難う御座います。でもそれはちょっと言い過ぎかと。」
確か相沢さんは実家住まいで完全なプロボクサー専業。
いつか雑誌のインタビューでその事を問われ、大胆な言葉を残している。
『どうせ自分は世界王者になること確定なんで、働く意味が無いっす。』
彼の凄い所は、大言壮語ではなく結果が伴っている点。
「相沢さんこそ、今やもう世界ランカーじゃないですか。」
「ああ~けど、世界戦なんて交渉が一番の難題だろ?果たしていつ出来んのかね。」
口ぶりからは絶対の自信が伺える。
決まりさえすれば、ベルトを巻けるのは確定なのにと。
「まあ金銭面の問題はクリアしてっから、そう時間掛かんねえかもな~。」
お金の話は人を惹きつける。
俺も例外ではなく詳しく聞くと、国内最大手のスポーツメーカーがスポンサーとして名乗りを上げたとか。
ジムのオーナーもかなりの資産家であり、それを鑑みれば億の金を積むのもそう難しい話ではなさそう。
「お~い、いつまでも話してないで準備頼むよ~。」
その通り、遊びに来た訳ではない。
それから三ラウンドほど体を解し、いざスパーへ。
今日は三分四ラウンド、グローブは十二オンスを使う取り決め。
今回の相沢さんは、開始早々両拳を腰のあたりまで下げた独特なスタイルで構える。
舐めているという訳ではなく、何かを試しているという感じ。
「シッ!」
(俺の左は、ボディワークだけじゃ避けられませんよっ!)
上半身の動きだけでいなそうとする相沢さんを、俺の左は的確に捉える。
すると彼は、一度首をかしげてから少し構える位置を上げた。
(おっ、パーリングも混ぜてきた。でもそれじゃ…)
自分で言うのもなんだが、俺の左は速い。
多分これだけなら、あの御子柴選手よりも上の筈だ。
案の定差し込まれる場面が増え、相沢さんはまたも首を傾げ更に腕の位置を上げる。
今度は顎の下あたり。
この位置だとガードもしっかりしてきて、流石に中々当たらない。
そこからはまさに実戦練習。
お互いに負けず嫌いな一面を見せ、終盤には激しい打ち合いを展開した。
▽
「「あざっしたぁっ!!」」
スパーを終え、互いに感想を述べながらグローブを外してもらう。
「おっかしいなあ。他の奴だとあれで捌けんだけどな~。やっぱ遠宮君のジャブなんかおかしいよね。やたら痛いしさぁ…」
「う~ん、見切り早すぎる気がします。俺は速射性重視なんで直ぐに次打てるんで。」
そう、彼は反射神経が良すぎて打ち初めにはもう回避行動を終え、次の準備に掛かっている。
動きの切れも尋常ではなく普通の選手なら追えないだろうが、俺はそれを追って打てるのだ。
「なるほどな。でもあそこまで矢継ぎ早に打てる奴いねえんじゃねえかな~。だってうちの山下さん…ミニマム級なんだけど、それより早いんじゃね?ねえ会長?」
問われた鈴木会長は、苦笑いで頷いてくれた。
これは凄く嬉しい、これからを勝ち抜くための大きな自信になるだろう。
「じゃあ次は、そっちの菊池君だね。準備良い?」
牛山さんに背中を叩かれた明君は、見るからに緊張した面持ち。
でも相手も練習生なので、恐らく良い勝負にはなる。
「明ぁっ!いつも練習してんだろうが、頭振れ!」
牛山さんの檄が効いたか、徐々に硬さが抜けていく。
このスパーは三分三ラウンド、グローブは十四オンスという取り決めであり、階級は見た感じ同じくらい。
しかもスタイルも噛み合うらしく、両者共にリング中央で良い打ち合いを演じている。
だが少々相手の方が上手か。
最終ラウンドに入ると上下に打ち分けられ、ロープを背負う場面が増えてきた。
「お~し、もう少しだぞ頑張れ!」
それでも明君は最後まで打ち返し、初めて経験する本格的な実戦練習を終えた。
会長と牛山さんは直ぐに駆け寄り、労いの言葉と共にグローブを外してあげる。
彼もやはり負けず嫌いなのだろう。
スパーの出来に満足できず、悔しそうな表情を見せていた。
そんな顔が出来るなら心配あるまい、彼はきっと強くなる。
その後はシャワーを借り汗を流してから、皆でその場を後にした。
▽
「坊主は一緒に帰らないんだっけか。」
「あ、はい。ちょっとこれから用事があるんで。」
外に出て直ぐ、会長たちとは別れ俺は教えられた住所へ向かう。
距離的にもそう遠い訳ではなく、順調に歩けば三十分程度で到着予定。
だが如何せん土地勘などある訳もなく、一時間以上歩いても見つけられない。
しかも携帯の充電が早々に切れてしまうというおまけ付き。
「この辺りのマンションの筈なんだけど、一階にコンビニがある…あ、ここだ。」
日が暮れる前に見つかって、取り敢えずホッと一息ついた。
しかしまだ見ぬ妹はどんな人物であろうと思い、多少の緊張感が身を引き締める。
「えっと、三階の三〇五号室。ここだな…」
時刻はもうすぐ十七時、予定より遅い到着。
俺は一度溜息をついてから、そっと呼び鈴に手を伸ばすのだった。




