第39話
「どう?洗礼受けたね。」
「…はい。思ってた数倍激しいです。」
「う~ん、だねぇ。クリンチは極力避ける方向で行くべきかな。首相撲まがいの事もしてくるし。」
首相撲まがいとは、簡単に言えば後頭部を抑えつけ胸部に押し付ける行為の事。
これ実際にやられて初めて分かるが、滅茶苦茶スタミナをロスする。
ガードはムエタイの癖が抜けきっておらず高め、結構左も当たっているが止まらない。
ではダメージはどうだろうか。
それが正直、顔を見てもさっぱり分からないので困りものだ。
「後、気を付けてほしいのは軌道の低いパンチ。あれで足を殺しに来るから。」
狙っているのはボディではなく、文字通り足。
大腿部を直接殴って駄目にしてしまおうという作戦。
場合によっては減点されるが、KОしてしまえば問題ないという考えなのだろう。
合理的というか何というか、非常に独特だ。
そしてゴングが鳴り、第二ラウンドのリングへ進む。
「…シッシッ…シッシッシッ!」
相手の大振りなパンチを下がりながら捌き、得意の左で顔面を打つ。
続けざまに強打を放てればいいのだが、相手はもらっても関係なく振って来るものだから、まかり間違えば相打ちになりかねない。
一発で沈むという確信が無ければ、正直打ちたくない博打だ。
(くそっ…どうしてもロープを背負うな。)
前に出てくる圧力が半端ではなく、しかも決して鈍重でもない。
なれば自然ロープを背負う状況が増え、こうなれば選択肢も絞られる。
耐えつつ間隙を縫って一発一発当てていくか、それともガードで凌ぎクリンチに行くか。
前者も有力なのだが、一ラウンド相対し分かった事がある。
この選手は只のラフファイターではない。
がむしゃらにやっているように見えて、結構強かに計算しているのだ。
「…っ…」
(見るからにガード空いてんだけどな…誘われてる気がする。)
誘ってるとはいうものの、恐らく綺麗にカウンターを取ろうとかそう言う類のものではない。
自信のあるタフネスに賭け、狙っているのは常に相打ちだ。
そして事実、そうなれば打ち負けるのは間違いなくこちら。
(結局、クリンチしか手がないんだよな…)
嫌がらせを受けると分かりつつも、フックを掻い潜り今一度しがみ付く。
すると案の定、頭をロックしながら肘を脇腹にめり込ませてくる。
「…っぅ…」
(痛ぇし苦しいってのっ!いい加減にしろよこの野郎っ!)
これは良い流れではない。
自分でも頭に血が上り始めているのを感じる。
恐らくは、こうなる事さえ見越した上での行動なのだろう。
きっと彼は生きるためにムエタイをやり、今度はボクシングで名声を得ようと試みたのだ。
ブレイク、両者が離されまた同じ展開が繰り返された。
未だこちらに被弾らしい被弾は無く、俺の左は要所要所で相手を捉えている。
それでも、優位とはとても思えない。
カァ~ンッ!
第二ラウンド終了のゴングが鳴る。
俺は既に肩で息をし始めていた。
▽
「…勝ってるよ大丈夫。落ち着いて行こう。絶対にヤケになっちゃ駄目だ。」
分かっている、分かってはいるのだが、心が雁字搦めにされてるみたいだ。
ポイントはどうだろうか、ジャッジはちゃんと採点つけてるのか。
地元判定、外国ではよくあると聞く。
まあそれを言うなら、昔は日本でもあったらしいが。
色々な事を考え、周囲を飛び交う馴染みのない言語にも影響され、心に閉塞感が募る。
「この試合は君に取って大きな糧となる。勉強しておいで。」
会長の表情は、いつも通りの柔らかなもの。
そんな笑顔に見送られ、俺は第三ラウンドのリングへと歩を進める。
「…シッ!…シッシッ…シィッ!!」
(勉強…か。確かに日本でだけやってたら、こんなボクシングには出会わなかった。)
気持ちを切り替える。
ジャブを当て、ボディに左ストレートを二発、間髪入れず右アッパー。
ここは日本じゃない。
俺達の常識を押し付けるのは愚の骨頂。
同じスポーツをしていても、ここにはここの常識があるんだ。
汚いとかなんとか、そんな事を言ったってしょうがない。
「…シュッ!」
(それらを含めた全部…経験の全てを糧にして、俺は上に上がっていくんだ!)
相手のしなやかで強烈な左フックが放たれる。
それに合わせ、こちらも踏み込み力強く右ストレート。
しっかりとした衝撃が肩まで伝わり、相手の顔面を捉えた事実を伝える。
同時、こちらの側頭部にも衝撃。
「…っ!?」
(先に当てたのにっ!?)
やはり並のタフネスではない。
いなされた感触はなく、まともにストレートで貫いたにもかかわらず強引に返してきた。
しかも体勢不十分である筈の一撃が存外重い。
(なるほど、確かにこれは…分が悪い。)
追撃を狙う相手の鼻先に左を当ててから、バックステップ。
只下がったのでは、そのまま押し込まれる危険性があったのだ。
結果、それなりに際どいタイミングにはなったが、一発余計に当てる事に成功。
相手の返しは眼前を掠めるにとどまった。
(漸く、戦果が目に見えたな。)
褐色の肌を伝う血。
それは鼻から滴っていた。
だが足取りに淀みは無く、効いたと言えるほどのダメージではないだろう。
動きにもそれは表れており、先ほどまでと変わらない圧力を纏い正面から向かってくる。
リスクを負うべき時が来た。
ここで只慎重を期すのでは、俺は恐らくこの試合を落とす。
そんな予感がしたのだ。
「…シッシッシッシッ…シィッ!!」
(集中しろ!細かく…瞬間を狙うっ!)
打ち合いでは分が悪い、ならば相手のパンチだけを捌き、こちらだけが一方的に当てればいい。
そんな事は誰だってわかる。
そう、分かるだけで出来はしない。
でもやらなければ勝てないなら、俺はやれるさ…きっと。
「…くっ…ちぃっ!」
下がりながら捌いていた時とは、受け止めなければならない激しさが違う。
相変わらずこの選手は捨てパンチを打たない。
どれかが当たりさえすればそれでいいという、至極単純で恐ろしい考え方。
自分に自信が無ければ到底できまい。
ガードした腕がジ~ンと痺れ、本能が危険性を感じ下がれと訴える。
だがそれを意地と理性で封じ込め、下がるどころか前に出るのだ。
これは一見無謀にも思えるが、距離を潰した方がいくらか強打を減退させられる。
「…ぉっ!?」
(低すぎっ……足かっ!?)
情報としては頭にあっても、初めてでは瞬時に対応できない。
低い軌道を走る強烈な一撃が、綺麗に俺の左内腿に叩きつけられる。
ムエタイで言えば、丁度ローキックが当たる位置だろうか。
当然反則であり、流石にレフェリーが割って入ると注意喚起を促す。
だがそれだけであり、減点すらなかった。
(くそっ!くそっ!痛ぇな…くそっ!)
端から来ると分かった上で受ければ違うのだろうが、今のは完全に不意を突かれた。
足が死んだとまでは言えない、しかし十全に使えるかと言われれば否だ。
そんな状態にもかかわらず、俺の内には今までにないほど熱い何かが渦巻き始めていた。
直後、第三ラウンド終了のゴングが鳴る。
▽
「普段なら熱くなり過ぎないでって言う所だけど…流石に僕も頭に来たよ。」
一瞬視界に入った及川さんも、いつもとは違い鋭い視線。
だが俺は言葉を返さない。
何を言われようともう決めていたから、あの野郎を殴り倒してやると。
そう、殴って殴って殴って…血の海に沈めてやるんだ。
「熱くなったままでいいよ。でも正面からノーガードで打ち合ったりしたら駄目だよ。」
それも分かっている。
不思議な感覚だ。
どうしようもなく頭に来ているのに、やるべき事は冷静に組み立てられる。
何だろうかこれは、音が段々遠くなっていく。
気のせいだろうか、少し世界の色も薄い気がした。




