第37話
七月下旬、隣町である泉岡の空港から直行便が出ているらしいので、その飛行機に乗りタイ国の首都バンコクへ向かう。
初めて見るジェット機はとても大きく、こんなものが空を飛ぶとは俄かに信じがたい。
乗り込んでからも疑心暗鬼、苦手だという牛山さんの気持ちも分かろうというものだが、こういう時は科学的に物事を考えれば落ち着く。
飛行機の事故率は自動車のそれ以下、だからきっと大丈夫だと。
因みに当然と言っては何だがエコノミークラスで移動費はこちらの負担、今回は経験の為の投資と言った所か。
席順は隣に及川さん、通路挟んで会長も座っており、見慣れた顔があると安心できる。
「統一郎君、眠れそうなら眠った方が良いんじゃない?」
外を眺め眉を顰める俺を気遣ってか、及川さんが語り掛けてくれた。
あちらを出る際に量った体重は六十二㎏ジャスト。
仕事の都合もあり計量の前日入りとなるが、計算では代謝のみでリミットまで持っていける筈。
確信に近いものはあれどやはり不安は消えず、慣れない飛行機も相まって正直苦しい。
予定ではあと六時間ほどは空の旅を満喫せねばならないらしく、それを考えると少し具合が悪くなってきた。
「…膝枕してあげよっか?それとも、やっぱり子供扱いされるのは嫌?」
俺は心遣いだけ有難く頂き、静かに瞼を閉じるのだった。
▽▽
到着した時刻は日本時間で十五時前、時差は二時間程度だからこっちは昼過ぎといった所。
飛行機の発着場を眺めていると、二人に促され俺もガラガラとキャリーバッグを引き速足で向かう。
空港はとても広く綺麗、もう少し汚いかと思っていた自分を少し恥じた。
出入国検査は日によって凄く混むと聞いていたが、見た感じそこまででは無さそうで一安心。
「さ、さわっでぃ~…」
伝わっているのかいないのか分からないが、係の男性は少し微笑んでくれた。
しかし頬がげっそりとこけているからか、何度か写真と見比べてから通過許可がおりる。
そしていざタイへ入国。
「うんと、どっちへ行くんだろうね。ちょっと待っててね。」
ピカピカのタイル、民族衣装っぽい服装をした女性の看板などもあり、異国情緒に目を奪われる。
しかし今の状態では、中々風景を楽しむ余裕もない。
それからは思考を放棄し黙って付いて歩き、途中で両替などを挟み漸く外へ出れそうな場所までやって来る。
だが道中色々と気になるものがあったので、帰りの時にでも余裕があれば見て回りたいものだ。
そんな時ふと思う、いつもならこんな事を考える余裕さえなかったなと。
空港から外に出ると、漸く太陽の光を浴び少し解放感に包まれるがやはり暑い。
聞けばこれから会長の知り合いが迎えに来てくれるようなので、少し歩いた場所でしばし待つとの事。
そして十五分ほどは待っただろうか、会長が珍しく大きな声を響かせた。
「お~~っ!ソムチャ~イっ!」
視線の先には、褐色でにこやかな笑みを浮かべる男性。
「ナルセェ~、ヒサシィ~ブリ。」
この男性ソムチャイさんは、以前会長と試合をした経験があり、それ以来親交を持っているという。
自己紹介は車中でとなり、所々さび付いた日本車のトランクへ荷物を詰め、いざ出発。
助手席は当然会長、後部座席に俺と及川さんが乗る。
ソムチャイさんは日本語が殆ど分からないため会話は成立していない。
だがそれでも、会長とやり取りする姿はとても楽しそうだ。
そんな二人の声が響く中、俺は外の景色を眺める。
すると見えるのは、どこもかしこも車、車、車。
良く見知ったコンビニが結構あるのには驚くが、大きな道路に出てからはあまり進んでいない様な気がする、大丈夫なんだろうか。
そんな事を考えていると、及川さんが耳元で何かを囁いた。
「ライト級の元東洋王者らしいよ。凄いよね。」
知ってしまえば、先ほどまでは只の陽気な人にしか見えなかったソムチャイさんが、急に歴戦の勇士に見えてくるから不思議だ。
会長との会話は相変わらず日本語とタイ語、通じている訳も無いが笑うタイミングは同じ、何故だろう。
拳を交えた者同士だけに通ずる何かがあるのかもしれない。
▽
車に乗り二時間と少し、どうやら県を跨いで移動した様だ。
眼前には、まさに下町と呼んで差し支えない風景が広がっている。
舗装されていない道路にひび割れたコンクリート建築、そして元気良く駆けまわる子供。
道幅は狭く、その路肩に停めてある車やバイクが更に窮屈さを増し、この辺りにも異国感を感じてしまう。
そして辿り着いたのは、路地にある古びた三階建てのビル。
日本ならば廃ビルと思われてもおかしくない外観だ。
しかしこんな遠くまで送ってくれるとは、俺が思っていた以上に親密な間柄らしい。
中に入ると一階がボクシングジムで、上の階は特に使っていないとの事、所々ひび割れている床が中々趣深い。
当然エアコンなどなく、いくつかの扇風機が回っているだけ。
年齢様々な選手たちが数多くおり、日本のジムとは違う野心溢れる獣染みた瞳を覗かせていた。
補足しておくと、ボクシングジムとは言うが、国際式と呼ばれる通常のボクシングに加え、キックの選手も入り混じり練習しており、ここで少し体を慣らしてからホテルへ向かうという流れだ。
サンドバックがいくつも吊るされているが、全てボロボロなので打ったら中身が零れてしまいそうで少し怖い。
だが見回せばジム生たちが勢いよくパンチを放ち、キックを放つ。
その彼らの迫力たるや、中々日本では拝めない類の空気だ。
何故だろうか、俺は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。
「何か嬉しそうだね。どうしたの?」
「いえ、何と言うかこの空気…落ち着く気がして。」
「ああ、遠宮君も負けられない戦いばかり繰り返してきたから、共感する所があるのかもね。」
彼らの場合は生活そのものが掛かっており、俺の事情とは厳密に言えば違うが、ここで生きると決めたその覚悟は分かる。
ソムチャイさんと話す会長に視線で確認を取ると、俺はバンテージを手早く巻き、ひび割れている床に尻を付け柔軟を開始した。
流石に真ん中で堂々とは出来ず、隅っこの方で気合を分けてもらう様に眺めながらシャドーをこなす。
この気温の中で動けるか不安もあったが、どうやらそう簡単に息切れを起こす事はなさそう。
苦しいが、これは寧ろ感覚を研ぎ澄ます前向きな材料にもなっている様だ。
調整も上手く行っており、感覚の鋭さに体がしっかり付いて来ている。
気付けば、傍でソムチャイさんと会長が並んで俺を眺めていた。
「…彼は記憶にとどめておいて損の無い選手だよ。」
会長が語り掛けると、伝わっていない気もするが彼は笑顔で頷くのだった。
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ジムで体を動かした後は、またもソムチャイさんがホテルまで送ってくれた。
既に日は落ち、市街地の灯りに目を惹かれ見やると、脇に並ぶ屋台らしきものが目に入る。
こういう状況でなければ是非寄ってみたかった。
そうして夜景を眺め走る事二十分ほど、到着した場所にあったホテルは十階建てくらいだろうか、一見したらマンションに見える佇まい。
ひび割れたりはしていないものの、無機質な印象を受ける白く塗られたコンクリート造りだ。
だが中に入ると綺麗で、印象だけで物事を考える自分の癖を再認識。
ロビーで会長から五十バーツ紙幣を手渡され、何かと思い確認する。
「案内係の人に渡して、チップだよ。」
チップとは馴染みのない文化で生きてきた為、頭の隅にすらなかった。
部屋まで案内してくれた係の人に渡そうと思ったが、どうにも気恥しい上に渡し方が分からない。
結果、表彰状を手渡すような形になってしまい、互いに苦笑を浮かべ合う。
俺の部屋は会長と同室、当然及川さんは別の部屋だ。
「さっき量った時にもうリミット丁度位だったよね?」
「あ、はい。」
「そっか、じゃあ軽めにでも食事とろうか。」
今まで計量日前日に満足な食事を取れた事など無い為、少し驚きの表情で見つめ返してしまった。
「うん。そこの屋台であまり脂っこくない麺とか良いんじゃない?及川君も連れてさ。」
そして三人で外を歩きやってきたのは、先ほど見た屋台が立ち並ぶ場所。
美味しそうなものが沢山あり食欲を刺激されるが、肉はなるべく避け軽いスープと麺料理を注文した。
だがやはり不安が先行し、半分食べた所で会長に譲る。
その後は大人しく帰って休み、明日に備える事にした。
▽
翌日、渇きからか思いのほか早く目が覚めてしまう、やっぱりこちらは暑い。
(苦しいけど、そこまでギリギリって感じじゃないな。)
体重を量りたいと辺りを見回すが、残念ながらこの部屋に体重計は置いていない。
だがまあ大丈夫だろう、そう信じる事にした。
俺は多少の不安を抱きながらベッドの上で体を解すのだが、会長が中々目を覚ましてくれない。
まあ、こんな早朝から計量をやる訳でも無いので別にいいのだが。
(そういえば、相手の情報殆ど知らないな。どんな選手とやるんだろ。)
そうは思ったが、出たとこ勝負で何とかなる気もする。
その後、会長も目覚めゆっくり準備してから及川さんと合流し、またもソムチャイさんのお世話で計量会場まで送ってもらう。
市街地は道路が混みあうらしく、かなり早めの出発だ。
会長たちは相変わらずの親密具合、そこから察するに、こちらの選手を向こうの興行に招く事も考えているのかもしれない。




