第260話
九月二日、試合会場からほど近いホテルの広間。
ここが日本ウエルター級タイトルマッチの計量室だ。
まあいつもの場所である。
「…王者、遠宮統一郎選手、六十五,一七キログラム…リミットから一,五キログラムアンダーです。」
少し周囲がざわつく。
(暑い日が続いて少し食欲がなかっただけだよ。そんなざわつかなくても…まあ体調も崩したけど。)
一時は六十三キロ以下まで落ちたが、現在は緩解状態だ。
感覚的にも特に問題は感じていない。
続いて秤に乗るのは挑戦者。
(やはり大きいな。直に見ると細身って印象も受けない。寧ろ意外にがっしりした見た目だ。)
公表では身長差約十四センチ。
リーチ差もそんなものだ。
「…挑戦者、太田聡選手、六十六,五……百グラムアンダー。OKです。」
秤から足を下ろす彼の体をジッと眺める。
(絞り切ったって感じしないな。この身長でも減量にあまり苦しんだ雰囲気はない。)
更に直近の試合と比べても、明らかに変わった点がいくつか。
まず首から広背筋、しっかり鍛えて来たのが見ただけで分かる。
厚みが違うんだ。
そして膨らみのある肩の筋肉から上腕。
内の二頭筋、外の三頭筋、かなり太い。
(だが前腕はそれ以上に見栄えするな。単純に太くなった。)
資料として渡された映像よりも、明らかにビルドアップしてきている。
この一戦に賭ける意気込みが全身から溢れ出ている様だ。
「…ではメインのお二方……」
促されフェイスオフ。
今回は受ける。
これに関しては気分と相手次第。
カシャカシャッ…パシャ……
焚かれるフラッシュを気にする事無く、少し高い位置にあるその瞳を見やる。
(落ち着いてるな。興奮してる感じも無ければ、当然恐れも感じない。)
そして苦手な時間が終わり、互いに背を向け合おうとした時、
「…明日、よろしくお願いします。」
静かな、呟きにも近い声でそう告げられた。
「…あ、はい。こちらこそ。」
虚を突かれ出た言葉がこれ、もう少し何かなかったかと反省した。
▽
帰りの車中。
「遠宮、間近で見てどう思った。」
「うん、強引に行くと不味いかもな。」
昨日までは、押さえつけられても無理矢理に行けるイメージがあった。
「地味に足腰も強いぞあの選手。だから上体を引いたままで強いパンチを打てるんだ。」
今回、対策らしい対策を何も言ってこなかった。
信頼されているのか、それとも、
「エルヴィン・コークに少し似てる?何となくだけど。もしかして、だから組んだ?」
「さあな。まあ確かに印象としては、体格以外の殆どをスケールダウンさせた感じの選手だ。良い練習になる。」
あれほどの意気込みで来る相手を練習などと、そこまでの余裕はあるだろうか。
「そういやあの人、上体も柔らかいから、ディフェンスかなり上手かったな。」
「そうだ。だが明確に苦手なタイプってのはいるみたいだぞ。」
「へえ、どんなの?」
「押さえつけられないほど手とか足の速い選手。」
「今売り出し中のあれみたいな?ほら、なんだっけ今二位の。」
「はぁ…ネクストジムの折島な。」
目下最有力の対抗選手を覚えていない事に少々呆れ顔の御子柴。
「補足だが、苦手なのは真っ直ぐな出入りが速い奴じゃなくて、細かな横の動きを多用するタイプだ。」
さて、今の俺はそれに当たるか。
正直スピード勝負は自信ない。
「とにかく明日は油断すんな。」
「分かってる。大体油断できるほど弱い相手とも思えねえよ。」
▼
その夜、息子と二人で囲むいつもの夕飯。
今日は豚の生姜焼きと白米、味噌汁に目玉焼きに糠漬け、加えショートケーキとフルーツの盛り合わせだ。
「おとう。」
「ん?」
「俺、明日九時くらいには出るから。」
「分かった。手伝いか?」
「うん。後援会の人達とか練習生の皆でね。」
息子の周囲には、俺の知らぬ輪がどんどん出来ている様だ。
嬉しくもあり少し寂しい。
「ご馳走様。お風呂行ってくる。」
俺は洗い物、それが終われば明日の朝の簡単な仕度。
「流石に手の込んだ準備をしようとは思わんね。よし、納豆ある。バナナもあるから…」
結果、準備をしたのはお米くらい。
下手にやり始めてしまうと、どんどんのめり込む癖があるのを知っているから。
何だかんだ今日の夕飯だって、結構手の込んだものを用意してしまった。
(こういう癖があるから、あいつに変な世話やかれたりすんのかな…)
そんな事を思い、乾いた笑みが零れた。
▽▽▽
九月三日日曜日、泉岡アリーナ。
日本ウエルター級タイトルの初防衛戦。
控室はいつも通りの静けさを保つ。
シュルシュル…ギュッ……
戦いの準備を施してくれる見慣れた顔。
やはり落ち着く。
「調子どう?少し風邪引いたって聞いたけど。」
「もう完全に治りましたよ。」
「そっか。元々そこまで減量してないから体力足りてたのかな?」
「はは、それはあるかもしれませんね。」
試合直前、緊張とリラックスの均衡を図りながらの会話。
これも彼女の技か、話していると程よく整うのが分かる。
「またここからチャンピオンロードの始まりだね。」
「ちゃんと…終着点まで辿り着ければいいんですけど。」
「大丈夫大丈夫。遠宮君は結局何とかしちゃう人だから。でしょ?」
ギュッ…ギュッ…
拳を包む慣れた感触。
完成した感覚。
「よしっと。私の仕事八割くらい完了!」
「有り難うございました。残りの二割もお願いします。」
「あはは。は~い。」
そう告げた及川さんは、モニターを食い入るように眺める。
試合はセミファイナル。
我がジム期待の若手選手が、初めてランカーに挑む一戦だ。
(どんどん下が育つね~。まあ良い事だけど…主役はまだ暫く俺だよ。)
そうして少し目を瞑り一息つけば、試合も中盤。
「よし、御子柴、ミットやるぞ。」
「ああ。」
二人掛かりでグローブを嵌めてもらい、軽く二度三度振ってからミットを叩く。
パン…パンッ…
「分かってると思うが、今までの様にその場でショートを振っても当たらない。」
パァンッ……
「うん。あの上背でああやって上体引かれるとな、猫パンチじゃ届く気がしない。」
本来この直前に確認する様な事ではないが、ここまでいつも通りの練習に終始した。
スパァンッ……
「今回は無理に打ち終わりを狙う必要はない。」
パンッパンッ…バシィンッ!
「横の動きで対処しろ。速さが無くともお前なら何とかなる。いや、何とかしろ。」
わざわざ対策を立てる必要も無い、御子柴はそう思っているのだろうか。
「ふぅ…今まで培ったものだけで何とかなる相手って評価?」
「別に甘く見てる訳じゃねえよ。正直、前王者より強いと思ってる。」
ならば、期待か。
今ならこのくらいは出来ると見込んでの。
「サウスポーは苦にしないタイプだったろ?」
「まあ、少なくとも苦手意識は全くないな。」
だがそれは飽くまで復帰前のパフォーマンスがあっての話。
今日でイメージが変わるかもしれない。
「その意識ってのが大事なんだ。」
「ふぅん。」
「過去の映像を見ると、お前は左構えに対して臆せずグイグイ行ける。右構え以上にな。」
寧ろ俺には他の人達がサウスポーを気にする気持ちが分からない。
少なくとも今日までは。
「意識的か無意識か分かんねえが、自然いいとこに足を置いてた。ポジショニングが出来てたんだよ。」
「う~ん、意識はしたことねえな。何か、グイっと行って適当に右振ると当たる印象。」
言って気付いたが、差し合いで勝てるイメージはあまり沸かない。
「そのグイっと行くが、普通は出来ねえんだよ。だから…」
「だから?」
問い返すと、御子柴は少し言いづらそうにする。
「…だから今回に限っては、お前の感覚を信じる方が良いんじゃねえかと、そう思ったんだよ。」
良く言えば信頼。
悪く言えば、下手な作戦では危ない相手だという証拠。
「太田聡は強い。直近の三、四戦を見れば分かる。国内ランキングに名を連ねる殆どには勝てるだろう。」
「殆ど?」
「一人を除いて…だ。」
その一人とは近く交わる可能性が高い。
「下位であれば、世界ランクを持ってても驚きはない。」
「おお、高評価。」
「まあ、その下位ランカーってお前なんだけどな。」
「IBF?俺が入ってるのって。」
「ああ、今十四位だ。」
「そっか。まあそれはいいや。とにかくお前からの評価はかなり高いって事ね。太田選手は。」
そんな相手が、ここ一番の仕上げと覚悟を持って挑んで来る。
「セルジオも世界ランカーではあったが、あれは指標になりにくい。特殊過ぎてな。」
ああいう選手は能力や戦術より、圧倒的に相性が勝るタイプだ。
そんなこんな話していると、
コンコンッ…
「統一郎君、準備出来てる?時間だよ。」
「万全です。今行きますよ。」
馴染みある声に促されガウンを纏うと、静かにリングへと歩を進めた。