第2話
用語解説
エンスウェル:氷で冷やされた金属、熱を持った部位に当てる事で腫れ止めに使える。
テレビ中継などで見る、セコンドがバケツに突っ込んでいるあれ。
ジャブ:全ての基本。前に出している方の腕で打つパンチ。誰もがまずはこれの練習から。
だが打ち方には結構バリエーションがある。ある意味、選手の特徴が一番出るブローと言えるかもしれない。
ストレート:真っ直ぐ打ち出す力強い一撃。
日本で代表的なストレートパンチャーといえば、山中慎介選手だろうか。
体がふわふわしている。
夢心地、宙に浮いているかの様、まるで現実感が無い。
(…ぁあ…これは……あれだな…プールで…溺れて…鼻がつ~んと…)
思考が上手く定まらない。
(会長の慌てた声……初めて聞いたな…あんな声…出せるんだ……あれ……何でそんな騒いで……)
背中のひんやりとした感覚だけがはっきりとしており、それ以外は良く分からない。
「坊主っ!これで終わる気かよっ!!」
「…っ!?」
どすの利いた低い声が響くと、意識が浮き上がってくる。
すると次に鼓膜を震わせるのは会場のざわつき。
「……フォー!ファイブ!シックス!……」
レフェリーのカウントダウンで、漸く状況を正確に把握する事が出来た。
足に力を込める、多少ふらつくが立つには問題無さそうだ。
偶然とはいえ、間にガードを挟んだのが幸いしたのだろう。
そしてファイティングポーズを取った俺の顔を、レフェリーが鋭い視線で覗き込んできた。
「目を見せて……よし。」
レフェリーが続行の合図をした直後第一ラウンド終了のゴングが響き、俺はぐちゃぐちゃの思考を抱えたまま、半ば放心状態で自陣へと足を向ける。
(ダウンした…四ラウンドしかないのにっ。残りのラウンドを全部取らないと負ける…負ける?…嫌だ!嫌だ!嫌だ!色々な人に支えられてここまで来たのに…情けない。どうしよう?どうしたらいい…)
コーナーに戻っても我を忘れたまま、指示すら聞こえていない。
その直後、ぱん!っと会長の両手が俺の頬を挟み、ひりひりとする感触に思考が支配された
だが行動の意味が分からず、只々会長の瞳を見つめる事しかできない。
するとそこには、いつもと同じ様で何となく違う雰囲気を纏った会長の視線が、しっかりこちらの目の奥を捉えてくる。
「やっと見たね。時間も無いから端的に伝えるよ。僕を信じてくれるかい?」
そう問われ、漸く視界に色が戻ってきた。
(俺は何をやっていたんだ、会長を信じてついていくって決めていたのに。)
舞い上がってセコンドの指示すら聞こえず、挙句暴走してダウンまで食らう始末。
あまりの間抜けさに凹みたくなるが、今はそれ所では無いと持ち直し、挽回すべく会長の指示に耳を傾ける。
「二ラウンド目は無理して右を打たなくても良いよ。ここと思う所で左を突いて、只それだけで良い。相手が前に出て来たら引き、下がったら追って打つ。君の一番得意なパンチを見せてくれ。」
会長はエンスウェルと呼ばれる腫れ止めの金具を、目の下辺りに触れさせながら語り掛けてくる。
すると火照った熱と共に頭に上った血も下がり、徐々に平静を取り戻せている気がした。
「坊主、頑張れっ!」
そういえば、今首筋に氷嚢を当ててくれている牛山さんにも、不安気な声を上げさせてしまっていた。
そうして思い返せば、先ほどのラウンド俺は一番得意なパンチを全く出していない。
気付けば、目が眩むほど眩しかったリングが、今はそうでもなくなっている。
何となく乱れていた呼吸も嘘の様に整っているが、よく考えれば当たり前だ。
まだ三分しか戦っていないのだから。
今まで馬鹿みたいに走り込み、練習してきた成果がそれではあまりにも報われない。
▽
二ラウンド開始のゴングが鳴り、一回大きく深呼吸をしてからコーナーを後にする。
不思議と先程迄のふわふわとした感覚は無くなっており、リングを踏みしめる感触もしっかりと感じる事が出来た。
対角線上に視線を向けると、敵は意気揚々とこちらに踏み込んで来ようとしているようだ。
また同じ展開に持ち込もうというのだろう。
だがそれは許さない。
俺は意気揚々と飛び込んでくる敵目掛け、見せてくれと言われた自慢の左を放つ。
「シッ!…シッ!…シッ!」
(ここ…ここ…ここ。)
ここと思った所で左を突け。
会長のその指示を、まるで機械のように只々繰り返す。
そうして何も考えず同じ事を繰り返していると、段々と慣れ親しんだ感覚が戻ってきた。
焦る必要はない。
しっかり落ち着いて、ロープを背負わない様気を付け回りながら左を突く。
そして俺のジャブが当たる度に、敵は動きを止めるのだ。
(そういえば、俺の左は特別製って前に会長が言ってたな。本当だ…痛そうな顔した。)
自分でも驚くほど冷静だ。
初めての感覚に戸惑いながらも、ただ作業を続ける。
気付けば敵の動きを止めながら、観客席の声にも耳を傾ける事が出きていた。
「松田先輩っ!ガンバっ!」
恐らく学校の後輩だろうか。
ちらりと視線を向ければ、十人程それらしいのがいる。
(応援団がいるのか。良いなぁ、でも、俺にだって頼もしい仲間がいるんだ。)
左しか突いてこない事を悟ったか、敵は前傾姿勢を取ると歯を食いしばって被弾覚悟の特攻体勢。
だが、人は体を硬直したままでは動けない。
敵がいざ踏み込もうとした瞬間、コンマ数秒にも満たない一瞬を狙い撃つ。
「シィッ!」
それは、ガードの僅かな隙間に滑り込んだ。
全く同じモーションから繰り出された一撃は、ジャブではない。
同じ軌道を走り、同じ初動で繰り出される左ストレート。
例えもらう覚悟を決めていたとしても、それは飽くまでジャブの話。
(…そこで止まれ…)
敵は想定以上の強打をもらい思わず踏み込む足を止め、その場でガードを固める。
脳裏には、今までこの左を鍛えた時間が走馬灯のように流れゆく、一体どれほど鏡の前で練習したかも定かではない。
幼少時から悩んで悩んで、何度も打つ度にその形も変えていった。
基本は教えてもらえるが、それだけで勝てるほどボクシングは甘くない。
最初は教えられた通り、何も考えず左を突いていた。
だがこのままでは自分よりリーチのある相手には勝てないと思い、踏み込んでより遠くへ届かせる事を意識する様になる。
しかし、それでは強く打てるが連打が遅い。
そもそもそれはストレートなのではないかと思い、ジャブの練習って必要あるのかと思った事さえある。
それでも鏡の前で狂った様に繰り返していた時、予備動作の中で一番ネックなのが踏み込みだと感じた。
踏み込めば、どんなに早く打とうが反応される可能性が高い。
ある日、いつも通り家の姿見の前で頭がぼーっとするほど繰り返していた。
無我の境地とでも言うのだろうか、時々鏡の向こうの自分がいつの間にか目の前にいる、そんな錯覚を覚えた。
感覚を頼りに同じ事をやろうとしても、上手く行かずイライラ。
そんなある時、似た感覚に陥るのは決まって同じ状態の時だと気付く。
疲れて踏み込みをサボろうとした時だ。
気付いてからも長く、試行錯誤を繰り返しやっと今の形に落ち着いたのは、ごく最近である。
爪先は地面から離さず重心移動も滑らか且つ滑る様に、足首から先の動きで僅かな距離を調節し、上半身は一切ブレさせない。
それは只々無駄な軌道を省き、いくらでも連打が利き、気付かせず避けさせない事だけを追求した俺なりのジャブ。
勿論状況によっては、一目で分かるほど力強く踏み込みもするが、立ち回りの芯はあくまでこれだ。
ここで活かす為に研ぎ澄ませてきた技、このまま終わっては今までの時間が無為なものとなってしまう。
▽
今まで感じた事が無いほど感覚が冴え渡っていた。
それこそ、敵の息遣いまで手に取る様に分かるといっても過言ではなく、はっきり言って、負ける気がしない。
だが油断は大敵と気を引き締める。
俺の目標は今の勝利ではなく、この先も勝ち続ける事なのだから。
このままでは埒が明かないと悟ったか、敵はがっちりとガードを固めたまま、またしても被弾覚悟で体ごと突っ込んでくる様相だ。
(相手が前に出た分下がれ…だったな。)
俺はその言葉を正しく実践した。
正確に言うなら左を突きながら逃げ回った。
それでも俺の左は面白い様に当たり、その度に敵は僅かながら動きを止める。
気付いた時には、大量の鼻血が流れ胸部を赤く染め上げた男が眼前に立っていた。
(これは会長のミット打ちと同じ感覚だな。なるほど…この為か。)
下がりながら打つという感覚が妙にしっくり嵌る。
今右を打てばこのまま倒せるんじゃないかと思えるほどだ。
それでも思考を放棄した様に、会長の指示通り左、左、左。
こんな感覚は本当に初めてだ。
万能感とでも言うのだろうか、まるで敵の一挙手一投足が全て把握出来るかの様。
拍子木の音が響き、残り十秒。
「シッ!シッ!……シィッ!」
ジャブ二発から、左ストレートを警戒した所に回りながら左フックを引っ掛ける。
そこでゴング。
俺は少し乱れた息を整えながら自陣へと足を向けた。
▽
「ちょっと予想以上だったね。素晴らしいよ統一郎君。次のラウンドから右も織り交ぜて行こうか。」
「はい。でも、倒す事より勝つ事に拘ろうと思います。」
どんなに優勢に進めていても、向こうの一発は脅威だ。
「凄えじゃねえか坊主!今のラウンド一発ももらってねえんじゃねえか?」
俺は差し出されたマウスピースを銜えながら、呼吸を整え集中力を高めていった。