第17話
「やっぱり若いってのはいいなあ。怪我の治りも年寄りとは段違いだ。」
九月初旬の日曜、叔父から練習再開の許可が下りた。
一月ちょっとのブランク、取り戻すのにどれくらい掛かるだろうか。
そんな不安もあり、定休日だが会長に連絡を取りジムを使わせてもらう事にした。
今日一日くらい待てよと思うだろうが、とにかく体を動かしたくて堪らないんだ。
「うわっ…あっつ。熱籠ってるな~。」
合鍵を使い戸を開けたその場所は、まるでサウナと思しき室温に達している。
それから暫し換気を兼ね待っていると、背後から響くエンジン音。
「おお坊主、会長から連絡あってな、見てやってくれってよ。」
「あ、すいません。でも店は大丈夫なんですか?」
「うちの店番は大体かかあだよ。知ってんだろ?」
確かにいつも対応してくれるのは、ふくよかで感じのいい奥さんの方だ。
まあ、この強面が店番では客足も遠のくかもしれない。
「ミットは俺が持つからよ。遠慮なく打ち込んで来い。」
「え~?大丈夫なんですかぁ?」
「はっ、会長から直々に教わってんだぞ?お前もちょくちょく見てんだろうが。」
軽い冗談を言いつつ、バンテージを巻き入念にストレッチ。
やはり体が硬くなっており、こちらも徐々に取り戻していかねばなるまい。
そして牛山さんが見つめる中、リングに上がりシャドーを開始する。
「肩に力入り過ぎてんぞ。どうした?」
自分では気づかないほど細かな違い。
何だかんだ数年関わっているだけの事はある。
「おし、もういいだろ。じゃあミット打ち…取り敢えず三ラウンドな。」
シャドーを四ラウンドこなし、ようやく硬さも抜けてきた。
「左トリプル…ワンツー、アッパーから…よ~し、何だよ意外に動けんじゃねえか。」
ブランクと言ってもたった一か月だ、この位は出来るさ。
「ワンツースリーフォーまで…よ~し!右!もう一発!」
だが三ラウンド目に入り、徐々にではあるが差が浮き彫りになって来る。
「…ガード!だから右打つ時ガード下がるって!…ラスト二十から行けるか?」
行けるかというのは、無呼吸連打の事。
これから上を目指そうという選手が、行けないなどと言える訳もない。
「おしゃ!頑張れ頑張れ頑張れ頑張れっ!あと十!」
限界まで酷使すると、意識が遠のき肺が焼けるほど熱く感じる。
それでも本番では、これよりも苦しい時が必ずやって来るだろう。
だから弱音は吐かない。
只々朦朧とする意識の中、拳を繰り出すのみだ。
「お~し休め!ふぅ~…思ったより行けるじゃねえか坊主。これなら結構早く試合組んでも良さそうだな。」
俺は言葉にならず、リングに大の字で転がる。
しかしインターバルは一分、この後はサンドバックや牛山さんに腹を打たせて鍛えるメニューもあるので直ぐ立ち上がらねば。
病み上がりだからとか、そんな理由で自分を甘やかし上を目指せるものか。
そんな事を思っていると開けっ放しにしていた戸から見える駐車場に、見覚えのある乗用車がやって来る。
「やあやってるね。牛山さんも有難う御座います。」
「いやいや何てことねえって。それより今日は予定あるって話だったが?」
「まあそうなんですけど、様子を見に来る時間くらいはあるので。」
会長に軽く会釈をした直後、インターバル終了のブザーが響く。
まだグローブは付けていないので、仕方なくこのラウンドはパンチングボールで流す事に。
因みにパンチングボールとは、よく選手が軽い力でリズミカルに打ってるあれだ。
そしてラウンド終了と共にグローブを付けスタンバイ。
一発一発丁寧に、重心移動を意識しながら叩く。
「…うん、思ったより切れてるね。」
「だろ?さっきミット持ったんだけどよ、左ストレートなんか手の平痛えくらいなんだぜ。」
「一応リスト強化のメニューは伝えておいたけど、思ったより成果出た感じかな。」
この一月、会長に言われ手首を重点的に鍛えてきた。
とは言え肋骨に負荷をかけないよう、腕立てならぬ拳立てなどは避ける形。
なので軽めのダンベルを使い、手首から先で上下運動を繰り返す方法を選択した。
正直強くなった実感はない、しかし周囲の反応を見て多少の成果はあったと推察できる。
「…はぁ…はぁ…会長今日はすみませんでした…はぁはぁ…牛山さんも。もう上がりますね。」
「うん、ご苦労様。」
「おう。ゆっくり休めよ。」
そう告げると、三人一緒にプレハブ小屋の外へ。
「そういやよ、坊主はシャワー室一回も使った事ねえな。」
「え?ああそういえば。まあ俺は走って帰りますからね。」
実はうちのジム、外に簡易のシャワー室が設置されている。
これは牛山さんが知り合いに話を付け拵えたもの。
ジムの為に気を利かして作ってくれたのだが、今まで俺は一度も使った事が無い。
「牛山さん、僕は結構使わせてもらっていますよ。」
「俺も結構…つまり使ってんのは選手以外かよ…」
項垂れる牛山さんだが、これから練習生が増えれば必ず重宝されるだろう。
まあ、俺が使う予定は今の所ないが。
▽▽
練習も無事再開し感覚を取り戻した九月中旬、意外にも早く次戦の話が舞い込む。
「十月の二十日、王拳ジムさんの興行だよ。相手はデビュー戦の選手だってさ。どうする?」
「勿論やります。」
会場はお馴染み、帝都にある多目的ホール。
「ほお、坊主を良い選手だって言ってたあの会長が当ててくんのかよ。どういう腹積もりだ?」
「う~ん、どうでしょう。浜口会長は結構そういうマッチメイクもしますから、特に裏は無いと思いますよ?」
「ふ~ん、それでも裏を読むなら、アマエリートが揃う中でそれ以外を振るいに掛けようとか、そんな感じか?」
「なるほど、それはあるかもしれませんね。」
会話に耳を傾けていて思う、名門だからこその苦悩もあるのだろうなと。
特に叩き上げには厳しそうな環境だ。
まあ地方の弱小ジムに所属する俺が言う事ではないが。
「あ、そうだ統一郎君、新人王戦のライト級チェックしてる?」
「え?いえ特には、誰か注目選手いましたか?」
「うん、いたよ。」
そう告げた会長は、ノートパソコンを手に歩み寄る。
そこに映し出されていたのはトーナメント表。
「ほら、ここ。」
会長が指さした場所にある名前、それはダイヤモンドジム所属の松田隆文選手。
まだ記憶にも新しい、俺のデビュー戦の相手であった彼だ。
思い返せばあの体付き、確かにスーパーフェザー級ではきつかっただろう。
「強くなってるよ凄く。全日本取るかもね。」
彼が所属するジムの興行力も鑑みれば、そのまま日本タイトルまで一直線に駆けあがるかもしれない。
「へっ、良いじゃねえかよ。こいつが日本王者になってくれりゃ、因縁含みで指名もありうるぜ。願ったり叶ったりじゃねえか。」
「はは、そうですね。どうやって試合に漕ぎつけるか、うちの場合はそれこそが一番の難題ですから。」
二人の言葉から信頼を感じる。
チャンスさえ巡って来れば、必ず物にしてくれる筈だと。
こんなに嬉しい事があるだろうか。
その期待に応える為にも、先ずは一つ一つ確実に取っていくしかない。
俺は改めて、強く深くそう心に刻んだ。




