第15話
用語解説
主要四団体:WBC・WBA・WBO・IBFの四団体。日本に限って言えば、十年程前までWBCとWBAの二団体しか認めておらず、それ以外は未公認団体扱いであった。
世界にはマイナー団体も多く存在(WBUなど)し認めていくと切りがない。ただでさえ訳の分からないタイトルが増え王者の価値を損ねているのに…
「春子、出来たから持ってって頂戴ね。」
「はぁ~いおばあちゃん。今行くよ。」
話し始めて十五分くらいだろうか、注文していた料理が出来上がったらしい。
すると女性陣二人が、馴れた手つきで次々とテーブルに料理を並べていった。
目の前に並ぶのはこれぞ定食。
豆腐の味噌汁にご飯、そしてお新香と厚めに切った豚の生姜焼き、添えられたキャベツの千切りにもタレが染みており食欲をそそる。
「多恵さんの料理凄く美味しいよ。隠れた名店ってやつだね。」
「ええ、本当に美味そうですね、じゃあいただきます。」
ふわりと香る中に、香ばしいゴマの風味が混じる。
結構強く主張しているので、隠し味という訳では無いだろう。
タレは甘すぎず辛すぎず、ご飯を掻っ込みたくなる絶妙な加減。
「へへへ、どう?お祖母ちゃんの生姜焼き美味しいでしょ。」
「うん!滅茶苦茶うまい!」
気付けばあっという間にご飯が空。
おかわりは可能だろうかと思っていると、いつの間にか如月さんがお椀を手にカウンターへと向かう。
「はい、おかわり。お腹一杯食べてね。」
そう言って手渡して来る彼女の笑顔、何だか凄く癒される。
こういう女性と所帯を持てれば、人生はきっと楽しいものになるだろう。
そして俺は、決して鈍感系ではない。
なので、彼女から向けられる好意を勘違いとして扱うのは、男としてあるまじき在り方だ。
どこかでしっかりけじめをつけるべきだろう、俺の方から。
「お祖母ちゃん、片付けと戸締り私がやっておくから、先に帰ってていいよ。」
「あらそうかい?じゃあお言葉に甘えようかねぇ。」
時刻が十九時を過ぎた頃、看板の明かりも消え閉店となる。
どうやら閉店時間も雰囲気通り結構アバウトらしい。
それでも都会だと早すぎる時間だが、田舎町では閑散とし始めるのも早いので丁度いい頃合いだ。
「遠宮君、良ければ続き聞かせてくれる?」
如月さんは食後のコーヒーを三人分卓に置き、こちらを眺める。
俺はカップに口を付け、一度啜ってから続きを話し出すのだった。
▼▼
ボクシングの練習とはまさに単調作業の繰り返しだ。
基本のジャブ、フック、ストレート、ボディブローにアッパー。
鏡を見ながら放ち、サンドバックに向かって打ち、ミットに向かって叩きつける。
だが、俺にとってその単調作業は何の苦痛にもならなかった。
寧ろこの一つ一つが、あの場所に繋がっているのだと考えるだけでわくわくしたのだ。
しかし父にはそれが心配でもあったらしい
『お前、友達と遊んだりしないのか?』
そう言われ少し考えるが、俺はやはり練習のほうが大事だと伝える。
すると、
『そんな事ねえよ…友達も大事だぞ~。』
父は顔を曇らせながら、関係構築の大切さを説く。
俺にしてもそのくらいは分かっているし、友達が全くいなかったわけではない。
まあ、放課後一緒に遊ぶことがあまりない時点で、友達と呼べるかは微妙なのだが。
特にボクシングの練習をするようになってからは、一緒に誰かと遊んだ記憶が殆どない。
だからだろうか、偶に友達と遊んだ話をしてやると、父は自分の事の様に喜んでいた。
当時はそんな父の気持ちを全く理解出来なかったが、今は理解できるようになっている。
これこそ成長の証と呼ぶべきか。
そんな毎日でも、自分にとってはなによりも充実していた。
自惚れるわけではないが、それなりの手応えも感じていたと思う。
今思い返せば恵まれた環境だったのではないだろうか。
練習生の少なさもあってか、付きっ切りで教えてもらえる事も多かったし、週に二度程度、ジムで父と軽いスパーリングの真似事をする事も出来た。
『ほれほれ、ジャブ打つとき右のガード下がってるぞ。』
勿論これ以上はないほど手加減してくれていて、牽制のためのジャブ程度しか打ってこなかったが、やはり腐っても元プロ。
俺が何をしても簡単にあしらわれてしまっていた。
『左を制する者は世界を制するって格言あるだろ?あれの意味わかるか?』
ボクシングをやらない人間でも知っていそうな格言の為、勿論俺も知っている。
だが、改めて意味と言われると少し悩んでしまった。
言葉通りの意味では駄目なのだろうか。
『まあそうなんだがよ、俺はこういう意味だと思ってる。』
あまりにそのままの返答をした俺に父は苦笑いを浮かべていたが、想定内だったらしく続きを得意げに語り始める。
『ジャブってのは、殆どのコンビネーションに於いて基軸になる。これはわかるな?』
それも勿論知っている。
ワンツーだろうがそれ以外のコンビネーションだろうが、入りはジャブが殆どだ。
まあそれすら無しに、無理矢理距離を潰す選手もいるにはいるが。
『そうだ、じゃあそれはなんのためにやる?』
そう言われ少し考える、だがこれは簡単だ。
相手の目を眩ましたり、距離を測ったり、つまり強いパンチを打つ為だ。
正確に言うと打つ為ではなく当てる為。
『そうだ、つまりその軸になるものがしっかりしてねえと、どんな才能も無駄になっちまうぞってことだ。』
分かったか?というように父は顔を覗き込んでくる。
俺は何度も頷きながら、言われたことを反芻した。
『おう!つまり才能に驕らず、 基本をしっかり練習してれば道は開けるって格言だ。』
今思い返すと誰でも分かることなのだが、子供にとってはその事実よりも、誰に言われたかのほうが重要だった気がする。
そしてこの話を聞いてからは、とりあえず時間があれば狂ったようにジャブの練習するのが日課となったのだ。
父は転職してから、仕事の都合上家を空けることが多くなった。
そのため家事は、基本的に俺が全て任されることになる。
掃除などは機械があるためどうにでもなったが、一番苦労したのはやはり食事だろう。
とは言っても、お金は置いて行ってくれるので、出来合いで済ませる事も出来たが何となくそれは避けた。
幼き日の俺は、テレビでボクサーの減量風景を見ては、自炊出来なければ王者に成れないと思い込み、料理本まで買って練習したものである。
まあ、父は試合前くらいしか自炊していなかったのだが。
恐らく少量の食事で耐えて練習している姿を、只カッコいいと思っただけなのだろう。
憧れの人がやることは、何でも真似したがるのが子供なのである。
だがやっている内に腕前自体はそれなりに上がり、数か月経ったある日、父の帰宅を待ってボクサーにお勧めというメニューをネットで調べて作ってみたのだが、反応は思ったより芳しくないものだった。
『凄えな!凄えけど、これ減量メニューだよな…』
得意げな顔をしている俺と、微妙な顔をする父。
思いもせぬ反応が返り、何が悪かったか問うてみると、
『何というかこう、出来ればガツンとしたものが食いてえんだよなぁ~。ほら、俺ってもう減量とか必要ないだろ?だから、もう少し油と塩気が欲しいかなぁ~……なんて。」
父は作った俺に申し訳なさそうに、顔色を伺いながら言葉を選んで話す。
理由を説明されると確かに納得。
疲れて帰ってきた所にこれでは、力が出ないのも頷ける。
因みにメニューは、玄米に豆腐ハンバーグ、お浸しに味噌汁だ。
『よっしゃ!久しぶりに俺が腕を振るってやるか!』
父は腕まくりをし自分が台所に立つと、これぞ漢料理という感じで豪快に鍋を振り始める。
『今はもっとガツンとしたもの腹一杯食っとけ。そのうち節制しなきゃなんねんだからよ。』
この時父が作ってくれた料理は、肉と野菜を適当に炒め味付けも適当という、誰でも作れるような簡単なものだったが、俺には掛けた手間以上にとても美味しく感じられたのだ。
だからだろうか、今でも偶にあの時の父の姿を真似て作っているのは。
父は暇を見て熱心に指導してくれた。
その日教えてくれたのは、自分が得意にしていたコンビネーション。
『いいか統一郎、これの肝はな…三発目だ。』
何度も聞いているので知っているが、敢えてそれは言わない。
上機嫌の父をわざわざ邪魔することもないだろう。
『相手の状況に合わせてな、フックをアッパーもしくはボディに切り替える。』
父が慣れた様子で、手本を実演しながら教えてくれる。
パンチが風を切るたび声を上げる俺を見て、少し照れた様な嬉しそうな表情をしていたのが印象深い。
『相手が強気に打ち返してきそうなら、踏み込んでボディ!』
ダンッと勢いよく踏み込む音と共に、切れのあるパンチが空を切る。
『ガードを固めるなら、強めのフックでずらし、隙間に渾身のストレートだ!』
元プロとは言え、やはり素人とは迫力が違う。
そのパンチに打たれる自分を想像すると、背筋がぞくっとしたのを今でも覚えている。
『敢えて三発目をフェイントにして、最後に渾身のストレートをボディにもっていくのもいいな。』
確かに父が試合を優勢に進める時、こんな感じのコンビネーションが決まっていた様な気がする。
だがこの人の場合、優勢にしていても落とす試合が多かった。
理由は、そのサービス精神旺盛な持ち前の性格に起因する。
一つ例を挙げると、相手がふらふらで安全圏からジャブを打っていれば判定で勝てる試合でも、会場を盛り上げるべく危険を冒して態々打ち合いに行くのだ。
その結果乱打戦になり、ダウンの応酬。
もどかしくも思ったが、会場を盛り上げたい気持ちは分かる。
自分が主役のリング、主役の時間、せめてその時だけは輝きたかったのではないだろうか。
もしかしたら、それがなければもう少し上も狙えたのかもしれない。
何というか、最後まで太く短くといった印象を残す人だった。
それから俺は周りの指導もあり順調に上達していたが、どうしても苦手なものが一つだけあった。
それこそロープ、所謂縄跳びの事である。
俺はテレビに映る某世界王者を真似て軽快に飛ぼうとするのだが、なんというかとてもお粗末。
恐らく漫画ならばドタドタという擬音がつくだろう。
『はははっ!お前っ、なんだそれっ!』
父に大声で笑われ、これには流石にカチンとくる。
俺は堪らず、本気でやっているのに笑うのは酷いと非難。
『悪かったよ、そう拗ねんな。縄跳びなんて練習すりゃそのうち誰でも出来るさ。 な?だから気にすんなよ。』
そう言われても、当時は全く出来る気がしなかった。
言っているのが先ほどまで大笑いしていた本人なのだから、それも当然であろう。
『本当だって。お前運動神経いいんだから。すぐ出来るようになるって、俺を信じろ。』
その言葉通り…いや、それよりはかなり時間が掛かったが、三か月後くらいにはこれぞボクサーと言っていい軽快さで飛べるようになっていた。
俺はそんな環境の中で日々を過ごしながら、その日を迎える事となる。




