第11話
用語解説
六回戦:四回戦の上、六ラウンド制で行われる試合。ここで二勝すれば次のステージで闘う資格を得られる。
「うんとね、鼻の軟骨部分の骨折と…左脇腹肋骨が二本、多分亀裂骨折だからすぐ直るね。左肩は軽く痛めただけだよ。」
「直ぐというと、どのくらい掛かりますか?」
「う~ん、若いし一月もすれば治るんじゃない?あ、でも、ちゃんと精密検査受けてね。」
試合後行われる診察、会長と医者のやり取りだけが響いている。
俺は呆然自失、椅子から立ち上がる気力もないが、鼻の形を整えてもらった時は痛さで呻いてしまった。
背中に当たるごつごつとした手の感触は、牛山さんのものだろうか。
(負けた…絶対に落とせないトーナメントだったのに。)
来年まで待とうか。
そんな考えが浮かぶも、先の絵が思い描けない。
今年駄目だったから来年、その程度の覚悟で臨んでいた訳では無いのだ。
「統一郎君、帰るよ。シャワー浴びても良いってさ。行ってきな。でも、あまり熱いのは駄目だよ。」
「…え?…あ、はい。」
見れば会長たちからのプレゼントであるトランクスも、真っ赤に染まっている。
本来の白が殆ど見えないほどに。
それから俺は、フラフラと歩いて行き少し温めのシャワーを浴びる。
予定では勝利の余韻に浸っていたはずの時間、今は何も考えたくない。
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控室に赴くと、会長は他のジムの会長さんと話し込んでいた。
「いや~良い選手だね。アクシデントなければ勝ってたんじゃない?」
「たらればですよ、それにまだまだこれからの選手ですから。」
「うんうん。そうだね。成瀬君さえよければ、治ったら声掛けてよ。うちの興行に出てほしいからさ。」
何の話をしているのかと思えば、もう次のマッチメイクを考えているらしい。
そうだ、今日は運が悪かっただけだ。
そう思いたい。
「それは本当にありがたい申し出ですね。」
「うん、階級はこのまま?」
「あ~いえ、僕としては次からは適性階級であるライト級でやらせたいと思ってます。」
適性階級、それが一体どれほどの上積みになるのだろうか。
たった一階級上げただけで、上への道が開けるだろうか。
「お、戻ったか坊主。さっぱりしたみてえだな。おし、じゃあ帰るぞ。」
「はい…」
「じゃあ浜口会長、今日はこれで失礼します。」
俺も会長と一緒に頭を下げてから、その人を確認する。
すると、俺は驚いてしまった。
何故ならその人は、日本でボクシングをしているなら、知らない者はいないというほどの有名人だったから。
(王拳ジムの…浜口会長。)
王拳ジム、国内はおろか世界にも支部を持つ大きな団体、彼はそこの長。
正確には王拳プロモーションという運営母体の社長でもある。
とにかく、現在の日本ボクシング界ではこの人以上の重鎮はいまい。
「焦らずに治すんだよ。期待してるから、また来なさい。」
「あ、有難う御座います!」
見かけは結構ごつい人だが、物腰は案外柔らかい。
そのお陰もあってか、俺は少しだけ心が復調した。
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帰りの道中、車内では痛みで眠る事さえもできない。
氷嚢を当てているのだが、腫れも酷い事になっている。
鏡は見たくないな。
そんな状態にありつつも、一つ大きな懸念があった。
「会長…」
「うん?何だい?」
「この間と今日、撮影してもらった分はお蔵入りですか?」
折角会長が人脈を使い作ってくれたチャンス、それをみすみす失うのはあまりにも申し訳ない。
「ううん、感動したって言ってたよ。放送は予定通り来週になるだろうって。」
「そう…ですか。」
「はぁ~、あんまり気にすんな坊主。世界チャンピオンだって四回戦で負けてるやついんだぞ。こっからだこっから。」
牛山さんは慰め方も独特だが、声が力強いので不思議と納得してしまう。
その通り、今はあまり考えすぎず休む事に専念しよう。
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自宅マンションについたのは、日付も変わろうという頃。
叔父は事前に報告を受けていたのか、明日も仕事なのにまだ起きていた。
「おお統一郎…布団敷いておいたからな。」
「うん、ありがと。」
「分かってると思うが、明日は俺んとこで診察な。」
短い端的なやり取り、こういう気遣いが今は本当にありがたい。
そして寝る前に歯磨き、そして一応洗面所で自分の顔を確認する。
「はは、これ放送できる顔かね…」
顔面を覆う色は青と紫、だが不思議と切れてはいない。
この有様、自分が見ても気持ち悪いと思うのだから、人が見ればもっとだろう。
その辺り、叔父は流石医者だ。
まるで表情を変えなかったのだから。
その晩、痛みと熱にうなされ、俺は殆ど眠る事が出来ないまま朝を迎えた。
▽▽
翌日いつものロードワークよりは遅い時間、俺はウインドブレーカーを纏う。
痛みが紛れるかと思い散歩に出る事にしたのだ。
するとすれ違う人みんなが、俺を見てギョッとした表情を浮かべ通り過ぎていく。
腫れが昨日よりも酷くなっているので、気持ちはわかる。
そして市の自慢である森平川沿いの土手に座り、ふうっと一息。
(練習は、いつから始められるかな。走ることくらいは出来るかも。)
ちょっと試しに走ってみたが、脇腹が痛くてとても無理そうだ。
そんな馬鹿をしていると、遠くに見覚えのある姿を見かけてしまう。
茶色の中型犬の散歩をしているジャージの女性、それは間違いなく如月さんだ。
「やべっ…」
俺は道に背を向けると膝を抱え座り込み、静かに川を眺める青年を気取る。
だが、そんな小細工も空しく、
「お~い、その後ろ姿は遠宮君?遠宮君でしょ?お~い!」
何故分かるのだろうか。
当然無反応を貫く。
俺は遠宮ではありませんと、人違いですと背中で目一杯訴えるのだ。
「ワフッ!」
「うおっ!?」
耳の辺りをいきなり嗅がれ、驚いて声を上げてしまった。
「ほらぁ~、やぁ~っぱり遠宮君じゃ………」
如月さんは、俺の顔を見た瞬間硬直してしまった。
そして十秒ほど経ち、すっと隣に座り込む。
「う~ん、深くは聞かない。誰だって言いたくない事はあるだろうし。でもさ、もし辛かったら…頼っていいからね。」
彼女の中では、どういうストーリーが組み上がったのだろうか。
もしかしたら複雑な家庭環境でやさぐれ、喧嘩に明け暮れていると思ったのかもしれない。
「あの…」
「うん何っ!?」
「あ、いや、その犬の名前、確か茶太郎だっけ。前言ってたよね。」
「何だそっちか……そうだよ、この子は茶太郎。可愛いでしょ~。」
撫でる方も撫でられる方も気持ちよさそうだ。
確かに気持ちが沈んだ時、ペットがいれば慰めてもらえるのかもしれない。
「……じゃあ私行くから。お大事にね。」
直ぐに立ち去っていく彼女を見て、本当は気遣いの出来る人なのだと思い知る。
そういえば今までもそうだ、傍に居るのは一緒にいてほしいと思った時が殆ど。
踏み込み過ぎないようにしているのか、連絡先の交換なども強要してこない。
(如月さんは…弱音を吐いても、聞いてくれるだろうか。)
別にボクシングをしている事実を、隠している訳では無い。
ただタイミングが無かっただけ、話には流れというものがあり、俺は会話が苦手だ。
自分の事を何も語らない俺に対し、逆に彼女は結構自分の事を語ってくれる。
(犬が好き、甘い卵焼きが好き、運動はやるのも見るのも好き、特に野球とサッカー。妹が一人おり、その子はピアノが好き。家族は両親と祖母の五人。)
俺は不誠実な人間だ。
彼女が言外に告げていることを知っているのに、貴方の事がもっと知りたいと、そう言ってくれている事を知っているのに。
何も告げていない。
知られるのが嫌だと思う相手ならそれで良いのだが、俺は毎日顔が見たいと思う程、彼女を想っている。
だから、今の在り方はとても不誠実だ。
「連絡先、交換しとけば良かったな。」
そんな俺の小さな呟きは、暖かな夏風に攫われ消えていくのだった。




