第10話
用語解説
四回戦:四ラウンド制の試合の事。殆どの選手はここから。四勝する事で上に上がれる。あまり知られていないが引き分けは0,5勝に換算され、二つで一勝に数えられる。
【青コーナー遠宮統一郎選手、陸中県出身20XX年12月デビュー。】
会場に選手紹介のアナウンスが流れていた。
厳密に言えば出身は違うのだが、別に突っ込む必要はないだろう。
そもそもそんな精神的余裕は無い。
「ダメージはどうだい?直接の被弾は無かったから、問題なさそうだけどね。」
会長が俺の前にしゃがみ込み、問い掛けてくる。
その目は状態を確認するべく忙しなく動かされ、所々変色した腕には氷嚢が当てられていた。
「はい。問題無いです。寧ろ相手の方がきついはずですから。」
最後のパンチは手応えがあった。
あれでダウンを取れていてもおかしくないと思うほどに。
自分で言うのもなんだが、満点に近い立ち上がりではないだろうか。
「この先だけど、向こうが同じ様に来るなら今のままでも良いと思う。でもコーナーに詰められるのは流石に怖いから、それだけは気を付けて行こう。」
俺もそれには同意だ。
だが相手の得意な領分で打ち勝ったというのは、精神的にもかなり大きい。
打ち合いにさえ持ち込めば勝てるという考えを、打ち砕いたのだから。
セコンドアウトがアナウンスされ俺が立ちあがると、牛山さんが慌ただしく椅子を下げる。
そして直ぐ後、第二ラウンドのゴングが鳴った。
どう出て来るかと思い相手を見やると、構えは先程と変わらずだ。
いや、正確に言えば構えなど取っていない。
これはセコンドの指示なのか独断でやっているのか、判断が難しい所。
だが向こうのコーナーから何も檄が飛んでいないのを見るに、納得済みという事なのだろう。
選手にしてもその表情に迷いは無く、視線は鋭くこちらを捉えている。
「…シッ!」
(強がってもダメージはあるはずだ。)
動きを止めずジャブを打ちながら足を使い、ダメージを確認する。
すると相手は踏み込んでワンツーを放ってくるのだが、これが想像していなかったほど教科書通りで驚いてしまった。
(いや、当たり前だ。ここに立っているんだから、必死で練習してきたに決まっている。)
そのコンパクトな一撃でさえも自らの渾身を超える事実に多少の妬みは感じながら、それを表に出さぬよう努め向こうの動きを注視する。
視線の先では、更に止まらず左フックから右ストレート、更に左アッパーと前に突き進みながら放ってくる相手。
「シッシッシッ…」
しかし俺は冷静にジャブを突き距離を保ち、鼻先数cmを見極め慎重に立ち回った。
こちらの左が相手の顔面を捉えると、表情が僅かに歪み一瞬動きを止めるが、隙になる程では無く直ぐにまた振り回してくる。
(凄い耐久力だ…ジャブじゃ全然止まってくれない。)
右ストレートを回り込んで躱しこちらも強打で打ち抜こうと試みるが、野性的な勘が働くのかその時だけ一瞬打つのを止め視線だけをギロリと向けてくる。
その目からは、打つなら打ってみろという挑発的な意思が感じられた。
ジャブとは違い、強打を打てば僅かとは言え動きを止めざるを得ない。
そこを狙い撃とうという魂胆だろう。
だが左をもらい続けた相手の顔からは、だらだらと鼻血が流れ顎を伝っている。
にもかかわらずその表情に悲壮感は一切無く、寧ろ笑っているとも取れるほどギラギラしていた。
そしてその姿は、見る者にとって不思議な魅力があるのかもしれない。
「はるとぉ~~っ!そいつビビってんぞぉ~~っ!!」
この独特の声援にも後押しされ、会場の空気がだんだん変っていくのを感じる。
「残り六十っ!」
そんな中、牛山さんがドスの効いた声を上げ残り時間を告げる。
「追い掛けっこ見に来たんやないど~~っ!打ち合えや~~っ、このヘタレぇぇっ!!」
第二ラウンドもあと少し、ポイントは恐らく優勢だが勝ってる気がしない。
気のせいだろうか、スタミナの消費も激しい気がする。
(スタミナ…じゃないな。くそっ足が攣りそうだ…)
それでも何とかリードを保ったまま、ゴングを聞くことは出来た。
右のふくらはぎがピクピク痙攣するに加え、何かが背に重く圧し掛かってくる。
▽
「足、攣りそう?」
「あ、はい。すみません、何か急に。」
「うん、いいよ。立ち回りは今のままでいいから、休む事に集中して。」
背中からも牛山さんの心配そうな気配を感じる。
会長は真剣な顔で俺の足をマッサージ、そのお陰もあり何とか痙攣は収まりそうだ。
一発が命取りとなる相手、俺は気を引き締めるべく何度か深呼吸を繰り返した。
そして響く第三ラウンドのゴング。
対角線を見やると、先程と同じ様にノーガードで打ってこいと挑発してくる高橋選手。
当然そんな挑発に乗るつもりは無いが、観客は打ち合いを期待している様だ。
だがここまでのやり取りで理解している、正面から打ち合えば一溜まりも無いと。
「シッ!」
絶対に捕まらないと強い意志を込め、下がりながらの左を放つ。
彼は避けるつもりがないのだろうか、またも綺麗に鼻頭を捉えた。
それでも怯まず、自慢の剛腕を力任せに振ってくるのだ。
「良いぞ金髪っ!気に入った!頑張れぇっ!!」
その姿は徐々に観客の心をも掴み始め、空気が波のように伝播していく。
呑まれてはいけない、呑まれて打ち合いなどしようものなら一巻の終わりだ。
しかしこの空気は何か、心の奥に潜む遠い記憶を呼び起こして来る。
(この空気…誰の試合だっけ?)
それは今考えるべき事ではない。
分かってはいるのだが、一度呼び起こされた記憶はとめどなく溢れ出す。
(ああそうだ…父さんの引退試合。あの逆転KОの試合だ。)
父もまたそうだったのだ。
勝敗よりも会場の盛り上がりを優先させる、そんな選手だった。
被弾覚悟で前に出続けるその姿は、興味なさげに眺めていた筈の観客さえ虜にし、いつの間にか大歓声に包まれるのである。
遠宮大二郎、いつまでも一番の憧れであり続ける選手だ。
(くそっ…また右足が攣りそうだ。)
絶えず動く事を強要されているせいか、一度は収まった右足の不調が再燃し始める。
「シッ!」
それでも足を止める訳にはいかず、動きながら左。
パンッ!と乾いた音を響かせ、顔面の中心を捉えた。
(鼻の出血が激しくなった…レフェリーストップ狙えるかも…)
ほぼ完璧な立ち回りでポイントは取っている。
だが試合を支配しているのは果たしてどちらか。
少なくとも今、大きなストレスを感じているのは間違いなく俺だろう。
それでも飽くまで冷静に、丁寧にジャブを突き、打ち合いには絶対応じてやらない。
「…はぁ……はぁ…」
本当にタフな選手だ。
強打を与えられたのは第一ラウンド終盤の一発だけとはいえ、これだけ左を浴びてふらつく素振りもない。
(やべぇ…これ、攣るっ!)
ビキリと右ふくらはぎに鋭い痛みが走り、フットワークが死んだ。
この機会を逃さず一気に来るかと思われたが、敵は一瞬不思議そうな顔で俺を眺める。
そして少しだけ、残念そうな表情を浮かべた。
「ガードしっかりっ!!」
響く会長の声、確かに今出来るのはそれくらいか。
この状態で下手に手を出せば、致命的な一打をもらう可能性が高い。
(何だよ…来るなら来いよ。絶対に逃げ切ってやるからな!)
チラリと電光掲示板を見やれば、残り三十秒余り。
正直この男相手に耐え凌ぐ時間としてはきつい。
(クリンチだ…ポイントを守り、次に繋げるにはそれしかない。)
圧を受け右足を引き摺りながら下がる俺と、じりじりにじり寄る高橋。
踏み込んできてくれればしがみ付いて時間を稼げるのだが、これではそれも出来ない。
喧嘩などの場数を踏んでいるのか、勝利への嗅覚も鋭い様だ。
そして背中に感じるロープの感触、もう逃げ場はない。
(そこで止まるか…嫌らしい奴だな…)
高橋が足を止めたのはミドルレンジ、つまり本来ならば俺の距離だ。
だが残りは二十秒を切った、このままなら取り敢えずは逃げ切れる。
そうすればきっと、会長がまた何とかしてくれる筈。
ダンッ!
それは高橋がマットに足を叩きつけた音。
踏み込んだ訳では無く、ただその場で足踏みしただけだ。
だが俺はその動きにつられ、不用意に左を伸ばしてしまう。
その直後だった。
「…くっ!?」
高橋は獣の如き反射速度で、伸ばされた左腕に向かい力任せに右を叩きつけて来る。
パーリングなどと呼べるほど洗練されたものではない、本当にただ殴りつけただけ。
それだけで関節が軋みを上げるほどの衝撃が走った。
しかし本当の衝撃を覚えたのはその直後、
「…っ…ぁ…がっ!?」
返しの左は何とかガード、だが次の右は凌げなかった。
ガードしようにも左の肩に痛みが走り、使い物にならなかったのだ。
そして左脇腹に突き刺さる、強烈なボディブロー。
ゴキゴキという、骨が悲鳴を上げる嫌な音を聞いた。
「…はっ…ぁ…ぁあ…」
息が出来ない。
視界に広がるのは白、マットの色だ。
恐らく体がくの字に折れ曲がり、下を向いてしまっている。
「坊主ぅっ!クリンチだぁっ!!」
その声に反応し、本能的に両腕を前に伸ばす。
同時、残り十秒を告げる拍子木の音が聞こえた。
その直後、首から上を襲う経験した事の無い大きな衝撃。
分かっている。
俺はダウンした。
レフェリーが顔を覗き込んでいる。
早く立たなければ、終わってしまう。
だが足の感覚が戻らず、動くのは首から上のみ。
音が間延びしておりカウントも良く聞こえず、レフェリーの指を見やるがやはり分からない.
「…まだ…出来る。」
ロープにしがみつきながら何とか立ち上がろうと試みるも、何かに体を押さえつけられ立ち上がれない。
「…あれ…会長?」
体を押さえつけているのは会長だった。
いつの間にか自陣に帰ってきていたのか。
どうやら取り敢えずこのラウンドは生き延びたらしい。
「…坊主…よくやった。頑張ったな。」
どうして牛山さん迄リングの上にいるのだろう。
入れるのは一人だけなのに。
そんな事を思いながら、朦朧とする意識が徐々に覚醒を始める。
そして横になったまま視線を彷徨わせ、理解した。
何故なら、相手陣営がもう帰り支度を済ませていたから。
「統一郎君、動かなくていいよ。」
目にライトを当てられる。
リングドクターの診察というやつか。
少し己の体を眺めてみると、腹部まで血がべっとりと付着していた。
鼻が完全に詰まっており、呼吸が出来ず苦しい。
「ここどこか分かる?名前は?」
馬鹿にするなよ、それくらいは答えられるさ。
「……俺は…負けましたか?」
「いいんだよ統一郎君。ゆっくり休もう。」
俺はその声を聴きながら思う。
この会場は、少しライトが眩しすぎるなと。




